*本文を書くに当たっては、「南湖郷土誌」(1995.3茅ヶ崎市文化資料館・他)、「茅ヶ崎郷土史」(1959.9 水越健)、及び、茅ヶ崎市民図書館の各種資料を参考にした。
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口上
文化11年(1814)~天保13年(1842)の28年間をかけて、江戸の戯作者曲亭馬琴(滝沢)は、98巻の大作「南総里見八犬伝」を書いた。それから200年が経った。均茶庵は、「南湖余所見発見伝(なんごよそみはっけんでん)」を書いてみようかと、ふと思い立った。勿論、犬塚信乃も芳流閣の戦いもない。茅ヶ崎南湖(南郷)の、他愛もない散歩話だ。
古来「なんご」には、色々な漢字を当てている。南湖を初めとして、南郷、南子、南江などがある。そして、南湖(なんご)の名前の由来には、二説ある。「奈胡」と書いて、砂地あるいは湿地帯を指す言葉だという。福井県小浜市にも、奈胡という地名がある。非常に珍しい名前だ。しかし、辞書を調べて見たが、砂地・湿地帯の意味は載っていなかった。
もう一つの説は、江戸時代の茅ヶ崎の中心地「本村」の南にあったから、「南郷(なんごう)」と呼んだものが、南湖に転化した由だ。こちらの方が、何となく説得力がある。明治32年(1899)に高田畊安が開所した結核療養所の南湖院は、「なんこ」と呼んでいるが、これは高田が濁音を嫌って付けた名前だそうだ。
南湖院は、当時東洋一のサナトリウムと称され、国木田独歩も入院した事で有名だ。しかし、均茶庵は、クリスチャンの事業に理解が薄いし、高田の『政治は天皇、神はイエス』という主張にも与みしないので、均茶庵の南湖「八軒址」(八犬士)には、敢えて南湖院を含まない。「南湖院と高田畊安」については、ちがさきナビの「まち・ひと・茅ヶ崎の煌めき」を参照いただきたい。
本来の南湖は、非常に広い地域だった。ラチェン通りから東が小和田、左富士通り・松尾川から西が柳島、松尾、下町屋、そして千の川から北が浜之郷、矢畑、高田と境を接していた。明治31年(1898)に南湖と本村の中間に茅ヶ崎駅ができるまでは、南湖こそ茅ヶ崎の中心だった。その後繁華の中心が次第に駅前に移動し、嘗ての十間坂の茶屋町は、バス停等にわずかに名前を残すだけで、忘れられてしまった。
当「なんごよそみはっけんでん」では、南湖の範囲を、現在の町内に限り、東はサザン通りまで、北は千の川までとした。嘗ての面積に比べれば、四分の一と言った所だろうか。
馬琴には及ばないものの、ちょっと機知の効いた話にしようかと工夫してみたが、無味乾燥な歴史伝記になってしまった。まるで、南湖の観光案内だ。均茶庵は、自分の表現力の無さに、忸怩たる思いを感じる。もう少し、何とかならないものか。仕方ない。まあ、『パンフレットに使ってくれ。』と言っておこう。
目次
1.仁 平島と茅ヶ崎漁港
2.義 十間坂と茶屋町
3.礼 浜降り祭参加の南湖五神社
3.1 茶屋町大神宮(茶屋町)
3.2 八雲神社(南湖中町)
附)山田耕筰
附)魚市場
3.3 金刀比羅神社(南湖上町)
3.4 住吉神社 (南湖下町)
3.5 御霊神社 (鳥井戸)
附)やせ地蔵
4.智 西運寺
4.1 南郷力丸
4.2 お十夜
5.忠 金剛院
5.1 茅ヶ崎町役場
5.2 学校と幼稚園
5.3 芭蕉の句碑
6.信 鳥井戸橋左富士
7.孝 佐々木雅楽頭卯之助
8.悌 三つの八
8.1 八大竜王社
8.2 茅ヶ崎八景
8.3八ちんこ
本編を書き終わった所で、茅ヶ崎市教育委員会社会教育課のパンフレットを見つけた。本編に取り上げた南湖の各地について、散歩できるように、丁寧に記載してある。本編とほとんど重複する。是非とも参照頂きたい。ちがさき丸ごとふるさと発見博物館 (2013年5月14日版)