生まれ
「べんてん」は、遙か昔インドで生まれた。紀元前21世紀頃、イランからインドに侵入したアーリア人は、バラモン教を信仰した。紀元前5世紀頃には、バラモン教は、インドの民間宗教を取り入れて、ヒンズー教へと変化していった。ヒンズー教は、インドで次第に勢力を持ち、4~5世紀にはBC5世紀頃生まれた新興宗教の仏教を凌ぐようになった。
「べんてん」は、ヒンズー教では、「サラスバティー」と呼ぶ女神だ。元々は、聖なる川の化身とされた。更に、流れる物全ての女神に発展し、水の神のみならず、言葉・音楽の神にもなった。サラスバティーは、ヒンズー教の創造の神ブラフマーの妻でもある。インドでは、4本の腕を持ち、琵琶のような弦楽器を奏でている姿で描かれる。
手が四本
弁天への変身
5世紀の五胡十六国時代に、インドの僧である曇無識が、中国新疆にやって来た。曇無識は、インドの経典を412~421年頃漢訳して、「金光明経」とした。その中に、「大弁才天女品」があり、サラスバティーは、ここで中国の仏として変身を遂げた。ヒンズー教とは異なり、8本の手を持つことになる。しかも、その手には、弓・矢・刀・矛・斧・長杵・鉄輪・羂索(投げ縄)という8つの武器を持ち、戦いの神さまとして崇められた。悪の化身阿修羅をも撃退するという、強大な力を与えられた。
更に、唐の時代に、義浄が新たに「金光明最勝王経」として、漢訳した。
手が八本
日本への渡来
天平時代頃に、曇無識訳の「金光明経」が日本に伝わった。その後、義浄訳の「金光明最勝王経」が伝来した。聖武天皇は、「金光明最勝王経」を写経させ、741年に全国の国分寺に配布した。天平時代には、弁才天は専ら八臂で作られた。所が、平安時代以降になると、二臂の像が登場し、白衣をまとって琵琶を抱えた姿で描かれるようになる。戦闘神・財宝神・福徳神に、知識・芸術・学問の守護神としての性格が強く加わるようになる。
日本で、手が二本
頭の鳥居に注意!
八臂弁才天
二臂弁才天
本地垂迹
中国では、五胡十六国時代に、仏教の仏が中国の偉人に垂迹したとの説が起こった。同様の考えが日本にも起こり、あるいは、伝わり、7世紀後半の天武天皇の時代頃から、仏教の仏が日本の神々に垂迹したという説(仏と神は同一で、出現形が異なる)が行われるようになった。神と仏は同一であるとの解釈により、神に菩薩の号を付けるようにもなった。
弁才天に対しては、天台宗が、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の垂迹としたと言われている。姫命は、天照大神と素戔嗚尊が天真名井(あまのまない)で行った誓約(うけい)の際に、天照大神が素戔嗚尊の剣を噛んで吹き出した霧から生まれた宗像三女神 湍津姫命(たぎつひめのみこと)・田心姫命(たごりひめのみこと)の末娘である。
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
弁才天は、当初吉祥天と混同されることも多く、一緒に祀られる事が多かった。吉祥天は、ヒンズー教の女神ラクシュミーであり、ビシュヌ神の妃とされた。仏典では、功徳天とも訳されて、毘沙門天の妃とされる。吉祥天は、繁栄・幸運・美・富の代名詞とされ、美女として崇められた。サラスバティーと重複する特徴を持つ。
吉祥天は、奈良時代に大変信仰されたが、これと言った垂迹を得られなかった事もあり、次第に影が薄くなっていった。その特徴である「絶世の美女」「音楽・学芸の神」も、弁才天に吸収されてしまった。そして、弁才天は、「商売繁盛、芸能、金運、勝負、豊漁、交通安全、五穀豊穣、海の神」を独占した美女として、君臨する事になった。
吉祥天
性
弁才天は、本来女性、しかも、絶世の美女であったが、仏教の中でその性格さえ変えられた。LGBT化し、「両性具有」とされてしまった。曇無識の漢訳経が「大弁才天女品」とあるように、インドから中国に伝わった時点では、弁才天は「天女」だった。インドの女神ではごく普通だが、弁才天像は、仏教では珍しくも殆どがフルヌードあるいはセミヌードで表現される。腰部を布で覆っているに過ぎない。あるいは、江の島の妙音弁才天のように、陰部を全く隠していない像もある。
弁才天の両性具有化に伴い、性器を二種類持っているとも言われる。江の島の妙音弁才天も、そのような作りになっているという。しかし、残念ながら、均茶庵はまだ拝謁する栄に与っていないので、具体的な形までは知らない。
江の島下社では、両弁才天がショーケースの中に並んでいる。拝観料200円。八臂弁才天のみ、国の重要文化財ながら、二臂弁才天の人気の方が高い。
注)一説には、「ちんちん」ではなく、巨大な「栗とリス」だと言う。偉大な仏様にあっては、「粗ちん」であってはいけないので、道鏡にしなければならない。しかし、天狗でもあるまいし、そんなものをぶら下げている訳にも行かないという事らしい。坊主のやる事・考える事は、想像もつかない。
「道鏡は座るとひざが三つでき」 均茶庵は、寡聞にして、三つひざがある仏像を見た事がない。
習合
古来日本には、民間の穀物の神として、宇迦之御魂神(うかのみたま)が坐した。宇賀神とも呼ばれる。水田や川に住む蛇を、豊作の神として崇めたものとも言われる。蛇は、米の害獣である鼠を捕らえる。
この宇賀神が、天台宗によって教学に取り入れられて、弁才天と習合した。宇賀弁才天とも呼ばれている。人頭蛇身あるいは、頭上に翁や鳥居を載せていたりなどと、色々な形で表現されている。中国風の影響を受けて、蛇を龍と呼ぶ事もある。一風変わった姿の弁才天が生まれた。日本の弁才天像には、殆どが身辺に龍又は蛇の像を置いている。セットになっている。
平安時代末期に、大黒・えびす・弁才天の3神信仰が起こり、室町時代には七福神に発展した。中国の竹林の七賢人あるいは、渡海八仙人に倣ったものとも言われている。当初、吉祥天や天鈿女命(あめのうずめのみこと)が弁才天の代わりに数えられる事もあったが、江戸時代には弁才天で定着した。1475年の絵を最後に、天鈿女命が消えている。1799年の北斎の宝船では、現在と同じ組み合わせになっている。又、江戸中期に京都七福神巡りも始まった。
江戸時代には、財神信仰が一段と進み、「才」が「財」に変り、「弁才天」が「弁財天」と書かれるようにもなった。
注)中国では、7福神ではなく、8仙人「八仙过海」となる。弁天役の女神が一人おり、何仙姑と言う。完全な女神で、明代の呉元泰は、「唯有一女,手捧莲花,出尘绝艳(手に蓮の花を持った、もの凄くいい女)」と表現している。
注)日本最古の「都七福神」は、室町時代の京都が発祥とされている。都七福神事務局では、えびす神(えびす神社)、大黒天(松ヶ崎大黒天)、毘沙門天(東寺)、弁財天(六波羅蜜寺)、福禄寿神(赤山禅院)、寿老神(革堂)、布袋尊(万福寺)を指す。
神仏分離
明治維新に伴って、新政府から神仏分離令が出され、それまでの本地垂迹が否定された。社寺で渾然一体に祀られていた神と仏が、完全に分離され、社寺は「社」あるいは「寺」のどちらかを選択しなければならなくなった。弁財天は、神社系の市杵島姫命と寺系の弁財天のどちらかの名前及び社寺の別を選ぶ事になった。同時に、廃仏毀釈と言われる寺院・仏具の破壊運動も起こった。首が亡くなった石像あるいは削り取られた石碑などは、この運動の際に破壊された跡でもある。
弁財天については、その多くが市杵島姫命と名乗りを上げ、同時に、社寺名も日本三大弁天の一つである厳島神社に変更したという。
例えば、中井町の厳島神社の説明書きには、こんな風に記載されている。
「江戸時代は、「弁天様」と呼ばれたが、明治2年(1869年)厳島神社と改名された。祭神は、市杵島姫命・・・」
七福神巡り
第二次世界大戦前後の混乱時代に、七福神巡りが途絶えた社寺も多かった。しかし、日本経済の復興とともに、昭和50年頃(1970年代以降)から、次第に七福神巡りが復活した。あるいは、町興しの道具として、地域行政や商工会議所が周辺の社寺を組織し、七福神巡りが新たに作られた。
茅ヶ崎市で唯一の「小出七福神」は、平成10年(1998年)の創設だ。
時を同じくして、新しい衣装の七福神も生まれて、平成・令和の時代には、大盛況となっている。あたかも、大昔からの慣習のように振る舞う七福神も出てきた。
現在の姿
弁財天の歴史の中から、色々な形・名残が、像や寺社に見られる。
まず、弁財天が水の神という事で、水辺あるいは池の近くに祀られる事が多い。同時に、弁財天の像には、蛇・龍が描かれることが多い。これは、宇賀神との習合でもある。場合によっては、全く性格を異にする八大竜王と一緒になることもある。
八大竜王は、水中の主であり、古代インドではナーガと呼ばれ、半身半蛇の形だったが、法華経では、竜族の八王として登場する。尚、日本では、八大竜王は、時に一匹と認識されることも多い。
一方、十二支のように、「辰(竜)」と「巳(蛇)」が、はっきりと別物と認識されている場合もある。不思議な二刀流だ。
八大竜王の中の竜宮の王である沙竭羅竜王の三女を、空海が崇め奉って、市杵島姫命の垂迹になったとの説がある。竜王の三女は、善如竜王とも呼ばれ、8才の竜女だったが、824年淳和天皇の御代に、空海を助けて神泉苑に降臨し、祈雨の修法を成就したと伝わる。五尺ほどの蛇の頭に、五寸ほどの金色の蛇を載せていた姿で祭壇に出現した。
弁財天~宇賀神は、主に農業神として祀られるが、一方、八大竜王は漁業神として祀られるケースが殆どだ。江の島の伝説のように、八大竜王(1柱)が、海を荒れさせ悪事を働いていたが、江の島弁財天の美形に恋してしまい、弁財天の導きにより、遂には行いを改めて、守護神と化することもある。
善如竜王
従って、市杵島姫命、厳島神社、弁財天、宇賀神、蛇神、竜神、水神などについては、どのような性格を持っているのか、注意して見て行く必要がある。
礼拝
さて、弁財天は、神としての姿と仏としての姿が、両方ともにある。どのような形で礼拝して良いのか、大いに迷う。
均茶庵は、弁財天が神社として祀られている場合、あるいは、神社の境内に祀られている場合には、二拝二拍手一拝で礼拝する。一方、寺院あるいはその境内に祀られて居る場合には、静かに手を合わせて、心の中で、『おんそらそばてぃえいそわか』と唱える。印を結ぶと、ちょっとやり過ぎに感じるので、単に手を合わせるだけだ。但し、弁財天を礼拝する場合の公式な作法は、決まっていないようだ。
尚、神は「柱」で数え、仏は「尊」だが、弁財天に対しては、均茶庵は専ら「柱」を使う事にしている。宇賀神に対しては、その時々で、呼び方を変えている。
調査
茅ヶ崎市の弁財天及び石碑については、良く調査されている。【市史】【叢書】【報告】等にきれいにまとめて、発表されている。力を抜いた旅をする均茶庵にとっては、参考資料として大いなる助けだ。
230214 均茶庵
目次
それでは、旅に出てみよう。
社:
2. 小和田 熊野神社内
2.1 厳島神社及び石碑
2.2 弁才天 碑
3.1 厳島神社
3.2 石神弁天社
3.3 妙音弁才天
3.4 弁天石像
4. 柳島 厳島神社
寺
11.浜見平 宇賀神
12.小和田 広徳寺 宇賀神
その他:
14.中海岸 七福弁天庵
15.覚王山フルーツ大福弁財天