添付) 万葉集でコケを詠んだ歌 全首 (未公開原稿)
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添付: 万葉集でコケを詠んだ歌 全首
明らかに注) 💎 コケと記されているが、地衣類を詠った歌
💎0113 吉野より蘿生いたる松の柯(えだ)を折り取りて遣はせし時に、額田王の奉り入れし歌一首
み吉野の玉松が枝は愛(は)しきかも君がみ言を持ちて通(かよ)はく
訳:吉野から下がり苔の生えた松の枝を折り取って送った時に、額田王がお返し申し上げた歌一首
み吉野の美しい松の枝は愛しいです。君のお言葉を持ち運んで来ることです。
校注:「蘿」はサルオガセ。松の梢から糸屑のように垂れ下がった苔である。
コケ調べ:定説では、弓削皇子が額田王に松の枝についたサルオガセを贈ったと解釈している。しかし、ちょっと無理があるように感じる。未だ20歳にもならない皇子が、還暦のオバさんに「遣し」はないだろう。額田王よりも上位に当たる、吉野に滞在中の持統天皇が「遣し」たと考えた方が、自然だろう。
さて、ここは定説に従って地衣類のサルオガセを遣わしたとしておこう。しかし、0228を見るとわかるように、成長した株を送ることは、まずあり得ない。小さな未成熟の株、あるいは、ホネキノリ(Alectoria)のような、体の小さな種だろうか。それにしても、送ったのがサルオガセでは、持統天皇のイメージにまるであわない。
均茶庵としては、木の枝から優雅に下がる黄緑色のハイヒモゴケ科のコケとくに、細くて柔らかいイトゴケを想像したいが、残念ながら、松に生える種はない。
一方、月野(2019)は、「蘿」を蔓性の植物としている。吉野という土地柄、サルオガセではなく、蔓性の被子植物と解釈している。「蘿」が、「コケ」あるいは「地衣類」と誤って解釈されたのは、江戸時代の「和名抄」に始まる由。南朝の漢文学の世界では、「蘿」は専ら蔓性植物であり、特に、松に絡みついた植物をイメージしていたとの事である。定説よりも、この方が説得力がある。
注)月野(2019)は、サルオガセは亜熱帯性の植物だから吉野には生えないとしているが、上高地でも生えているし、分布的には問題はない。
💎0228 妹が名は千代に流れむ姫島の小松がうれに蘿生すまでに 河辺宮人
訳:美しい娘子の評判は千代までつたわるであろう、姫島の小松 の梢に下がり苔が生える千年万年の後までも
Ramalina longisissima ナガサルオガセ 写真:日本地衣学会
コケ調べ: 大阪市西淀川区の姫嶋神社内に、この歌の碑がある。神社は、難波にあった八十島の後の場所と伝え、新羅の王子アメノヒホコの元妻アカルヒメノミコトを主神とする。
松の梢にコケが生すまでと、定番の「長い時間」の経過を指す。ここでは、具体的なコケを見て詠っているわけではなく、単なる象徴としてコケを持ち出しただけだ。松の木に生えるコケは、限られている。又、梢に生えるコケは、キンモウゴケなどがあるが、多くない。
従って、コケというよりは、地衣類のカラタチゴケ類やサルオガセ類などを指していると考えるのが自然だろう。松には、ナガサルオガセやヨコワサルオガセなどが好んで下がり、漢方では、「松蘿」と呼んで、珍重している。但し、姫嶋神社にサルオガセが生えていたと考えるのは、植生環境的にちょっと苦しそうだ。0113の月野(2019)を、併せて考えておきたい。
💎0259 何時の間も神さびけるか香具山の鉾椙(ほこすぎ)が末(うれ)にこけ生すまでに
訳: いつの間にこんなに神々しくなったことか。香具山の鉾杉の梢に苔が生すまでに
校注:「末」は、原本が「本(もと)」となっているが、校注者は誤字とした。
Leucobryum scabrum オオシラガゴケ
コケ調べ:ここでも、コケは定番の「長い時間」の経過を指している。又、0228とおなじように、具体的なコケを見て詠っているわけではなく、単なる象徴としてコケを持ち出しただけだ。従って、種の同定は難しい。
杉の木に生えるコケの種は、非常に少ない。しかも、古木の大木に限られる。幹であれば、カタシロゴケ、シッポゴケ、ヒロハヒノキゴケくらいに限られるだろうか。一方、校注者は梢についたサルオガセと考えているが、環境的に果たして香具山に生育したのだろうか。古代の話しだから、わからない。
均茶庵としては、敢えて「本(もと)」を採用して、根元に生えるとコケと考えてみたい。そうすると、山地ではヨツバゴケ、カガミゴケなどもある。しかし、京都苔寺などの庭園で見るような、木の根元に丸い群落を作っているシラガゴケの方が絵になるのではなかろうか。勿論、山地にも沢山生えて居る。乾燥すると白っぽくなり、雨が降ると緑色が鮮やかに目立つ。
0962 奥山の巌に苔むし恐(かしこ)くも問ひたまふかも思ひあへなくに
訳: 奥山の岩に苔が生えて神々しいように、恐れ多くも求められることよ、思いがけずに
校注)勅使大伴道足宿禰を太宰帥の家で饗応した時に、集まった人々が駅使の葛井連広成に『歌を作れ』と言った。
Hylocomium splendens イワダレゴケ
コケ調べ:この歌のコケは、定番の「長い時間」の経過を表すコケの共通概念とは、ちょっと異なっている。どちらかというと、珍しい表現だ。コケを神々しく捉えている。
コケの同定は殆ど不可能だ。奥山・岩というキーワードから辿るのであれば、スナゴケ、ギボウシゴケ、 ハネヒツジゴケ、イワダレゴケなど、色んな種類が該当しそうだ。
駅使という余り高い位ではない人間が、中央から来た、遙か上司に当たる勅使を崇め奉っている。ここでは、コケは堂々とした上に、威厳が必要だろう。岩を一面に覆い、大きくて勢いがあるイワダレゴケが適任だ。林の中でも存在感を持つ。
Climacium japonicum コウヤノマンネングサ
Polytrichum commune ウマスギゴケケ
1120 み吉野の青根が峰の苔蓆(こけむしろ)誰か織りけむ経緯(たてぬき)無しに
訳:み吉野の青根が峰の苔むしろは誰が織ったのであろう。縦糸も横糸もないのに。
コケ調べ: 青根ヶ峰(あおねがみね)は大峰山脈北部、奈良県吉野郡吉野町の吉野山最南端にある標高858mの山で、古来より神奈備山とされた水分山(みくまりやま)と言われるが、未詳。
正直言って、これだけでは何のコケなのか判断するのは難しい。ただ言えることは、広い場所、つまり、野原一面に、同一種のコケが筵のようにどこまでも生えている情景だ。
宮崎県日南市の飫肥城跡で、エダウロコゴケモドキが杉の木の根元にマットのように生えて居るのを見た事がある。あるいは、神奈川県世附川の奥で、コウヤノマンネングサが、放棄された山の作業小屋の庭一杯に生えて居るのを見た。どちらも、本当に神が宿っているのではないかと思うほど神々しかった。
しかし、この歌では広大な青根が峰の尾根に擬えている。上記2種は、生育する広さが限られており、ちょっと似つかわしくない。
一方、ウマスギゴケの群落は、群馬県万座スキー場のゲレンデを一面に覆い尽くすほど、巨大な絨毯を敷き詰めたように生えていた。スキー場の、夏の風物詩となっている。ぴったりな感じがする。
尚、月野(2019)は、「蘿」を蔓性植物と解釈しており、ヒカゲノカズラ類の可能性が高いとしている。一考に値する見解だ。コケでは、「結果として筵」に見えるが、コケの一本一本が短くて、織物にする素材にはヒカゲノカズラ類の方が適している。
1214 安太(あだ)へ行く小為手(をすて)の山の真木の葉も久しく見ねば蘿生しにけり
訳: 安太へ行く道の小為手の山の真木の葉も、久しく見ないうちに蘿がむしたなあ。
校注:安太は、紀伊国在田軍英多(現在の有田)の地か、足代(あて)と同地か。小為手の山は、不詳。
Pyrrhobryum dozyanum var badakense ヒロハヒノキゴケ
コケ調べ:真木は杉や檜を指す。0259でも見たように、杉・檜に生えるコケは限られる。又、特に、葉の上に生えるコケは、ヨウジョウゴケと呼ばれるタイ類の一部に限られる。具体的には、ナンセイクサリゴケ、サンカクゴケ、カビゴケ、モーリッシュシゲリゴケ、ヒメクサリゴケ、ムシトリゴケしかない。しかし、いずれも非常に小さなコケで、余程気をつけないと肉眼で観察できない。歌人の目で判別するのは、無理だろう。ここは、実際のコケを見て詠ったと言うよりは、象徴としての「葉」と考えたい。
従って、歌意とは少し外れるが、ここは、杉・檜の幹の下部に密生するヒロハヒノキゴケとしたい。一度群落を見ると、その美しさに目が引きつけられて、離れなくなる。
尚、同属でより一般的なヒノキゴケは、ヒロハヒノキゴケと全く同じように見えるが、地上に塊のように生えて、やや大振りだ。
1334 奥山の石に苔生し恐(かしこ)けど思ふ心をいかにかもせむ
訳: 奥山の岩に苔がむして恐れ多いけれども、恋しいと思う心をどうたらよいだろう。
Racomitrium barbuloides コバノスナゴケ
コケ調べ: ここに述べられている「畏れ多い」と言う心情は、平安に先立つ時代にはままあったようだ。コケ自体が畏れ多いというよりも、寧ろ、コケむして古びた大岩が畏れ多いという意味だろう。0962に共通な感じ方だ。
該当のコケは沢山の種類がある。この歌の場合には、焦がれた相手は、女性だと思える。従って、気品の中に優雅さを備えた、コバノスナゴケではどうだろうか。黄緑色に目立ち、透明尖が日に光る。
2516 しきたへの枕は人に言(こと)問ふやその枕には苔生しにたり
訳:(しきたへの)枕は人に物を言うことがあるのだろうか。しかし、その枕には苔がむしている。
注:「2515 しきたへの枕動きて夜も寝ず思う人には後も逢ふものを」「訳:(しきたえの)枕が動いて、夜もろくに寝られない。愛する人には後に逢うというが。」の返しとして詠われた。
コケ調べ:コケは、定番の「長い時間」の経過を指している。現実には、枕にコケが生えることはない。2515及び2516は、どちらが男女か判別が難しい。均茶庵は、2515を男、2516を女と解釈する。恋する男が夜を悶々と過ごしているのに、相手が悪かった。女は、冷たく『いつかね。』と応じてくれない。『ほら、あんたの枕にコケが生えた。』
さて、何のコケに例えれば良いだろうか。難しい。きっと、小さくて控えめなコケだろう。遊ばれている。
コケ調べ: 2516と同じような表現だ。ここでも、コケは、定番の「長い時間」の経過を指している。この時代は妻問婚だから、これは女性の歌と考えたい。愛しい男に早く来て欲しいと悶々としている。コケの同定は、殆ど不可能だ。
2750 我妹子(わぎもこ)に逢はず久しもうまし物安倍橘の苔生すまでに
訳: 愛する恋人に逢わなくなって久しいことだ。(うまし物)安倍橘の木に苔が生えるまでも
注:安倍橘は不詳だが、柑橘類には違いない。柚に似て小さいものとの説がある。
コケ調べ: この歌でも、コケは「長い時間」の経過の象徴として詠われている。実際のコケを見ながら詠ったわけではない。
均茶庵は不勉強にして、未だ柑橘類の枝や幹に、コケ類が生えている姿を見た事がない。精一杯で、べたっと張り付いた地衣類だ。だから、ここは思い切りフライングしよう。
イトヒバゴケという、今ではもの凄く珍しくなって、環境省の絶滅危惧第I種に指定されているコケがある。殆ど絶滅状態だ。均茶庵は、十和田湖から流れ出る奥入瀬川で、辛うじて見た事がある。
このコケは、桑や柿等の樹上を好む。しかも、必ずしも、大木・古木に限らない。数十年前までは、神奈川県は養蚕が盛んだった。その頃は、桑畑の至る所見られたそうだ。
Cryphaea ovovatocarpa イトヒバゴケ 写真:京都府RDB
3227・・・秋行けば紅(くれなゐ)にほふ神奈備の三諸の神の帯にせる、明日香(あすか)の川の 水脈(みを)速み、生(む)しため難き石枕(いしまくら)、苔(こけ)生(む)すまでに、新た夜の、幸く通はむ・・・(長歌)
訳: 秋が来ると紅の色に色づく。その神奈備の三諸の神が衣の帯にしている明日香川の水の流れが速いので、苔が生えても留まっていにくい石の枕に苔が生える時まで、夜ごと夜ごとに通い続けることが・・・
Philonotis thwaitesii コツクシサワゴケ
注:三諸の山は、明日香の雷丘と推定されている。「生(む)しため難き」は、水流が早くて苔が付着し難いことを言う。「石枕」は、枕のような大きさの石の意か。
コケ調べ: この歌も、コケは「長い時間」の経過の象徴として詠われており、実際のコケを見ながら詠ったわけではない。
明日香川の早い流れに打たれながら生えるコケは、種類が限られている。石に生えるコケだから、水中に生えるカワゴケは、取り敢えず除外できる。そうすると、河岸の石や岩の上に、小さな丸い群落を作るサワゴケを思い浮かべる。一つ一つの群落は小さいが、仮根をしっかりと石に食い込ませ、激しい流れに抵抗しながら、成長する。黄色に近い派手な色で、良く目立つ。
水中に生えるホソホウオウゴケの可能性もあるが、ちょっと黒っぽい色が問題だ。毎晩通う魅力のある相手という事から、例え暗くてはっきりとは見えないとしても、色黒の女は敬遠したい。色が白くて若い女の子であれば、闇の中にうっすらと浮かび上がるように見える。若々さを感じるサワゴケだったら、夜ごと夜ごとでも頑張ってしまう。
3228 神南備の三諸の山に斉(いは)ふ杉おもひ過ぎめや苔生すまでに
訳: 神奈備の三諸の山に大切にお祀りしている杉、そのように思いが過ぎることがあろうか。杉に苔が生えるまでも
注:3227の反歌。
Syrrhopodon japonicus カタシロゴケ
コケ調べ: コケはここでも「長い時間」の経過の象徴として詠われており、実際のコケを見ながら詠ったわけではない。杉もコケも、いささか歌遊びの小道具に使われている感じがする。
0259で見たように、古木の大木の杉の幹に生えるコケであれば、カタシロゴケ、シッポゴケ、ヒロハヒノキゴケ辺りに限られる。前二者は、小さくひっそりとしている。葉の先に小さな無性芽を沢山つけるカタシロゴケに秘めた心を感じたい。
220923 均茶庵
写真に出てきたコケの一覧 (特記していない写真は、筆者による)
0228 Ursea longissisima ナガサルオガセ 日本地衣学会HP
0259 Leucobryum scabrum オオシラガゴケ
0962 Hylocomium splendens イワダレゴケ
1120 Climacium japonicum コウヤノマンネングサ
1120 Polytrichum commune ウマスギゴケ
1214 Pyrrhobryum dozyanum var badakense ヒロハヒノキゴケ
1334 Racomitrium barbuloides コバノスナゴケ
2750 Cryphaea ovovatocarpa イトヒバゴケ 京都府RDB HP
3227 Philonotis thwaitesii コツクシサワゴケ
3228 Syrrhopodon japonicus カタシロゴケ