江戸幕府は、享保13年(1728)に、湘南海岸柳島から藤沢片瀬まで鉄砲場を創設して、銃術の訓練を始めた。佐々木家は、代々佐々木流砲術師範として、江戸幕府に仕えていた。卯之助は、天保年代(1833~1839)徳川吉宗に任用され、砲術調練所の責任者として大筒役となった。本来、鉄砲場における農民の耕作は禁止されていたが、父伝左衛門は、新田開発者から寛政10年(1798)に株金10両を取り、新田開発を黙認していた。当初24町5反歩(243千㎡)で始まった開拓は、卯之助が継いだ時には、42町5反歩(418千㎡)にまで拡張していた。この新田開発は、幕府には無届けだった。
大筒役には、湘南海岸の砲術訓練の指揮権しかなく、民政の責任者は伊豆代官江川太郎左衛門英龍だった。後の天保14年(1843)に、英龍は代官と同時に幕府鉄砲方にも就任し、卯之助の上司となっている。天保3年(1832)に、英龍は検地(徴税のための耕作地の監査)を実施し、卯之助の農地無断開発が公になった。その結果、父伝左衛門・卯之助・子息菊次郎が、伊豆諸島青ヶ島に遠島、鉄砲組組下役8名が江戸追放あるいは免職、鉄砲場見回り役5名が入牢、百姓10名が叱責又は罰金という、総勢26名が処罰される大事件となった。卯之助は、明治元年(1868)に赦免となったものの、そのまま青ヶ島に残り、明治9年(1876)に島で没した。青ヶ島には、卯之助の墓と徳を慕った慰霊碑がある。
卯之助は、百姓に金子を要求したり、立木を売り払ったり等、横領の罪で罰せられている。実際に、新田開発者及び百姓から何分の金を取り上げたのは事実だったようだ。しかし、その金は、物価が高騰した幕末に、生活に困窮していた部下の生計費に充当したとも言われている。又、百姓側は、天保飢饉などに由る困窮を、この新田開発により軽減する事が出来たという。重罪として卯之助・他が処分されたものの、百姓からは大変感謝されたと伝わっている。「遠島」は非常に重い刑であり、汚職程度では通常課せられない。罰を受けた員数も極めて多い。歴史に伝わらない、背景になった話が、何かあるのかも知れない。
明治31年(1898)には、当時の茅ヶ崎村長伊藤里之助と南湖の人達によって、八雲神社境内に佐々木氏追悼記念碑が建てられた。(碑の説明文では、六道の辻に建てたとしている。)地元では、『佐々木様』と呼んでいたそうだ。その後、昭和56年(1981)に、東海岸の鉄砲道と旧鉄砲道の交差する現在地に移転している。
昭和35年(1960)に、市議会産業委員会が青ヶ島を視察した際に、卯之助が島で非常に尊敬されていることを知った。島から石塔を頂き、昭和56年(1981)に、小和田の海善寺に供養した。車地蔵の隣に、茅ヶ崎郷土会の説明文とともに、30cmくらいの円石が祀られている。斜め向かいには、鎌倉時代の六本松刑場に由来する六地蔵が祀られている。又、柳島の134号線陸橋奥の松林の中には、八大竜王神の隣に、昭和44年(1969)に「相州砲術場と柳島湊跡の碑」が建てられた。但し、卯之助についての記述はない。
以上の通り、佐々木卯之助についての史跡は、今では南湖には何も残っていないが、南湖に対する貢献と嘗ての事跡を、八雲神社の高台に上って、偲んではいかがだろうか。
211021 均茶庵