「なあハルカ。俺と住まねえ?」
部長のお宅は私の家より会社に近かった。駅から5分。立地もいい。
部長は私の荷物を寝室において、私に振り返ると言った。
「引っ越してこいよ。ここで暮らそう」
私はすぐに返事ができなくて。困り果てた顔をした。
「あそこには帰らないほうがいい。何かあってからじゃ遅いぞ」
こんなに親切にして下さって。申し訳ない気がした。
それでも私はまだアキノくんが好きで。
なんでだろう。こんなにお世話になってる部長より、たいして接点のないアキノくんのことを、どうして私は忘れられないのかなあ。
「でも私、部長に何もしてあげられません……」
たくさんの愛にお返しできるものが、私には見つからなかった。
何のお返しもできずに、ずっと親切だけを受け続けるのは、しんどいの。
拷問なんて言ったら失礼だけど。でも、拷問に近くて。
身勝手な考えで、本当に、ごめんなさい。
「そばにいてくれるだけでいいよ」
ああ、この人はやさしすぎるんだ。だからつらいと思った。
アキノくんみたいに、もっとアッサリ扱ってほしいなあ。特別なんて思わずに。
「勝手にやれば」みたいな冷たい扱いを、部長に求めてしまっていた。
こんなに親身になって、心配して下さってるのに。
「本当に……ごめんなさい」
私は今までせき止めていたものがあふれ出すように言った。
「全部差し上げます、好きにしてくださいって言えたらいいんですけど。いろんな感覚や恐怖があって。やっぱり、怖くて……」
ぼろぼろ、ぼろぼろ泣いて、みっともなかった。
遼くんのこと、ずっと怖くて、誰かに頼りたいけど、私はノンセクだし。
付き合ってるって言えるほどのこと、してあげられないから。
どう頼っていいのかわからなかった。誰に、どこまで頼っていいのか。
「気を失うまで飲めば忘れられますかね? 怖さも全部」
「ハア?!」
部長はびっくりしたように目を丸くすると、私の手を取ってソファに座らせてくれた。
冷蔵庫から水を出してきて。コップについで、また私に持たせてくれる。
「お前さ、そんなことで深く悩んでんじゃねーよ。俺は別に性欲の塊ってわけじゃねーんだから」
私の横に座って私にくれたコップから水を一口飲むと、部長はつづけた。
「大体お前、俺らを何だと思ってんだよ。性欲はたしかにあるけど、すべてじゃねーだろ」
私にはそれが一番わからなかった。みんなの性欲の位置づけが、恋愛の中で、どのくらいの比重を占めるのか。
「お前がしてほしけりゃするし、嫌ならしねーよ。そんだけ」
紳士だなあと思った。いいひとなんだ。でも、それが怖くて。無理させてる気がして。
だって私には「してほしいとき」がないんだもの……。
まったくできないなんて、男の人は我慢できずに怒ってしまうだろうと思った。
遼くんだって、最初はこう思ってくれてたけど。待ちきれなくて、今怒ってるんだろうから。
「そりゃ、本音を言えばしたいよ。好きなんだから。でもお前を失いたくないんだ。お前との関係を壊してまで、やりたくはない」
部長は私に寄り添うように座り直すと、ネクタイを緩めて私を見た。
「お前にはずっとそばにいてほしいんだよ」
すっと抱きしめてくれるから、胸がいっぱいになった。
ああ、私は部長が好きなんだ。でも、お父さんに似た好きかもしれない。
抱かれたことがないからわからない。性欲を伴う愛の形が。
「ずっとそばにいますよ。部下なんですから」
抱きしめられながら答えて。こんなに愛されて幸せだと思った。
アキノくんは私の太陽みたいなもので、アキノくんへの憧れは、いつまでも、永遠に揺るがないんだけど。
現実に抱かれることがあるとしたら、きっと部長なんだろうと思った。
◇◇◇
あれから2日無事にすんで。金曜になった。
「部長と住んでんの」
昼休み、アキノくんがさりげなくきくから。男の子の情報網も早いんだなと思った。
「今ちょっと家に帰れなくて。おいてもらってるんだ」
私は、いよいよ帰ってクローゼットの服を取ってこないといけないなあと思いながら、アキノくんに弱く笑った。また部長に頼むのも、気が引けるなあ。
言わないで行くと、あとでもっと怒られそうだし……
「部長とならできそう?」
「うん……わからない」
できたらいいのにと思った。部長のために、乗りこえられたらいいのに。
「喜ばせられたらいいのにな。自分のことは抜きで」
アキノくんは虚空を見つめると、願うように言った。
「雑念をなくして。相手のためだけにさ」
「うん」
私も心からそう思っていた。何もかも忘れて、ただ相手を喜ばせられたら。喜んでもらえたら。それだけで幸せなのに。
「身を任せてればいいだけなのにって思うんだけどね。自我が邪魔して」
いつかできるようになりたいと思った。自分のためじゃなく、相手のために。
「あんま無理すると相手も悲しむよ、きっと」
「うん」
「まあ、ゆっくり過ごせばいいんじゃね。歳とりゃ多少、落ち着いてくるだろうし」
アキノくんは、今まで見たことがないほどやさしく笑ってくれた。
まぶしいくらい、やさしく。
「最近の部長はすごい機嫌いいよ」
プライベートが充実してんだな、とアキノくんは言った。
「ありがとう、アキノくん」
「礼なら部長に言えって」
アキノくんはまた笑って。こうしてアキノくんと話せるのも部長のおかげだなあと、私は部長にも感謝していた。