しばらく葵さんからの文はこなくて。俺はそろそろ終りかなと思っていた。もう俺と話して気を紛らしたりしなくてよくなったならいい。現実で幸せなほうがいいに決まっている。十二月に入り新年準備に忙しくなってきたこともあって、しばし文通から離れる。
「春宮さまは恋をしたことがおありですか。」
いよいよ年の瀬も押し迫ったころ、唐突にそう問われて。たった一行しか書かれていない文だった。
「俺は恋はしたことがないようです。誰を見てもそれなりに美しさは感じるのですが、何にかえてもというような必死な気持ちにはなれません。冷たいのかもしれないし、愚鈍なのかもしれません。」
俺は少し寂しい気持ちで書いた。本心だった。燃え上がるような恋など俺には訪れないだろうと思う。恋の焔に身を焦がす覚悟も勇気も、俺にはなかった。
「私は一度だけ恋をしたことがございます。その御方のことは少女のころ偶然行幸でお見かけして、それ以来ずっと憧れてそのお姿を胸に描いておりました。結婚させられ、夢は潰えてしまいましたが……。最近思いがけずその御方と交流を持つ機会を得まして。懐かしく、嬉しい気持ちで一杯でございます。」
もしかして俺のことかな。葵さんは将来お后にと育てられたと蛍からきいたので、ついそんな考えを起こしてしまった。でも俺とは限らないよな。行幸にお供していた貴族たちの誰かを見初めたのかもしれない。
「その方との交流が続くといいですね。」
俺はさりげなく書いた後、今年一年お世話になった旨を丁寧に挨拶して筆をおいた。「俺ですか」ときくのも野暮だし、万が一俺だったとしても葵さんと俺は一歳しか違わないから少年の俺を見たわけで。その恋人は葵さんの空想の中で美化された俺だろうから、二十歳を超えた現実の俺が入り込む余地はないように思えた。
「春宮様、ご祈祷の件ですが」
「うん」
葵さんへの返事を渡すと、女房が少し顔を曇らせてきいた。
「藤壺さんのご出産はまだなのかな」
「はい、予定日は年内のようですが。物の怪のせいで遅れているのではともっぱらの噂です」
物の怪って出産を遅らせたりもするのか。俺はやっかいな強敵だと思いながら、父上はじめ様々な方が安産祈願のご祈祷をされている中で俺もすべきか悩んでいた。母がうるさいので勝手にするのもよくないし、かといって何もしないのもお隣さんでお世話になっている手前気が咎める。
「光に相談してみるね」
女房にそう伝えてそのまま年を越した。新年を迎えると光は左大臣邸、父上の御前と忙しいだろうに俺の所にも挨拶に来てくれた。
「あけましておめでとうございます」
お互い年に一度のいつになく礼儀正しいお辞儀をして。顔を上げると、目を見合わせて少し微笑んだ。
「元気だった?」
「うん、元気だよ」
光は新年らしく、いつもよりさらに綺麗な衣をまとって笑っていた。やっぱり少し元気ないかな。微笑んでいても常に頭の片隅に暗雲垂れ込めるような憂いの影があって、それを誰にも悟られぬよう気丈に振る舞うようなところがあった。
「藤壺さんの安産祈願に俺もご祈祷を頼もうかと思うんだけど」
「俺がしてるから。一緒にしておくよ」
「ありがとう」
光ならそう言ってくれそうと思っていたので俺は安堵した。光も心配なのかな。そのせいで元気がないのかもしれない。
俺たちがそんな話をしていると、廊下から女房を呼ぶ声がして。いつも文を取り次いでくれる女房が葵さんからの巻物を受け取ったが、俺が光と話しているためそのまま奥へ下がった。光はその様子を視界の隅に捉えて見逃さなかったらしく、
「文通、続いてるみたいだね」
俺の目を見て悪戯っぽく笑った。
「楽しい?」
「うん、まあ」
俺はどこまで光に話していいか迷ったが
「葵さんは書物や物語が好きなんだって。光の青海波もとても美しいですねって褒めてたよ」
と当たり障りのない部分を思い出して話した。
「別に俺の悪口を言ってくれてもいいよ。検閲してるわけじゃないから」
光は俺が何か隠そうとしているのがよくわかるらしく、苦笑しながら答えた。
「兄貴のこと何でも話してあげなよ。喜ぶから」
そう言うと、優しそうな瞳で笑う。俺は葵さんと光に仲良くしてほしいのにと思いながら、そんなことを強要するわけにもいかないしと複雑な気持ちになった。
「俺、葵のことだけは幸せにできない気がするんだよね、俺の力じゃ。それが気の毒で、どうしようもなくて。困ってるんだ」
光はそう言うと、軽く礼をしておもむろに席を立ってしまった。