ちょっと下がるが、1911年(明治44年)には、安田篤が『植物学名論、隠花部』を出した。この書に到り、当時判明していた日本産の主なものには、殆ど総て和名が付けられた事になる。当書は、「第十一編苔蕨部」の下に「第一章地銭門 一名苔門、第二章土馬騣門 一名蘚門」を置いている。ここでは、現代蘚苔類学の意味での、「蘚苔」「蘚」「苔」の定義が完成した。
1908年(明治41年)になると、岡村周諦が『植物学雑誌』上で、『日本産蘚苔類研究報告』を発表している。既に、蘚苔の名称が定着していたようだ。タチチョウチンゴケOrthomniopsis japonica(現在の、Orthomnion dilatatum)の同定を報告している。
『日本植物学百年の歩み』の中で、井上は、岡村周諦が1911年(明治44年)に発表した『日本産セン類フロラの新知見』を評して、「日本における蘚苔研究が(植物学の中から)独立した」と言っている。
岡村周諦が島津製作所から1911年(明治44年)に『蘚苔品彙』第一輯を出版している。本文中に、「本品彙は日本産蘚苔類を輯集添付して一覧に便し・・・」とある。コケの標本を添付するとともに、その名称・概要を記述した、標本集的な本だ。
大正に入ると、1916年(大正5年)には、サイエンス6巻『日本産蘚苔植物科属検索表』を、岡村周諦が発表している。完全に「蘚苔」の時代に入っている。但し、1932年発行の「岩波講座生物学」では、岡村周諦が「苔蘚類」の題名を使用している。なぜ「苔蘚」の名前を復活させているのか、分からない。
以上の事から、「蘚苔」「苔」「蘚」と言う言葉は、中国語の「苔蘚」の名称を借用した上で、新しい定義を与えられ、明治中期には定義が明確化され、遅くとも明治末期までに一般化していたと考えて、ほぼ間違いないようだ。
さて本題に戻ろう。それでは一体何故、日本では蘚苔類で中国では苔蘚類なのだろうか。一般的になるが、荒川清秀(1997)の『近代日中学術用語の形成と伝播』の意見が参考になろう。
「(二字漢語の字順転倒は、)幕末明治初期に、洋書和訳作業の必要に応じて、日本の洋学者たちが中国語の古典や漢訳書から既存語を取り入れ、意味を変えずに字順だけを転倒させ、新造訳語として使い始めた可能性が高い。」
又、鈴木丹士郎(1986)は、『二字漢語の字順について』で、「(明治初期は、)字順を入れ替えただけで意味が殆ど同じ二字漢語がさかんにおこなわれた。」と言っている。つまり、この時期は、従来の漢語から字順を転倒させることに、あまり抵抗がなかったようだ。和漢の字順転倒についての論文は、コーパスを駆使した研究も含め、日中ともに多い。詳細は、省略する。
似たような例は、他の種にもある。久保は、『地衣の名物学的研究』の中の『苔と蘚がさすもの』で、「日本における地衣草及び地衣の認識は、19世紀初頭を境に、セン綱植物(Musci)を指す名称になった。{筆者注:センタイか。}」と言っている。同時に、「蘚と苔は、ともに実態のはっきりしない植物名をさしていた。」とも指摘している。
更に、久保の『Lichenはいかにして地衣と翻訳されたか』によると、蘚苔類と長年意味が混淆して来た「地衣」は、伊藤圭介が1829年にLichenの意味として初めて定義したそうだ。そして、佐藤正巳(1932)は、「地衣なる語は明治5年を界として古い意味を捨てて更生した」と言っている。名と物は、時の必要に応じて入れ替わる。
上野によれば、「本草」とは、「薬の本となる草」の意味で、BC970~BC31の間に新しく呼ばれた名称だった。「多くの薬物の中で草類が最も多いので、本草と呼ばれるようになったのである。」歴史上の本草学の認識であれば、薬になるかならないかが最大の課題であり、草が何の植物かは、どちらかと言うと、二の次だった。
歴代の本草家は、「苔」がコケ一般を指すと同時に、蘚苔類、地衣類、海藻(海苔など)、菌類、時には顕花植物の一部を全般的に指す言葉として認識していた。これは、ごく自然な事だった。湿った場所あるいは水中に生える薄べったい物が、「苔」共通点だった。従って、「苔」がコケ植物全体をさすと同時に、MossとLiverwortの新しい概念が西欧から紹介された時に、「苔」とLiverwortが結びつく可能性は大きかった筈だ。
当時、日本語のコケを著わす中国語は、「苔蘚」だった。日本で従来と異なった意味を持つ苔蘚の概念が生まれかけていたのなら、上記のように苔がまずLiverwortに結びつき、その結果、Mossが蘚に当てられた可能性は、十分大きかったと思える
江戸末から明治初めには、スエーデンのThunbergやフランスのFaurieなど、著名な研究者が日本にやって来た。そして、たくさんの文献をもたらした。日本における初期的な蘚苔類研究も、やっと始まった。井上は、1883年(明治16年)以前を、「日本の蘚苔学上の黎明期」としている。そして、これに続き、日本人研究者が活躍を始めた、特に岡村周諦が活動を開始した明治40年頃までを、「萌芽期」と呼んでいる。これ以降、明治末~大正・昭和初期を、「成長期」としている。
こんな時代に、招来された図鑑や説明は、Moss→Liverwortの順に並んでいたのだろう。例えば、独のLindenbergは、1846年に『Musci et Hepatici』(Moss & Liverwort)を著わしている。今でも、Moss→Liverwortの順番が世界標準になっている。洋書を日本に紹介する際にも、この順に従っている。蘚をMossに、苔をLiverwortに当てた結果、中国語の「苔蘚」から変化した日本語の「蘚苔」が、新たな学問としてのコケ類の名義として生まれたと考えるのが、一番自然なのではないだろうか。
中国の図鑑は、国際標準と異なり、Liverwort→Mossの順で表示している。中国では、日本式の呼称を採用せずに、苔蘚類と呼んでいる。つまり、図鑑の順序は、中国語の順序に従い、日本語の順序とは逆になっている。「生物学的に、苔の方が蘚よりも早く発生したから、この順番が正しい。」と言う説明を聞いた事もあるが、ちょっと無理筋だろう。苔は蘚より先に生まれたと、つい最近DNA分析で分ったばかりだ。
更に言えば、今まで見てきたように、現在の蘚・苔の定義は、中国起源ではない。1061年の劉禹錫『嘉佑本草』や1596年の李時珍『本草綱目』に、既に「瓦苔・瓦蘚」という言葉が現れている。しかし、百度百科によれば、中国の近代蘚苔学の父 陳邦傑は、1952年の著書『苔和藓名称考订与商榷』で、これまでの文献・資料等をまとめて、蘚類をMusci(=Moss)、苔類をHepaticae(=Liverwort)と初めて定義したそうだ。これは、第二次世界大戦後の話であり、ごく最近の事だ。それまで、中国には本草学を越えたコケ類の認識は存在しなかった。
さて、誰を日本の命名者と考えたら良いのだろうか。推論は、各位にお任せしたい。
追記)
安藤久次「コケのシンボリズム」(1990)の一部、引用。
さて「苔」、「蘚」は、中国の詩や物語に現れる場合、漠然とこけ類(Bryophyta)を指していることが多い、しかし植物学用語としては、以前は、茎と葉の別があって普通に立って生じているセン類(Musci)に「苔」の字を当て、葉状体をなすか、茎と葉が文化していても体が平坦で、はっていることが多いタイ類(Hepaticae, ツノゴケ類を含む)に「蘚」を用いるのが普通であった。このことは、先に述べた『大字典』にある「成片者蘚」の説明に一致している。ところが最近の中国の植物学書を見ると、意味が入れ替わって、日本と同じようにタイ類に「苔」を、セン類に「蘚」の字を用いている。そして、コケ類全体を「蘚苔植物」ではなく「苔蘚植物」と呼んでいる。このように蘚と苔の意味が逆転する問題について、「“こけ”と云ふことば」を論じた服部新佐博士(1956)は、「範を我が国に採った逆輸入かもしれない」と述べている。一方、」同じ中国でも台湾では、文字の用法について保守的で、本国で創られた簡体字を用いず、コケ類の表記にも、「苔」をセン類に、「蘚」をタイ類に当てる旧来の用法を採っている。
均茶庵は、「台湾苔類植物彩色図鑑 Moss of Taiwan」蒋鎮宇・他(2016)と、「中国高等植物 第一卷」吴鹏程・他(2012)を比べてみた。
Macromitrium: 台湾:衰苔 本土:衰蘚
Lejeunea: 台湾:細鱗蘚 本土:細鱗苔
但し、最近の文章では、台湾も日本式(本土と同じ)に変わってきているようだ。
200730 均茶庵
安藤久次(広島大学)「コケのシンボリズム」(1990~1994)全文のリンク
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