はじまり
2020年は、コロナの流行という事で、海外に遊びに行く道を断たれた。国内旅行も、自粛している。つまり、自宅に籠もりきりの生活が長い。時折、出来るだけ人に接触しない場所に、一人で出かけるのが、たまの気晴らしとなった。そんなわけで、のんびりとちゃりを楽しむ機会が増えた。「箸休め」のスケールが、どんどん小さくなってしまったわけだが、しかし、それはそれで別の味わいがある。
これまで、境川と引地川を源流まで走った。藤沢市に長らく住んでいた均茶庵にとっては、全く違和感のない、あるいは、凄く親しみを感じる川だ。今や「ふるさと」の川と呼んでもいいだろう。所が、ふと気がついた。均茶庵は、もう茅ヶ崎の住人になって10年経つ。しかし、このどちらの川も、茅ヶ崎とはまるで縁もゆかりもない。
茅ヶ崎の川と言ったら、どこをさすのだろうか。先ず思いつくのは、大河相模川だ。海に注ぎ込む茅ヶ崎柳島付近では、馬入川と呼ぶ。しかし、茅ヶ崎の「おらが」川だろうか。馬入川でさえ、隣町の平塚と半分半分に分け合っている。大河だけあり、山梨県から981kmも流れ、幾多の市町村を潤す。とてものことではないが、『茅ヶ崎の川だ。』なんて、絶対に言えない。
それでは、どの川が「おらが川」として相応しいのだろうか。地図を広げると、茅ヶ崎の中央部から北部にかけて、河岸段丘の間を縫うように描く線がある。一級河川小出川だ。藤沢市の慶応大学看護学部の奥にある遠藤の笹窪谷戸から湧き出して、寒川を通って茅ヶ崎に入り、最後には、相模湾河口近くで相模川に合流する。10kmの短い距離だが、これこそが茅ヶ崎の川と言って良いだろう。
平野文明先生が、1984年に神奈川新聞に「茅ヶ崎地名ルーツ」を連載した。「小出」とは、「小さないで」の意味だそうだ。「いで」とは、「井手=田の用水として水の流れを堰き止めて溜めてある所」を指すそうだ。平安中期に書かれた「和名類聚抄」という本には、茅ヶ崎が「渭堤」という名前で初出する。これも、「いで」と読むそうだ。しかし、水運まであった川の名前の由来にしては、説明がちょっとしっくり来ない感じもする。それに、出の発音は「い」だが、井・渭は、「ゐ」と読む。まあ、取りあえずは、細かい事は言うまい。
均茶庵は、小野小町が「色も香もなつかしきかな 蛙なく井出のわたりの山吹の花」と歌った京都府井出町の玉川に遊んだ事がある。宮田Folioで走った。未だ田園風景が残る、のんびりとした里だった。平安時代には、山吹と鰍蛙で有名だったそうだ。こちらも、読みは「ゐで」だ。
昔、遠藤は小出村の一部分だった。1955年に小出村が茅ヶ崎市に合併する際に、遠藤だけが藤沢市に分村編入された。だから、小出川の水源の遠藤は、茅ヶ崎市とまんざら関係がないわけではない。尚、茅ヶ崎は、1947年10月1日に町から市になった。個人的な話になるが、均茶庵は奇しくも1947年10月の生まれだ。
そんなわけで、小出川をじっくりと走って見る事にした。水源地まで近道をすると、所々河岸段丘を登らなければならないから、ちゃりではちょっと苦しい場所もあるが、まあ運動には丁度良い。勿論、文章も、じっくりと長くなる。今回は、1996年製宮田Folioに代わり、2015年製ブリジストンTransit sportsに乗る事にした。現在販売されている唯一の26“折畳みちゃりだ。新車だと思っていたが、いつの間にか5年も乗っていた。年数を感じないほど、均茶庵は歳をとってしまった。
河口
「走る」と宣言して、まずはカヤックと言うのは、ちょっとした矛盾だが、取りあえずは行ける所まで漕いで見る事にした。相模川の海への出口にかかるトラスコ湘南大橋から、アルフェックVoyager 415を下ろす。この舟の進水は、2003年だ。机の前に座っている限りは何も感じないが、ちょっと動こうとすると、途端に歳を感じてしまう。ファルトボートを組み上げた頃には、汗びっしょりになっていた。
698mのこの橋の名前を何故トラスコと呼ぶのか、長い間わからなかった。ある日Webで由来を発見した。工具卸屋さんのトラスコ中山という会社が、2010年から命名権を得ているそうだ。国が橋の命名権を販売したのは、この湘南大橋が初めてだそうだ。
小出川に入る
相模川の河口左岸に、相模川流域下水道左岸処理場という長い名前の下水処理場がある。この脇のスロープからカヤックを相模川に下ろす事ができる。そして、湘南大橋を過ぎた左岸が、小出川との合流点になる。5分もかからない。川は、湘南シーサイドカントリー倶楽部の真ん中を流れている。ティーショットが、川越になっているため、遡るためにはショットの合間を待たなければならない。下手なプレイヤーのゴルフボール直撃を受けたくない。
因みに、1991年に神奈川県が「かながわの橋100選」を選んでいるが、この橋は見事37番に数えられている。但し、100の選定の根拠は良く分からない。小出川の橋は、全て選から漏れている。市内の橋では、ちょっと変わった所で、茅ヶ崎駅前のふれあい橋が49番で入っている。こちらは、歩道橋だ。茅ヶ崎では、この二橋のみが選ばれている。
以前は、小出川の河口に沿って柳島通りの宮ノ下橋あたりまで、プレジャーボートがぎっしりと不法係留していたが、いつの間にか取り締まりが行われるようになったようだ。川の入口に、ロープが張られるようになり、小さな警告版が下がっていた。
宮ノ下橋のたもとには、市立柳島小学校がある。この辺りの護岸は、川釣りの人を何時も見かける。相模川や相模湾がすぐそばにあるのに、わざわざここで魚釣りをするなんて、何かメリットがあるのだろうかと何時も思いつつ過ぎるが、ついぞ理由を聞き忘れた。何しろ、釣り人のそばにカヤックで近づくのは、ちょっとリスキーだ。
川は、この辺りで、新湘南バイパス(国道1号線)、産業道路及び柳島通りと複雑に交差している。カテナリー曲線の大きなアーチが目を奪う。鐘の形に似せたので、湘南ベルブリッジと名前を付けたそうだが、そう呼ぶ人はほとんどいないようだ。目立つアーチは、4,000tの橋の主桁を、ケーブルで吊り下げる役割を持っている。高さが49mもあるから、兎に角目立つ。だから、目印になっている。残念ながら、国土建設省が自称する「名勝」には、未だ届いていないようだ。名門川田工業の四国工場製だ。
正直言って、この辺りは決して楽しい景色ではない。川の両岸がコンクリートの壁で、他にはビルと工場の建物の頭しか見えない。しかも、川は濁っていて、底がまるで見えない。異臭がしないだけ、未だ助かる。左岸に湘南夢わくわく公園がパイパス下にある。コンビニ弁当を食べるには、格好の場所だ。しかし、今は工事中で入場できない。何が出来上がるのだろうか。
柳島八幡宮
浜之郷に、由緒古き鶴嶺八幡宮が鎮座するため、あまり目立たないが、もの凄く立派な神社だ。由緒は分からない。しかし、鳥居には文政元年(1822年)の銘がある。柳島長命会という町内会組織があり、神社の管理をしっかりとしているためか、落ち着きがある。
この神社には、茅ヶ崎唯一の金精様が祭られている。子宝の木と名付けた大木の根元に鎮座している。2011年に長命会が、建てたそうだ。山口さんと言う方が、金精様をヒメシャラの木に彫ったそうだ。だから、神奈川県で一番有名な川崎の金山神社とは、全く関係が無いようだ。
千の川
JRを陸上から越えるのは、ちょっと面倒だ。左岸も右岸も道を大きく迂回しなければならない。左岸には、ここで千の川が流れ込む。台風の時にしか話題にならなくなってしまった。普段は水が殆どない。コンクリートの器の底をちょろちょろと流れているだけだ。この辺りは、汐の満ち干の影響が大きい。均茶庵は、満潮にのってカヤックを漕ぎ入れることにしている。しかし、千の川は、漕ぎ入れる事も出来ないほど浅い。そして、小出川本流の水深は、JR線付近までが遡上の限界に近い。すぐ先の一号線下辺りは、もう浅くてとても漕げない。ポーテッジ(川を歩いて舟を引っ張る)すれば行けない事もないが、泥の底と戦うのは気分が良くない。ここから先は、陸上の旅となる。
松尾川
小出川も千の川も、古代から舟運がさかんだった。鳥井戸の西で小出川と千の川が合流し、松尾川と呼ばれていたそうだ。川幅も、7~10mもあったとの事。船大工の常番匠が作った新造船は、ここで船降ろしをして、海に出て行ったそうだ。又、合流点付近を「落ち合い」と呼んで、船着き場があった。河口から荷物を満載した押送舟が上がってきて、小型の舟に積み替えた。あるいは、艀に積んだ魚を松尾橋の河岸まで運んで来た。舟が着くとホラ貝が鳴り、ボテと呼ばれる行商人が、籠を担いで沢山集まって来た。しかし、1922年の関東大震災で、相模川河口の柳島湊が陸地化してしまったため、舟が通れなくなってしまった。舟運が滅びたのは、つい最近の事だ。
松尾川は、関東大震災の際に海への出口を塞がれて、今の浜見平団地辺りが一面の沼と化した。新たに松尾川を掘削して水を馬入川に抜いてから、再び陸地となった。大正時代人がタイムスリップしたら、どこまでもコンクリートの建物が続く現在の姿に、腰を抜かす事だろう。その松尾川は、殆どが暗渠となってしまい、余程注意しないと、どこに流れがあるのかわからない。そして、JR線の南側で完全に暗渠の中にきえてしまう。
茅ヶ崎は、砂丘と砂丘間低地の沼・池が至る所にある。夏近くなると、一面に茅「ちがや」が白い花を付ける。それで、砂州が伸びた荒れ地「崎」を指して、「ちがさき」と読んだそうだ。平山孝通先生が言っている。しかし、平野文明先生は、これは正しくないと言う。1470年に「ちかさき」という名前が初見し、後年「ち」に「茅」を宛てただけだとする。
又、千の川は「せんのかわ」ではなく、本来は「ちのかわ」と読んだという説もある。茅ヶ崎と語源を同じにするという。茅が一面に生えている砂丘間低地を流れる川だから、「ちのかわ」と呼んだが、それが転じて「せんのかわ」になったと言う。この話の原典を探したが、残念ながら見つからなかった。
一方、樋口豊宏による「茅ヶ崎郷土史」には、こんな説話が書いてある。『昔、お仙という少女がいた。お嫁に行く途中、本村と矢畑の間の橋で、突然身投げをしてしまった。あるいは、小さな橋だったので、足を滑らせて川へ転落してしまった。そして、花嫁衣装のまま亡くなってしまった。そのため川の名を「せんのかわ」と呼ぶようになった。』この話が、名前の由来としては、一番惹かれる。
武田さんと言う方は、梵語の「サムパ(蛇)」が、転化したものとの説を掲げているが、根拠は示していない。
尚、左富士で有名な鳥井戸橋には、千の川の読み方として、ひらがなで「せんのかわ」と書いてある。県は、正式名称を「せんのかわ」としている。
竜泉寺の湯
JRをちょっと過ぎた右岸に、竜泉寺の湯がある。深井戸を掘ってくみ上げた天然の温泉だ。750円で、朝5時から何時間でも楽しめる。いろんな種類の風呂があり、もの凄く嬉しい。漫画も読み放題だ。茅ヶ崎の海岸で温泉というと奇異に感じるかもしれないが、江戸時代~大正時代には、柳島に温泉が三箇所も湧いていた。1861年には、藤間勘次郎が湯屋藤間温泉を開業した。明治中期には藪下温泉という銭湯があった。江戸末~明治中期には、山口甚五左衛門が湯治所山口屋を経営していた。しかし、関東大震災で湯量が減り、自然泉は消滅してしまった。
藤間は、「とうま」と読む。室町時代中期から、ここ柳島を拠点として藤間家が廻船問屋を営んでいた。柳島湊から年貢米、材木、薪炭を江戸に運び、帰りの舟で椿油や菜種油、〆粕を持ち帰った。藤間家の旧本宅は、柳島小学校の向かいに残っている。「藤間家」については、ちがさきナビ「まち・ひと・茅ヶ崎の煌き」を参照頂きたい。
竜泉寺の湯は、ご存じ韓昌祐のパチンコ・マルハンが経営している。韓さんは、韓国からの不法入国から現在の財産を築き上げた。経緯あるいは過去については、色々な意見があるだろう。しかし、成功に到るまでの並々ならぬ努力と苦労は、賞賛されるべきだと思う。やっかみで片付ける程、たやすい話ではない。
旧相模川橋脚
左岸に、神奈川県衛生研究所の大きなビルがある。その直ぐ隣にニトリ茅ヶ崎店がある。その間の狭い部分に、1923年の関東大震災の時に水田から7本の木柱が出現した。その後の発掘調査の結果、檜の柱が合計10本確認されている。鎌倉時代の1198年に相模川に架けられた橋脚だ。国の史跡に指定されている。現在の相模川は、西へ5kmも移動した事になる。
梅雲寺
1号線を渡った左岸の、丁度ニトリ前の小路を入った所に、余り目立たない浄土宗の寺がある。結構古く、1599年に建立されている。山門を入ると、左奥に小さな「難除三宝荒神社」がある。現在は、秘仏と言う事で、見る事ができない。しかし、江戸時代には、梅雲寺の荒神様が大盛況で、江戸にまで出開帳したそうだ。三宝荒神とは、如来荒神(にょらいこうじん)、麁乱荒神(そらんこうじん)、忿怒荒神(ふんぬこうじん)の三神を指し、仏・法・僧の三宝を守る役割を持っている。但し、インドにはいない神様だ。日本では、専ら竈の神様として、台所に祭られている。
何時橋
東海道の今宿と中島の境に、今宿橋が架かっていた。この橋は、何時橋とも呼ばれていた。今は、もうない。
何時橋のたもとには、毎晩美女が立って、通行人に『なんどきか。』と問いかけたそうだ。夜鷹ではない。女は、男と逢い引きの約束をしたものの、浮気者の男は遂にやって来なかった。女は、何時までも一人寂しく待っていた。
地蔵ケ淵の鰻
地蔵ケ淵と言う所で、浜之郷の農家の息子が大鰻を釣り上げた。萩園の浜園橋の辺りというが、今でははっきりした場所が、どこに当たるのかわからない。家へ帰ると、早速細かく切って大釜で煮付けた。欧州では大きな海鰻を干物や煮込んでたべるから、日本でも同じような調理法があったのだろうか。あるいは、この頃は未だ蒲焼きはなかったのだろうか。鰻は蒲焼きと決めている均茶庵には、残念な事だ。
台所の裏口から声が聞こえて来た。『地蔵ケ淵のとね坊ヤーイ。』そうすると、鍋の中から、『オーイ』という返事があり、元の鰻の形になって逃げて行った。そう、昔は小出川も天然鰻がずいぶん遡上した。
又、平野先生の言葉を借りると、萩園は江戸時代初期には、萩曽根・萩曾禰と書いて、「はぎそね・はぎぞね」と読み、河原の様な荒れ地を指したそうだ。漢字が萩園に変わると、感じもガラッと変わる物だ。
新湘南バイパス沿い
さて、宮ノ下橋でちゃりに乗り換えると、只管新湘南バイパスを左手に見ながら、小出川を北上する。街の景色が延々と続く。途中鶴嶺通り東すぐの所に、鶴嶺八幡宮が鎮座している。ご当地では、押しも押されぬ名社だ。但し、参拝すると、本題をどんどん離れてしまうので、割愛させて頂く。八幡宮の北側には、鎌倉時代創建の名刹懐島山龍前院がある。懐島氏(大庭氏)の本貫の地だが、こちらも同様に割愛する。下記の「懐島山」を参照頂きたい。
萩園橋から首都圏中央連絡自動車道までの間が、小出川桜祭りの会場になっている。丁度県立茅ヶ崎養護学校の向かい辺りになる。川の右岸に70本ほどの河津桜が植えてある。シーズンは早い。3月初めが花のピークだ。お店が出て賑わい、中々楽しいが、2020年の第14回はコロナでお祭りが中止となってしまった。しかし、世は疫病流行でも、桜の花に変わりはない。萩園橋からの散策は、均茶庵にひとときコロナを忘れさせた。冬場には、鴨や鷺が溢れるほど川面を埋める。
萩園は、明治時代には、下駄の産地として全国に名前を轟かせたが、今ではその面影も無い。
間門川
新湘南バイパス北側の大曲橋あたりの話だ。昔ここに五郎兵衛という名の馬方の爺さんがいた。ある日、馬の「あお」を間門川(現:小出川、旧名:赤池川とも言う。)で洗っていると、突然何者かがあおの尻にしがみついた。五郎兵衛は、慌てて水くみ桶を投げつけたら、頭に当たった。捕まえてみると、何と河童が気絶していた。河童は、一命を許してもらったお礼に、五郎兵衛にいつまでも酒が出続ける徳利を贈った。底12cm、高さ21cmの三合(0.5ℓ)入りだそうだ。それから、この場所を河童徳利発祥の地と伝える。又、河童は赤池の葦の葉を片葉にするとの約束もした。その通りに、今でも片葉の葦が生えている。尚、伝承だから、話の筋は語り手によって少しずつ異なる。五郎兵衛さんは、1824年に亡くなったが、この徳利は代々引き継がれて、今でも大切に保管されているそうだ。
大曲橋には、「間門川伝説・河童徳利誕生の地」と書いた大きな記念碑が建っていた。嫌でも目に入るほど、もの凄く目立った。しかし、道路や河川の改修もあり、又、この記念碑も古くなってしまったためか、いつの間にか「間門川伝説・河童徳利・発祥の地」という、冴えない立て看に変わってしまった。その代わり、近々「河童徳利ひろば」が、小出川沿いに出来るそうだ。
圏央道を横断する地下道には、河童徳利伝説の壁画が描いてある。今流行のジバンシよりも、ずっと可愛い。絵には、「二O一七6.4 Art Work KYOCOMORI TaKaYuKi SaSaKi」とサインしてある。
江戸時代には、「鷺茶屋」の泥鰌汁や麦とろ飯が、大山詣での旅人に大モテだったそうだ。近くの輪光寺の地蔵尊の出開帳も、有名だったそうだが、今ではどちらもない。輪光寺は、河童二匹が湯船のような徳利に浸かっている像で、知られている。寺には、行方不明になっていた徳利が、1967年に発見された時に建てた碑もある。嘗ては、『一に鷺茶屋、二にどんどん塚よ、三は富士塚、四に河童徳利。河童の名所は間門川』と、ご当地の盆踊りで囃したそうだ。
昔の間門川と赤池の風情をまるで感じられなくなった分、新しい趣向で何とか補おうとしているようだ。桜祭りの会場とも繋がっているし、季節には賑わうようになるかもしれない。町おこし町内会と「かっぱどっくり保存会」の努力は素晴らしいものだ。しかし、よそ者の均茶庵に取っては、河童のこの近代化は気分的にちょっとついて行きにくい。
ちょっと長くなるが、詳しい話を知りたいかたは、かっぱどっくり を見て下さい。
懐嶋山
茅ヶ崎JCT料金所の北側あたりになるだろうか。懐嶋山(ふところじま)という聞き慣れない場所がある。小さな碑が立っている。「懐嶋山の碑」あるいは「えな塚」とも呼ばれている。更に、円蔵の神明大神宮には、懐島景義の像と「懐嶋館址」と書いた碑がある。「平家物語」の源頼朝が挙兵する(1180年)段にも、懐嶋の名前が出てくる。由緒正しくも、古い歴史を持った場所だ。
源頼朝が伊豆の蛭ケ小島に流されている時に、比企尼が乳母として、又、資金的に頼朝を助けていた。比企尼の娘に丹後局(丹後内侍)という娘がいた。丹後局は、頼朝の子を身ごもったが、頼朝の妻北条政子に知られてしまった。政子から命を狙われた丹後局は、当時懐嶋郷の領主だった大庭景義の館に逃れた。そして、密かに男児を出生した。この男児が、後の薩摩国島津氏の祖先になる。えな塚の「えな」は、「胞衣」の事だと言う。
実は、丹後局は惟宗(島津)広言と通じ、島津忠久を生んだ後、広言と分れた。その後、頼朝の側近の安達盛長と再婚した。島津氏は、忠久が源頼朝の子であるとも、又、惟宗広言の子であるとも称しているが、丹後局が忠久の母だったことは、事実らしい。丹後局は、懐嶋山ではなく、大阪の住吉大社の境内で忠久を出産したとの言い伝えもある。
比企家は、比企能員の乱により、北条時政・政子の親子によって滅ぼされた。政子の子供である二代将軍頼家も北条氏によって将軍職を剥奪された上、伊豆で暗殺された。丹後局は、頼家の乳母にもなった人だ。こんな歴史が、おどろおどろしい伝説に変ったのかもしれない。
円蔵
通り過ぎてしまったが、ちょっとだけ戻ろう。上に書いた懐嶋は、全て円蔵に含まれる。この辺りは、本当に狭い道がごちゃごちゃしていて、一度入り込んだら、うっかりすると二度と元へ戻れなくなる。輪光寺とその近くの神明大神宮付近が一番凄い。昔は、「円蔵九十九曲り」と呼んだそうだ。特に、神明大神宮西側は、「丸山七曲り」と言うそうだ。当初、『新しい住宅の、無秩序な開発か。それにしては、田舎すぎる。』と思っていたが、ちょっと様子が違った。懐嶋景能がここに館を築いたため、道路をわざと狭く且つ曲がりくねって作ったそうだ。景能は、1210年に80余歳で亡くなっているが、遙かな時を経て、未だ余韻を残していた。驚きだ。
鷹匠橋
新湘南バイパスを越えると、寒川町に変わる。
東から合流する駒寄川のすぐ北に鷹匠橋が架かっている。この辺りは、水田と畑ばかりだったはずだがと記憶を辿る。いつの間にか、地番も「湘南みずき」に変わってしまった。真新しい家が、いかにも分譲地ですよと言うように、整然と並んでいる。
鷹匠橋の下流で、河川の大土木工事をしていた。重機が何台も川底に下り、土砂を掘り出している。川底に泥が溜まり、天井川になってくると、いくら高い堤防を築いても台風の大水から住宅を救えない。だから、冬の渇水期になると、この泥を掻き上げる。大住宅地は、潜在的な大災害地域だ。相模線の駒寄川橋脚の上流には、大遊水池が出来た。嘗ては、水田への大切な水源だったが、今や毎年繰り返す災害の疫病神に変身してしまった。
鷹匠橋から北を見ると、JR相模線のいかにも昔風の鉄橋が目立つ。流石に、この辺りは未だ田園風景が優勢だ。更に、大岡越前通りにかかる寺尾橋から北は、川幅が急に狭くなる。しかも、殆ど直線になる。水田の耕地整理と水路の改良工事の跡だろう。相模川の自然堤防と高座丘陵の河岸段丘の間を、小出川は静かに流れる。
いまからでは、寺尾橋~鷹匠橋の間が、古代繁栄の中心地だったとは、とても想像できない。縄文時代前期(6~7000年前)には、この辺りまで海が来ていた。寺尾橋東の台地からは、西方貝塚が発掘されている。更に、北陵高校の旧地には、高座郡衙があった。標高13m程の相模原台地の南端に当たる。更に、その南側の低地には、下寺尾七堂伽藍跡と言われる7世紀末(飛鳥時代後期)の遺跡がある。今では、広い場所が整地されて、説明板もおかれている。小出川の岸辺からは、船着き場の跡も発掘されている。今の小出川を見ていると、相模川を遡ってここまで舟が来たとは、とても想像できない。更に、ほぼ真西に相模川を越えた辺りには、四宮神社と神奈川県随一だったと言われる真土大塚山古墳跡がある。そして、その少し南の銀河大橋そばには、相模国府(大住)が比定されている。この辺りが当時の都会だったとは、どれほど想像しても、とても追いつかない。
凄く長いけど、ご興味あれば、七堂伽藍 を見て下さい。
さて、今日はここまでにしよう。次回は、郡衙を出発して、川に沿って只管北上したい。
201129 均茶庵
追記)230209 均茶庵
柳島の厳島神社近くで、「柳橋」の碑を見つけた。嘗て、松尾川を渡る唯一の橋だった。この辺で、在りし日の松尾川を思い偲ぶのは、殆ど不可能だ。一帯は、戸建ちと団地に覆われている。