飛行機
カヤックに乗っている気分は、上々だが、時折飛行機の大きな音に脅かされる。厚木基地は、自衛隊と米軍の共用だから、色んな種類の飛行機が飛ぶ。航空ファンではないので、見ただけでは、名前が分からない。それでも、対潜哨戒機は目立つ。以前は、プロペラのP3Cが多かったが、ここ暫くの間にジェットの川崎P1Aに替わった。音がもの凄く静かだ。IHIのターボプロップだ。40年以上前に、IHIのジェットエンジンをニュージーランドに納めた事を思い出す。殆ど頭上にこない来ないと気がつかない。しかも、200~300mの低空を飛んでいる。尻尾のように飛び出したMAD(磁気探知機)が特徴的だ。硫黄島や南大東島も管轄に入っているから、はるか千キロ近くもパトロールに行くわけだ。P1Aの航続距離は、8,000kmある。硫黄島は、東京から1,200kmの所にある。
V22オスプレイの姿も良く見る。勿論、巡航中だから、大きなプロペラは横を向いている。2022年5月の富士総火演で、自衛隊としては、初めて表舞台に登場した。
米国Boeing社のSeattle工場で、形状記憶合金を使ったPassive Vortex Generator(PVG)のプリゼンをした事がある。その時、Boeingが出してきた図面は、V22の翼だった。相手は、飛行機の名前を言わない。こちらも、「わからない」「聞かない」。
厚木で見たV22には、このPVGがついていなかったから、きっと採用されなかったのだろう。大昔の思い出話だ。
一番うるさいのは、やはりヘリコプターだ。MH60シーホークやら、大きいのではCH47チヌークなどが、バタバタとけたたましい音を立てて飛んで行く。
勿論、戦闘機のF/A18ホーネットやF15イーグルも見かける。米軍の航空母艦が横須賀に入港すると、飛行機の飛ぶ回数が多くなるし、見た事がないような機種も来る。米軍のA-10サンダーボルト地上攻撃機を見た事もある。『お~、ここはアフガンか。』米国NC州にいた時、中東の戦闘から戻って来た、汚れた機体をしょっちゅう見た。滑走路に、100機くらい駐まっていた。
飽きがこない。首が痛くなる。
所で、厚木基地と言うが、厚木市にあるわけではない。大和市と綾瀬市にまたがっている。どう言う都合で「厚木」の名前がついたのか、諸説あるようだ。歴史は比較的浅く、1944年に木更津から海軍航空部隊が移って来たものの、翌年には米軍に接収されてしまった。主力の第4航空群は、1962年に設立され、今年が60周年になる。
はるか北の青空の中、旅客機が飛んでいる。JALだろうかANAだろうか。BoeingだろうかAir Busだろうか。小さくて区別がつかない。音も聞こえない。
(写真は防衛省HPからお借りした)
ボラと鯉
この辺りの魚影は濃い。川の浅瀬にも、70cmくらい有るんじゃ無いかと思うような鯉が泳いでいる。のんびりと泳いで居るのかと思うと、カヤックが近づくと、突然渦を巻いて深みに逃げて行く。油断をしていると、大きな音にドキッとする。
それに、夕方でもないのに、ボラ(30~50cm)が次々と飛び上がる。ボラよりもイナ(15~30cm)の方が、無鉄砲で元気がある。カヤックの上に落ちては、流れに戻って行く。遙か岸の方で釣り糸を垂れている人が、気の毒に思える。
水上をジャンプすると言えば、昔、赤松宗旦の「利根川図誌」(1855年)を読みながら、利根川を高崎市の烏川合流地点から、河口まで、カヤックで下った事がある。フジタのSS-1だったと記憶している。
江戸時代の交通の要衝木下(茨城県印西市)から下流は、川幅が急に広くなる。夕方だったろうか。水面に何十匹という白っぽい魚が飛び跳ねた。大きさは、70~80cmもあろうか。カヤックの近くに落ちると、水しぶきが顔にかかる。ツアーを終えてから調べてみたら、鰱魚だった。大きな体に似合わず、植物プランクトンを食べているという。1878年に、中国からやって来た。そして、日本では、利根川周辺だけで自然繁殖している。鯔は、ましてイナは鰱魚と比べものにもならないが、何故かふと思い出した。勿論、「利根川図誌」に、鰱魚は載っていない。
注)「利根川図誌」は、渡良瀬川の合流点(古河市)~河口の間を記している。
いよいよ難所にかかってきた。嘗て船運があったときには、多分〇〇瀬と名前がついていたに違いない。(文献を色々と漁ってみたが、分からない。)川幅が狭いから、水の流れが速い。
橋が出来るまでは、この辺りは平瀬だった。所が、橋が出来てから、下流側に毎年少しずつ中州が出来はじめた。最初の内は、台風や豪雨の度に流されて消滅していたが、何時のころからか、雑草が生え始めた。未だ中州が小さかった頃、橋を見上げながら、ガスバーナーを持ちこんで、一人でBBQパーティーを開いた事がある。橋を通る人が、何人か立ち止まって見ていた。おしっこに苦労した。所が、いつの間にか中州が川幅の大部分を占める様になってしまった。しかも、台風が来る度に水路が変る。
当初は、東岸の田端スポーツ公園沿いが、遡上のルートだった。しかし、砂で埋もれて、水路が無くなってしまった。西岸の湘南寒川リトルシニア四之宮グランドという、やたら長い野球場の脇を斜めに上らなければならなくなった。
この辺りは、未だ干満の影響を受ける。満ち潮の時には、急な瀬を何とか漕ぎ上げる事が出来る。但し、汗びっしょりだ。所が、夏場で田に水を引き、水深が浅くなったときや、引き潮の時には、どうしても遡上出来ない。パドルが水底に当たってしまう。ポーテッジすれば良いのだろうが、そんな気分にならない。潔く断念する。
銀河大橋の上流には、古い且つ大きな中州がある。丁度前鳥神社の東側にあたる。前鳥神社は、河岸段丘の上にあるから、この中州と神社の間が水路だった時代があるのだろう。「四之宮渡し」の碑は、この中州に面した堤防の上にある。雨の後など、川の水量が多い時には、東側だけではなく、西側の狭い水路を通って、湘南銀河大橋ゴルフ練習場あたりまで遡る事もできる。
四之宮ふれあい広場
水上からは見えないが、堤防の反対側には、下水道水処理のための四之宮水再生センターがある。広大な敷地を利用して、テニスコートやフットサルコートが並んでいる。このセンターの馬入川沿いの道路に沿って、桜が植えられている。一体何本有るのだろうか。春先には、道路に沿って歩く人もいるし、堤防に座って、お弁当を楽しむ人もいる。均茶庵のチャリコースの中でも、取り分け気分優れる場所だ。1973年に開所したそうだ。
この辺りの川幅が一番狭い。目久尻川と馬入川の間の河原が、まるで巨大な中州のようになっているためだ。この河原の中程には、嘗ての流れが取り残された「ひょうたん池」があるが、勿論、川からは見えない。
この付近が、一番緊張する水路だ。川幅が狭いことに加えて、所どころに浅瀬がある。流速は、特に気になるほどでもない。しかし、釣り師がいる。植生が茂っているため、時には釣り師が丸で見えない事がある。釣り糸は目立たない。慌てて川の反対側に避けようとしても、引っかかってしまう事がある。事故が起こらなくても、釣りをしている場所に近づき過ぎてしまう事もある。ひたすら『ごめんなさい。』の世界だが、声を出しても聞こえない。
更に上流に上ると、西岸にはテトラポッドの上に足場を組んだ、釣り場を作っている人もいる。それなりの名所のようだ。水面には、鯉がはねる音がする。
この辺りの両岸には、廃船が目立つ。プラスチックだから、割れて水が入っても、腐らない。ひっくり返ったまま、土手の草の上に放置してある。愛した舟なら、死の最後まで自分で面倒を見て欲しいが、どうしてこんな風になったのだろう。恐らく、川漁の舟だったのだろう。それなりの「プロ」が使っていたはずだ。気分的に、こう言う人達は、許せない。廃船に罪はないが、睨みつけて通るしかない。
ヌトリア
南アメリカ原産の、水辺に住む齧歯類だ。但し、南米ではCoipoと呼ぶ。(Nutriaは、スペイン語では、カワウソを指す)泳いでいる姿は、まるで巨大なネズミだ。尾まで入れると、1m近くある。均茶庵が南米でカヤックに乗っていた時には、川や池で良く見かけた。
1940年頃に輸入されて、毛皮用に飼育されていたが、飼育場から逃げ出して増殖した。寒川付近には、第二次大戦後住み着き、1960年代後半~1970年代には、年間20~30頭捕獲された。しかし、1980年代以降絶滅して、今では見られない。外来種ワースト100に選ばれているが、馬入川での絶滅の原因は分からない。厚木あたりで、近年見つかったという話もある。あるいは、こちらは逃げ出したカピバラではないかという説もある。ヌトリアは、カピバラに比べて、耳がはるかに小さい。ご存じない方には、区別が難しい。
わざわざ輸入された後、飼育放棄あるいは逃げ出して増えたわけだ。それが今になって害獣扱いされている。相模次郎(北条時行)や平家の落ち武者以上に、思わず同情してしまう運命だ。
さあ、到着だ
いよいよ終点に近づいた。以前は、馬入川沿いに神川橋をもぐって、堰の手前までカヤックで遡上出来た。水の流れが速くても、川の端沿いには渦や逆流ができる。均茶庵の大好きな言葉で、Eddy(反主流)と呼ぶ。この流れに乗ると、瀬でも遡上する事ができる。
所が、もうそれも不可能になった。理由は、多分2つある。先ずは、川の水量が減ったため、水深が浅い。Eddyに乗ろうにも、Eddyが発生しない。あるいは、パドルが川底に当たってしまって、漕げない。
第二に、何しろ誰かが釣りをしている。鮎かハヤだろうが、川幅が狭くなってしまったので、釣りの脇をパドリングするのは、いささか憚る。わざわざポーテッジ(カヤックを紐で引っ張って、川を遡る)をする元気もないので、瀬の手前で断念する。
あっと言う間に、短い旅を終了した。約1時間半。ちょうど気持ち良い気だるさだ。
中州の石に上がると、まずは冷え切って萎びてしまったちんちんを伸ばす。そして、おしっこを思い切り馬入川に飛ばす。向かいの堤防をジョッギングする人が通り過ぎて行くが、気にならない。どうせ見えない。心を休めると、防水袋から7-11のおむすびとデザートの羊羹を出す。至福の時を迎えた。
220517 均茶庵 初稿
参考書
早田旅人(2013). 近世相模川・相模川水運における須賀村の位置. 自然と文化36
早田旅人(2009). 山と海を結ぶ道ー相模川・相模川の水運. 平塚博物館
平塚市教育委員会(1994). 相模川辞典
進藤文夫(1979). 相模川の渡船 附船運と筏流し
杉山久吉(1973). 相模川の船
相模原市史(1965)
茅ヶ崎市史
平塚市史
その他
追記)230107 均茶庵
今日、神奈川県立歴史博物館で、「縄文人の環境適応」と題した特別展をみた。そして、思い出した。前々回2021年度の特別展は、「相模川遺跡紀行」だった。その図録の表紙が、大先輩の絵だった。縄文時代の人達が、相模川を遡上している。忘れてはいけない。ここに、追記する。