コケを日本語の漢字では、「蘚苔」と書く。所が、中国語で呼ぶ時には、「苔蘚」になる。どうしてこんな違いが生まれたのだろう。
意味が同じでも、中国語と日本語の漢字が逆転する場合がままある。例えば、日本語では「貸借」と言うが、中国語では「借貸」になる。あるいは、日本語では「胃腸」だが、中国語では「腸胃」になる。
中国語で発音した時に、「苔蘚」の方が、「蘚苔」に比べて音調が良いから、苔蘚の順になったという俗説がある。某商社の中国専門家に聞いた所、どちらも読み難いという事はないそうだ。この俗説は、成り立たない。参考までに、中国には「xiantai」に相当する言葉はないし、「蘚苔xiantai」と読んだ時には、教養ある中国人は、「仙台」を思い起こすそうだ。
蘚苔と苔蘚と言う言葉は、勿論、中国語の苔蘚の方が古い。唐時代の孟郊の『秋懐』という詩に、「古衣如苔蘚」という言葉がある。梁の江淹は、『構象台』に「苔蘚生繞石戸」と書いた。又、明末の徐霞客は、『游黄山记』で「无不平贴石上,如苔藓然」と歌っている。例は、枚挙に暇無い。古来、この言葉に変化はない。『字通』(1996)には、「(苔蘚は、)唐以降の詩文に見える。」とある。勿論、この時代の苔蘚は、必ずしもコケだけを指しているのではなく、地衣類や一部のシダ類、更に日本では海苔など海藻も含んでいた。サルオガセの仲間に対しては、蘿という表現もあった。
日本では、江戸時代以前の書物には、苔という言葉はまま現れるが、蘚は殆ど見かけない。蘚苔あるいは苔蘚という言葉は、まるで出てこない。1829年に伊藤圭介が書いた『泰西本草名疏』に「苔蘚(こけ)」とあるのが初出だろうか。
これ以前は、どんな表現をしていたのだろうか。井上によれば、「蘚や苔に対してはっきりした意味を持たせたのは、明治以降になってヨーロッパの学問が日本に流入しはじめてから、日本で行われたことである。したがって、蘚・苔の意味内容は漢字の本家である中国とも多少ニュウアンスが異なっていることがある。」としている。また、久保も「江戸時代における地衣草・地衣は、ばくぜんとした『こけ』の意味から・・・」「日本における地衣草および地衣の認識は、19世紀初頭を境にセン綱(Musci)を指す名称になった。{筆者注:正しくは、センタイ}」と言っている。詳しく見てみよう。
古くは、平安時代の931-938頃、源順によって著わされた『和名類聚抄』で、初めて苔の字がコケに当てられた。「和名古介、水衣なり(和名コケと呼ぶのは、水の中に生えている衣のようなもの)」これは、明らかに現在の海苔の仲間を指している。
源順
江戸時代の1713年、寺島良安による『和漢三才図会』の第97巻に「水草: 藻類、苔類」が現れるが、この苔類は「地衣(コケ)垣衣(カベノコケ)」などとしている。
寺島良安 和漢三才図絵
江戸時代宝暦年間(1758年の写本が残る)に、松岡成章(1668-1746)が『怡顔齋苔品』を著わした。「海苔類、水苔類、石苔類、樹苔類、地苔類」と区分しているが、本当のコケ類は殆ど含まれておらず、大部分が藻類、地衣類、菌類を指している。一方、本文から、「地苔類」の中の「仰天皮」は、スナゴケの可能性があり、「ビロウドゴケ」は、Liverwortと考えられる。「土馬駿」は、杉コケと述べられており、「地蜈蚣」は、俗称蛇コケとしている。ここでは、「苔」は、Liverwortのみならず、はっきりとMossを含んでいる。しかし、「蘚」の字は、未だ現れていない。下記する白井光太郎は、この本を「苔類{筆者注:コケ類全体を指している}を専記するものの嚆矢」と称している。
江戸末には、山本亡羊が『格致類編 巻之43(草木類)苔部一』を発表した。井上は、「今日言うところのコケ類がだいぶあらわれてくる。苔(コケ:陰湿な地上に生える小さなものを全部含めている)、地苔(ゼニゴケ)、土馬騣(スギゴケ)、万年松(コウヤノマンネングサ)等々である。この他にも地衣類、石松(ヒカゲノカズラ)などのシダ類、顕花植物などが含まれている。」と表している。しかし、蘚あるいは蘚苔の言葉は、未だ使われていない。
この頃になると、スエーデンのC.P.Thunberg(1775-1776滞日)や独のP.H.von Siebold (1823-1829及び1859-1861滞日)などの著名な学者が日本を訪問し、資料の採取を行っている。1784年の『Flora Japonica 日本植物誌』には、コケ類は8種が記録されているそうだ。尚、Sieboldも1835年~1870年に同名の本を出しているが、こちらの方は顕花植物のみで、コケ類は含まれて居ない。
1803年には、小野蘭山が『本草綱目啓蒙』を著わした。巻17雑草に地衣草の項目を設けているが、朝比奈泰彦によれば、蘚苔類を指している由。
1822年には、宇田川榕庵がBotanicaになぞらえて、『菩多尼訶経』を出している。「初めての組織だった植物学書」とされている。短編で、しかもお経をなぞらえた様な漢文で書いている。如是我聞で始まり、作礼而去で終わる。植物の構造を人間の性器に例えて説明するなど、ちょっと興味深い。尚、コケは記載されていないが、有名な書籍なので、言及しておく。
1828年には、岩崎灌園が『本草図譜』を著した。巻37と巻38が苔類にあてられているが、この苔類には、コケ植物の他、羊歯類等が含まれている。
1829年に伊藤圭介が、『泰西本草名疏』を著している。本書は、前出のスエーデンのThunbergが書いた『日本植物誌』のラテン名を抄出して、和名を考定している。目次と内容に不一致があるが、目次20綱64部に、蘚部Musciがある。65部は苔部としているが、ラテン名はAlgae{筆者注:藻類}としている。66部は菌部Fungiとなっている。
一方、本文の第24綱「花之陰処難観者 此綱のものは肉眼にてはその生々蕃息を司るの部詳らかに観難きものなり」に、1シダノ部、4菌部とともに、2蘚部及び3苔部が設けてある。蘚部は、「此目次目ともに苔蘚(こけ)を云う。今権に苔蘚の字を仮り用いて是を分かつ 此目のものは総て雄蕊は全くその帽 此目のもの皆其花に帽あり の中にあるものなり。十一類あり。」土馬騣(ウマスギゴケ)や千年松(コウヤノマンネングサ)やゲメーンハーイルモス(不詳)を実例として挙げている。一方、苔部については、「此目のものはその茎葉根ともに一体なるものなり。十三類あり」と定義しているが、地衣、海藻、海綿等海産の物を指している。現在の苔とは、内容が大きく異なり、表題通り「Algae」を意味している。しかも、「苔蘚」にわざわざ「こけ」のふりがなを振っている。
又、これ以前の文献では、「蘚」という字が現れないので、本書が初出と思われる。
1833年には、宇田川榕庵が『植学啓原』を著わしている。1枚だけではあるが、この第5図に「蘚」としてはっきりとMossの絵が掲載されている。
1856年には、飯沼慾斉が「草木図説」を著わしている。「日本最初のリンネ分類による植物図鑑」で、草部20巻(後日、木部10巻が印刷される)からなる。本書には、コケ類が記載されていないが、日本植物学史において必ず引用されるため、名前を述べておく。
1858年には、在中国のスコットランド人宣教師A.ウイリアムソン韦廉臣が、李善兰と共に、英国J.Lindleyの『植物学要綱Elements of Botany』を漢訳している。これが、「植物学」という言葉の嚆矢だ。それまでは、宇田川榕庵の新語「植学」が使われていた。(吉野政治による異説あり)中国から1867年に『翻刻植物学』として、日本に伝わった。更に、1875年(明治8)には阿部弘国によって、『植物学和解』の名前で再刊された。しかし、何故か蘚苔類の名称はない。「無花」を「上長類」と「通長類」に分けており、「通長類」には、地衣と石蕊(リトマス)が含まれている。あるいは、コケは「地衣」に含まれているのかもしれない。早稲田大学に原本があるが、筆者は本書にアクセスできていない。
1872年(明治5年)に文部省博物局から『林娜氏(リンネ)植物綱目表』が発刊されたが、その中では、24綱Cryptogamia殖機隠微者として、四目が挙げられている。「一目 羊歯 二目 苔蘚 地衣草(ヂゴケ) 三目 藻類 四目 芝栭」と記載されている。「芝栭」は難しい字だが、霊芝や木耳を指す。菌類と考えて良い。逆に、「地衣」は必ずしもLichenを指していない。ここでは、未だ中国風の苔蘚が、そのまま使われている。
1874年(明治7年)には、小野職愨が、『植物訳筌』を出版している。英国J.Lindleyの表を基に、日本で初めて英語・ラテン語・日本語の植物学用語対訳辞書を作った。この中には、小野の新訳も沢山入っている。例えば、Midribを、「総管(葉の)」と訳している。今風に言えば、「中肋」だ。そして、肝心のMusciは「土馬騣科」と書いてある。騣=鬃(馬のたてがみ)で、つまり、スギゴケPolytrichumだ。Hepaticeaeは、「地銭科」と訳している。現代中国語では、「地銭」は、ゼニゴケMarchantiaを指す。この辞書には、「蘚」も「苔」も出てこない。しかし、茎葉体と葉状体の区別、あるいは、MossとLiverwortの区別は行っている。
1875年には、阿部弘国が『植物学和解』を出した。上記の通り、巻7で「通長類」として、地衣と石蕊(リトマス)を挙げている。
1887年(明治20年)に到り、記念すべき『植物学雑誌』1巻1号上に、白井光太郎が『苔蘚発生実験記』を発表した。未だ「苔蘚」になっている。しかも、「・・・Physcomitrium属の一種苔蘚を・・・」とあるから、この「苔蘚」は、「コケ類一般」を指しているようだ。Physcomitriumは、Mossだ。
そして、1887年(明治20年)に、柘植千嘉衛が、『植物学雑誌』1巻3号に図版入りで『地銭類植物採集心得』を出した。この論文は、湯浅明(以下、「湯浅」)によって「日本人研究者による最初のコケ類に関する記事」と高く評価されている。その後、1894年(明治27年)・1896年(明治29年)に吉永虎馬が発表した論文の題も、『土佐産地銭科植物』になっている。12種記載されているが、同様に、湯浅は、高く評価している。両書とも、Liverwort就中Marchantiaを扱っている。
1888年(明治21年)には、三好学(以下、三好)が『ライケン通説』を発表した。この中で、「邦訳には地衣の語を用ひ来りしが、頗妥当を失するが如し。何となれば本草綱目に記せる地衣草は蘚 (Musci) の類にしてライケンに非ず。」としている。この段階で、三好は、「蘚=Moss {筆者注:& Liverwort}」としている。唐突に出てきた言葉の様に見えるが、実は、三好は、1982年(明治15年)には下記に述べる『隠花植物大意:植物教科』を書き上げていた。
終に1889年(明治22年)に至り、三好が『隠花植物大意:植物教科』を上梓した。三好は、隠花植物を羊歯門、蘚苔門、 菌藻門の3つに分け、蘚苔門を更に蘚類Muscinae 例:すぎごけ、みずごけ 及び苔類Hepaticeae 例:ぜにごけに分けた。
更に、「漢称の蘚苔の字も、其意味共に漠然たれど今茲に姑く普通のこけ、即ち(Muscinae)を蘚に充て、ぜにごけ地銭、即ち(Hepaticae)を苔に充て、定用せり。」と述べている。その理由として、「元来こけの語は、その用所甚広くして、独り蘚類に限らず、後に記する苔類(Hepaticae)、菌類(Fungi)、及び地衣類(Lichencs)、等をも総称し、或いは細微なる有花植物をも称する事あり。」としている。例言によると、三好は、本書の図画を『Textbook of Botany』などの洋書によったそうだ。ここにおいて、初めて「蘚苔」「蘚」「苔」の言葉が定立されたと言って良いだろうか。
1895年(明治28年)には、松村任三が『植物名彙』を出版しているが、苔蕨部(Archegoniatae)の下に、蘚苔類(Bryophyte)と羊歯類(Pteridophyta)を設けている。しかし、これ以前の版では、「隠花植物のごときは、従来羊歯門にのみ限りて収めし」とある。又、本書では、蘚苔類を地銭門(Hepaticae)と土馬騌門(Musci)に分けている。ここでは、蘚苔はコケの総称としての意味のみを持っており、MossとLiverwortの区分は明確になっているものの、蘚及び苔と言う文字には、特別な意味を持たせていないようだ。
『新撰日本植物図説、下等隠花類部』
1897年(明治30年)松村任三と三好共著による『新撰日本植物図説、下等隠花類部』が発刊された。下記する『実験隠花植物学』及び『植物学各論 隠花部』とともに、上野益三(以下、「上野」)が、1939年に出版した『日本生物学の歴史』で、明治期における蘚苔類の三大著作として絶賛する本だ。当代一流の植物学者が、蘚類、地衣類、菌類などを、各種ごとに分けて詳細な図、種の特徴、和名及び学名をしている。第一図には、「蘚類(Musci)」として、高野万年草科(こうやのまんねんぐさ)が述べられている。
次いで、1906年(明治39年)には、遠藤吉三郎が『実験隠花植物学』を発表した。第二編 苔蕨植物の中に、「第一章 蘚苔門」を置き、更に「一苔類 二蘚類」に分けている。苔類は、更に「うきごけ科、ぜにごけ科、ユンゲルマン科、つのごけ科」に分けている。このユンゲルマン科には、何故かちょっと珍しいRadula compalanata(ヒラケビラゴケ)の解説をしている。葉状体のみならず、苔類の茎葉体が、図鑑上出現した
『実験隠花植物学』