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均茶庵は、2010年から茅ヶ崎市の住民となった。茅ヶ崎市在住と言っても、自宅から東に10m程歩くと藤沢市になってしまう。両市の丁度境目に位置する。だから、茅ヶ崎市図書館よりも、藤沢市辻堂図書館の方を遙かに利用している。歩いて5分もかかからない。茅ヶ崎市の住民になる前は、外国に住んだり戻ったりを何度か繰り返したものの、1993年から藤沢市に住んでいた。それも、茅ヶ崎市に近い藤沢市で、最寄りのJRは、藤沢市に属する辻堂駅だった。茅ヶ崎市住人になった今でも変わらない。湘南暮らしは、もう27年目になる。(正確には、内8年間は外国で単身暮らし。)生まれ故郷の栃木県より長くなった
藤沢市には、象徴的な二級河川が二つ、ほぼ南北に流れている。西側が、長さ21.3kmの引地川で、東側が長さ52.1kmの境川だ。(海に出るあたりは、片瀬川とも呼んでいる。)一見小さな川だが、昭和の御代までは、台風がやってくるとしょっちゅう決壊していたそうだ。今では下流域に住宅地が密集するようになったため、立派な堤防と遊水池が出来上がって、洪水は昔話になってしまった。
家から近い事もあり、季節が良いと、均茶庵は愛用の宮田Folio 1996年製で、川沿いにちゃりをする。どちらの川沿いにも、ちゃり・歩行者専用道路が整備されている。春は桜、初夏は藤、そして、秋~冬は、田園風景と飽きる事がない。この専用道路を走っているちゃりも、ロードツーリング用の高級車から、ママチャリまで様々だ。普段は2003年に完成した引地川親水公園で7-11のおむすびを食べて、そのまま海岸そばの鵠沼マクドナルドまで走り、100円コーヒーでのんびりとする。ところが、ある日ふと思いついた。引地川をそのまま北の方へ上っていったら、何処につくのだろうか。
いつもは余り通らないコースを、海への出口の鵠沼橋から北に向かって出発した。1932年に最初に架けられた古い橋だが、何と、1990年の台風20号で流されてしまったそうだ。平成の話だ。だから、今の橋は新しく見える。この橋のたもとに、聶耳の記念碑がある。ご存じ無い人も多いだろうが、中国国歌の「義勇軍行進曲」(中国名は、「义勇军进行曲」。日本語では、行進だが、中国語では、進行だ。)は、獄中の田漢が作詞し、聶耳が日本で作曲した。しかし、1932年に鵠沼海岸で溺死してしまった。23歳の時だった。直ぐそばの江ノ島に参拝する中国人は多いが、この碑の前ではまるで見かけない。それにしても、聶耳とは、耳ばかりの名前だ。長生きしたら、絶対に「みみが~」とあだ名されただろう。田漢の詩は、「起来。不愿做奴隶的人们」と続く。1978~1982の一時期は、歌詞が「高举毛泽东旗帜」等と変えられていた。よその国の国歌だからコメントは避けるが、正直言って、聞いていて気分の良い歌ではない。
この辺りは、馬入川(相模川河口)と並んで、シラスウナギの名産地だった。今では漁をする姿を見かけない。もう回遊しなくなってしまったのだろうか。この辺の名産は、ウナギが落ちた、ただのシラス(片口鰯の赤ちゃん)に変わってしまった。ご存じ釜揚げだ。
Macの100円コーヒーを飲みおわると、鵠沼橋のたもとの消防署から、引地川緑道に入る 。
海岸側には、立派なスケボーパークがある。本格的なパークは、日本では珍しい。
ほんのちょっと走ると、右岸に鵠南小学校がある。何時の頃からか、この辺で子供達のカヤックの練習が始まった。中には、レーシング艇もあるから、初心者だけではなく、競技に出ている子もいるようだ。但し、時間帯によっては、海からの風が強い。それに、河口から海に出ようとすると、ちょっとした波を越えなければならない。カヤックは、背中から波を受けると、直ぐに横を向いてしまい、そのまま「沈」をする。だから、川は海から帰って来る時の方が、出て行く時よりも、はるかに難しい。ロールの技術があれば良いが(注:沈したカヤックを、体を捩って、そのまま起き上がる技術)、そうでなければ、海に近づくのはお薦めしない。遊歩道は、この辺りから海に向かう人の波にもぶつかることになる。
川沿いの八部野球場や長久保公園緑化植物園を見ながら、JR東海道線下に潜る。この辺りから、引地川親水公園まで、春は桜の名所となる。その他の季節は、川の亀の甲羅干しと大きな鯉が目を休ませてくれる。八部は、何と「はっぺ」と発音する。昔の田舎藤沢海岸を彷彿とさせるような音だ。JR東海道線下を過ぎた所に、TVKハウジングプラザのショールームがあるが、このあたりは、時々猛スピードの対抗ちゃりが走ってくる。OGK付きアシスト自転車を漕ぐおばさんだ。ヒヤリとする最注意地点だ。ご参考までに、ハウジングプラザの一番南側に、銀装の工場がある。ここの併設の喫茶店でカステラを食べると、余りの満足感に、この先もうちゃりが出来なくなる。
銀装は、元々関西の会社だ。明治33年(1900年)に長崎で創業した文明堂から、昭和27年(1952年)に暖簾分けをして、心斎橋に店を構えた。昭和36年(1961年)に、「紙の缶詰」という名前で長期保存方法の特許をとってから、一躍全日本ブランドに飛躍した。湘南に住んでいると、いつの間にか地元のカステラ屋さんかと思い込んでしまう。
JRの南側には、パナソニックの大きな工場があった。今では、湘南T-siteと呼ぶ大住宅地に変わった。一体何軒あるのだろうか。蔦屋を中心に、いろんなショッピングも入居している。いつ行っても、人がいる。そして、JRの北側には、2003年に、日本電池工場跡地に湘南フィルモールも出来た。余り大きくないが、辻堂駅近くに出来た最初のモールだ。藤沢に住んでいた時には、すぐ近くだったので、結構お世話になった。モールができてから、近くにあったスーパーが次々と閉店し、あるいは、経営者が変わって出直した。この世界の競争と移り変わりは、激しい。部外者の均茶庵には、とても理解できない世界だ。
東海道一号線を越えると、柏山公園に厳島千人力弁天社が鎮座している。何故か江ノ島の江島弁天社の分社ではない。地元での信仰が厚い。社殿が弁天池に囲まれていて、橋がかかっている。均茶庵はこの神社が大好きだが、藤沢七福神からは漏れている。江ノ島弁天との競争では、仕方あるまい。それに、2019年の台風で大破し、今は立ち入り禁止のロープが張ってある。修理する費用がないのだろうか。Jumboが当たったら均茶庵も力を貸せるが、今は篤志家が現れる事をただ祈るだけだ。
直ぐ近くの舌状台地に、扇谷上杉氏の名城「大庭城」がある。柏山公園のあたりが、城の搦め手だったそうだ。ここを堰き止めると、引地川とそこに流れ込む小出川の水が水田に溜まり、巨大な池となって、防御の役割を担ったそうだ。今では小さな流れだが、この小井出川の氾濫に、付近の人は大いに苦しんだそうだ。現在は、引地川親水公園が遊水池の役割を担い、洪水の心配は無くなった。二つの川が合流する場所にある舟地蔵は、舟の上に地蔵菩薩が乗っている。北条早雲が大庭城を攻めたときの悲しい話を伝えている。あるいは、この辺りが常に洪水に見舞われたから、舟で避難している姿とも、三途の川を渡る時の舟を表現しているとも、色々な説がある。この辺りは、藤沢の隠れた名所となっている。
引地川の左岸、丁度大庭城の対面に、大庭神社がある。荏原製作所の真下になる。大庭三郎景親とともに、菅原道真を祀っており、天神様とも呼ばれている。相模国には927年の神名帳による式内社が13社あるが、その一つに擬せられている古い神社だ。階段を上がると、関東大震災で倒れた鳥居の跡が残っている。引地川左岸の要衝を扼すると言って良いだろうか。神社に上って、目の前に広がる水田を一望すると、その思いがこみ上げる。鎌倉古道上道は、ここから近い。但し、社伝がなく、詳細は分からない。
いよいよ石川に入る。鍛治山~石川は、縄文遺跡が多い。藤沢市最大の古代住居跡 南鍛冶山遺跡は、ここにある。昔、湘南考古学同好会にくっついて、この辺を歩いたし、発掘現場も沢山見学させていただいた。1979年に設立された会は、湘南地域で有数の考古学研究者の集まりだ。今でも、見学会への一般参加者が多いそうだ。
石川の丁度真ん中あたりの台地上に、佐波神社がある。大きな神社で、長い参道を歩くと、厳かな気持ちになる。「さば」という名の神社は、湘南に12社あるが、石川佐波神社だけが引地川の右岸にある。その他は、境川を挟んで、又、境川にそって分布している。「さば」は、佐波の他、左馬、佐馬、鯖などとも書く。いずれも、源義朝あるいは源満仲(3社のみ)を祀っている。中には、祠だけが残っている神社もあるが、この石川佐波神社は規模と言いその信仰の厚さと言い圧巻だ。源義朝が左馬頭(さまのかみ)だったことから、「さば」の名前が起こったという。
石川佐波神社は、後北条氏に封じられた石川六人衆(西山、内嶋、佐川、田城、市川、伊沢)に依って奉じられたそうだ。1611年創建と伝えられている。石川付近には、六人衆に因んだ地名や家名が、沢山残っている。
湘南考古学同好会誌に、さば神社についての論考が載っていた。均茶庵は、この論考を切り抜いて大切に取っておいたが、どこにしまったのか忘れてしまった。年老いると言う事は、記憶力もどこかに消えてしまう事だ。悲しいものだ。しかし、幸いなことに、江本好一の「源義朝を祀るサバ神社その謎に迫る」(2000.11)が、藤沢図書館にあった。いずれ、「境川を走る」も書こうと思っているので、詳しくはそちらに譲りたい。
この辺までちゃりすると、結構疲れる。ちゃり道路も消えてしまい、一般道を走ることになる。車は多くないが、そんなによそ見しながら走るわけには行かなくなる。左岸に多摩大学湘南キャンパスを見る。きれいな建物が並ぶ。グローバルスタディ学部があるそうだが、何を教えているのかは、良くわからない。学問は、お洒落な名前になった。取りあえずは、交通の要衝となって大発展中の湘南台駅に入り、コーヒー休みとする。藤沢市総合図書館を始めとして、台地が今では藤沢の文化の中心地に変わった。昔の風景を知っている均茶庵には、この大変化がまるで夢のように思える。ちなみに、河口を除いて、引地川と境川の距離が、一番近いのもこの辺りだ。
さて、一休みを終えて、引地川左岸まで戻ると、円行公園を過ぎる。この公園から八部公園までは、「引地川・フジ史跡ロード」と名前がついている。藤沢市の花が「フジ」のため、市が藤棚を整備した。桜が終わった5月頃には、見事な花を咲かせる。老人は、このベストシーズンに、徘徊する絶妙の理由を見つけ出す。このロードは、いつ頃できたのだろうか。お金持ちの市だ。いつの間にか、公園がどんどん整備されている。
もう大分上流までやって来た。蓼川と合流する。ここで六会橋を渡って大きく右へ迂回しないと、引地川からどんどん遠ざかってしまう。大和市のこの辺りは、道が複雑になっている。川もどんどん細くなる。一生懸命引地川の橋の数を数えた人がいる。水管橋等もいれて、源流まで合計122橋あるそうだ。橋の写真を全部撮って歩いた人もいる。
そして、遂に西側にどこまでも続くフェンスが見えるようになる。米海軍の厚木航空基地と海上自衛隊厚木航空基地だ。嘗て、占領軍のマッカーサーはここに降り立った。2,400mの滑走路を持っている。ここから、自衛隊の第四航空群は、硫黄島や南鳥島までパトロールにでかける。茅ヶ崎の上空を、自衛隊の最新鋭対潜哨戒機川崎P-1Aが飛んで行く。2017年8月に米国ロッキード製P-3Cから切り替わった。2018年12月には、韓国駆逐艦「広開土王」から火器管制レーダーの照射を受けたことで、大きな記事になった。その時の自衛隊の冷静な対応は、賞賛を得ている。
P-1Aは、もの凄く静かな飛行機だ。すぐ頭の上まで来ないと、まるで音が聞こえない。ヘリコプターの騒音の方が、遙かにけたたましい。米軍のMH-60Sゴールデン・ファルコンズだろうか。あるいは、MH-60Rセイバー・ホークスだろうか。良く分らない。どちらも低空を飛んで行くから、機影がはっきりと見える。
詳しくは、「ビッグコミック」を。
横須賀にいる米軍第五空母航空団あるいは、USS Ronald Reaganからの艦載機も、頻繁に飛んでくる。茅ヶ崎の上空を、ほとんどひっきりなしにボーイングF/A-18E/Fホーネットが飛んで行く。ボーイングEA-18GシャドーホークスやグラマンE-2Dタイガーティルズを見る事もある。プロペラを回しているのは、グラマンC-2Aグレイハウンドだと思う。均茶庵家の濡れ縁で、ぼんやりとコーヒーを飲みながら、あれは何だとみていると、飽きが来ない。賛否はあるが、日本防衛の要だ。又、首都東京への、米軍の威圧だ。
遂に東名高速まで来た。ちょっとややこしい迂回をしながら、大和市の泉の森に入る。この公園のど真ん中を、国道246が通っている。堰堤を過ぎると、引地川はまるで池のようになる。しらかしの池と名前がついている。池の隣には、釣り堀もある。自転車を置き、一番奥の大池まで歩く。「泉の森 引地川水源地」の銘板がある。遂に到着した。よくぞまあこんな町の真ん中にと思う場所に、水源があった。この先は、大和市の水道の水源地となっているため、入場できない。だから、本当の水源までは、たどり着けない。亀甲山という山の奥に、水の湧き出る場所があるそうだ。
国道246号橋(笹山高架橋)の先の、水源入口にある人道橋が、海から数えた122番橋というか、水源から数えた1号橋になる。国道246のちょっと南側に、「緑のかけ橋」という名前の大きな吊り橋がある。大和市100年を記念して架けられたそうだ。この下の広場からは、子供達の声がひっきりなしに聞こえる。この橋が、河口から21.1kmに当たるそうだ。水源からの1号橋としたいが、橋のプロの目ではそうは行かないようだ。
公園のすぐ東に、小田急線の大和駅がある。ここで、宮田Folioを折り畳み、輪行袋にしまう。今日の旅は、ここで終わった。充実した時間が過ぎ去り、気だるさと藤沢駅までのほんの僅かなうたた寝に至上の幸せを感じる。
200810 均茶庵
注)均茶庵が自分で撮ったデジカメ写真よりも、はるかに立派できれいな写真が、Webを飾っている。そこで、思い切って自分の写真を最小限とし、Webの芸術からお借りした。
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