光《ひかる》の住む六條院は馬場や的、蹴鞠ができる広い庭もあって若い公達の社交場になっていた。光は公務を引退しているので御所に伺う用事もなくのんびり暮らしていて、俺も何かとお邪魔することが多い。
三月末には左大将である髭黒さんと右大将の夕霧くんがそろって訪ねてきたので、殿上人たちは何事かと噂を聞きつけ続々と集った。こういう遊びの場でも出世の機をうかがい努力を惜しまないのだから凄い。御所の賭弓《のりゆみ》が延期になって皆物足りなかったのか、射場のある六條院が文字通り標的となったようだ。
「小弓でいいよ」
と光は言っていたが、歩弓《かちゆみ》の上手い人がいて次々に的を射抜いていた。他の貴族たちも左右に分かれて競い合い盛り上がっている。蛍は強すぎるので今回は除外されたようだ。
「柏木ー、あの猫飼ってんの?」
「はい」
蛍が尋ねると柏木くんはニコニコ笑って答えた。蹴鞠の時抱っこしていた唐猫かな。御所で飼われている猫たちの一匹が逃げ出して行方知れずになっていたのを、あの日たまたま柏木くんが見つけて保護してくれたようだ。春宮は柏木くんへの感謝と猫本人がとても懐いていたため、あの子をそのまま柏木くんに譲ってくれたらしい。
「連れて帰ったら、彼女も可愛がってくれて」
「三人で寝てんだ」
「二人と一匹ですけど」
そう話す柏木くんは本当に幸せそうだった。三宮って柏木くんの好みに合っていたのかなと俺は心配だったが、仲の良さは変わらないようなのでほっとした。たくさんいる女性の中でも「この人!」という出会いは、やっぱりあるものなのかな。
「あの予言書さ、空白期間あるよね」
光はそれが気になるようで、晩春のうららかな風を受けつつ少しぼんやりしたように言った。
「蹴鞠終わってから四、五年かな。何も書いてない」
「その後は?」
俺が何気なく尋ねると
「冷泉さんがひっそり譲位なさる」
光は名残惜しそうに答えた。
「そう……」
それを聞くと俺は悲しくなって落ち込んでしまった。冷泉さんにまだ下りてほしくないな。ずっと帝でいて頂くのも大変だろうけれど。
「空白ってことは何してもいいってことだろー」
蛍はなんでそんなことで悩むのかといった明るい口調で言い放つ。
「温泉行幸でも提案してみようか」
俺がさり気なく言うと
「何それ?」
光は俺を見つめて首を傾げた。
「有馬にいい湯があるんだって。この前山寺へ行ったら僧都が教えてくれたんだ」
俺は出家準備のため山での暮らしを学んでいて。僧たちは親切にいろんなことを教えてくれた。
「修行僧の間では、傷に効くって有名らしいよ」
「へー」
蛍は無関心な様子だったが
「温泉か……」
光は口に手を当てて何事か考えている。
「病を防ぐのにいいかもな」
光はどうやら奥様を連れていきたいようだった。
「山だし、大勢で行っても入れないかもしれないね」
俺はそれだけが心配になって付け足した。冷泉さんの行幸はどうしても従者の数が多くなりがちだから。
「じゃ少数精鋭で行こうよ。柏木も連れてさ」
光が口に出したときにはもう計画が始まるようで、光は夕霧くんを呼ぶと何事か相談していた。どうなるのかな。冷泉さんに少しでも日頃の疲れを癒やして頂けるといいんだけれど。
◇◇◇
この温泉行幸は「朱雀院の発案で」「帝を気遣って」「ごく少数で」行われることになった。
「俺の名前出す必要あったのかな?」
俺はかなり疑問に思ったが、光と夕霧くんのすることだから間違いないのだろう。
「ありがとうございます」
後日俺が御所に伺うと、冷泉さんはニコニコ笑顔で御礼を仰った。
「朱雀さんの発案にはいつも助けられてばかりです」
「いえ、恐縮です。ご迷惑でなかったですか」
「はい。遠出は楽しみです」
冷泉さんは微笑んだままうなずかれる。帝を山歩きにお連れするなんて、我ながら相当冒険的な提案をしてしまったものだ。俺は今さら不安になったが、冷泉さんは無邪気で恐れを知らぬご様子だった。
「細い道は馬か徒歩になるかもしれませんが」
「はい。楽しみです」
冷泉さんは道中に立ちはだかる困難も丸ごと楽しまれるおつもりのようで、これは止められないだろうなと俺は思った。男性陣はいいとしても女性たちは大丈夫かな? 彼女たちは服さえ簡素にすれば重くないので、輿で運んでもらうこともできるだろうか。
この行幸は秋の良い日を選んで、冷泉さんと中宮さま、光、夕霧くん、それに太政大臣さんの代理として柏木くんもそれぞれ奥様連れでお供して行くことになった。あくまでもお忍びで、途中寺社にお参りして紅葉も楽しみながら、身内の従者と護衛だけを連れてのんびり行くようだ。
「朱雀さんはよろしいですか」
冷泉さんはそう誘って下さったが、春宮が「ずるい」という目で見るのもあり、温泉にそれほど執着もないので俺は遠慮させて頂いた。光親子と柏木くんで楽しんでもらえるといいな。皆が疲れを癒やして、少しでも長く元気でいてくれるといい。
「私も行きたかったです」
御所で留守番する春宮が何度も恨み言を言うので、俺はなだめるのに苦労した。
「女御のご出産が済んだらね」
光の娘さんである明石女御は丈夫な方のようで、一人目の孫を産んで下さった後また妊娠しておられるようだった。何人かの女性が順番に産んでくれることはあっても、一人の女性に次々子ができたことは俺にはないのでどうしても彼女の体の負担が気になった。
御所を空にするのはよくないし、妊娠させておきながら妊婦さんを置いて温泉というのも申し訳なくてできない。かといって山道を連れ歩くのも危険だし、春宮には明石女御の体調が落ち着いているとき二人で行くよう説得する。
「私の世になったら行ってもいいですか」
「いいと思うよ」
春宮がむくれながら訊くので俺は頷いてこたえた。こうやって冷泉さんのなさった行事が一つでも多く引き継がれていくといいなとも思っていた。