附)*百人一首
附)からはじめるのもちょっと滑稽だが、書くことが殆どないので、最初に据えた。
一句や二句知らない人はいないだろう。末次由紀の名作「ちはやふる」を思い起こす。
さて、百人一首は、宇都宮頼綱の求めに応じて、藤原定家が、1235年頃撰した。その名の通り、百人の歌人から佳歌を一首ずつ選んでいる。所が、コケを詠った歌は、何と一首もない。一体、どうした事だろうか。
*新古今和歌集
新古今和歌集について
藤原定家(1162~1241年)が、後鳥羽院の命により撰を行った、勅撰和歌集として有名だ。成立は、1205~1210年と言われている。時代区分で言うと、鎌倉初期(1192年に鎌倉幕府創設)に入る。後鳥羽院が、承久の乱(1221年)に敗れて隠岐島に配流されてから、院により何度か改編されている。
新古今和歌集(以下、新古今集)は、本文1995首に加えて異本歌が10首あり、合計2005首から構成される。この内、コケを詠んだ歌は、21首ある。一見、コケの歌が非常に多いように見えるが、植物としてのコケを詠んだ歌は、三分の一の8首しかない。又、地衣類を詠った歌が、1首ある。下記するように、殆どが「象徴」としてのコケであって、実体を伴ったものではない。
それでは、新古今集におけるコケの特徴について、順次見て行こう。
1. 僧侶の歌が多い:
コケを詠んだ21首中11首が、僧籍にある人の歌だ。歌の過半数に当たる。
一方、出家の記録はあるものの、歌を詠った時点で、既に出家していたかどうか不明な歌が3首ある。これを加えると、何と三分の二に当たる合計14首になる。
新古今1665:式子内親王は、1190年頃に出家したとされる。歌の内容から、新古今1665を詠んだ時点では、既に落飾していたと思われる。
新古今1795:宜秀門院丹後は、1201年に出家している。式子内親王と同様に、新古今1795を詠んだ時点では、出家済みと思われる。
新古今1436:定家の父、藤原俊成は、1190年に出家している。新古今1436は、内容から出家後の作と思われる。
又、以下の4首は、出家後の歌ではないが、お寺・堂・出家絡みであり、いささか抹香臭い。
新古今796:俊成が妻の墓参りに堂に泊まった時の歌である。
新古今949:校注者は、俊成が旅寝を詠った歌と解釈しているが、草庵あるいは隠者の臭いが、強く漂う。
新古今1626:比叡山で落飾した少将に、法衣を贈る歌である。
新古今1664:家隆が、何時出家しようかと詠っている。
何とまあ、この4首を含めると、コケを詠った歌の内18首が、出家あるいは僧侶関係となっている。異常な多さと言うよりも、この時代には、「コケ」というと、殆ど自動的に「出家」あるいは「僧侶」を思い浮かべたようだ。
2. コケは、悲しく寂しい:
上記14首に加えて、新古今0123藤原秀能は、山路の旅寝を詠っている。上記1.の歌が、全て悲しく寂しい歌である事を見ると、コケは「悲しく寂しい」あるいは「質素な」という事を象徴する言葉になっている。万葉集や古今集では、専ら「長い」「久しい」という意味に使われていたが、内容が完全に変わってしまった。新古今731の詠み人しらずが、僅か1首のみ、長寿を言祝ぐ歌として撰されている。但し、この歌は、所謂本歌取りだ。
3. コケはコケを詠わない:
改めて新古今の21首を鑑賞してみると、植物としてのコケを詠った歌は、精々で0066、0123、0398、0731、1656、1685、1907、1923の8首に過ぎない。それ以外の歌は、「苔の下」(墓)「苔のむしろ」「苔の庵」(隠棲・草庵)「苔の袖」「苔の衣」「苔の袂」(僧衣)との形で使われており、植物のコケとは、最早直接の関係を持っていない。コケは、上記2.のように「悲しく寂しい物」あるいは「粗末な物」と、抽象的な存在として認識されている。
「苔のしたみず」「苔の橋」、「苔の山路」あるいは「苔の露」と、抽象概念に完全移行する前の中間形のような表現もある。しかし、歌の作者は、最早コケを植物体として、必ずしも意識して詠っているわけではない。
4. 地衣類も消えた:
万葉集、古今集で、「長い、久しい」の象徴としてもてはやされた地衣類のサルオガセは、上記した新古今731の一首のみとなった。この歌は、古今和歌六帖2268及び3959と一部分を除いて同じであり、本歌取りとなっている。つまり、新古今オリジナルの地衣類は、全滅という事になる。
5. 苔は青ならず:
コケの色を詠った歌は、2首ある。新古今0066と新古今0123だ。そしてその色は、今や「みどり」と表現されている。万葉集、古今集の時代には、中国風の表現を受けて、専ら「あお」と詠われていた。コケの色が変化したわけではない。菅原道真の提言を受けて、894年に遣唐使が廃止されてから、次第に「国風」が育った。この歴史と関係があるのだろうか。唐は907年に滅亡している。
均茶庵の知る限り、コケの色を「緑」と表現した詩は、新古今集以外には、和漢朗詠集221の、白居易の佳句のみだ。いつ頃コケの色が「みどり」に変わったのだろうか。研究があったら、知りたい。
田中裕の話
以上の通り、古今集(905年)から300年の後、コケは大変化を遂げてしまったが、その辺の事情を、田中裕から探ってみたい。
古今集の時代は、「風情(趣向)」中心主義とも言える詠歌方式だった。しかし、次第次第に事実の有無とは関係無く、「本意(ほい)」こそが歌にとって重要な点と認識されるようになった。「本意」とは、「最もそれらしくある様態の規定」と定義される。例えば、富士山を詠んだ場合には、噴火による「煙」を読み込むのが「本意」であり、それ以外は歌として失格となった。富士山の「雲」を詠んだのでは、「富士の本意」ではないため、正しい歌として認められなかった。勿論、富士山が噴火をしている時期もあれば、噴火が止んで、煙が無い時期もあった。しかし、歌では、富士に必ず煙を読み込むものとされた。
時代が進むにつれ、この傾向は更に強まり、歌詞の制限がどんどん厳しくなった。限られた歌詞しか使えなくなった。和歌改革に尽力した藤原俊成・定家親子でさえ、『詞は、三代集注、先達の用うる所を出ざるべからず。』と言っている。
結果として、「コケ」を含む多くの詞が、「符牒」として熟成し、本来の植物としての意味をどんどん失って行った。現実世界とは、遠く隔離してしまった。
さて、どうしよう。
新古今のこんな背景を考えると、歌と詞書きからコケを同定するのは、不可能というか、丸で意味を成さなくなる。しかし、均茶庵としては、何とかして空想を巡らしてみたい。完全に「符牒」に陥ってしまったコケの歌は、当然除外するとして、植物としてのコケを意識した8首と、中間的な歌2首の合計歌10首についてのみコケ調べをしてみよう。
注: 三代集は、古今和歌集(905)、後撰和歌集(951~958)、拾遺和歌集(1006頃)の3勅撰集を指す。古今~室町時代までの間に、合計21勅撰集が撰じられた。
原本・訳・注などは、下記に依った。
田中裕・赤瀬信吾 (1992). 新古今和歌集. 新日本古典文学大系. 岩波書店
文頭のリンクをクリックして、各論にジャンプして下さい。
上手くジャンプ出来ない場合、あるいは、ご質問は、kokekoko.shonan@gmail.com
221019 均茶庵