毎年30社以上の神輿が茅ヶ崎海岸に集まり、海に入る勇壮な祭りは、今では神奈川県の名物になっている。ちょっと古い数字だが、平成22年(2010)には、本神輿34社、子供神輿4社が参加した。しかし、この祭りの起源については、必ずしもはっきりしない所がある。大きく2説ある。
大磯にある柳田大神の神揃山で行われる国府祭には、相模国No.1~4の神社と平塚八幡宮が参加する。寒川神社の神輿が、帰り際増水している馬入川を渡ろうとしたとき、舟が揺れて流されてしまった。南湖の網元鈴木孫七が捜索して、ご神体を発見した。あるいは、漁網にかかった神輿を引き上げた。天保9年(1838)の事だと言う。事件の罰として神主岡田安乗寺の僧・他1名が遠島、馬入の水夫18人が磔刑の判決が下された。しかし、処刑の当日、代官江戸川太郎左衛門のお目こぼしで、髷だけを切り埋葬した。昭和32年(1957)に、平塚市観光協会が、市内に供養碑「丁髷塚」を建てている。
もう一つの説は、神輿が馬入川を越えようとした時に、前鳥神社(平塚八幡宮とも言う)の氏子と争いになった。そのため神輿が流されてしまった。罰として、前鳥神社の氏子16人が、打ち首の判決を受けた。
孫七は、発見した御神輿(一説に、御神体の古鏡)を、南湖の石尊山の御旅所に仮に納めた。そして、御神体を発見した旨、寒川神社に届け出たが、神社からは何の沙汰もない。これは、神社が、『御神輿を見つけた者には、褒美として百石だす。』と触れたものの、整わなかった為だという。やむなく、本村の円蔵寺に遷した。しかし、孫七が褒美を辞退した事を受けて、神社は即日迎えに来たとの由。この後、神輿が見つかった6月15日に、南湖で神輿の禊ぎをすることになった。(大正14年(1925)を最後に、海中での禊ぎをしなくなった。)これが、浜降祭の始まりだという。その後、明治9年(1876)に、農繁期を避けるため、浜降祭の日を7月15日としたが、平成9年(1997)から「海の日」に変っている。
これ以降、寒川神社の神輿を舁いて神揃山に参加する事は取りやめとなり、御幣のみが渡ることになった。又、馬入川ではなく、田村の渡しを行くことになったそうだ。又、孫七が神輿を発見した際に、ハマゴウ(青紫色の花を着ける砂浜の低木)を敷いた由来から、今でも浜降り祭の際には、ホンダワラの上にハマゴウを敷くそうだ。
神輿を海で禊ぎする祭りは、鶴嶺八幡宮などで、事件以前から行われていたそうだ。又、南湖の八雲神社でも、神輿ではなく御幣を禊ぎする「御幣参り」が行われていたそうだ。伝承は時が経つにつれて、色々と変わって行く。しかし、変わりなく祀られ続ける事が、神にとって一番大切だ。
南湖からは、下記の5社が浜降祭に参加している。各神社について、ちょっと見てみよう。
3.1 茶屋町大神宮(茶屋町)
非常に新しい神社で、昭和30年(1955)に伊勢神宮から分霊して創立した。それまでは、八雲神社の氏子だった。祭神は、天照大神。尚、普通の神社のような期待をしてはいけない。茶屋町自治会館の建屋の中に小祠と神輿が安置してあるだけで、注意しないと外からは神社と気がつかない。普段は一般非公開なので、浜降祭の時にだけ神輿を拝める。均茶庵は、未だ拝謁の機会に与かっていない。
3.2 八雲神社(南湖中町)
元々、南湖の鎮守となっていた。高台の上にあり、江戸時代には牛頭天王社と呼んでいた所から、「天王山」とも呼ばれる。明治14年(1881)に改築したものの、明治24年(1891)の南湖大火で焼失したり、大正12年(1923)の関東大震災で倒壊したりした。現在の社は、昭和8年(1933)に復興されている。
こんな話が伝わっている。昔、南湖では、鶴嶺八幡社から神輿を借りて担いでいた。ある年、神輿を返す時期になっても、返却しなかった。鶴嶺八幡社ともめた結果、『うちらにも神輿が必要だべ~。』と意見が一致し、東組名主江戸屋重田八郎左衛門が中心となって、寒川神社の神輿を下賜してもらった。(当時、南湖は東組と西組に分れていた。)社殿は、八郎左衛門の屋敷内の社を遷した。八左衛門は、代々茶屋町の脇本陣を務めていた。
南湖独自の浜降祭りもある。寒川神社を主とした浜降祭の後、八雲神社だけで禊ぎをする。又、「御幣参り」と言って、上町・中町・下町の3社が、南湖の浜降祭に大貢献した江戸屋の子孫重田家に白木の御幣を持って、お礼に参る習慣も残っている。しかし、令和元年(2019)は、新年号を祝して、南湖の3神輿が80年振りに重田家に渡った。
大阪出身の株屋伴田六之助が、3000坪の別荘を持っていた。別荘の坂上に「風神・金神」の碑があった。この碑は、昭和50年代前半(1975~)に、八雲神社の境内に移された 。
詳しくは、箸休め第26回 お参り編 を参照いただきたい。
八雲神社の入口に、阿吽の狛犬がある。昭和5年(1927)の作だ。この狛犬の像を良く見て欲しい。彫りの迫力も素晴らしいが、それ以上に親獅子が子を崖から突き落としている構図が非常に珍しい。成田不動尊と神田明神にも、似たような像があったような気がするが、どうだったろうか。
附)山田耕筰
八雲神社の境内に何か残っているわけではないが、是非とも触れておきたい。きっと、山田耕筰は、家のすぐ近くの八雲神社に散歩する機会があっただろう。
ご存じの通り、山田耕筰(明治19年(1886)~昭和40年(1965))は、日本を代表する作曲家だ。昭和2年(1927)に、三木露風の作詞で作った、「夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か」の「赤とんぼ」は、余りにも有名だ。湘南高校の校歌(北原白秋作詞)や、県内中学校2校、小学校5校の校歌も作曲している。
六道の辻
八雲神社からちょっと東へ行くと、六本の道路が交差している。古来、六道の辻と呼ばれている。平成14年(2002)年に、茅ヶ崎市の都市計画道路として、現在の市道柳島小和田線が整備されるまでは、ほぼ並行して北側を走る道が「鉄砲道」と呼ばれていた。今は、「旧」がついて愛称されている。
山田耕筰は、大正15年(1926)から6年間、六道の辻の北東の路地奥にあった家を借りて、住んでいた。今では、当時を思い起こすような跡は何も残っていないが、平成18年(2006)に、ボランティアの「山田耕筰と赤とんぼを愛する会」が、記念の説明板を作った。「赤とんぼ作曲の地」と書いてある。尚、その後、平成24年(2012)には、茅ヶ崎中央公園に、又、平成28年(2016)には、高砂緑地に石造りの立派な記念碑が建てられた。残念ながら、中央公園の碑は、擦り切れて文字が読めなくなっている。
注)宝井其角の「あかとんぼ はねをとったら とうがらし」とか、あのねのね 赤とんぼの唄 ではありません。
附)魚市場
漁業の町茅ヶ崎の魚市場に触れないと、片手落ちになりそうだ。六道の辻に入る道路と鉄砲道の交差する辺りに、魚市場があった。元々明治37年(1904)に、南湖上町に開業した。その後、大正10年(1921)にキ伊商店が「丸チ魚市場」の名前で創業し、同時期、天孫商店が「丸ス水産」の名前で創業した。2年後の大正12年(1923)に両社が合併して、市場も現在地へ移転した。又、昭和25年(1950)には「茅ヶ崎丸大魚市場」と改称した。
しかし、何故漁港ではなく、海から遠いこんな場所に市場を開業したのだろうか。それは、目をつぶって、茅ヶ崎の原風景を思い起こせば分かる。茅ヶ崎漁港が出来たのは、昭和26年(1951)だ。その一年後に、平塚漁港が開業している。漁港といっても、それまでは平島を繋ぐ砂州から木造船が漁にでていただけで、突堤などの設備があったわけではない。広い砂浜が延々と続いていた。よそ者の文化人から見れば、富士山を望む白砂青松の地だが、地元住民からすれば、人の住めない砂丘に、網小屋がたっていただけだ。しかも、大正12年(1923)には、関東大震災による津波が海岸を襲い、浜沿いに荒れ地がどこまでも広がっていた。
昭和35年(1960)には、新築の魚市場が完成した。しかし、この頃をピークとして、茅ヶ崎の専業漁業者がどんどん減っていった。昭和50年代(1975)には鮮魚店が65軒あったのに、遂にはたった5軒になってしまった。平成30年(2018)に平塚魚市場と合併し、名前も「平塚茅ヶ崎魚市場」に変わった。残念ながら、これで茅ヶ崎市内での魚市場の一世紀に亘る歴史は終わった。時の流れと言えばそれまでだが、歴史の巨大なうねりを感じる。漁業の町茅ヶ崎は、万祝とともに、古い古い昔話となった。
3.3 金刀比羅神社(南湖上町)
元禄年間(1688~1704)回船業新店藤左衛門と船員10人が、伊豆沖で大暴風雨に遭遇した。船は大破沈没したが、金刀比羅樽に掴まって浮流していたところ、無事伊豆海岸に流れ着いた。このため、神へのお礼として神社を創建したとの事だ。明治中期まで、樽流し神事が行われていたとの事だ。尚、明治24年(1891)に、現在地に神社を移設した。
金刀比羅樽とは、自分で金刀比羅参りをしたくてもできない人が、「奉納金刀比羅大権現」の旗を建てた樽に、初穂料を入れて海に流す習わしを指す。今では、海に流さず、直接金比羅神社に奉納している。樽には、三ツ輪掛けという、特殊な縄の縛り方をしている。
3.5 御霊神社 (鳥井戸)
勧請年は不明だが、鎌倉権五郎景正と源義経を祀っている。元々、御霊山西雲寺の所有地にあった毘沙門堂が前身だ。治承年間(1177~1182)に、懐島権守平景能が、景正を祀ったのが起こりだという。建久9年(1198)に、源頼朝が義経の怨霊に祟られて落馬し、その傷が元で、死去した。このため、義経を併せて祀った。箸休め第32回を参照頂きたい。その後、明治末期の神仏分離令で、西運寺から独立した。現社殿は、昭和4年(1929)に再建されている。
大木の銀杏だけが目立つが、本堂の入口に、細い「西行桜」が一本植えてある。西行法師の山家集にある「芝まとふ葛のしげみに妻こめて砥上が原に牡鹿鳴く里」の縁で、西行桜と名付けたそうだ。西行が、文治2年(1186)に当地を旅した時の歌だ。残念ながら、説明文では、「牡鹿」ではなく「牝鹿」と書いている。石碑でなくて良かった。古来、鳴くのは牡で、泣くのは牝と決まっている。「令和元年(2020)元網寄贈」の看板がある。戦前まで「元網」が有ったと聞くが、均茶庵は現在を知らない。
尚、西行の歌っている「砥上が原」は、藤沢市鵠沼とも言われているが、歌碑は藤沢市辻堂の熊森権現境内と茅ヶ崎市文化資料館の入口にある。熊森権現内の碑は、平成8年(1996)の銘で、平成28年(2016)の説明板には、「西行法師が腰をかけた根上がりの松跡」に立てたと書いてある。元々の碑は、江戸時代に建てられたそうだが、風化の為新しく立て直した由。松は、昭和31年(1956)頃まであったそうだ。又、文化資料館前の碑は、昭和34年(1959)設立とある。以前は、国道134号脇にあったが、当地に移転した由。どちらも、説話から800年経っている。
附)やせ地蔵
鉄砲道の南湖中央からちょっと北に入ったTimesの角に、小さな堂がある。中には、四角形の細いお地蔵様が収まっている。綺麗で新しい感じの像だ。通りかかった老婦人に聞いてみたが、『知らない。』と言う。他に地元の方が見当たらず確認できなかったが、多分これが「やせ地蔵」だろう。
三橋家のご先祖が鳥井戸から分家する時に、敷地の竹藪を開墾したら、沢山の骨が出てきた。屋敷の陽の当たる方向に骨を納め、地蔵を祭った。明治24年(1891)に、200戸が類焼した「南湖の大火」と呼ばれる大火事があり、南湖は殆ど焼け野原になってしまった。しかし、この地蔵だけがポツンと焼け残った。その後、町内の人は、天災・病気除け・海上の安全を願い、祈ったそうだ。この地蔵は、南湖に大事件が起こる時、あるいは念願が叶った後、痩せてしまうそうで、南湖の大火の前も、突然痩せたそうだ。いつしか、どんどん痩せてしまったので、新たに建て替えたそうだ。大正12年(1923)の関東大震災の時も、活躍したのだろうか。記録には、残っていない。
一説には、南湖の大火の時に、この地蔵も赤焼けして壊れてしまったため、新たに奉安したと言う。
3.6 ふろく
この辺りは、みなさん商家のご子孫なのか、とても信心深いようだ。どの家にも、庭にお稲荷さんの赤い祠が必ず祀ってある。上町・中町・下町いずれも共通なようで、屋敷神は南湖の特徴ある景観だ。均茶庵の故郷の家にあった石の鳥居と祠を、ふと思い出す。
現在では、茅ヶ崎地区に含まれてしまうが、十間坂の神明社と大六天神社にご興味ある方は、箸休め第19回を参照頂きたい。
210921 均茶庵