地図を省略しています。こちらをクリック下さい。 茅ケ崎市地図(PDF版) 国土地理院地図
千の川の由来については、「小出川を走る(前編)」に書いたので、そちらを参照して頂きたい。又、「東海道五十三次 茅ヶ崎の段」もご覧頂きたい。重複する記事は、省略した。
僅か数kmしかないこの小さな川は、小出川・駒寄川とともに、茅ヶ崎市の母なる3河川の内の一つだ。市の真ん中を流れているため、街の影響をもの凄く受けている。下水道事業の充実に伴い、水は思いのほか透き通っているし、BODもビックリするほど低くなった。しかし、両岸をコンクリートでしっかりとガードした対戦車壕のようなたたずまいには、怯えを感じてしまう。この頃は、川底に土砂がたまり、植物が大分生えて来たから、川底を見ている限りそのおどろおどろしさは幾分和らぐが、ちょっと頭を上げると、自分が矮小な生き物に感じてしまう。その千の川は、どうしても相模湾を東西に走る砂丘を越えられず、並行して小出川に流れ込む。
明治とモリタ
東海道線の橋脚を過ぎてすぐの左岸が、千の川と小出川の合流点になる。丁度、神奈川県衛生研究所の南側だ。そのすぐ隣には、もの凄く大きな明治(株)の茅ヶ崎工場がある。「めいじ」と言えば、ヨーグルトとチョコレートを思い出すが、1963年創業のこの工場では壜装牛乳とヨーグルト製品を作っているそうだ。1970年の大阪万博の際に、日本初の本格的プレーンヨーグルトを作った。そう、あのブルガリアヨーグルトだ。対岸には、モリタ宮田工業の茅ヶ崎工場がある。銃器製造から始まり、自転車で世界を席巻した会社だ。残念ながら、自転車部門は台湾企業に売却され、いまではモリタの消火器製造工場となっている。
鳥井戸橋
この二つの大きな工場の角に、鳥井戸橋の交差点がある。嘗ては、大名勝地だった。東海道では、ここと吉原でしか左富士が見えない。今でも、工場の角から富士山がのぞいている。橋の北側に見上げるような大鳥居がある。参道をちょっと歩くと、湘南茅ヶ崎鎮守の鶴嶺八幡宮が鎮座する。1030年に源頼義が関東下向の際に、源氏として初めて勧請した八幡宮だそうだ。1063年に鎌倉に創建した鶴岡八幡宮よりも古い。
この八幡宮への参道入口の西側に、小さな碑が立っている。弁慶塚という。うっかりすると見落としてしまいそうな、小さな石碑だ。相模川の橋を架けた稲毛重成が、1198年に、落成供養をした。鎌倉第一代将軍源頼朝も参加した。供養が終わり、その帰り際、この辺りで頼朝が殺した源義経や源行家、及び、安徳天皇の霊が現れた。驚いた頼朝の乗馬が暴れ、頼朝は落馬してしまった。そして、翌年早々に死去する。後に、里人が義経などの霊を弔うため、塚を作ったという。ロータリークラブクラブと郷土会の説明板にはこう書いてあるが、何故弁慶塚と呼ぶのかについては、わからない。又、義経の霊を弔っているが、不幸な頼朝は、まるで構ってもらえない。
均茶庵は、北条政子が頼朝を暗殺したと、密かに思っている。若き頃は、駆け落ち同然に頼朝に嫁いだ政子だが、歳をとると、女は激変する。頼朝には、「高貴な血」しか評価できる物がないが、「貴族み~は~」の伊豆の田舎娘には、年取ってしまった貴種なぞもうなんの魅力も感じなくなっていただろう。
金と権力に狂った婆さんは、この後自分の子供も何もかもみな殺しにしてしまう。最後には、天朝を配流するという、日本の歴史上稀な逆賊行為に嵌まる。
ふふふふ・・・。亭主・子供みなごろし!!
頼朝の最後の地については、色々な説がある。均茶庵が住んでいる浜竹近くに、三浦藤沢信用金庫藤沢店がある。ここの駐車場前には、郷土史家大石静雄先生の「源頼朝落馬地」の説明板が立っている。南北朝時代の「保暦間記」の記事を引いて、事件の顛末を説明している。落馬地の「八的ケ原」は、ここに比定されるという。均茶庵は、鶏の素揚げで有名な居酒屋「めぐろ」に行くときに、この前を通る。常連の客が、『除幕式で挨拶したけれど、ここが本当に頼朝落馬の地かどうか、疑問?だね。』と言っていた。
その他にも、頼朝の最後については、色々な説がある。歌舞伎では、頼朝が夜這いをして塀を乗り越えたところ、警護の御家人に切られたことになっている。さらには、頼朝の馬が義経の霊に驚いて相模川に飛び込んだため、頼朝が溺れたとも伝える。相模川河口を「馬入川」と言うのは、この時に起こったと言う。
下町屋厄神大権現
ニトリ北に、ご存じでかまん菓子舗があるが、そのまま東海道を東へ進むと、直ぐ南側に立派な下町屋の神明神社を見る。平安時代に陰陽師安倍晴明が東国に下行した時に、清水が湧き出して、渇きを癒やした。「晴明井戸」と呼ばれる。今では、神社の入口に碑が立っているだけだ。こんな伝承を持っている旧村社だ。
境内には、「厄神大権現」を祀っている。元々厄病神だったが、逆に、厄除けに御利益があると昇華し、江戸末~明治期には大流行したそうだ。ここの社は、恐らく、本社である品川南大井の浜川神社から、分祀したのだろう。浜川神社は、江戸時代の修験者了善が創設し、11代将軍家斉の病気平癒をした事で有名だ。明治時代の神仏分離に伴い、修験道から神道に変わった。今では殆ど忘れ去られてしまった神様だが、当世のコロナ除けに復活はないのだろうか。茅ヶ崎の厄神4社については、「箸休め第26回 コロナの年 茅ヶ崎の厄神様」に特集したので、是非参照頂きたい。
神様という仕事は、見た目以上に大変なものだ。人々に祀られて初めて神様になる。祀られなくなると、もう神様ではなくなってしまう。そして、他所の神様の社の庇を借りて、知る人も無く細々と生きて行かなければならない。場所は寒川町になるが、例えば、相模国の一宮寒川神社は、土地の開拓神寒川比古命・比女命の二柱を主神として祀り、隆盛を誇っている。一方、境内の入り口には、末社宮山神社がある。宮山神社は、元々この地区の七社を合祀したものだ。1908年には、明治の一村一社令により、琴平社(神戸)、八剣社(八剣)、雷社(雷)、祢岐志(根岸)、若宮八幡社(朝日)が合祀され、継いで1914年には稲荷社(中州)、1969年には三峰社が合祀された。嘗ては皆立派なお屋敷を構えていたが、今では大物主・須佐之男・建御雷などなど錚々たる神々七柱が、アパート住まいのように、細々と同居している。未だ祀られているだけ、幸せだ。
サザン神社
祀られなくなる神社もあれば、新しく創設される神社もある。茅ヶ崎駅から南に延びるサザン通り商店街の中に、サザン神社がある。向かいのお茶屋さん山本園が管理をしている。2008年にサザンオールスターズが結成30年ライブを開いた際に、商店街の中の閉った店舗に創建したそうだ。サザンがデビューした6月25日に、例大祭があると言う。お札は、勿論330円(サザン)だ。
梅田中学校と小学校
川沿いに遡上しても、「街を歩く」という感じしか受けない。川沿いの狭い道をちゃりすると、思いの他歩行者に苦しむ。特に、高齢の方は、聞こえているのかいないのか、ベルを鳴らしても微動だにしないし、声をかけてもまるでだめだ。二人横になって歩いているから、そのままゆっくりと後に付いて行くしか無い。公害と言うか、あるいは、少数派のこちらが悪いと言うべきか。
梅田中学校と小学校の丁度角に当たる梅田橋には、洪水監視用のライブカメラが設置してある。千の川には、このほか千の川橋・新千の川橋・室田橋・富士見橋と合計6ケ所もある。あの小出川でさえ、新鶴嶺橋の一箇所にしかない。市内の千の川沿いが、いかに大水に脆弱か、物語っているような感じさえする。
尚、梅田橋と鳥井戸橋の間の千の川沿いは、昭和初めの頃、1.1kmにわたって桜の名所だった。「茶屋の下」と呼ばれていた。昭和3年(1928年)に植林したそうだ。しかし、太平洋戦争敗戦の後、燃料不足のため、全部切ってしまったそうだ。その後、復活していない。
Maruhaku TVから
茅ヶ崎駅前の前方後方墳
トピー工業とイオンに挟まれて、川沿いの道は消える。この先、茅ヶ崎駅へ伸びる中央通りまで、道は現れない。再び東邦チタニウムの長い工場の壁を見ながら、相模線を越える。
富永富士雄先生によると、茅ヶ崎駅の東、東海道線と相模線が丁度分れる辺りの地下に、大きな前方後円墳が隠れているそうだ。大集落の存在も想定されている。1940年の相模鉄道車庫脇線路施設工事の際に、長さ9mの石埻が発見されて、遺跡の存在が初めてわかった。古墳時代後期と推定されている。現在は、大部分が、相模線の線路の下に埋まっている。場所が場所のため、まだ本格的な発掘は行われていない。石神遺跡と呼ぶそうだ。
海前寺の車地蔵
本村の海前寺は、藤沢の宗賢院四世冷室長厳和尚が、天正19年(1591年)に開山した曹洞宗の古いお寺だ。元々本村円蔵寺の隣にあった小堂だったが、茅ヶ崎村の地頭丸毛権之丞が、祖先の菩提供養の為に創立した。延命地蔵菩薩を本尊としている。
山門脇の3体の地蔵の内、右手を車地蔵と呼んでいる。近くの殿藪の畑から移されたという。実はおどろおどろしい物語がある。
昔、おかの(あるいは「おかね」、あるいは「おいね」)という美人の娘が、殿藪に住んでいた。密かに、隣村の甚兵衛という若者と契っていたが、甚兵衛はおかのを裏切り、他の女と通じてしまった。おかのは、毎日嘆き悲しんでいたものの、甚兵衛の家に花嫁道具が持ち込まれるのを見て、遂に怒り狂ってしまった。そして、新婚の家に放火した。翌日放火犯として捉えられ、火あぶりの刑に処されたそうだ。処刑された場所は、後々畑になり、村人は獄門畑と呼んだ。その後、嫁入り道具をのせた大八車を引くおよねの姿が、夜な夜な見られた。キーキーと不気味な音が聞こえたり、怪しげな事件が次々と起こった。村人は、霊を恐れて、獄門畑に地蔵を勧請した。この地蔵を車地蔵と呼んだそうだ。但し、この事件は、記録に残っていない。
源流
さて、源流がどこか分からない。真っ直ぐ東に進むと、松林通りの室田橋で暗渠に入ってしまう。この先どうなっているのか、分からない。文献では、菱沼が水源地だとも言う。しかし、菱沼は住宅地化していて、もう菱も生えないし、沼もない。あるいは、高田から北上して、新湘南バイパスを越えると、赤羽根川と言う名前に変わり、最後には、スリーハンドレッドゴルフ場にたどり着くとの話があるが、確認していない。いくつかある支流あるいは本流は、菱沼・赤羽根・小和田の住宅街の間から断続的に顔を出し、そしてどこかに消えて行く。深追いはよそう。暗渠やコンクリート壁との戦いは、気分と健康に良くないし、均茶庵の密かな夢を壊すだけだ。
千の川と国道一号線の間からは、あちらこちらで奈良・平安時代の土師器や須恵器が見つかっている。浜之郷、本村居村遺跡そして、小和田池袋遺跡などからは、貞観年(800年代)の記載がある放生木簡や、帯金具が出土している。役人の居住場所と見られる建物跡も発掘された。千の川から小出川を通り水運を利用して、下寺尾官衙遺跡まで物資の輸送が行われたと考えられている。江戸時代も、盛んに水上交通が行われた。この時代には、豊かな水を湛えた川だった。そして、水運が途絶えたのは、つい最近の話だ。1922年の関東大震災で、湘南の地面が隆起し、相模川河口の柳島湊が陸地と化した。もう、舟も通れなくなったし、カヤックを下ろそうという元気も起こさせない。
201205 均茶庵