いつもの年よりもずっと暑かった夏が過ぎ、空気も風もやっと落ち着いてきた。夜長にすることも無く、何十年かぶりに、和漢朗詠集を開いてみた。
和漢朗詠集について
本邦の歌書としては、万葉集や古今集が有名だ。しかし、それ以上に愛された歌集がある。平安時代中期に、藤原公任(966-1041)によってまとめられた和漢朗詠集だ。伝わっている写本の数としては、前2書より遙かに多い。
和漢朗詠集は、唐朝以前及び平安時代の和漢の詩文から、佳句587首と和歌216首の合計803首を選んでいる。特に、平安貴族の気風にあった唐の白居易(772-846)の佳句139首が、取り上げられている。本邦の作家は、寛平・延喜(889-923)及び天暦(947-957)が中心だ。
本書は、平安貴族の歌の教科書として、広く親しまれた。この本をほぼ理解しておけば、平安の文学界に交わることが出来た。逆に、この本を勉強しておかなければ、社交界で野暮扱いされた。だから、当時は、単なる文学書以上の大切な必読書でもあった。中国の古典や故事に題材を取った詩文が多い。高等教養の書でもある。
一方、和漢朗詠集に載っているコケの歌は、余り知られていないので、書き下し及び現代文訳の全文を取り上げてみた。コケに対する平安期の貴族の情緒に、少しばかり触れられるのではなかろうか。但し、コケを詠った詩文は、全部で11首しかない。その内、和歌はわずかに、1首のみだ。漢詩文佳句が10首を占めるが、倭人によるものは5首で、唐人が5首(内、白居易3首)からなる。
若干の補足:
『日本は、コケに恵まれている。庭園にも、コケが沢山生えて居る。』から始まる定説がある。『だから、和歌には沢山詠われている。国歌の「君が代・・・」を例に挙げるまでもない。』
しかし、均茶庵の考えは、ちょっと違う。日本でコケが和歌に詠われるようになったのは、せいぜいで鎌倉時代以降だ。それ以前は驚く程例が少ないし、しかも、中国から渡来した定型の言い回しを使っているだけで、実際にコケが生えて居る情景を歌った詩文は殆どない。平安朝以前の日本人は、コケに対して興味を示さなかったと言っても、過言ではないだろう。
例えば、万葉集(7c後半~8c後半成立)では、約4500首の内、コケを読み込んだ歌は、たった11首しか掲載されていない。平安を代表する古今集(905年成立)では、全1100首の内、コケを読み込んだ歌は、たったの3首だ。この中に、上記の「君が代・・・」の元歌も含まれている。私撰の古今和歌六帖(10c末成立)は、和歌4500首を収めるが、コケの歌は17首に過ぎない。しかも、「コケむす」という画一的な表現が殆どだ。
又、伊勢物語(古今集以降の成立)は歌物語だが、定家本125段・209首(伝為氏本・谷森本の18段・23首を加えると、合計143段・232首)の内、コケが出てくるのは1段のみで、歌には詠われていない。
内藤愛子(1983)は、平安以降についても、『このように、古今集以降の勅撰集においてのコケは主題としては定着せず、歌材としても決して一般化されたものと言いがたいようである。』と述べている。同時に、『コケは中国文学の影響が極めて濃い歌題と言って良いだろう。』と断じている。
一方、中国においては、魏・晋期にコケが詩文に詠われ始め、唐以降は主要な歌題の一つとなっている。白居易、杜甫、李白、王維などの著名な唐詩人はもとより、多くの詩人によってコケが広く詠われている。しかも、必ずしも定型化した表現だけではなく、沈約(441-513 南朝)の「咏青苔诗」や江淹(444-505梁)の「青苔賦」では、コケの形状、性質、植生などを、微に入り細に入り表現している。コケは、中国においては、唐代以前から平安日本より遙かに興味を以て喜ばれていたと言える。「本来のコケそのものを歌材とした歌」がない平安期の日本とは大きく異なる。参考までに、沈約と江淹の詩文を、和漢朗詠集の後に原文で添付した。
中国のコケは、宮仕えを離れ田舎に隠棲した情操や、独り寝の夫人の情感を詠う時に、非常に多く引用される。一方、万葉集以降本邦の歌に現れるコケは、殆どが時の長さ、永遠、長久などの表現に使用されている。
さて、それでは:
和漢朗詠集に詠われているコケが、どの種にあたるのかを同定するのは、至難の業だ。詩文から読み取れる内容からは、同時に色々な種が推定できる。だが、この平安貴族の書を手に持ち、ワインをゆったりと味わいながら、自分だけの想像を気ままに巡らすのは、長い夜を過ごす絶好の遊びではなかろうか。
尚、万葉集、古今集、古今和歌六帖、伊勢物語などに掲載されたコケの歌ついては、別の機会に、改めて紹介したい。又、「咏青苔诗」と「青苔賦」についても、続いて鑑賞してみたい。
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参考文献:
読み下し、現代語訳、注釈など:
三木雅博 (2022). 和漢朗詠集. 角川ソフィア文庫 (第14版)
その他の文献:
内藤愛子(1983). 堀河百首題「苔」をめぐって. 文芸論叢
安藤久次(1997). 植物の世界「コケと日本人」. 朝日新聞社
百度(2019). 浅析魏晋南北朝隋唐诗歌中的青苔意象.
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220916 均茶庵
写真)コケ調べをする書斎 (昼と夜)