1.神奈川県産のイクビゴケ属(Diphyscium)
2016年の蘚類チェックリストによると、日本産のイクビゴケ属(Diphyscium)は、全部で11種ある。MBOTが発行しているデータベースTropicos.orgには、14種が記載されているから、世界的に見ても日本産は多い。この内、神奈川県では、6種類が報告されている。どこにでも育っていると言うか、一番ポピュラーなのが、 イクビゴケ(D. fulvifolium)とミヤマイクビゴケ(D.foliosum)だ。その他のカシミールクマノゴケ(D.kashimirense)、クマノゴケ(D.lorifolium)、コバノイクビゴケ(D.perminutum)、及び、ヒメイクビゴケ(D.satoi)の報告は、遙かに少なく、各々1~3件しかない。カシミールクマノゴケ(県:絶I 国:絶II)、コバノイクビゴケ(県:絶I、国:絶I)、クマノゴケ(県:絶I 国:NT)、ヒメイクビゴケ(県:DD)は、全て県の絶滅危惧種に指定されている。
2.どこに育っているのか?
イクビゴケ属は、形が特徴的だから、屋外でも容易に判別できる。蒴は、麦粒をばらまいた様な鞴形をしており、白い蒴歯部分が良く目立つ。雌苞葉は、芒状に長く延びる。そして、雌苞葉と全く異なった形をした普通葉は、通常ちりちりに巻縮する。何とも言えない戯けた姿に見える。
一番広範に分布するイクビゴケとミヤマイクビゴケは、殆どが林間の地上に生える。例外はあるものの、その他の各種は、主に岩上に生育する。だから、均茶庵は岩の上に生えているイクビゴケ属を見つけると、突然慎重になる。必ず家に持ち帰って、詳細に調べることにしている。
3.やった!ミギワイクビゴケだ。
秋に入って、コケが一杯に蒴を着ける季節になった。神奈川県ではそれ程多くないヒロハヒノキゴケ(Pyrrhobryum spenosum var badakense)を求めて、箱根芦ノ湖を回った。仙石原にある公時神社が何となく気になった。標高715mある。ご存じ、金時山(1212m)の箱根側入り口に座す。酒呑童子退治で有名な金太郎こと坂田金時を祭っている。神社から山頂にかけて杉林が覆っているが、古大木が無いので、本心ではヒロハヒノキゴケの生育には余り期待せずに、『念のため。』散策することにした。公時神社の境内では、十数羽の烏骨鶏の白い群れが遊んでいる。ちょっとした名物となっている。神社から山頂までは、1時間半程度で登れるので、均茶庵はこれまで何度も参拝している。
それ程広くない境内の鳥居をくぐり、灯籠を見た。一面に苔むしている。何と、その中にイクビゴケがぱらぱらと混じっている。ルーペで見るまでもなく、間違いない。花崗岩の灯籠という点がちょっと気になるが、そっと辺りを見回して、株を少量いただいた。最低限でも、神奈川県RDBの可能性が大きい。もう興奮でドキドキしている。本来のヒロハヒノキゴケの件は、吹っ飛んでしまった。但し、神社に二拝二拍手一拝した後、気持ちを取り戻し、周辺登山道を含めて一回りした。ヒロハヒノキゴケは、生えていなかった。
3.さあ、同定だ。
まずは、普通葉を見る。何と、薄暗いマミラの中に、大きなパピラが浮かび上がっている。葉の断片をつくった。二重層の透き通った細胞の外側に、大きなパピラが飛び出している。『お~。』葉細胞から一個のパピラが突出しているのは、ミギワイクビゴケ(Diphycius chiapense)を他種から区別する最大の特徴だ。芒を見る。表面がすべすべだ。間違いない。環境省の絶滅危惧種Iに指定されており、勿論、神奈川県からは報告がない。
左:葉細胞断面 右:内雌苞葉の芒 (出口先生の図版. 1984)
ミギワイクビゴケは、1984年に、出口先生が新種として発表した。産地は、非常に限られている。その後発見された場所を含めて、これまでに、四国(愛媛、徳島、高知)、九州(鹿児島)、本州(和歌山、三重、静岡、栃木、福島)から報告されているだけだ。
『おお、やった!』早速祝杯だ。ワインにしようか、日本酒にしようか。だが待てよ。95%の自信があるものの、もしかすると間違いかも知れない。ここは一つ、岡山の先生に確認していただこう。祝杯はその後でも遅くない。そして、標本をすぐに投函した。それから、焦る気持ちを何とか堪えて、ひたすらE-mailを待った。何と、1週間もしない内に返事が来た。
4.愕然!
先生のメールには、はっきりと、『ミギワイクビゴケじゃありませんね。ミヤマイクビゴケとするのが妥当でしょう。』と、冷たく書いてあった。『2文字違うだけじゃない。』何とも胸の奥底にモヤモヤ感が渦巻いた。しかし、先生のコメントを読めば読むほど、ガックリと頭が垂れた。ワインも美味しい日本酒も、もう要らなくなった。仕方ない、焼酎をがぶ飲みした。
4.1 生育環境:
何かにと言う前に、生育環境が全く異なる。「ミギワ」とは、「水際」の意味で、川の流れ近くの岩の上に生育するという意味だそうだ。一部、地上から採取されたケースもあるが、その場合でも、水の流れの近くだった。そう、石灯籠の上とは、全く環境が異なる。『ここは芦ノ湖に近いし、仙石原の低地だ。』と、一生懸命屁理屈を考えてみたが、少々無理がある。
4.2 芒上のパピラ:
均茶庵は、芒の中部~上部ばかりに目が行っていた。何しろ、長い芒だ。100倍でもパピラはかすかに確認できるが、400倍にしないとはっきりとは分からない。『芒の根元を見なさい。』パピラがびっしりと着いていた。芒が平滑なのが、ミギワイクビゴケの特徴だ。もう、希望は殆ど残っていない。
4.3 内雌苞葉:
均茶庵が調べた時には、内雌苞葉の先端は、滑らかに見えた。しかし、先生の指摘に基づきしっかりと見直してみると、矢筈状になりかけている部分もある。極端な矢筈状にはなっていないものの、「矢筈」と断定するのが妥当だ。ミギワイクビゴケは、矢筈状にならない。一方、シリアは確認できない。ミギワイクビゴケにはシリアがない。こうなると、「打ちひしがれ感と困惑」が、どんどん強くなってきた。
4.4 蒴の気孔:
保育社・平凡社、及び、野口先生の図鑑には、単に『蒴に気孔がある。』と書いてあるだけだ。一方、出口先生は、気孔(phaneroporous stomata)の位置によって、イクビゴケ属を3群に分類している。種を区別する指標になるとしている。
蒴を四つに割いて、表面を調べて見た。しかし、残念ながら、どうしても気孔を上手く確認出来なかった。先生からのE-mailには、『蒴の下部に気孔がある。』と記載されていた。
4.5 普通葉の先端:
やや尖って見える葉もあるが、明らかに「漸尖」であって、「微突出」ではない。突出している場合は、イクビゴケの最大の特徴とされている。
4.6 普通葉のパピラ:
眺めても眺めても、どう見ても、巨大なパピラが一個聳えているようにしか見えない。ミヤマイクビゴケ以外の種の模式図では、大福の上に胡麻が2個のっているような形になっている。明らかに異なる。しかし、ここでふと気がついた。これまで何種類かのイクビゴケ属を採取しているが、「葉の断片」を作った事が無かった。葉の表面だけを見て、「1個の高いパピラがない」と判断していただけだった。完全に勉強不足だ。
標本庫にある標本を何個か選び出した。そして、断片を作った。しかし、大福型と巨大型が混じり合っているような感じもするし、何とも断定出来ない。高いパピラが一個だけある・ないだけで、ミギワイクビゴケと判断するのは、難しいのかもしれない。
5.結論:
もうミギワイクビゴケと同定する事は、諦めた。それではこのコケは何なのだろう。
5.1 検索表:
平凡社の検索表を見た。まず、「A. 普通葉の葉身細胞にはパピラあるいはマミラがあり、暗く見える。」と有る。ミギワイクビゴケを除くと、4種が該当するが、普通葉が漸尖なので、イクビゴケは該当しない。
残った3種の内、内雌苞葉の矢筈割れ状は、2種のみ該当する。オレバイクビゴケは、四国・九州の特産のため、除外すると、ミヤマイクビゴケが残る。しかし、内雌苞葉に、肝心のシリアがみあたらない。平凡社は、ミヤマイクビゴケについて、「C. 普通葉の先端は漸尖」「D. 内雌苞葉の葉身先端部は矢筈状に割れ、それぞれの先端にシリアがある。」と記載する。
もう一つの候補、コバノイクビゴケには、矢筈割れが無く、且つ、シリアが有るから、該当しそうにない。決め手は気孔の場所だが、残念ながら、均茶庵の努力は虚しく、みつからなかった。もう一度、公時神社に行ってみようか。
5.2 取り敢えず断定
そう、結論としては、『どこにでもありそうな、』ミヤマイクビゴケ D.foliosumとなりそうだ。それでも未だ、『気孔が、気孔が。』と心の中でしつこく叫んでいる・・・。
ミギワイクビゴケ大発見の夢は去った。均茶庵は、一体何をみていたのだろう。一言で言うと、『めくら。丸でだめ。』先生からポイントの指摘を受けて、目の鱗が落ちる思いがした。愕然とはしたが、一生懸命立ち直る。『これは、均茶庵に取って大進歩だ。』少々引きつりながら、にこりと笑う。コケの道は、まだまだ長くて遠い。
211016 均茶庵
Hironori Deguchi (1984). Taxonomic Notes on Diphyscium Species with unipapillose Leaf Cells. Journal of Hattori Botanical Laboratory No.82: 99-104
Akira Noguchi (1987). Illustrated Moss Flora of Japan. Hattori Botanical Laboratory. Part 1
Tadashi Suzuki (2015). Diphyscium species newly found in Japan. Hattoria 6: 63-73
有川智己・他 (2019). 神奈川県産コケ植物チェックリスト(2019年改訂版).自然環境科学研究. Vol 32, 31-62
神奈川県レッドリスト〈植物編〉2020 (Web版)
MBOT(Missouri Botanical Garden, USA). Oct. 2021版 Tropicos.org
追記) 211017改訂版の「均索表」です。