夏の暑い日、俺は御所にお邪魔した。
「皆狩衣ですね」
「はい。暑いので許可しました」
冷泉さん御自身も白い狩衣で涼しそうに座しておられる。
「今日は髪型自由の日なので、烏帽子も要りませんよ」
冷泉さんが微笑んで仰るので、むかし蛍が要望していた髪型の自由もついに実現したんだと俺は感慨深い気がした。すっかり光《ひかる》の天下だもんな。冷泉さんも肩ほどの長さの艷やかな御髪を左耳にかけただけで優雅に垂らしておられた。
「素敵ですね」
俺は画期的だなと思った。いつもと違う服装を許可することで、暑さ軽減もそうだが皆やる気が出ているようで面白い。参内時の正装ではない狩衣が着られることで少し特別なお祭り気分も出るし、こうして皆のために新しいことを考えて下さる帝って素晴らしいなと思った。
「春宮が朱雀院に涼みに来たいと申すのですが、いかがでしょうか」
「夏休みですね。もちろんです」
冷泉さんはニコニコ笑顔で許可して下さって。俺のお願いを拒否なさることがなかった。
「すみませんいつも。ありがとうございます」
俺は日頃の感謝もこめて、長く丁寧に頭を下げた。春宮をこんなわがままに育ててしまって、俺はダメ親だろうか。冷泉さんは昼御座から俺をご覧になると
「朱雀さんて、可愛いですね」
優しく微笑んで仰った。
「あっ……? りがとうございます……」
俺はよくわからないけれど一応お礼申し上げた。俺もう四十前なんだけれど……小柄だし法衣も着ているので爺さんぽく見えるのかもしれない。
それから程なくして春宮と母の承香殿さんが朱雀院に来てくれたので、釣殿《つりどの》で涼むことにした。釣殿は庭の池に向かって伸びている屋根つきの廊で、池を吹き渡る風で涼むことができる。
春宮も十歳になって少年ながらもしっかりしてきたので俺は嬉しかった。母親似なのか俺より学問も芸事もできて、俺はありがたいなと思っていた。
「父上、姉上はお元気ですか」
「ああ、三宮だね。元気そうだよ」
春宮がきょうだいを気にしてくれたのも嬉しかった。二人はほとんど同い年だけれど、三宮のほうが少しだけ早く生まれている。
「一緒に涼むよう誘ってみようか」
「私も伺いましょう」
承香殿さんも俺を見つめて言ってくれた。
「お母様とは親しくさせて頂いておりました。お亡くなりになられて残念ですね」
「ええ。育てると言っても俺は全く自信がなくて。見て下さると嬉しいです」
承香殿さんは微笑んで、春宮と共に三宮の対に行ってくれた。俺は女房たちに頼んで三宮の席も準備してもらい、連れ立って歩いてきた子どもたちを迎える。久しぶりに姉弟再会して二人は話がはずんでいるようだった。俺はのんびり涼みながら幸せを感じた。帝にも夏季休暇があればいいのに。冷泉さんもお誘いしたかったな。
◇◇◇
夕方になってきたので俺達が席を片付けて室内に戻っていると、東の門から車が入ってくるのが見えた。あの車は夕霧くんかな? 俺は気になったので歩いて門まで出迎えに行った。
「夕霧くん、こんにちは」
「こんにちは」
夕霧くんは車から降りると俺に頭を下げたが少し元気がなさそうに見えた。今日は六條院で何かあるときいたけれどその帰りかな。予言に従いたくなくて、あえてうちにきたのだろうか。
「ここに居させてもらってもいいですか」
「どうぞ。何か飲む?」
「いえ」
夕霧くんは誰かと話したい気分ではなさそうだったので、俺は一人にしておこうと思った。そこへ
「すー兄《にい》たのもー」
狩衣で馬に乗った蛍がやってきた。
「蛍、どうしたの?」
「ここで涼ませてくんない?」
「いいよ」
俺がうなずくと蛍はひらりと馬を下りて馬屋につなぎ、釣殿に上がった。
「夕霧どしたー?」
「うす」
夕霧くんはチラと蛍に目をやり軽く頭を下げると、勾欄という手すりに腕と顎を乗せて広い池を見つめた。池を渡って涼しい風が吹いてくる。蛍は夕霧くんと少し距離を取ると、勾欄に背を預けて座った。二人ともそっとしておいたほうが良いのかな。俺は端の方に座ると、水鳥を眺めていた。
「夕霧さ、女から文くる現象ない?」
蛍は池を見ながらおもむろにきいた。
「あります」
夕霧くんも静かに答える。
「俺玉ちゃんに付き合えないって伝えたんだけどさ、文は続けたいって来たんだよね」
蛍は珍しく困っているようで、池に立つさざ波を凝視していた。
「むずいわ……」
蛍はため息をついて、困った時の癖なのか首の後ろに手をやった。
「俺も雁から文きます」
「お前はいーじゃん、彼女なんだから」
「違います」
「え?」
蛍が聞き返すので、夕霧くんは雲居雁さんの願いで関係を持ったことにし内大臣さんに殴られた顛末を話した。
「男気すげー。でもなんで?」
「雁の可能性を潰したくなくて」
蛍の質問に答えると、夕霧くんは遠くを眺めた。
「雁ちゃんから文きてんの?」
「……毎日」
「そりゃ多いわ」
蛍は苦笑して夕霧くんを見た。
「雁ちゃんてお前の子何人も産むだろ? 女の勘でわかんじゃね、こいつ逃しちゃダメだって」
夕霧くんの目は動かないが、蛍に言われたことを考えているようだった。
「雁ちゃん嫌なの?」
「いえ」
「予言に従うのが嫌?」
「……」
蛍は優しい叔父の顔になって言った。
「一緒になってやれよ。生まれてくる子に罪はねえよ」
「……はい」
夕霧くんもそれはわかっているようで素直にうなずいた。
「柏木だろ? 心配なのは」
「はい」
「どうなるかなー」
日がさらに傾くと、俺達の影は長く伸びた。
「俺さ、あの本読んだ時もう嫁さん悪かったんだよ、病でさ。やっぱ死ぬのかってショックだったけど、死期が予測できたからなるべく子供らといさせてさ。多少は役に立ったんだ」
夕陽に照らされて、蛍の瞳は暖かい色に染まった。
「柏木に読ませるのも手かもな。お前だって死期がわかるなら知りたいだろ? やっときたいこともあるだろうし」
夕霧くんは黙っていて。俺も何も言えなくて、二人の話を聴いているしかなかった。