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「前編」と殆ど同じ自転車道を走って、再び俣野までやって来た。今回は寄り道をせずに、真っ直ぐに境川遊水池までやって来た。この辺りは、亀の名所だ。遊水池に降りてくる鷺やら名前を知らない鳥の群れを、400mmの望遠レンズがずらりと狙う。
「前編」は、こちら: 箸休め第24回 川を走る 境川 (前編)
さば神社
そして、この辺が「さば」の大産地だ。
江本好一の「源義朝を祀るサバ神社 その謎に迫る」(2011年星雲社)に、優れた且つ詳細な考証があるので、殆ど全てを従ってしまおう。
俣野で東側から和泉川が合流するが、この辺りは、古代の徒渉地点であったとともに、毎年大水害が押し寄せる名所だった。そして、東西3km南北10kmの、境川を挟んだ丘の上に、、「さば」の名前が付く神社が12社も並ぶ。江戸時代には、13社だったそうだ。日本中で、「さば」の名前を持つ神社は、この地域にしかない。(鯖江とか、「さば」の下に文字が付く神社を除く。)実に不思議な場所だ。
「さば」神社の内、7社を回り、厄除けを祈願したという「七さば参り」と言う行事が、盛んだったそうだ。江戸時代末期に成立して、明治の全盛期を経て、大正末期まで続いたという。そのためだろうか、カメラを持ってハイキングがてらに歩く人を、今でも時々見かける。13社とは以下の通りだ。
祭神は、鍋屋・神田・中の宮の3社が源満仲であることを除けば、残りは全て源義朝だ。義朝は、河内源氏の名門武将だ。従四位下左馬頭(さまのかみ)まで上った。1160年の平治の乱に破れて、東国に逃れる途中、尾張の家人の長田忠致・景致に、38歳で謀殺された。この戦いにより、源氏に代わり平家が実権を握る事になる。大昔、均茶庵は手に汗を握りながら、岩波の「保元平治物語」を読んだ。
像: 源義朝
大きな社殿を持っている神社もあるし、小さな祠だけの神社もある。神奈川県の神社庁は、小さすぎる社を除いて、11社としている。信仰の度合いには大差があるが、例えば、湘南台駅そばの境川遊水池に鎮座する鯖神社は、境川から長い階段を上った上に社殿がある風格あふれる神社だ。1702年に創建され、1826年に再建された記録がある。最近では、1995年に社殿が焼失した後、1997年10月に再建され、更に2001年には再度焼失した後、現在の社殿が、2002年6月に再建されている。良く燃える神社だし、それ以上に、びっくりするほど早く再建されている。
「さば」神社の由来については、江本が見事に解明している。元々、水神を鎮めるための鎮守として、境川両岸の丘の上に、小さな祠が出来た。一方、長田氏の子孫は、江戸幕府に依って俣野に封じられた。この時代、不遇の中に亡くなった人を祀る事により、その力を借りて自然災害を避ける怨霊信仰が広まっていた。長田氏は、先祖の悪行を消すためにも、自分の所領で源義朝を祀った。更に、近世の関東では、鯖は非常に貴重な、且つ、疫病を除ける効能のある魚と信じられていた。この祠には、鯖が供えられた。そして、「さまのかみ」と魚の「さば」が融合して、「さば」神社となった。但し、「左馬」が先なのか、「鯖」が先なのかは、未だ議論があるようだ。
小栗判官
小栗判官物語は、時宗の説経節と歌舞伎で、日本中に広まった。時宗の本山遊行寺が、藤沢の境川の畔にある事から、西俣野には物語の伝承地が多い。物語の概要と場所は、「西俣野小栗伝説関連コース」として、藤沢市からパンフレットが出されているので、参照頂きたい。蛇足ながら、茅ヶ崎市室田にも、小栗判官が、愛馬「鬼鹿毛(おにかげ)」を繋ぎ止めたという、二本松の伝承が残っている。
西俣野にはこんな場所が残っている
花応院
閻魔堂跡
小栗塚跡
土震塚
花応院: 1604年に創建された曹洞宗の寺院で、「地獄変相十王図」や閻魔大王像を安置しており、1月16日と8月16日には絵解きを行っている。すぐ前の店のアイスクリームは有名だ。ちょっと高い。
閻魔堂跡: 花応院の閻魔大王像は、元々こちらにあったが、1840年に焼失した際に、花応院に運んだとの伝承がある。塔頭と碑のみが残る。
小栗塚跡: 西俣野の夜盗横山氏に小栗満重と家臣10人が毒殺された後、満重は地獄へ落ちる。その冥界の入口。1995年に湘南ゆうき村を建設した際に消滅し、今は碑だけが残っている。県道沿いにある。
土震塚: 「つちふるいつか」と読む。閻魔大王の力で、満重が餓鬼となってこの世によみがえる。娑婆へ出て、体に着いた土を振るった。大きな榊が植えてある。県道から急な斜面を登った上にある。古木が枯れてしまって、今の木は子供に当る。小栗塚を崖の上から眺め下ろすと、成る程この世に生まれ変わる時は台地の上かと、何となく納得する。
元々の話は、1416年に起こった上杉禅秀の乱に際して、常陸国小栗満重が禅秀側に組して、鎌倉公方足利持氏と戦った。禅秀側が敗北して、小栗家は所領を大幅に没収される。しかし、満重は諦めず、その後1418年、1422年と繰り返し反乱を起こしたが、遂には1423年に自刃に追い込まれた。遺子の助重も、1455年の享徳の乱の中で敗北し、小栗御厨荘を失ってしまう。当然のことながら、説経節は遊行寺の一遍上人の活躍を中心に、事実を大きく脚色している。均茶庵は、三代目若松若太夫を聞いた事があるが、中々に引き込まれる。
Ephemerum spinulosum
少々マニアックな話になるが、軽く流して欲しい。この境川遊水池の左岸(横浜側)を境川に沿ってちょっと下ると、少年野球場のすぐ横に休耕田がある。ここにカゲロウゴケの大群落がある。知らないと、見ても多分わからない。もの凄く小さい。直径0.3mmくらいの真ん丸な蒴(コケの胞子体)が、長さ1mm弱の苞葉の間に埋まっている。秋になると、びっしりと生える。均茶庵は、ここを通る度に、ルーペをのぞいて無事生きていることを確かめる。
2020年10月末に、久しぶりに来てみた。何と、きれいに耕されていた。勿論、カゲロウゴケも消えていた。11月末になったら、根性を込めて、もう一度探してみよう。
そう言えば、2011年には反対側の境川右岸(藤沢側)の田んぼで見つけたが、こちらの方も、いつの間にか消えてしまった。
いちょう団地
さて、こんな「さば」の歴史を思い返しながら、遊水池情報センターで、コンビニおむすびをかじった。遊水池には、いろんな水鳥が泳いでいる。カメラを何台も持ったお爺ちゃんに話しを聞いたら、実に難しい。首筋の細かな特徴によって、名前が変わる。何事にも、その道があるものだ。
遊水池から少し北に行くと、大きな「いちょう団地」が両岸に広がる。1971年に建てられ、現在では1~84棟まである。(49~50棟は、ない。)全部で、3,632戸あるそうだ。神奈川県最大の公営団地だ。この内、90%以上が入居している。いちょう団地の最大の特徴は、外国人居住者が多い事だ。三分の一とも言われている。
1975年に南ベトナム共和国が、解体した。大量の難民が、米国・豪州などに散っていった。当時は、「ボートピープル」と呼んでいた。勿論、日本にもベトナム・ラオス・カンボジアから多数の難民が流れ込んだ。政府は、1979年に、大和市に大和定住促進センターを建設し、いちょう団地に入居させた。いまでは、10ケ国以上の人が住んでいるそうだ。
先入観で、外国人が多いから云々を言ってはいけない。この団地は、しっとりと落ち着いている。きれいに片付けてある。ルールが、組織的に守られているようだ。自治会もしっかりしているのだろう。西大久保をイメージしてはいけない。所で、どうしてこんなに違いがでるのだろうか。いちょう団地は、こんなまま続いて欲しい。
ゴミ箱や所々の標識は、注意事項が六カ国語で書いてある。日本語、英語、中国語、スペイン語、ベトナム語、もう一つ良くわからないが、多分カンボジア語。昔は、韓国語やポルトガル語(ブラジル語)もあったような気がするが、時の移り変わりで、住人が変わっているのだろうか。
均茶庵は、団地に時々おじゃましている。何と言っても、ここで営業しているベトナム食堂のそばフォーが旨い。香りの強い野菜がどさっと載っているお店は、他には中々ない。そば以外にも、いろんなメニューがある。但し、読めないし、聞いても中身がわからない。黙って食べるのが良い。『うん、良かった。』と思ったら、名前をメモしておく。今では何軒か営業しているようだが、タンハーというプレハブのような食堂が古い。よろず屋の真ん中にあるテーブルで、商品を自分で除けて場所を作り、食べる。
今日はここで終わりだ。お腹が張って苦しい。ちゃりで直ぐの所に、小田急江ノ島線高座渋谷駅がある。宮田Folio1996を分解する。さあ、出直しだ。
境川源流へ向かう
この先、町田はちょっと省略させていただく。境川は曲がりくねっているし、道路が必ずしも川に沿っていない。北へ流れていた境川は、町田あたりから少しずつ北西に曲がって行く。川幅も、ずっと狭くなる。その割には、住宅は少なくならない。町田は、東京都だ。結論から言おう。ホンダPS-250に乗り換えて、県道47号町田街道を走る。さてそろそろ八王子かという所で、町田市の大地沢青少年センターへの分かれ道に入る。
境川上流部
センターまでは、バイクでは直接行けない。かなり離れた第二駐車場で、一般車は進入禁止だ。本来なら、ここから舗装道路を歩いて行くのだろうが、駐車場からセンターに続く岡の小道が、散歩には気持ち良い。そもそも、夏休みや祝・土日を除いて、殆ど人がいない。ここまで来ると、大自然に溶け込む感じになる。東京は広い。
センター前の道をどこまでも進むと、尾根への登り道に出る。登り切った尾根をだらだらと南に進むと、ご当地最高峰草戸山頂上に出る。364mある。ちょっとした展望台があるだけの頂上だ。松見平と書いてある。あっと言う間の登頂だった。これで、水源地の頂上についた事になる。いよいよ水源地に向かう。少々興奮する。「水源地」とある標識通りに小道を下る。しかし、何処に水源地があるのかわからない。その内、崩れた川が叉になっている場所に出た。川底を見ると、自然木の杭に「境川源流地」と書いてある。『おお、着いた。』しかし、何か違和感がある。湧き出る泉がない。
境川源流地
ぶつぶつ言いながらセンターに戻って来て聞いてみると、この上の方にも源流地があるそうだ。今は、遊歩道が崩れているため、ずっと下の方に源流地の杭を打っていると言う。しかし、教えられた道は、さっき下ってきたばかりだ。そんな印しは、見なかった。
禁止と言われても、今辿ってきた所だから、問題はあるまい。今度は細い水の流れだけを見て、登って見る。あった。「境川源流」と書いてあった。藪の中を少し歩くと、確かに湧き出ている泉があった。どなたかのブログでは、152番橋が、センター先の出合橋、そして最終橋が、「境川源流地」の杭の下の電柱橋としていた。しかし、この奥の泉の直ぐ下に、幅1mくらいの小さな木橋が架かっていた。均茶庵は、この橋を154番と認定した。肝心の源流の銘板は、うっかりすると見過ごすような、頭よりちょっと高い場所に掛かっていた。
境川源流
実は、境川源流と目される所が、もう一つある。2.5万分の1の地形図を見ると、大戸の集落のちょっと上で、名称不詳の小川が、城山湖の本沢ダム直ぐ脇から流れ込んでいる。城山ダムは、その南の津久井湖の揚水発電用ダムとして、1965年に作られた。だから、考えようによっては、一番奥が岩戸山よりも更に奥深い城山ダムを境川の源流と考えても良い訳だ。
城山ダム
こうなると、定義の問題となる。この小川は、ダムの洪水吐から出ているわけだが、洪水吐は、ダム水位が上昇した時に、水を緊急に流し出すためにある。と言う事は、通常は必ずしも水が流れていない。だから、源流と呼ぶには、いかがなものだろう。それに、湧き出る水がないと、いかにも源流と言う名の芸術性に欠ける。均茶庵としては、県ご指定の源流地に賛同する事にした。
何という事のない旅だったが、ふとした思い付きで、ちょっとした冒険心を感じた。今住んでいるところが都市化してしまったとは言え、少し気をつけてみると、その回りには新しい発見と喜びがあるものだ。老人が、ご迷惑なしに一人過ごす時間にも、十分貢献した。
200813 均茶庵
読売新聞210322に、「町田市が神奈川県になった」という記事が載っていた。町田と相模原は、1990年代から、境川の流路変更工事による飛び地解消の交渉をしているそうだ。全長20kmに及び、その内現在までに12kmが変更になったそうだ。実に、30年かかっている。これが民主主義という物だろうか。コストと時間がかかるが、否定してはいけない事柄だ。
追記)210322 均茶庵
注)均茶庵が自分で撮ったデジカメ写真よりも、はるかに立派できれいな写真が、Webを飾っている。そこで、思い切って自分の写真を最小限とし、Webの芸術からお借りした。
問題あるようでしたら、ご一報下さい。削除します。