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境川は、武蔵国と相模国を分ける大切な川だと、モノの本には必ず書いてある。しかし、実際には、そうでもなかったらしい。もの凄い荒れ川で、上流にちょっと雨がふると、忽ち氾濫する。つい昭和時代まで、洪水は日常茶飯事だった。1990年8月(平成2年)の台風では、藤沢の象徴遊行寺前の藤沢橋が崩落している。だから、昔は流路がしょっちゅう変わってしまい、川の両側は広い荒れ地となっていた。線を引いたような「国境」とは、まるで異なる。2016年11月の合意まで、東京の町田と神奈川の相模原の市(国)境は確定していなかった。念のため、武相二国間の国境は、1594年の検地で最初に決められた由。
二級河川とは言いながら、全長52.1kmあるそうだ。引地川の2.5倍になる。昔は、高座川とも呼んだそうだ。東京都の町田市にある標高365mの草戸山から流れ出し、神奈川県の相模原市・大和市・横浜市・藤沢市・鎌倉市を通って、片瀬海岸に流れ込む。何と、巨大首都東京の他、政令都市二つ(横浜723万人、相模原375万人)を通る大都会の川だ。
江ノ島やその周辺は、余りにも有名なので、省略する。片瀬海岸に流れ込む辺りは、片瀬川と呼んでいる。川沿いには、マンションやレストランや、あの「えのすい」新江ノ島水族館がぎっしりと並んでおり、何時も人でこみあっている。だから、均茶庵は、夏場のビキニ見学の他には、滅多に近寄らない。そう、修学旅行のJKも良く見る。
境川には、源流まで全部で153の橋が架かっているそうだ。渋滞の片瀬橋から、第二番目の弁天橋に入ると、観光客が多いため、ちゃりは殆ど不可能になる。右岸には、東京オリンピック2020直前に新築なった、真っ赤な小田急江ノ島駅がある。古い駅と同じように、竜宮城の形をしている。2020年のオリンピックは、延期になってしまったが、2021年もコロナで中止じゃないなんて言う話が、ポチポチ聞こえ始まった。
「藤沢大和自転車道」通称「境川サイクリングロード」は公式説明では、国道134号松波交差点から国道246号大和橋西詰まで、24.5kmあるそうだ。ところが、松波交差点は、どうみても引地川にある。国道1号線までは、「境川」ではなく、「引地川」にそって走る事になる。境川沿いは、竜宮橋を出た後、直ぐに道が分からなくなる。長い間、疑問を持っている。苦労をして北上しても、途中柏尾川の合流点で、うろうろすることになる。ぼんやりしていると、いつの間にか大船駅前に出てしまう。
ついでに、知識を開けかすと、境川のウシガエル(食用蛙)とアメリカザリガニは、全て大船起源だ。大船駅から鎌倉に向かう途中に、岩瀬下関防災公園(青少年広場)がある。昔は鎌倉食用蛙養殖場と言って、1920年からウシガエルの、1927年からザリガニの養殖をしていた。ところが、1938年7月の豪雨で、養殖場が抜けてしまい、蛙とザリガニが柏尾川に逃げ出した。その後、下流の境川で繁殖したそうだ。しかし、今では食用蛙よりも、亀を多く見かけるようになった。欧米への輸出で栄えた養殖場は、1940年代に、欧米による「禁輸」措置により閉鎖となった。太平洋戦争の影響が、こんな所にまであったとは、驚きだ。
藤沢の街並みを大きく迂回して、ややこしい道を川沿いに戻ると、今度は左岸に藤沢市民病院を見る。川沿いの角の所には、農家の無人売店もあり、急に田園風景が開ける。新林公園あたりは、「境川・フジ水辺ロード」と名付けて、歩行者用の公園が整備されている。一方、国道1号線から北の大清水橋~鷹匠橋の約400mは、「大清水境川アジサイロード」という名前が付けられている。いつから命名されたのか知らなかったが、改めて聞いてみると、もう10年もたっているそうだ。5月頃には、アジサイがきれいだ。
どこが終点なのか分からないまま、アジサイロードを過ぎると、左岸に昔のドリームランドのホテルエンパイアが見えてくる。今は横浜薬科大学の図書館棟に使われているそうだ。河岸段丘の上にあるから、良い目印になる。ぼんやりと目を奪われると、猛スピードの対抗ちゃりにぶつかりそうになる。この辺りは、日曜休日でなくても、ジョッギングやちゃりがひっきりなしに通る。
○○大会出場の垂れ幕が何時も架かっている藤沢清流高校を過ぎると、広大な西部水再生センターの施設群が続く。但し、外からは、何も見えない。横浜市のWebによると、105千㎡の敷地で、市の家庭汚水を処理しているそうだ。外からは計り知れないが、とてもお世話になっているようなので、取りあえず軽く一礼して通り過ぎる。
ちょっと寄り道をしたい。立石橋を東に曲がる。ここからが、大の難所だ。比高40mくらいの河岸段丘を延々と登る。ほとんど真っ直ぐの坂路で、俣野別邸駐車場の標識が見える頃には、完全に息が上がっている。住友財閥第16代の吉左衛門が、昭和14年11月(1939年)に別邸として作った屋敷だ。54千㎡もある。お洒落な本館を中心に、台地の上に広大な庭が広がる。良く分からないが、「昭和モダニズム」の影響を受けた和洋折衷の建物だそうだ。2004年4月に、重要文化財の指定をうけたものの、わずか5年後の2009年3月には火事で燃え落ちてしまった。その後、2016年に横浜市が、原設計に忠実に再建している。同じ火事でも、首里城とは異なり、こちらは重要文化財の指定が、さっさと解除されてしまった。
広い庭は、「庭園」と言うよりも寧ろ森の中の小道といった方が相応しいかも知れない。大船のフラワーセンターのように栽培した花を愛でて楽しむよりも、自然に近いままの景色の中を気ままに散策するのが合っている。勿論、ここにも例外なく亀(カメラ爺婆)が沢山群れている。のんびりと散策するのも良いし、ベンチでうたた寝するのも楽しい。何よりも、無料というのが心地良い。
ちょっと寄り道しすぎてしまった。俣野別邸でお昼を食べた後、ふとうたた寝してしまった。『さて行こう。』という気力に欠けて来た。もう少しだけ走ってみよう。
立石橋を少し北に走ると、宇田川が東から境川に合流する。この辺りは、境川に沿って豊かな水田が広がっている。しかし、明治42年(1909年)に総合耕地整理が実施されるまでは、ここ俣野は毎年氾濫した。今では、そんな面影を探すのも難しい。境川からほんの数百m藤沢側に入った台地の下には、「瞽女淵」の記念碑と首のない地蔵と由緒の説明板がある。ここには深い淵があって、江戸時代に瞽女が落ちて死んだそうだ。それ以来瞽女淵と呼ばれているとの事だ。めくら女の三味線弾きが、門付けをしながら全国を放浪する事を瞽女(ごぜ)と呼ぶ。日本中あちらこちらに、瞽女が淵に落ちて死ぬという物語が残っている。話は続く。その後、『自分が死んで土手を守ってやる。』との手紙を置いて、武士が瞽女淵に身投げをしたそうだ。真偽の程は分からないが、何とも切なく、且つ、信じにくい言い伝えだ。
さて、ちょっと道草をし過ぎたようだ。取りあえず今日はここまでとし、「前編」と名付けよう。
200813 均茶庵
注)均茶庵が自分で撮ったデジカメ写真よりも、はるかに立派できれいな写真が、Webを飾っている。そこで、思い切って自分の写真を最小限とし、Webの芸術からお借りした。
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