2019年9月、終に憧れの壺口瀑布にやって来た。500mの長さに亘り、落差50mの黄色い濁流が流れ落ちる。耳をつんざくような音に、足を震わせる。
均茶庵は、ちょっと器用で、英語とスペイン語と中国語を使う。だから、海外の一人旅には、殆ど抵抗がない。実際、北米・ラテンアメリカは、独りであちらこちら彷徨ったし、中国にも一か月単位の旅に二度行った。現役を引退したら、専ら近場の中国旅行を、気ままにやろうと考えていた。
所が、これが大きな間違いだった。中国は、いつの間にか、何処もかしこも同じような小テーマパークに変わってしまい、わざわざ出かける気力がまるで起こらなくなった。しかも、ここ暫くの経済発展で、可成りの田舎に行っても、観光地であればどこからか人の群れが湧いてくる。その癖、有名観光地以外は、街からちょっと外れると、バス便がまるで無く、交通手段に窮する。加えて、中華スマホを持っていないと、切符やホテルの予約も、何もできない。外国人旅行者には、不便極まりない上に、魅力も乏しくなった。物価上昇も、物凄い。
已む無く、秒懂百科や央视の絵を見て、欲求不満を癒していた。それでも、何とか壺口瀑布に行く方法は無いだろうかと、常々夢見ていた。临汾(山西省)か延安(陕西省)まで行って、そこで、地元の観光ツアーに混ざるとか・・・・。しかし、もう一つぞっとしない。以前、地元の観光ツアーに入った時の、ちょっとおぞましい経験を思い出した。所が、何と日本からパックツアーが出ていると知った。直ちに申し込んだ。夢が叶った。
西安から、バスでひたすら北へ走る。渭南とか、所謂、秦の地は、可成り昔だが旅した事がある。しかし、今や高速道路が縦横に走り高層住宅が林立していて、その頃の面影はまるで残っていない。それでも、今回初めて入る銅川市を過ぎると、景色は秦の平原から黄土高原にはっきりと変わる。墚と呼ぶ険しい谷に囲まれた狭い地形だ。こんな所に住んでいる人は、夜這いのために隣家に行くときは、命懸けじゃないかと、自分の事のように心配になる。谷の深さは、百mを越えているだろう。あちらこちらに溝と言う名前がついているが、日本の溝とは似ても似つかない。断崖だ。バスは、高速道路の橋を瞬時に渡ってしまう。
洛河を過ぎると、今度は塬と呼ぶ広い黄土平原とそれを仕切る深い谷の地形に変わる。均茶庵は大きな勘違いをしていた。曹植の『洛神賦』は、この洛河だと思っていた。美人が住む川にしては、泥だらけで決して似合っていると言えない。ポケットに持って来た賦を良く読んでみると、何と、曹植の洛河は洛陽を流れる川だった。均茶庵にとっては、何十年かぶりの大発見だった。但し、洛陽の洛河も、日本人感覚では決して綺麗とは言えない。洛神=洛嫔=伏宓は、中国文明を築いた伏羲の娘だ。伏羲は、元々ご当地の神だった筈だ。いつ引っ越したのだろうか。
塬は、果てし無く広がる平原だ。その地形の末端を縁取る深い崖とは全く異なり、溝も小川も見えない。乾燥した地面は、ただただトウモロコシと粟に覆われている。まだ記憶にはっきりと残る近い過去には、このトウモロコシと粟をすりつぶしてお粥にしたものが、ご当地の主食だったそうだ。今は、リンゴや梨やナツメヤシなどの商品用果物が名産で、主食は米や小麦に変わった。トウモロコシと粟は、飼料になっているそうだ。偉大な共産党のお陰を感じるには、これだけでもきっと十分だろう。偉大なレーニンは、いみじくも四月テーゼで、「社会主義とは、電気が灯く事だ。」と叫んだ。
西安を出発してから4時間かかって、終に滝に到着した。バスの一番前の座席で、運転席の真上に座れたので、景色を十分堪能した。隣では、相方がしっかりと睡眠を取っている。移り行く景色に一人興奮する均茶庵は、何とももったいないものだと感じる。しかし、人によって興味を持つ対象は異なる。勝手なお世話だろう。
途中、黄土の崖を刳り貫いて作った4軒長屋の住居「窑洞」を、幾つも見た。但し、現役はもう少ないようで、壊れかけている家が多かった。それでも、均茶庵の好奇心と長年の疑問に十分な回答を与えてくれた。
さて、本来の壺口瀑布の景色について説明しなければいけないのだが、敢えて略そう。写真を見ていただければ、一目瞭然だ。黄河中流の水は、泥分を50~60%も含むと言う。はるか下流にある三門峡ダムの水車タービン製造の際には、まるで、セメントを掻き回すような設計条件だったという。この瀑布の水も、決して負けてはいまい。岸の砂岩を一粒拾った。黄土の下には、中生代に生まれたこんな地層が広がっている。
成田を出発する一週間程前に、百度新聞を読んだ。黄河上流の大雨のため、壺口瀑布が完全に水没して、広々とした濁流になっていた。滝が何処にあるのかも見えない。ここに来るまで心配だったが、河の水が減っていて、幸いだった。この迫力を楽しむ事ができた。恐らく、どんなに雨が降っても、あっと言う間に流れ去ってしまうのだろう。
そう言えば、黄河はもう海に流れ込む大河でなくなってから、久しい。水流が1㎥/s以下の場合を『断流』と呼ぶが、1972年に初めて起こった。その後、4年に3回発生するようになり、1987年からは、何と毎年起こるごく普通の現象になってしまった。河口では、1年の内122日も涸れあがっている。人間活動の影響か、神のなせる業か良くわからない。古来、黄河断流は、何百年に一度しか起こらない天の怒りの表現と語り継がれて来た。今や、毎年の行事になってしまい、天もさぞかしお疲れの事だろう。
今夜の宿泊地が延安市のため、再び長い旅が始まる。途中、小さな油井を見た。そう言えば、長慶油田はこの辺にあった。この厚い黄土の下の砂岩の中に、巨大油田があるとは、とても信じられない。油田は、砂漠の真ん中や海の底にあるものだと、いつの間にか思い込んでいた。そう言えば、もう一つの観光地の、黄河が340°曲った乾坤湾(清水湾だったかもしれない)近くには、天然ガスの井戸があった。対岸は、山頂がまん丸の峁という地形だった。ちょっと可愛い。がけ崩れを防ぐために、斜面の植林が進んでいた。観光のお陰だろう。
此処から北は内蒙古、西は寧夏と甘粛になる。すぐに、中華の地を離れてしまう。延安市から北へ行った靖辺市の辺りには、5世紀に匈奴の赫连勃勃が建国した夏の統万城があった。そして、東側の米脂市は、明末の大英雄闯王李自成の故郷だ。均茶庵は、中国古典と武侠小説が好きだ。蔡东培、金庸、黄易などを狂ったように読んだ。毛沢東がこよなく愛したという、李健侯の『李自成伝(永昌演義)』の一節を思い出しながら、不覚にも睡魔に襲われてしまった。
均茶庵 191001
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