箸休め
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由緒:
1970年代に、均茶庵は1年間ほど藤沢市に住み、その後、埼玉県春日部市に移った。更に、1980年代には、再び藤沢市に戻った。この間、春日部市で初めて神棚を供えた。住まいが、初めて自前のものだった。神棚の主は、最初から均茶庵の守り神のべんてん様を考えていたので、ごく一般的な神明造とはしなかった。相応しい宮を色々探してみたが、最終的に「えびす宮」を採用した。その後、1993年に藤沢市のマンションから羽鳥の戸建に移り、更に、2010年には、羽鳥から現在の住まいである茅ヶ崎市へ移った。
勿論、この間「えびす宮」は、屋内に鎮座している。何しろ、狭い家で場所がないため、箪笥の上とかでご苦労を頂いた。現在は、ロフトの奥に収まっているが、家の作りから、方角などには無頓着になっている。ご容赦頂きたい。尤も、お参りするのは、均茶庵だけで、妻からも子ども達からも完全に無視されている。ご神体が何かは、取り敢えず伏せて置く。仮に、百カラットの💎としておこうか。
大切なのは、「信じる心」であって、「ご神体のお値段」ではない。
さて、茅ヶ崎市の家は、戸建なので、転居する前から庭に小さな池とべんてん堂を作ろうと考えていた。屋敷神だ。しかし、何分にも広さに限りがある。取り敢えず小さく作り、次第に拡張して行くことにした。そして、2011年2月に、遂に池と社が出来上がった。「べんてんの杜」と名付けた。材料の石は、馬入川の神川橋付近から運んできた。
その後の発展:
べんてんの杜は、事あるごとに拡張を続け、最盛期には、10を越す小池も出来た。石組みも、馬入川の凝灰岩だけではなく、丹沢河内川の片麻岩や白石滝の大理石を採集してきた。ちょっとした仕事だった。そして、2018年に、概ね現在の姿となった。
オリジナルのべんてんの杜
噴水も池の数以上設置した。地下にパイプを巡らせ、途中に圧力チェンバーを置くなど、工夫を凝らした。一切動力を使っていない。浴槽の水源から、サイフォンを通じて通水し、水の再利用と植物への散水の便を図っている。池の側に植えた柳は、直径が30cm近くなる大木となり、その他の草木も、しっかりと風情を作るようになっている。但し、池の数が多いと、パイプや池の清掃など維持管理が大変なため、今では7つに減らしている。
主社 と 巳
一時期金魚を放したが、何とアライグマに全部食べられてしまった。メダカも、もの凄い数に増えたかと思うと、突然全滅してしまった。その後は、人工的な生物放流を止めている。従って、夏場には蚊の天国となっている。一方、春先には、アズマヒキガエルが6~7匹ほどどこからかやってきて、喧しい鳴き声を立てる。「ライヤンくん」と名付けた。「地雷也」から名前を取った。2023年も、雨水(2月19日)に番いでやって来た。
そして、池が溢れんばかりに卵を産む。適当に間引きをしている。そうでもしないと、オタマジャクシが池からこぼれてしまう。アズマヒキガエルは、卵を産むと、いずかたにか消えて行く。そして、梅雨時には、ビックリするほどの子蛙が、旅立ちをする。但し、春に再び戻って来る数に、変りはない。
お社
べんてんの杜には、沢山のお社がある。一つずつ内容と由緒を紹介しよう。
① 主社:
べんてんの杜の中心となる社だ。均茶庵は、2009年4月に米国ノースカロライナ州の単身出稼ぎから帰国した。ノースカロライナ州に住んでいた時の、べんてん様のお住まいを、そのまま移転した。
米国では、神棚が手に入らない。従って、プラスチック製の小さなクリスマス飾りの家を、仮のお住まいとした。洋風の家だが、もしかすると、中国製かもしれない。ご神体が何かは、こちらも伏せて置く。現在では、かなり傷みが来ているが、そのまま池の前に鎮座願っている。尚、「巳」の置物は、2013年から鎮座している。
② べんてん社:
上記①と重複するが、べんてんの杜の創設にあたって、新たにべんてん社を作った。形は、竪穴式住居を模している。台風が来てもびくともしないほど、安定性が良い。ご神体としては、べんてんのフィギュアと高橋留美子画の絵を収めている。主社に代わる役割を担っている。お賽銭箱やお神酒は、こちらに用意している。
③ 寛山寺:
小池の列に面して、小さな社を作り、「寛山寺(かんさんじ)」と名付けた。中国蘇州の寒山寺に因んでいる。父の名も借りている。但し、作りは寺風ではない。楓橋夜泊の額もそなえようかと思ったが、ちょっと風情を壊すので、止した。
④ 五代山 均茶庵:
べんてんの杜の一番北側に、五代山均茶庵を作った。中国山西省の五代山にちなんでいる。尚、均茶庵は、〇〇家の五代目に当たる。その意味も含めて名付けた。
⑤ 池:
当初は、沢山の池を作り、それぞれに名前をつけた。好きなスローガンだ。2012年頃の最盛期には、下記の通り16の名前の池があった。
随遇而安 玩世不恭 江郎才尽 鸟迹鱼踪
とても管理できなくなっため、上記した通り、その後は7~8つに減らした。均茶庵が木に彫った「随遇而安 玩世不恭」の額が、玩池の後に残っている。噴水用のノズルは、各池に2~3個用意した。但し、こちらも維持管理が大変なので、現在では1池1ノズルとしている。
⑥ 前方後円墳:
2013年から2017年末頃まで、五代山均茶庵の前に、ちょと大きな前方後円墳を作っていた。南大阪旅行の際に、ふと気にいって、作った。しかし、雨風の浸食が厳しく、崩れてしまった。因みに、「百舌鳥・古市古墳群」は、2019年に世界文化遺産に指定された。
エピソード
べんてん様と均茶庵の間には、色々なエピソードがある。二件ほど紹介しよう。但し、個人的な話しにわたるので、詳細は割愛しよう。
・2002年、東京赤坂の街を歩いていると、ちょっと可愛い女の子が近寄ってきた。パンクな格好をしている。凄く目立つ。均茶庵は、思わず立ち止まった。目線があった。
『何してんのよ。さっさと決めなさいよ。あたし忙しいから、付き合っている暇ないし、自分でやってね。』そのまま、足早に通り過ぎて行った。『ん~、何のことだ。』しばらくボンヤリとしていた。
この後、ぎょっとする危機に遭遇したが、この出会いがヒントになり、乗り切ることができた。
・2007年、身の振り方に窮していた事があった。ボンヤリと、地下鉄国会議事堂前駅の構内に立っていた。すると、20才前後のちょっと小さめで可愛い、しかし、もの凄く格好いい子が、人混みの中から均茶庵に近づいて来た。ジーパンにブラウスという格好だった。どこかで会った事があるような気がする。思わず自分を指さして、『俺?』と聞いた。
『そうよ。ぼけっとしていないで。明日電話がかかってくるから、しっかり受けるのよ。あたし、忙しいから、これ以上面倒見て居られない。じゃあね。』そして翌日、思いも懸けない所から突然電話が架かってきた。全て解決した。
・その後、残念ながら、ここ10年以上、均茶庵の前にべんてん様は登場していない。以前は、もっと頻繁に現れた。歳をとると、緊張する事が無くなったのだろうか。あるいは、信心が薄れたためだろうか。
・2023年、3月に近所の丘を登っていた。海抜50~60mで、丁度散歩に向いている。しかし、どう言うわけか、突然意識を失って倒れてしまった。その際、後頭部を打ち、救急搬送された。結局、10日間ほど入院した。7月初めの検査まで、運動・お酒・その他諸々が自粛となった。まあ、未だ軽い後遺症が残っているし、家の中でぼんやりしているしかない。簡単な経緯は、下記をご参照乞う。箸休め番外編20 あし・ちゃり・ばす 及び、本編の 追記)230403 にも、しつこく書いてある。
薄らボンヤリとした頭で横たわっていると、とりとめの無い思いが次から次へとこみ上げる。約半年前の去年10月に、運転免許証を返納した。その理由は・・・、自分でもハッキリと説明できないが、突然決めた。今回の顛倒がもし愛用のホンダPS250だったら、今頃こんな文章を書いている均茶庵はいなかったろう。
『いい加減にしなさいよ。もう運転を止めなさいよ。』何かこんな風に、どこからか誰かに言われて、返納したような気もする。もしかすると、久しぶりにべんてん様が現れたのだろうか。
眠い。頭がぼんやりとしてきた。もしかすると、べんてん様が来るのかな。
追記)230505 均茶庵
高橋留美子のべんてん
追記)「浜竹 均茶庵 べんてんの杜」の拝観は、行っていない。
230216 均茶庵
追記) 230403 均茶庵
遂にやってしまった。2023年3月22日は、気温も暖かく、天気も良かった。均茶庵は、久しぶりに辻堂駅から赤羽根街道に沿って赤羽根丘陵の上まで歩いてみた。途中振り返ると、辻堂平野や江の島や相模湾を一望にできる。最高の気分だ。
約4~5kmあるいただろうか。赤羽根丘陵のほぼ頂上についた。そうは言っても、海抜はせいぜい50mくらいなものだ。「赤羽根あかばね」とは、「赤埴土あかはに」の転化した言葉だと、藤沢地名の会の藤沢市地名辞典にある。つまり、関東ローム層の厚い赤土の堆積層を指した。「埴土はに」とは、土・粘土・ローム層の事だ。
注)赤羽根丘陵は、茅ヶ崎市では最も古い約13万年前に堆積した下末吉層からなる。但し、最高地点でも、標高60mに過ぎない。相模川は、この頃宝積寺付近を流れていた。その後、どんどん西へ移っていった。
赤羽根丘陵から見る
突然、目の前がクラクラして、景色が朧になった。『これはいかん。』急いで道ばたの路肩に座ろうとした。しかし、そのまま意識を失ってしまった。次に気がついたのは、ストレッチャーに載せられて湘南藤沢徳洲会病院の廊下をCT検査室に運ばれる時だった。CTにセットされて暫く経つと、再び意識を失った。
「脳挫傷」と診断されて、3月31日まで10日間入院する事となった。医師の話では、赤羽根街道脇の歩道に気を失って倒れているところを通行人に発見され、消防署に連絡が行ったそうだ。そのまま、徳洲会病院まで救急搬送された。道で倒れて、後頭部を舗装道路で打ったらしい。後頭部に、黄色い跡がついていたそうだ。
毎日、痛みに苦しんだ。先ずは、額を一回りするような、丸で孫悟空の「緊箍児(きんこじ)」のように、頭を締め付けるような痛みがある。この痛みで眼が醒める。第二に、眼窩と後頭部の打撃を受けた場所を結ぶ痛みがある。第三に、脹ら脛がやや痺れ、時折痛む。ベッドから立ち上がるときに、後にひっくり返るのではないかと、ふと不安になるほどだ。そして、第四に、胃の吐き気がある。入院当日の22日には、2回吐いた。大きな声では言えないが、頭の痛みで、密かに涙も流した。
今後、街を歩行する時も、チャリヘルを被らなければならないのかな~。
それでも、10日間過ぎると、多少は和らいだ。勿論、後遺症は残っているが、涙が流れる程ではなくなった。脳味噌の壊れ方も、寸前の一歩で止まった感じだ。顛倒前後を除いて、記憶が残っている。不幸中の幸いだった。
どなたが消防署に通報してくれたのだろうか。守秘義務があるとの事で、お名前などは教えて貰えなかった。従って、申し訳ないが、お礼もできなかった。
僕は、絶対に「べんてん」様の化身が通報してくれたものと信じている。赤羽根自体は丘陵だから、べんてんの社はない。しかし、赤羽根丘陵の南側は、菱沼・甘沼・鵠沼などと呼ばれる古来からの湿地帯や沼地だ。必ずどこかに「べんてん」の祠や社があるはずだ。注)文献・地図・地形図などを色々さがしてみたが、結局はみつからなかった。しかし、「べんてん」様は、今や住宅地や田んぼに代わってしまったこの広い草原・湿地帯のどこかに、身を秘めているはずだ。大きな声では言えないが、周りに誰もいないことを確認してから、密かに一礼した。
注) 東京都北区赤羽根駅近くには、広く信仰を集めている「亀ケ池弁財天」がある。今では余り大きな池ではなくなってしまったが、「亀ケ池」と云う池の畔に坐している。
この僅か10日間に、東京株式市場は大幅に下落した。均茶庵が持っている株の内、オリックスと三菱銀行は、何と15%も安くなった。米国でSVBという銀行が破綻し、スイスではスイス銀行が危機に瀕したため、世界中の金融関係の株価が暴落したという。均茶庵も、まじめに評価損を出した。まあしかし、べんてん様のご恩に比べてみたら、ほんの僅かなものだ。騒ぐ程のことはない。値段も、その内戻るだろう。それに、儲かったって、どうせ20%も税金を取られて、キシダのぽっぽに入ってしまう。
病院に払った入院・治療費は、20万円余だった。何と、早速傷害保険から10万円の振り込みがあった。残りは、税の確定申告まで待てば良いだろう。要は、今回の事件は、お金の話で解消してはいけない。
この後、暫くは自重を続けなければいけない。又、歳を十分に認識して、行動しなければならない。先ずは、感謝と感激。そうだ。べんてん様は、均茶庵を見捨てていなかった!
均茶庵の信仰は、揺るぎない。
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それでは、旅に出てみよう。
運転免許証を返納してしまったが、チャリで回るには、手頃な距離だ。愛車は、ブリジストンXB-1 (2022年製の新車だ。)
社:
2. 小和田 熊野神社内
2.1 厳島神社及び石碑
2.2 弁才天 碑
3.1 厳島神社
3.2 石神弁天社
3.3 妙音弁才天
3.4 弁天石像
4. 柳島 厳島神社
寺
11.浜見平 宇賀神
12.小和田 広徳寺 宇賀神
その他:
14.中海岸 七福弁天庵
15.覚王山フルーツ大福弁財天
追記)230407 均茶庵
「临川四梦」という言葉がある。明代の劇作家 汤显祖が作った、「牡丹亭」「紫釵记」「邯郸记」「南柯记」の4戯曲を指す。最後の2つは超有名だから、皆さんご存知だろう。内容は、省略する。
「邯郸记」から
均茶庵は、退院して自宅に復帰したものの、非常に不幸な生活を送っている。未だ後遺症が完全に治っておらず、頭が痛くて、中々寝付けない。一方、寝付いたと思ったら、すぐ目が醒めてしまう。その結果、長編物で内容豊かな夢を見られずにいる。毎回の目覚めの時には、必ず夢をみているが、こんな健康状態の下では、非常に短く、且つ、幸せでない内容の話しばかりだ。人間「夢」を見られないことがこんなにも不幸なのかと、今回の経験を通じて初めて知った。「临川四梦」が復活するのは何時になるのだろうと、目覚めの度に考える。
世の中には、この頃「夢を見ない人」が結構増えているそうだ。きっと、凄く不幸せな人生を送っているのだろう。勝手にそう考えてしまう。