*古今集のコケ
注)💎 コケと記されているが、明らかに地衣類を詠った歌
古今集は、905年に、紀貫之などにより、勅撰集として撰された。全部で1100首を収めるが、コケを詠った歌は、僅かに3首に過ぎない。しかも、コケ植物を詠っているのは僅かに1首であり、残り2首は地衣類を詠っている。つまり、コケは歌題として、殆ど無視されている。
読み下し、現代語訳、注釈など:
佐竹昭広・他(校注)(1989). 古今和歌集. 新日本古典文学大系. 岩波書店
220923 均茶庵
343 わが君は千代に八千代にさされ石の巌となりて苔のむすまで 詠み人知らず
訳: 省略
コケ調べ:「和漢朗詠集のコケ775」に、全く同じ歌が採用されているので、そちらを参照されたい。
💎450 さがり苔 花の色はただひとさかり濃けれどもかへすがへすぞ露は染めける 高向利春
訳:花の色はただ一時鮮やかな姿を見せるが、それは繰り返し露が染めているからだ。
注:白い髭(サルオガセ)の老人が、努力の大切さを諭している歌とされる。歌には、題の「さがり苔」が、「ただひとサカリ コケれども」と入れられている。「盛りこけ」を意味する。
コケ調べ: 題にコケが取られているだけで、歌そのものには、コケは詠われていない。
さがりコケは、蔓性の地衣類であるサルオガセの別名となっている。「和漢朗詠集のコケ619」を参照されたい。いささか技巧に流れた歌だ。
Usnea longisissima ナガサルオガセ
💎847 みなひとは花の衣になりぬなり苔のたもとよかはきだにせよ 僧正遍昭
訳:人々はみな喪が明けて、はなやかな衣に着替えたそうだ。(しかし私はまだ、喪が明けても帝の死を悲しんでいる。)涙に濡れた僧衣の袂よ、せめて乾きだけでもしておくれ。
コケ調べ: いかにもわざとらしさを感じる。どちらかというと、いやらしさを漂わせている歌だ。正直言って、好きになれない。
「コケのたもと」は、僧衣を指す。元々、サルオガセから由来したそうだ。「和漢朗詠集のコケ619」に説明しているので、参照いただきたい。
古今集450の写真: Usnea longisissima ナガサルオガセ 日本地衣学会HP
*伊勢物語のコケ
平安時代を代表する歌物語の成立年代には、諸説ある。所載の歌から、伊勢物語は、古今集の成立以降に出来上がったと考えられている。
標準底本の「定家本」は、125段・209首からなる。又、定家本に収められていない段・首が、伝為氏本・谷森本に、18段・23首ある。合計では、143段・232首となる。この中で、唯一78段にコケが書かれている。但し、78段の歌141は、コケとは全く関係がない。ちょっと長くなるが、78段を下記する。
伊勢物語は、男女の恋物語が主題とは言え、コケの歌が一首のみとは、いささか寂しい限りだ。
読み下し、現代語訳、注釈など:
阿部俊子(1979). 伊勢物語. 講談社学術文庫. 講談社
秋山虔 (1997). 伊勢物語. 新日本古典文学大系. 岩波書店
221015 均茶庵
78段 この石聞きしよりは見るはまされり。これをただに奉らばすずろなるべしとて人々に歌よませ給ふ。右の馬の頭なりける人のをなむ、あをき苔をきざみて蒔絵のかたにこの歌をつけて奉りける。
141 あかねども岩にぞかふる色見えぬ心を見せむよしのなければ
となむよめりける。
訳: 阿部俊子(1979)
この石は聞いていた以上に見るとすぐれていた。この石を何の趣向もなくそのまま献上するとおもしろみがなくつまらないだろう。というので、常行は人々に歌をおよませになった。そして右馬頭だった人の歌を石の表面に生えている青い苔にほりつけて蒔絵形式の模様のようにこの歌をほって献上した。
141 十分ではございませんが、私の気持ちをこの岩に代理をさせてお目にかけます。外見にあらわすことのできない私の気持ちをお見せしようにもその方法がございませんので。
とよんだのであった。
注:阿部俊子(1979)
「苔をきざみて」を「苔の生えている所にほってきざみつけて」
「蒔絵のかたに」を「蒔絵形式の模様に」
注: 秋山虔 (1997).
石の表面に生えている青い苔をきざみ取って、蒔絵のような模様に歌をうき出させて献上した。「蒔絵」は漆で絵模様を描き、金銀粉や絵の具をまいてみがき出したもの。苔を除いたあと、岩の地が出てくるのを「蒔絵のかた」といったのだろう。
コケ調べ:
ちょっと長くなるが、伊勢物語にはこの一段しかコケについて記載していないので、細かく見て見よう。又、阿部俊子の全訳・注と秋山虔の注を併せて参照しよう。
1. 石について:
紀の国の千里の浜(現在は、和歌山県日高郡岩代にあたる)から採ってきた「いとおもしろき石」を、京の庭から山科の邸へ献上する際の物語として語られている。御随身・舎人が「いくばくもなくて持て来ぬ」と言う事から、それ程大きな岩ではなさそうだ。「ある人の御曹司の前の溝にすゑたりしを」とあるから、女房の局の前の水路沿いの石だ。
流れの側の石に注意。
京都城南宮は、白河天皇(第72代。ご在位:1073~1087年)の鳥羽離宮の跡で、今でも曲水の宴が開かれる。羽觞を流す小川の岩を見ると、石は1m四方もない。又、ごつごつの奇石・怪石ではない。千里の浜は、仏像構造線の南にあたり、雑多な岩が四万十帯の泥岩・砂岩に付加している。従って、どんな石かわからないが、崖から切り出した岩ではなく、付加混入していたチャートが、海食で角が取れて丸っぽくなった石の可能性が大きい。
「聞きしより見るはまされり」と石を表現しているが、びっしりとコケが生えて居るわけだから、石の模様や色は分からない筈だ。どんな点が、素晴らしかったのだろうか。形の優雅さとしか判断しようがないだろう。城南宮の石の形がヒントになるかもしれない。尚、城南宮の石には、ほんの僅かにコケが生えているか、あるいは全く生えていない。
それでは、泥岩の可能性はあるだろうか。泥岩は黒い色をしているから、蒔絵と言う場合には、地として適しているかも知れない。しかし、残念な事に、泥岩は専ら板状に堆積する。自然に海岸に石として現れても、外見は「いとおもしろき石」には、絶対にならない。
2.さて、本題のコケに入ろう。
2.1 先ず、「あをき苔」は、「和漢朗詠集のコケ301」で考えたように、Blue~Cyan色のコケは存在しない。単純に、黄緑色と理解しよう。ここでも、中国語の青苔から、自動的に「あをき苔」と持って来ただけで、特に「青」に拘る必要はない。
2.2 阿部俊子(1979)は、「右馬頭だった人の歌を石の表面に生えている青い苔にほりつけて蒔絵形式の模様のようにこの歌をほって献上した。」と解釈しているが、これはちょっと無理筋に見える。「和漢朗詠集のコケ221」にも述べたが、「苔の生えている所にほってきざみつけて」は物理的に困難だ。よしんば、チヂレゴケよりも植物体が小さい「和漢朗詠集のコケ148」のハマキゴケであっても、余程大きな文字でなければ、苔を「蒔絵のように彫りつける」事はできない。和歌は31文字もある。巨大な岩であれば、それも不可能ではなかろうが、今考えている石の大きさでは、ちょっと無理がある。又、くずし字を綺麗に苔に彫り込むことは、まずできない。
2.3 秋山虔(1997)の解釈も、阿部と殆ど同じだ。文字の形に苔を刻み取って、その部分の石が浮かびだしたと解釈している。阿部と同じ理由で、物理的に困難だ。
2.4 均茶庵は、ちょっと違った解釈をしている。石の真ん中の苔をそぎ取って、筆に糊・漆を着け、その石の部分に直接31文字の歌を書く。その上に、細かく刻み取った苔の片を撒き、乾かした後、水なり刷毛なりで余分な苔を取り去る。そうすると、苔の黄緑色が、蒔絵のように岩の地の上に浮かび上がる。チャートは、表面が滑らかだ。筆で文字を書くのは、たやすい。そぎ取る大きさも、短冊の大きさ程度あれば、十分だ。
秋山は、蒔絵のように浮かび上がるのが石で、地は苔の青(黄緑)とした。これでは、蒔絵が石の色で、地が金になってしまう。通常の蒔絵と、真逆だ。均茶庵は、石の地に苔の金(黄緑)が蒔絵のように浮かび上がると考えた。石が、もしチャートであれば、石の色は通常乳白色で、含有不純物により、赤・緑・灰色がかってくる。黄緑色の苔文字が、金粉のように緑色の岩から浮かび上がれば、それは蒔絵そのものだろう。
2.5 それでは、どんな苔が生えていたのだろうか。局の前にあった岩だから、日差しがあたる。チヂレゴケは、どちらかというと日蔭を好む。日向を好む苔で、しかも石の上に密生するとなると、何だろうか。この場合、苔を刻んで、糊・漆の文字の上に撒いてしまうので、苔そのものの寸法は気にしなくていいだろう。勿論、「和漢朗詠集のコケ148」で見たハマキゴケの可能性もあるが、チャートは二酸化珪素を主成分としているから、アルカリ性を好むハマキゴケは、候補から外したい。
さて、きらきらと耀くような光沢を持ったツヤゴケはどうだろうか。エダツヤゴケは、石の上を一面に覆うほど、しっかりと生える。緑がかったチャートの真ん中に、黄緑色に耀く苔の粉で文字を書いて献上すれば、正に蒔絵であり、親王も大喜びではなかろうか。
221015 均茶庵
Entodon flavescens エダツヤゴケ
伊勢物語78段の写真
・均茶庵が撮った写真
Entodon flavescens エダツヤゴケ
・引用した写真
高野切 Wikipedia
曲水の宴 城南宮HP
蒔絵 針谷蒔絵Hariya Webshop
チャート Wikipedia