8.1 八大竜王社
八大竜王にいては、「箸休め第27~29回 八大竜王にすがろうか:茅ヶ崎の世界」に書いたので、ここでは省略させていただきたい。南湖にあるのは、以下の4ケ所だ。
中海岸、茅ヶ崎漁港、サザン通り、住吉神社
8.2 茅ヶ崎八景
日本には、古来○○八景と呼ばれる場所が沢山ある。「江戸八景」や「近江八景」や「松島八景」などの全国区は、名前を聞いたことがあるだろう。ご近所では、「金沢八景」や「江之島八景」などが、浮世絵になっている。お隣にも、「平塚八景」や「大磯八景」がある。そして、ご当地には、「茅ヶ崎八景」がある。但し、選定したのが明治の中頃以降だから、浮世絵の作品はない。もう少し「オラが村」風であれば、昭和34年(1959)に鈴木松風郎さんが作った「萩園八景」なんて言うのもある。均茶庵は、短期間萩園に住んだが、「萩園八景」の現在地は、もう一つ良く分からなかった。
○○八景は、元々中国の北宋時代の瀟湘八景を真似たものだ。11世紀後半の宋迪が風光明媚な湖南省長沙に赴任した際に、水墨画に描いて、一躍有名になった。その後、山水画の題材として、中国のみならず日本でも広く描かれた。原題材は以下の通りだが、詳細な説明は、本稿の目的ではないので、省略させていただく。
瀟湘夜雨 平沙落雁 煙寺晩鐘 山市晴嵐 江天暮雪 漁村夕照 洞庭秋月 遠浦帰帆
こちらは、あたるも八卦です。八景とは、ちょっと違います。
こう言う言い方をすると、『また、へそが曲がっている。』と言われそうだが、現代の瀟湘八景は決してお薦めできない。あるいは、現代の中国で、胸にこみ上げるような美を感じる場所は、もう存在しないと言っていいだろう。時期も天気も必ずしもピッタリとは合っていないが、「箸休め 第11回 岳陽楼 (中国湖南省)」に、平沙落雁と洞庭秋月の現在の写真を添付しているので、ご覧になれば、一目瞭然だ。名勝は、絵と夢の中で鑑賞するものだ。名物は、一度は食べてみたいなと思いながら、取りあえずはお茶だけ味わって置くのが、人生に取って一番賢い方法だ。
茅ヶ崎八景は、明治31年(1898)に、東海道線茅ヶ崎駅が開かれてから出来た。交通も不便だった。藤沢駅や平塚駅で降りて、砂丘と軍の演習場しかない茅ヶ崎に、わざわざ遊びに来る物好きはいなかった。隣の辻堂駅の開設は、遙か先の大正5年(1916)まで待たなければならない。茅ヶ崎駅が出来て、結核療養所の南湖院が明治32年(1899)年に開かれると、療養所の見舞いに行く人の流れが出来た。あるいは、松林の中に、東京のお大尽が別荘地を作るようになった。3000坪もあるような伴田別邸や小田別荘や吉川別荘が、南湖に作られるようになった。元々茶屋町あった商店は、駅の開設で人通りが賑やかになった「エメロード(明治・大正時代は「ていしゃば通り」、昭和は「銀座通り」、そして、昭和60年(1985)からこの名前に変わった。)」に、どんどん移って行った。
釜成屋総本店
現在は、コンビニ
茅ヶ崎館
林屋百貨店
この旅行客のお土産需要を睨んで、現茅ヶ崎郵便局そばにあった菓子舗釜成屋が、明治30年代(1897)に絵はがきを発行した。「八景せんべい」などのお菓子の包み紙にも、デザインを使用した。続いて、エメロードの林屋百貨店が、明治40年代(1907)に、少し趣向を変えて、茅ヶ崎八景の絵はがきを売り出した。林屋版は、残念ながら絵はがきが残っていない。最後に明治32年(1899)年創業の旅館茅ヶ崎館が、明治末期に絵はがきを発表した。絵はがき8景の内7景が残っている。
今でも昔通りにお店を続けているのは、茅ヶ崎館のみになってしまった。明治32年(1899)創業のこの旅館は、小津安二郎・新藤兼人監督や脚本家の定宿として有名だ。本館は、平成21年(2009)国の登録有形文化財に指定されている。林屋百貨店は、一番最初に閉店してしまった。創業弘化2年(1845)の釜成屋は、つい最近まで姥島最中や姥島まんぢゅうなどを売っていたが、跡継ぎがいないため、2年前に静かに店じまいをした。跡地は、コンビニのミニストップになっている。時の流れとは言え、残念な事だ。
今は昔、姥島まんぢゅう
釜成屋版(明治30年代?)
南湖之晴嵐 鳥居戸之夕照 八雲之晩鐘 真崎之夜雨 姥島之帰帆 高砂之秋月 柳島之落雁 鶴ヶ嶺之暮雪
林屋版(明治40年代?)
南湖青嵐 鳥居戸の夕照 第六天晩鐘 旧東海道松原夜雨(一里塚) 姥島帰帆 高砂秋月 柳島落雁 鶴嶺暮雪
茅ヶ崎館版(明治末期?)
大山ノ晴嵐 鳥井戸ノ夕照 鶴嶺ノ晩鐘 姥島ノ帰帆 高砂ノ名月 柳島ノ落雁 富士ノ暮雪
「文化資料館調査研究報告14」
茅ヶ崎八景の文面や場所は少しずつ異なるが、ほぼ一致している。その中で、元祖釜成屋を見てみたい。南湖の景色は、以下の通り4ヶ所ある。
南湖之晴嵐 姥島之帰帆 (1.仁 平島と茅ヶ崎漁港) 鳥居戸之夕照(6.信 鳥井戸橋左富士) 八雲之晩鐘(3.礼 浜降り祭参加の五神社)
南湖は、茅ヶ崎漁港辺りを指す。但し、この時代は未だ突堤は無く、漁船は砂浜から出漁していた。突堤が出来るのは、昭和も戦後の事だ。鳥井戸は、小出川に架かる橋の辺りを指す。古来左富士と呼ばれた場所だ。八雲は八雲神社を指す。この辺りは、天王山と呼ばれ、周囲より一段高い砂丘だ。今では回りに人家が建て込んでいるが、海を一望にした当時の景色が偲ばれる。姥島は、烏帽子岩の事だ。南湖に限らず、茅ヶ崎の共通財産となっている。
いずれの景色も、これまで触れて来たので、重複は避けたい。又、You tubeで、11分とちょっとと長いが、マニアックな八景を作った方が居られるので、ご覧いただいたらいかがだろう。尚、横浜港北ニュータウンにも、江戸末に選ばれた武蔵国都筑郡茅ヶ崎村の「茅ヶ崎八景」がある。ご当地とお間違えの無きよう。
8.3 八ちんこ
おかしな想像をした人には、期待にそえず恐縮だ。嘗て茅ヶ崎には10を超すパチンコホールがあった。今や5店にまで減ってしまった。しかも、南湖ではただの一軒東海道南側のキコーナ茅ヶ崎店のみとなった。消えてしまったパチンコ屋は、ショッピングセンターに変わったりして、僅かに栄光の時代の面影を残す。
均茶庵は、勝負事や賭け事が、余り好きではない。いくらやっても勝てないからだ。しかし、「軍艦マーチ」が流れていた頃のパチンコ屋には、時々行った。20世紀の話だ。そう、21世紀に入ってから、この業界は全てが大きく変わった。感慨を込めて、全市の営業中の店の名前だけを並べよう。去って行った店は、名前も含めて、闇の中に消えてもらおう。
キコーナ茅ヶ崎店(南湖) ガオウ茅ヶ崎店(新栄町) マルハン茅ヶ崎(中島) GAUDI湘南茅ヶ崎・スロット館(元町) MONOS茅ヶ崎(元町)
210103 均茶庵
Gaudi
Monos
ガオウ
マルハン
221208 追記 均茶庵
菱沼 長福寺
菱沼の竹林小学校近くに、鎌倉時代創設と伝える長福寺がある。高野山真言宗だ。このお寺には、茅ヶ崎に関わる色んな碑が立っていると聞いた。特に気になったのは、「演歌の始祖」添田唖蝉坊(1892~1944)の碑があるという。1956年の13回忌に際して、立てられた。唖蝉坊は大磯の出身だが、奥様が菱沼生まれだそうだ。早速行ってみた。
碑には、水越茅村の達筆で、「ふぐ食うて北を枕にねたりけり」と書いてあるそうだ。均茶庵には読めないが、文献を参照した。
唖蝉坊の歌を載せておこう。曲は、旧制一高寮歌だ。嗚呼革命は近づけり 東大にも、長い歴史の中には、こういう時代があったようだ。今は、おおむかし。