その後のことは覚えていない。ずっといては人目もあるからと支えられて車に乗った。光《ひかる》が車と従者を貸してくれて御所に戻る。何もなかった。彼女との思い出を取ったら俺には何も残っていなかった。
日々の公務をこなすことはできた。人形になって座っていればいいんだ。髪も衣も人がやってくれた。光は左大臣邸で葵さんの喪に服し、しばらく御所に来ることはなかった。俺も鈍色《にびいろ》の衣を着ていたかったが家族でもないのに不自然で、許されるわけはなかった。
葵さんは息を吹き返すことなく八月二十幾日かに鳥辺野へ葬られた。こんなに悲しいんだ。空っぽだった。夕霧くんは元気かな。お母さんの死も知らず無邪気に笑っているだろうか。
左大臣家の女房たちは葵さん亡き後里に帰る人もいたが、夕霧くんのために残ってくれる人もいた。絵のうまい人が俺のために夕霧くんを描いてくれて。光にも似ているし冷泉さんにも似ていた。俺は嬉しくて。少しでも嬉しいことが悲しかった。
「みかど、みかど」
ぼんやり座って外を見ていた俺の袖を可愛い手が捕らえて。冷泉さんはもう話せるようになられていた。
「みかど、きて」
小さな手に引かれて歩く。冷泉さんの部屋に入れてもらうと、床には所狭しと絵が広げてあった。花や風景を書いた絵、車、動物、雄々しい侍の絵もあった。
「絵がお好きなんですね」
俺が微笑んでうなずくと、冷泉さんは乳母からもらった紙を両手に広げて見せて下さった。
「みかど、たいしょー、ほたる」
女房が描いてくれたのかな。俺と光、蛍が上手に描かれてあった。冷泉さんはその似顔絵を床に広げて一人ひとり指さして俺に教えて下さる。
「ははうえ!」
そう言って自慢げに見せてくれたのは冷泉さんの作か、丸にニコニコ顔で描かれた中宮さまだった。
「お上手ですね」
俺は嬉しいのに泣きそうな気持ちになって、笑顔で涙を紛らした。この方の成長だけが希望で生きていけるような気がした。守らなきゃ。どんなに空っぽでも。盾になるんだ。
「冷泉さんあそぼー」
蛍が部屋の外から中へコロコロ鞠を転がすと、冷泉さんはパッと立っていってすぐに掴まれた。
「ほたる、けまりしよ!」
「裸足じゃ危ないなー」
蛍は廊下で鞠を手に持って冷泉さんに投げたり、受けたりして遊んであげている。平和だった。葵さんの喪が明けて平服に戻った光も久しぶりに御所にきてくれて。
「大きくなられましたね」
冷泉さんをよいしょと抱っこしてあやす姿は若い父子そのものだった。
「俺の所で育ててる子の裳着を、しようと思うんだけどね」
「結婚するの?」
「どうかな」
光は冷泉さんの頬に自分の頬をすり寄せて少し笑うと
「俺のこと親のように信じて慕ってるからね。でも人にはやりたくないし」
そのうちね……と言って、冷泉さんの指差す方へゆっくり廊下を歩いていった。