4.1 南郷力丸
『さてどんじりに控えしは、・・・・・覚悟はかねて鴫立沢、しかし哀れは身にしらぬ、念仏嫌ぇな南郷力丸。』ご存じ二代目河竹黙阿弥の歌舞伎「白浪五人男」だ。文久年(1862)江戸市村座の初演で、大ヒットとなった。この南郷力丸は、南湖の出で、本名を南宮行力丸という。屋号を「新網」という網元のドラ息子だったそうだ。
「新網」木村家には子供がいなかったため、江ノ島岩本院から里子を預かっていた。岩本院は、ご存じ『さてその次は江ノ島の、岩本院の稚児上がり、・・・島に育ってその名さえ、弁天小僧菊之助。』の弁天小僧ゆかりの場所だ。何と、神奈川県から半グレが二人でている。
さて、木村さんは、里子を預かったものの、どうしても実子が欲しいということで、藤沢の遊行寺に月参りの祈願をしたところ、満願の日に境内で捨て子を見つけた。これは仏様の思し召しと、家に連れ帰って養育したのが、南宮力行丸だと言う。力丸は、日本駄右衛門の下で数々の悪事をした後、享保6年(1721年)に、鈴ヶ森刑場で処刑された。
大正6年(1917)になってから、力丸の子孫にあたる木村留五郎さんが、南湖上町に石塔を建てたそうだ。翌年、西運寺に移された。若くして刑場に死んだ南郷力丸にも、子孫がいたのだと、ちょっと驚く。あるいは、岩本院の里子が跡を継いだのだろうか。力丸の墓には、地元の名士熊沢さんの名前の卒塔婆があがっていた。
南湖通りに、大正時代創業の「御菓子処やくも」がある。八雲神社の参道入口の所だ。ここでは、柿ようかんや月見まんじゅうなどと一緒に、「力丸もなか」を売っている。又、茅ヶ崎駅前の十一屋水澤商店では、米焼酎の「南郷力丸」を売っている。江戸時代に創業して、昭和27年(1952)年に現在地に移転したそうだ。ここの米焼酎は、モンドセレクションで金賞を取ったこともある。一度試して欲しい。
4.2 お十夜
いくら何でも、南郷力丸の話だけでは、慶長元年(1596)創建の名刹西運寺に失礼だろう。浄土宗で阿弥陀如来が本尊だ。元々は、三橋家と加藤家が建立した観音堂だったそうだが、開基の西光寺(赤羽根)の念誉上人が寺に改めた。観音堂は、本堂のすぐ隣にあり、菩薩像は聖徳太子の御作と伝えている。10月7日~9日に「南湖のお十夜」と呼ばれた十夜会が開かれる。室町時代の永享年間(1429~1441)に、弥陀報恩を京都真如堂で始めたのが広まったと言う。南湖でも、観音堂の創立の頃は、疫病が流行した上、何度も大火が起こり、沢山の人が亡くなった。
嘗ては盛大な法要で、近郷近在から沢山の人があつまり、境内はぎっしりと人で埋まったそうだ。露天・植木店・芝居・見世物などのテント小屋が並んだそうだ。とりわけ、サーカスの「美しき天然」が、一帯に鳴り響いたという。ご参考までに、明治35年(1902)海軍軍学長田中穂積作曲のこの曲は、サーカスの別名ともなり、哀愁を帯びたメロディーが一世風靡した。残念ながら、この喧噪も哀愁の音楽も、今は昔となった。お寺の境内は、墓だけが目立ち、もうテント小屋を建てる場所はない。
高野山真言宗の寺院で、不動明王を本尊としている。「新編相模国風土記稿」では、平安~鎌倉時代の文覚上人(1139~1203)の創建としている。寺内には、文覚作と伝わる地蔵菩薩と十一面観音像及び弘法大師像を安置している。しかし、寺伝では、天和2年(1682)朝海の開山と伝えている。
当寺は、閻魔堂が有名で、1月16日と8月16日の「地獄の釜蓋開け」の日に、ご開帳をしている。この日は、地獄の鬼も公休日となる。近郷近在から多くの人が集まって、昭和34~35年(1959~1960)頃まで大変賑わったそうだ。墓地を除くと、今は境内が狭く、そんなに沢山の人が入れない。祭りを偲ぶ縁はない。
5.1 茅ヶ崎町役場
明治に入って茅ヶ崎の行政が整うまで、当寺は大きな役割を担った。明治22年(1889)年、町村制施行により、新制茅ヶ崎が成立し、その後、明治41年(1908)年には茅ヶ崎町となった。そして、最初の役場は、明治44年(1911)に梅田に移転するまで、短い期間だが、金剛院に置かれていた。
5.2 学校と幼稚園
又、明治6年(1873)には、初めての学校琢章学舎が、教員1名生徒50名で、寺院内に開校した。明治7年(1874)には、公立茅ヶ崎学校と改称した。ここには、悲しい話もある。第二代教師の若松幹男が就任し、明治9年(1876)に学年試験を行ったところ、13名が落第してしまった。若松は、その責任を取り、割腹自殺を遂げたという。享年35歳だった。その後、明治13年(1980)に、小笠原東陽の筆になる墓碑が建立された。今でも境内に残る。但し、割腹の経緯については、記されていない。茅ヶ崎ロータリークラブの説明板が無ければ、何故寺の入口脇に墓があるのか、理解できない。落第した子供達は、その後どうなったのだろう。ロータリークラブは、教えてくれない。
又、変わった所では、昭和の初年に、住職の真柴憲量が初めて茅ヶ崎幼稚学園を、院内に創設した。園児は、100名いたそうだ。但し、昭和10年(1935)には、閉鎖された。
5.3 芭蕉の句碑
付け足しのようで恐縮だが、そう言えば芭蕉の句碑もあった。「父母のしきりにこひし雉子の声」この句は、貞享5年(1688)に、芭蕉が高野山で雉子の声を聞いて、今は亡き父母を思う気持ちを詠った句だ。金剛院とどんな因縁があるのだろうか。そう言えば、川崎大師にも、同じ句碑があったような気がするが。
6.信 鳥井戸橋左富士
東海道五十三次の「南湖の左富士」で、余りにも有名だ。今の左富士は、目の前に大きな建物が塞がり、残念ながら記念碑からは見えない。しかし、少し戻って、鳥井戸橋の真ん中まで行くと、小出川の中央に浮かび上がるように見える。重複を避けるため、箸休め第19回「東海道五十三次 茅ヶ崎の段」を ご参照頂きたい。
211006 均茶庵