今は、昔の栄華を思い起こす術が何もない。商業という産業は、交通の変化にこんなに脆弱なのだろうかと、はっと気がつく。明治初年の地図を見ると、茅ヶ崎駅付近はただの砂丘で、生活の姿は全く見えない。本村と茶屋町だけに、家が密集している。商店街だ。
本来、茅ヶ崎は砂丘と砂丘間低地が交互に織りなす不毛の土地だった。砂丘上は、風を防ぐ防風林がなく、強い風に砂が煽られて、人が住むことが出来なかった。飲料水もなかった。砂丘間低地は、沼地で腰まで水が届く「ドブッ田」と、帯状に伸びる麦・芋畑だけだった。徳川家康が、慶長6年(1601)に東海道伝馬制を敷き、家光が寛永12年(1635)に参勤交代制を始めると、徐々に様子が変わって来た。一般人の交通も次第に増え、元禄~享保年間(1688~1735)頃になると、街道沿いは次第に町場化してきた。
東海道の宿場は、藤沢の次が平塚となっていた。しかし、その間に間宿(あいのしゅく)と呼ばれる、ちょっとした休憩と、お茶を提供する集落が生まれてきた。そして、立場茶屋を中心とした「茶屋町」と呼ばれる場所が出来てきた。立場は、公用の駅馬の引き継ぎの場を指す。
間宿 (あいのしゅく: 愛宿ではない)
茶屋町の中央には、本陣松屋(伊藤姓)が出来て、高級役人や殿様のご休憩所となった。中下級の武士が泊まる脇本陣江戸屋も、本陣近くに出来た。松屋は、明治25年(1892)の火災で、燃えてしまった。江戸屋の分家の小江戸屋は、大正まで商人宿として名を残している。更に、大阪屋、橘屋とか藤屋とか、旅人を相手にする宿や、木賃宿も並びだした。当然名物も生まれる。南湖の鮑、とりわけ江戸屋の「あんこう」は有名だった。「あんこう」とは、魚ではなくおはぎの事を指す。享和元年(1801)年に狂歌師で下級武士の大田南畝が江戸屋に泊まった時には、ひしこ(魚の鱠)と松露(きのこ)の羹を愛でている。茶屋町は、二宮の梅沢の立場よりも賑わっていたという。茅ヶ崎郵便局や、丸大魚市場(今は、ドラッグストア)も、茶屋町に開設された。
しかし、明治31年(1898)に茅ヶ崎駅が出来ると、様子ががらりと変わる。誘致に南湖と本村が奔走したが、駅は丁度その真ん中に出来た。商店は、次第次第に、その内に急速に、駅前へと移転していった。明治33年(1900)には、江陽銀行茅ヶ崎支店が南湖に開店したが、横須賀商業銀行茅ヶ崎支店は、明治42年(1909)に、茅ヶ崎駅前のエメロードに出来た。
大正時代には、南湖にも未だ商店が沢山あり、茅ヶ崎一の中心地だった。菓子屋15軒、酒屋13軒、雑貨屋11軒、煙草屋11軒と、繁盛ぶりが記録されている。但し、遊郭は平塚にしかなかった。明治14年(1881)の「娼妓貸座敷規制」によると、平塚には31戸あったそうだ。南湖には、松本屋とか曙といった茶屋があるだけだった。だから、大漁の時には、若い衆はそろいの法被(万祝マイワイ)を着て、平塚に繰り出した。「茅ヶ崎甚句」には、『細のチョウチン南湖と印し、平塚通いのほどのよさ』と唱われた。もっとも、厚木にも全く同じ節回しと台詞の甚句がある。南湖が「愛甲」に代わっている。
万祝 (まいわい)
大正時代には、南湖にも未だ商店が沢山あり、茅ヶ崎一の中心地だった。菓子屋15軒、酒屋13軒、雑貨屋11軒、煙草屋11軒と、繁盛ぶりが記録されている。但し、遊郭は平塚にしかなかった。明治14年(1881)の「娼妓貸座敷規制」によると、平塚には31戸あったそうだ。南湖には、松本屋とか曙といった茶屋があるだけだった。だから、大漁の時には、若い衆はそろいの法被(万祝マイワイ)を着て、平塚に繰り出した。「茅ヶ崎甚句」には、『細のチョウチン南湖と印し、平塚通いのほどのよさ』と唱われた。もっとも、厚木にも全く同じ節回しと台詞の甚句がある。南湖が「愛甲」に代わっている。
現在でも、十間坂から鳥井戸に下る坂には、商店が多い。しかし、嘗ての繁栄を思い起こさせる景色は、まるで見当たらない。僅かに、茶屋町バス停、茶屋町公園、茶屋町大神宮そして茶屋町郵便局に、「茶屋町」の名前が残り、過ぎ去りし大繁栄の時代を偲ばせる。
210907 均茶庵