均茶庵は、自転車を二台持っている。輪行用には、専ら2015年に購入したブリジストンTransit Sportsを使っている。26“タイヤでは唯一の折り畳み式だ。シマノの8段ギアがついている。そして、近所の普通乗りには、ミヤタFolioを愛用している。
Folioは、日本で初めて開発された28”フルサイズタイヤ(700C)の折り畳み自転車だ。アルミフレームで一世風靡した。特に、米国に沢山輸出された。1996年に均茶庵が海外出稼ぎから帰国すると、オフロードバイクXR-250と一緒に、直ぐに買った。購入当初は、輪行袋に入れて、広島・岡山、京都・奈良などなど、あちらこちらに遊んだが、2019年にシマノのフロントディレーラーが壊れてしまった。修理用の部品がないし、又、修理代も高い。リアディレーラーは未だ生きているので、フロントを固定してしまい、そのまま乗っている。実に軽快な車だ。『お、Folioですね!』と言って欲しいが、未だそんな人には出会っていない
本社が茅ケ崎市にある宮田工業は、1893年に国産の第一号自転車を作った。元々は、鉄砲などを作っていた会社だ。残念ながら、その後モリタに吸収され、2019年には、台湾の美利達工業(Merida)に売却されてしまった。名前は同じでも、今ではただの消火器屋さんになってしまった。これも時の流れかと、目をうるるんとした人もきっといただろう。
写真は、宮田Folio 1996年製
2020年の春は、コロナに明け暮れた。神奈川県の外出自粛が解除されたのは、5月25日だった。ほぼ2ケ月、自宅拘束状態にあったわけだ。早速Folioに乗った。そうは言っても、足が萎えてしまっているし、県を跨ぐ移動は、引き続き自制を求められている。散歩がてらに鎌倉の極楽寺切り通しを越えて、材木座の光明寺でお昼寝をして戻るのが、これまでの暇つぶしだったが、暫くはこの楽しみも自制だ。
そこで、東海道五十三次の茅ケ崎の段を走ってみる事とした。茅ケ崎市は、藤沢市・平塚市・寒川町に囲まれている。藤沢は、遊行寺や江の島で有名だし、寒川には一宮寒川神社がある。平塚には八幡宮が鎮座している。所が、茅ケ崎市には、今や住宅地に変わってしまった松林と砂丘しかない。強いて言えば、陸軍の演習場だった湘南海岸が名所だろうか。
茅ケ崎市には、五十三次の宿場が無かった。日本橋から12里18丁(49.1km)の藤沢宿と16里(62.8km)の平塚宿に挟まれている。この間、僅かに3.5里(13.7km)だ。一方、間の宿(あいのしゅく)は、四谷・牡丹餅・南湖・八幡の4つがあった。今では、小さな碑が立っているだけで、嘗ての面影はまるでない。広重をたどってみた。尚、行政区分を無視して、藤沢宿遊行寺~平塚宿縄手を、「茅ケ崎の段」とした。
茅ヶ崎の段を一頁に収めたので、長くなってしまった。ゆっくりと、分けながら読んでいただきたい。
1.湘南 2.烏帽子岩 3.藤沢遊行寺 4.平塚縄手道 5.四谷立場 6.牡丹餅立場 7.黒松 8.南湖左富士
9.馬入川の渡し 10.でかまん 11.ラブホ
絵は、主に神奈川県郷土資料アーカイブから取った。 ( 200611)
県立茅ヶ崎高校、十間坂、大六天神社を追加した。 (201203)
湖南省長沙付近の湘江
舜の妃である娥皇と女英が、舜に殉じて湘江の清い流れに身を投げた。それから、湘妃と湘君と呼ばれて、語り継がれている。長沙は、潇湘八景の江天暮雪にあたる。均茶庵は、2010年に遊んだ。湘江の橘子洲に立ち、目を閉じて、宋の時代に思いを馳せた。
写真右上の島が、橘子洲。
【湘爆】湘南爆走族
吉田聡の名作。1982-1987の間、少年KINGに連載された。波打際高校26代目総番・手芸部部長「手芸のえっちゃん」こと江口洋介・他4名を中心としたバイクの物語。辻堂駅前の第一家庭電気も、ラーメン屋じぇんとる麺も、もうない。
いつ頃から湘南と言い出したのだろうか。藤沢市教育委員会の「湘南の誕生」(2005年)には、相模国の南部にあるから「相南」と呼んだものが、「湘南」に変わったとか、中国の湘江沿いの風光明媚な地域に倣って湘南と名付けたとか、色々な説が載っている。そう言えば、糸山英太郎先生で有名な相工大は、いつの間にか湘工大に名前が変わっていた。1994年に、自動車のナンバープレートに湘南ナンバーが採用されるまでは、相模ナンバーは「お相撲」ナンバーとも言われていた。松林と砂浜だけだった湘南は、今ではれっきとしたブランド名に変わった。
鉄網の籠を、砂浜から投げ込んで、力いっぱい砂地を掻き取ると、朝鮮蛤が1~2個上がった。身は蛤より小ぶりながら、焼いて食べると美味しい。朝鮮の名前がついているが、日本の在来種だ。もう、見なくなってしまった。湘南の地元言葉が、『・・・べ。』と言うのも、忘れられてしまった。その代り、小さな波で遊ぶ外来種のサーファーが、めっきり増えた。土曜の夜に、【湘爆】の旗を掲げた改造バイクが134号を支配したのは、遠い昔話となってしまった。
烏帽子岩沖合
米軍射撃練習の標的となり、先端が欠けた。
北斎漫画 相州烏帽子岩
関東大震災で、海食崖が隆起した。この版画の時代には、未だない。
今では、烏帽子岩(姥島)が茅ケ崎市のシンボルとなっている。沖合1.4km程の所にある、最高14.6mの岩礁だ。スコリア質の凝灰岩と砂岩の互層でできていて、専門的には、第三紀鮮新世の三浦層群池子層と呼ぶそうだ。気を付けないとざらざらの岩で、肌を擦りむいてしまう。隆起海食崖のこの島にカヤックで上陸するには、ちょっとしたコツが要る。『相模なる小和田ヶ浦の姥島は・・・』という歌がある。だから、江戸時代から知られていたわけだが、浮世絵としては北斎漫画の一件しか見つからなかった。明治時代には、島にコワダツミノカミを祀った社があったそうだ。ラチエン通りから見た烏帽子岩が、絶景とされている。
遊行寺 門前通り
藤沢
広重の東海道五十三次の中でも、保永堂版が最高傑作と言われている。まるで観光案内図のような感じで、見えない建物や景色まで一枚の絵に納めている。境川の橋に立って寺に続く坂道を登ると、何となく絵のような感じにもなる。一の鳥居は、残っていない。県道30号が境川を跨ぐ辺りは、藤沢橋と呼ばれて、今では交通渋滞の名所だ。
平塚 高麗山
平塚
花水川の西側に高麗山が忽然と立ち上がる姿は、広重の名作そのものだ。水田はなくなってしまったが、未だ浮世絵の面影を偲べる。167.3mの高麗山は「こま」と読む。麓の高来神社は、「たかく」と読む。千手観音菩薩を本地仏とする鶏足山高麗寺は、「こうらい」と読む。寺は、明治に廃寺となった。
四ツ谷不動尊と大山一の鳥居
羽鳥四谷立場
東海道から相州大山に分岐する大山道の起点には、昔ながらに四ツ谷不動尊が祭られている。国道一号線からちょっと入った所には、道を跨いで大きな一の鳥居が立っている。江戸時代は、四ツ谷辻と呼ばれ、立場があって大繁盛した。藁ぶきの屋根こそなくなったものの、追分の様子は、江戸時代とまるで変わりがない。
江戸時代には、名物のぼた餅を売る茶屋があった。菱沼バス停の近くに、茅ケ崎市教育委員会の「牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)の跡」説明版が立っている他は、歴史を偲ぶものは何もない。但し、1945年以前に発行された古い地図を見ると、字として「牡丹餅」の地名が書いてある。残念ながら、ご当地の浮世絵は、見つからなかった。東海道五十三次で、「牡丹餅(焼餅)」と言うと、一般的には保土ケ谷宿権太坂を指す。
立場にあった牡丹餅の松は、昭和47年(1972年)に枯れてしまった。直径233cmあったそうだ。尚、写真の案内板が出来たのは、それ程昔ではなく、平成19年(2007年)のことだ。
牡丹餅立場の案内板
茅ヶ崎高校 チアリーダー部
そのまま東海道を少し西に歩くと、本村の手前北側に、茅ヶ崎高校がある。1948年に市立高校として設立され、1951年に県立高校となった。普通科1,100名の大きな高校だ。それ以上に、湘南爆走族の作者吉田聡の母校だ。
この高校は、密かな心霊スポットになっている。大正時代まで処刑場があり、新校舎建設や近くの陸橋工事の際に、大量の首無し白骨が出たと言う。付近の寺に六地蔵があり、これがその証拠だと言う人もいる。
江戸時代まで、すぐ近くの松林中学校付近に六本松刑場があったのは確かだ。学校建設の際に、白骨が沢山出てきたそうだ。鎌倉時代には、処刑のため、鎌倉から罪人がここまで連れてこられた。罪人が千の川にかかる橋を見ると、「これで終わりか。」と涙を流したので、泪橋と呼ぶという説話も伝わっている。真偽の程はわからない。現代に入ってからは、刑場跡が焼場になったそうだ。
どうも、茅ヶ崎高校の話と松林中学校の話が混ざり合わさっているような感じがする。まあ、最近は、心霊が悪さをしているとの話を聞かないから、取りあえずは静かに見つめておけば良いだろうか。
東横INN前の黒松株
江戸時代の黒松並木
茅ヶ崎の段は、砂丘の道の両側に、松並木が並んでいた。茅ケ崎駅前交差点東の一里塚あたりから松林中学校にかけて、疎らに松の木が残っている。西側の東横INNの前には、黒松と呼ばれる樹齢400年くらいの松の幹に、まるで読めない説明版が載っている。2009年に枯れてしまったそうだ。
追記)230318 均茶庵
小和田~赤松町の一号線沿いにも、見事な松並木が残っている。写真は、「赤松町」と書いてある信号だが、赤松は一切無く、全て黒松だ。
2020年7月の「赤松自治会だより」には、『赤松の大木がたくさんあった』ため、赤松町と名前がついたとあるが、本当だろうか。
十間坂 (201203追加)
東海道の大名所を書き忘れてしまった。東横INNから西へ行くと、十間坂という場所がある。今の一号線を走っていると、ゆったりとした下り坂が、馬入川まで続いている。先ず、黒松あたりから西へ次第に坂が上がって行き、第六天社の前辺りが標高が7.9mで、最高点に達する。更に西側に行くと、今度は茶屋町郵便局前では4.6mまで下がる。その先は千の川から馬入の渡しだ。しかし、10間=18mは、この坂の名前としては、いかにも相応しくない。坂はもっともっと長い。寧ろ、「千間坂=1.8km」とした方が、すっきりする感じだ。
「東海道名所図会」十間阪
1797年に発刊された「東海道名所図会」という本がある。早稲田大学図書館本を見ると、「十間阪」として、『右に富士、大山、箱根、左に江嶋、鎌倉、六浦、金沢など見ゆるゆへ十景坂ともいふ』と書いてある。十間坂の名前の由来として、江戸天明の狂歌師大田南畝が言ったそうだ。但し、いくら砂丘の上とは言え、三浦半島東側の六浦や金沢は、ここからは見えない。しかし、完全否定はできない。土地の発音では、元々『じっけざか』と言う。どうも、十間坂の文字が定着してから、『じゅっけんざか』の発音になったようだ。南畝は、1801年に、ここ南郷(南湖。当時は、茶屋町とも呼んだ。)の脇本陣江戸屋に泊まり、名物の「南郷魚鱠(なます)」をたべて、『不食南郷鱠、安知東海鮮』と詠っている。
『昔この辺に、酒屋が十軒あったので、十軒酒屋と言ったのが、十間坂に転化した。』という説もある。1335年の「足利尊氏関東下向宿次」に書いてあるそうだ。14世紀前半には、相模川の両岸に既に町屋が形成されていた。いくら何でも多すぎるのではとも思ったが、大正時代の絵を見てみると、菓子屋15軒についで酒屋が13軒書いてある。
篠田先生が、1984年の「郷土茅ヶ崎41号」で、『十間程度の坂であったことから呼ばれるようになったもの。』と言っているのが、なんとなく正しいかもしれない。国道1号の改修工事の際に、高所を削って低所に地盛りしたため、以前に比べて傾斜がずっと緩やかになっているそうだ。
いずれにせよ、1707年に江戸へ向かったドイツ人のケンペルが、『砂漠のような地帯』と日記に書いているから、きっと、鳥取砂丘か九十九里浜みたいな、不毛の地だったのだろう。
神社は、十間坂の一番高い所に坐している。第六天信仰は、武蔵・相模・下総で、戦国末期から江戸時代に大流行した。第六天魔王(他化自在天)を祀る。仏教で、欲界の最高位(下から六番目)にいる天魔の配下の悪玉だ。他の者の教化を奪い取る絶大な力を持っている。織田信長は、自分をこの大六天魔王に擬えていたと、バテレン宣教師ルイス・フロイスが記録している。
こんな大悪魔も、明治政府のご威光には敵わず、1872年の神仏分離で、仏門から追い出されてしまった。やむなく神道のオモダルノミコトに垂迹した。ミコトは、神世七代の第六代に当たる男神で、もう一柱の女神イモアヤカシコネノミコトとセットになっている。この二柱の神は、「人体の偉大さを褒める」言葉で、暗に男根と女陰の霊能を指している。参考までに、第七代は、イザナギノミコトとイザナミノミコトだ。名前も、神道風の第六天神社と変わった。
茅ヶ崎第六天神社は、神奈川県内にある約1,200社の内、「県神社庁指定神社」12社に列せられている格の高い神社だ。献幣使が参向する。
鳥井戸橋 記念碑
南湖左富士
東海道には、京へ上る道の左側に富士山が見える場所が、二個所あった。富士市の吉原と、もう一つが、茅ケ崎市千の川を跨ぐ鳥井戸橋だ。南湖の左富士と呼ばれて、名所となっていた。現在は、小さな碑と説明版がある。但し、富士山は説明版と反対の方向にあたる。激しい車の流れに気を付けながら西を望むと、今でも富士の美しい姿を見ることができる。北側には、鶴嶺八幡宮の鳥居があり、参道は左富士通りと名付けられている。鳥井戸橋から南側のJR東海道線のガードまで、千の川に沿って宮田工業本社(現モリタ宮田工業)がある。
JR鉄橋と馬入橋
馬入川の渡し
昔の馬入川(相模川河口)は、現在よりもずっと東にあった。1923年の関東大震災で、田んぼの中に、檜の橋脚が10本出現した。鎌倉時代に掛けられた橋の跡だそうだ。丁度ニトリの前になる。往時の馬入川の渡し付近には、JR鉄橋と平行して国道一号線の馬入橋が架けられている。又、関東大震災で倒壊した鉄橋の橋脚の煉瓦が、水面から僅かに顔を出している。
でかまん菓子舗看板
でかまん Webから
国道1号線を東へ向かうと、小出川のちょっと手前に、でかまん菓子舗の大きな看板を見つける。元々静岡県藤川で店を開いていたが、1951年にこの地へ越して来た。ご当主は、5代目に当たるそうだ。名物の「でかまん」は、多分法事用の葬式饅頭由来だろう。上品な漉し餡だし、緑と白でデザインしている。(注:祝い事には、通常粒餡をつかう。法事用は、白い饅頭の上に、緑のシノブヒバが書いてある。)一番大きい饅頭が、3,500円で32cmx22cmある。均茶庵にはとても大きすぎるので、700円で19cmx13cmにしている。厚さが違うので単純比較できないが、大きい方が4.97円/平方㌢で、小さい方が2.83円/平方㌢とお値段が大きく異なる。2017年3月のTVK神奈川テレビ「あっぱれKANAGAWA大行進」では、重さ2.3kgの巨大饅頭がお土産として登場した。
パシフィック
コスタリゾート
昭和世代は、「エンペラー」とか「バッキンガム」「王朝」「伯爵」と言った名前を聞くと、思わず胸がどきどきする。昔は、「連れ込み」と呼んでいたが、時の流れとともに「ラブホ」と名前を変えた。「でかまん」の次は、「ラブホ」でこの旅を終わりたい。昔は、ちょっと広い道路であれば、どこに入れば良いか迷うほど至る所に並んでいたが、団塊の世代が去って行く歩調に合わせて、消えてしまった。国道一号線沿いには、もう一軒もなく、わずかに134号沿いに残っているだけだ。飯盛りが華やかだった東海道五十三次の旅情は、無くなった。「湘南ベイホテル」「ホテルパシフィック」「ホテルコスタリゾート」「マリンブルー」・・。昭和世代には、ちょっと物足りない名前だ。
追記)211109 均茶庵
茅ヶ崎駅から少し西に行った所にあった上州屋茅ヶ崎店が、2021年10月31日に店じまいした。地元の釣り具専門店として名前が売れていたが、どうしたのだろう。均茶庵は釣りをしないので、利用したのは、クーラーや小物を買うときだけだった。街の景色というのは、どんどん変る。
追記)220804 均茶庵
134号線のHotel Pacificと柳島交差点の中間にあった。開店してから10年程経つそうだが、7月末日に閉店した。結構お客が入っている感じがしたが、呆気ない最後だった。
「湘南浜焼きセンター 海女小屋」として、海鮮BBQ食べ放題をウリにしていた。浜焼きソフトドリンク付き80分食べ放題が、3,278円。牡蛎の食べ放題を付けると、何とたったプラス324円。
所が、2020年6月にリニューアルをして、名前を「海女小屋食堂」に変えた。この後は、タダの「定食屋」に変ってしまった。『コロナのため、BBQから転換した。』とかウワサされていたが、魅力は激減した。
同じ場所に、「浜焼き食べ放題 ちがさき倶楽部」として、8月からオープンするとの話もあるが、さて「名物」の名称を復活できるかどうか。
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追記)230318 均茶庵
東小和田の道祖神
友人が毎日5kmウオーキングをしていると聞いて、均茶庵も真似してみようかと思った。「足」の速さだと、世の景色が違って見える。初日に、早速得るものがあった。
東小和田の交差点をマツキヨ側に入り、すぐの所に八百屋さんがある。マツキヨとの境目の狭い道路の電柱脇に、手を握り合った道祖神が建っている。「小和田本宿郷 昭和36年正月14日」(1961年)と彫ってある。『ほう、こんな所に道祖神があったんだ。』
何となく、形に違和感がある。『もしや。』と裏に回ってみると、何と、信州型の道祖神だった。均茶庵のはこんなに立派ではないが、まぁこんな形だ。恐らく、茅ヶ崎市内では、唯一の信州型だろう。
道祖神は、通常ムラとムラの境界に建てられる。疫病や害虫などを、隣のムラに追いやる大切な場所だ。この道祖神が建っている狭い道路は、丁度小和田と赤松町の境にあたる。比較的新しい建立ながら、年表を調べて見ると、昭和32年(1957年)には、アジア風邪が大流行して、推定罹患者370万人・死亡者2.5万人と猛威を振るった。何か関係があるのだろうか。
序でながら、建立の前年にあたる昭和35年(1960年)には反日米安保条約闘争、チリ地震津波、浅沼社党委員長刺殺などと、物騒な出来事が色々あった。
さて、均茶庵のウオーキングは、いつまで続くことやら。
東小和田の道祖神
尚、茅ヶ崎唯一の金精様は、柳島八幡宮にある。