最初に決めておこう。川の左岸・右岸は、上流から見て左右を指す。下流から遡ると、右手が左岸に、左手が右岸になる。ちょっとややこしい。幸いに、馬入川は、厚木から下流はほぼ南北に流れている。間違いを避けるために、左岸(茅ヶ崎側)を「東岸」、右岸(平塚側)を「西岸」と呼ぼう。
さて、これまで何回かチャリで川に沿った土手を走り、「川を走る」と題して、Uploadした。その中には、引地川や境川など、茅ヶ崎市を全く流れない川もあった。しかし、「湘南」と言うくくりで考えたら、省略するわけには行かない。そして、遂に難題に突き当たった。相模川をどうするか。問題は、2つある。
川が長すぎる
山中湖から相模湾まで、109kmを流れる大河だ。神奈川県を流れるのは、半分強の55.6kmに過ぎない。それでも、結構な距離だ。日本橋から東海道を西へ向かうと、戸塚宿(49.1km)と藤沢宿(62.8km)の丁度真ん中くらいに当たる距離だ。相模湾から山中湖まで全部書いて行ったら、まるで的が絞れなくなる。それに、河口から4kmも遡ると、茅ヶ崎市を過ぎてしまい、もう寒川町に入ってしまう。ここで、湘南のイメージは、消える。
茅ヶ崎の川じゃない
「相模川」あるいは海に近い辺りを指す「馬入川」の名前を聞くと、殆どの人が、西岸は平塚市で東岸は茅ヶ崎市だと思い込んでいる。茅ヶ崎人は、馬入川を、産湯だと思っている。しかし、正確に言うと、東岸の茅ヶ崎市部分は、平太夫新田付近の僅か1.2km程度に過ぎない。残りは、全て平塚市あるいは寒川町の域に入る。東岸の海への出口にある下水処理場の周りも、全て平塚市の域になる。だから、馬入川を「茅ヶ崎市の川」と言うと、ちょっとお尻がこそばゆい。
何故こんな行政区分になったのだろうか。今は、堤防から堤防の間の水が流れている所を、馬入川と考えてしまう。しかし、一番川幅が広い旧須賀港~ゴルフ場は、340mある。又、寒川取水堰の長さは270mある。銀河大橋の下流辺りは、未だ200m位あるが、その他の場所の水流は、80m程度のものだ。一方、神川橋そばの旧田村の渡し説明板には、嘗ての馬入川が、水流60間(108m)川幅522間(939m)と書いてある。今よりも遙かに広かった。
地質図を見ると、西岸には自然堤防や砂丘があるから、当時の川は、現在の相模川よりも東岸に広がっていた筈だ。その証拠に、ニトリ前の旧相模川橋脚は、小出川の東に出土している。だから、東岸は広い河川の荒れ地か流路だった筈だ。川の真ん中に元々の市境があっても、流路変更で、馬入川がどんどん西へ動いて行ってしまった。
馬入川の名前の由来は、源頼朝の落馬伝説が有名だが、元々は「埴土・埴生(はにう)」から由来しているという説がある。「土」あるいは「川岸の仮小屋」という意味だ。但し、どこからどこまでを馬入川と呼ぶのかについては、定説がない。
どうしよう
ヒマで天気が良いときには、均茶庵は、チャリで厚木の三川合流点まで走る。馬入川に中津川と小鮎川が合流する場所だ。馬入川にそったチャリ道は、舗装もしっかりとしていて、気持ち良い。但し、連続して走れるのは、西岸だけだ。東岸は道路がぶつ切れになっている。それに、残念ながら、チャリから見た景色は、いささか変化に乏しい。均茶庵の家から、往復40km程ある。
写真)厚木三川合流点
均茶庵は、カヤックを漕ぐのが大好きだ。海から漕ぎ遡ると、寒川取水堰下の神川橋近くまで遡れる。片道6.4kmを二回往復すると、約25kmになる。ちょっとした運動で、翌日は体中の筋肉痛に苦しめられる。3日間静養すると、やっと通常の体に戻る。そうだ、この物語を「馬入川を漕ぐ」としよう。
馬入川とカヤック
馬入川とカヤックは、大いに縁がある。日本で初めてカヌーが登場したのは、紛れもない馬入川だ。1870年(明治3年)6月18日8:00に、スコットランド人弁護士のJohn McGregorと仲間1人が、相模原市の田名を出発した。横浜で発行されていた隔週刊英字新聞のThe Far Eastの第1巻第5-6号(1870年7月5日)に書いてある。
馬入川にとっても、日本のカヤック史にとっても大事件なので、詳しく説明しよう。
John McGregor (1825-1892)は、自作のカヤック「Rob Roy」で欧州を旅し、その記録を「A Thousand Miles in the Rob Roy Canoe on Rivers and Lakes of Europe (1865-1892)」注)という本で発表した。これが大ヒットとなり、欧州でカヤックの旅が大流行した。日本で言えば、野田さんか吉岡さんみたいな人だ。野田さんの大ヒット作「日本の川を旅する」は、1982年の出版だし、吉岡さんの処女作「東海道中膝栗毛―鎌倉~京都間1065キロ中年カヌーイスト単独航海記」も、同年の発行だ。
注)McGregorのこの本と挿絵は、上記をクリックすると、電子版で見られます。2012年のeBookです。
McGregorと仲間は、横浜から田名まで陸路カヤックを運んだ。6月18日8:00、田名から小倉までポーテッジをした後、相模川を下って、陸路ふたたび田名に戻った。翌6月19日7:00田名を出発して、馬入川河口に、3時間半後の10:30に到着した。更に、江の島まで漕いだ。その後、陸路で金沢まで行き、再び横浜(富岡と思われる)まで漕いだ。この時の様子を見ると、日本最初のカヤックは、どうもファルト・ボート(Folding Kayak折りたたみ式カヤック)だったようだ。日本カヌー工業会の新井さんから、記事を頂いたが、一読の価値ある紀行だ。
絵を見ると、ライジャケもヘルメットも着けていない。多分、浮力体もビルジ・ポンプも用意していないだろう。当時の馬入川はなかなかの急流だったし、均茶庵から見ると、この時代の安全機材の不備は、ちょっと怖い。
日本カヌー連盟の公式歴史は、以下の通りで、この壮挙は言及されていない。
写真)初の国産カヌー
1936年に第11回ベルリン・オリンピックに役員として参加していた京都大学教授の高木公三郎(1907-1991)は、湖で老人が漕いでいるファルト・ボートを見た。早速、独クレッパー社から購入し、日本へ持ち帰ると、日本人の体格に合ったカヤックの開発を始めた。フジタカヌー研究所の藤田清先代社長が、高木先生と協力して日本製カヤックを作り上げた。フジタは、京都木津川に工場を持つ。高木先生は、専門の宇宙物理よりも、体育理論で名を残した。
詳しく知りたい方は、高木公三郎. 「携帯ボートの楽しみ方:レジャーを豊かに」(1962年)を参照。
均茶庵の思い出
均茶庵は、約30年ほど前に、南米チリのCoquimbo市から海上をGuanaqueroまで、旧FalhawkのVoyagerで一人漕いだ。距離は、30km以上ある。
(写真は、米国NC州MattamuskeetでのVoyager425)
海岸に上陸すると、漁師やら子供達やら、見物人にどっと囲まれた。ファルト・ボートを見るのは、みんな初めてだ。『着替えるから。』と言っても、みんなそのまま見て居る。『え~い、ままよ。』と人垣の真ん中ですっぽんぽんになり、ヤマト男児の粗ちんをご披露した。人垣が、わっと散った。McGregorも、きっと同じような歓迎を受けただろう。想像してしまう。
均茶庵が現在乗っているカヤックは、2003年に買ったARFEQのVoyager 415だ。年期が入っている。
馬入川と言えば、サンバースト
神川橋の上流へ新幹線橋をくぐって暫く行った所に、戸沢橋がある。今では新東名高速道路に押されたような小さな橋になってしまった。この河原で、鎌倉手広にカヌーショップ「サンバースト」を開いていた古橋さんが、週末毎にカヌーの試乗会を行っていた。当日の昼食は、焼きそばと決まっていた。コースは、初心者が多いため、新幹線橋辺りまで往復して終了としていた。なかなかの盛況だった。1980年代のことだった。
ついでに。大昔、ビクター工芸という会社があって、テレビの木枠(TVのフレームは、昔は木で出来ていた。)などの木工製品を作っていた。藤田さんは、このビクター工芸に勤めていた。高木先生との出会いの後に、ファルトの世界に入って行った。ビクター工芸には、上記の古橋さんなどがデザイナーとして勤めており、日本のファルト・ボートの草分けとなった。
(写真は、フジタFolt Sport YS)
現在日本国内でファルト・ボートを製造している企業は、フジタとARFEQ(旧ファルホーク)及び新しいバタフライの三社がある。嘗ては、リバースチールにもカヤック部門があった。均茶庵が好きなのは、旧ファルホークのVoyagerだった。元々、ハンググライダーの会社だったから、アルミ製の骨組みに帝人の合成繊維を船体布に使うなど、軽量化が素晴らしかった。それに加えて、ハンググライダーという水とは関係の薄い分野から参入したから、デザインや考え方に斬新さがあった。現在はARFEQに技術が引き継がれている。
余計なひとこと
均茶庵の英姿を馬入川で見学したい人は、ネッシーを探すよりも、ずっと簡単だ。均茶庵は、勿論、野暮用の時は漕がない。(人間ドックや葬式など。ここ10年くらい、結婚式がない。)風邪を引いた時も、漕がない。(但し、ここ10年くらい、風邪を引いたことがない。)二日酔いの日も漕がない。土・日・祝日も、原則として漕がない。馬入川を独占したいからだ。風速5m/秒以上の時は漕がない。疲れるだけで、楽しくない。雨が降った翌日も敬遠する。増水よりも、濁った水が嫌だ。
つまり、平日の風速5m/s未満で、薄曇り~晴れの日に、ご尊顔を拝する機会がある。