箸休め第29回 後編
八大竜王にすがろうか 茅ヶ崎の世界
後編: 山の手
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残りの4つの八大竜王神社は、内陸部にある。その中でも異彩を放つのは、南湖下町の鎮守住吉神社の境内に坐す八大竜王神だ。広大な住吉神社の南側参道脇に社がある。八大竜王神社の扁額の無い鳥居から参道に入ると、一段高い場所に、祠と八大竜王神と刻んだ碑が立っている。元々祠の台座しか残っていなかったが、茅ヶ崎漁港にあった祠を、平成24年(2012)に当地に遷したそうだ。祠には銘が無いが、石碑には、慶応(1865~68)と書かれている。又、昭和初め頃の地図を見ると、「八大竜宮」と書かれている。
豊漁の時には、カケオー(掛け魚)と言って、魚を竜宮に備える習慣があったそうだ。祠は、元々姥島に祀られていたが、激しい風・波による損傷を心配して、当地に移転したと伝わる。しかし、全く同じ話を小和田の熊野神社でも聞いた。どちらが正しいのだろうか。姥島は小和田の領地だから、小和田の方が正しそうな感じがする。いかがだろうか。
この竜宮様の北側に、安産の守り松がある。但し、説明書きがないから、どの松を指すのかわからない。洪水の時に、産気づいた妊婦が、この松の下で赤ちゃんを産んだ。とても丸々と肥った、健康な赤ちゃんだった。こんな言い伝えがあるそうだ。
神社の由緒説明によれば、住吉神社は、大永年間(1525)に疫病や災難から子供達を守る為に、産土山・鬼子母神を祀っていた十羅刹女堂が起源だそうだ。明治の初期に、総代の石黒政五郎が大阪の住吉大社から分霊をした。その後、昭和3年(1928)に本殿を改築している。
鉄砲道の「中海岸二丁目」からサザン通りを少し南に行った所に、八大竜王神の社がある。社と云っても、一見ガレージのような建物の中に、神輿が鎮座している。民家の間の奥まった場所にあるので、うっかりすると通り過ぎてしまう。由来・由緒・建立などについては、調べきっていない。宿題としたい。
当社の八大竜王神だけが、浜降祭に参加している。茅ヶ崎地区の所属となっている。茅ヶ崎市の八大竜王神で、神輿を持っているのは、当社だけだ。但し、神輿の番をする人もおらず、詳しい話を伺えなかった。
熊野神社の創立時期は、熊野信仰が広まった平安末期とも伝わるが、不明だ。しかし、元禄元年(1688)に再建したとの古棟札がある。「相州大庭荘和田村鎮守」の記述があることから、大庭氏が活躍していた鎌倉時代には、既にあったと考えられている。摂社及び境内社及び石碑が沢山ある。神社入り口には、大きな池に囲まれた厳島神社が鎮座している。又、熊野神社拝殿の東側には、姥神と姥島関係が祀られ、拝殿西側にはその他の神々が配されている。
本殿の東側にある摂社姥母(うば)神社には、昭和28年(1953)再建の銘がある。タウンニュース(20130927版)によると、石に彫られた髪の長い姥神が祀られているそうだ。子供が風邪を引いた時に、お茶を供えて祈る風習があるそうだ。均茶庵は、未だ拝謁した事がない。
追記:240524 茅ケ崎博物館の行事「東海道まち歩き(1)」で、ご神体を拝観することができた。お婆さんの石像だった。正面のドアの向かって左上が壊れている。
姥母神社の向かって左に、「姥島神社・八雲神社・八大竜王」と彫られた碑が立っている。裏面に、「明治22年(1889)7月再建 松林村小和田 氏子中」の銘がある。これが、熊野神社内の八大竜王様だ。茅ヶ崎の8碑の中で、一番こぢんまりとしている。
更にその隣には、近衛某の歌が彫られた碑が立っている。設立年の銘はない。均茶庵には読めないが、「相模なる小和田が浦の姥島はたれをまつやらひとりねをする」とあるそうだ。江戸時代に、小和田と伊豆が姥島の漁場争いをした際、この歌が根拠となって、姥島漁場は小和田側に属するとの裁定がでたと伝わっている。
ちょっと長くなって恐縮だが、この隣に、薄れてしまって読みにくい、大きな句碑が立っている。昭和30年(1955)の銘がある。新田濤哉という郷土の俳諧師が姥島を詠った句だそうだ。均茶庵は、この人物について全く知らない。碑には、「尉の姿耀くはかり春の潮」とある。タウンニュース(20140101号)に、県会議員の岩本一夫が書いている。
本殿の西側にある境内社稲荷神社には、昭和47年(1972)8月の銘がある。この稲荷社は豊受稲荷社だと書いたBlogを見た。均茶庵は、豊受稲荷社なのか或いは普通の稲荷社なのか、確認できていない。(下記注1.を参照)しかし、銘に「氏子中」及び大村宮司の名前があるし、社内の様子も特異な点が見られないから、恐らくは普通の稲荷社ではないかと考える。
稲荷社の直ぐそばに、「日吉神社・天照皇大神・尾根神社」と書いた明治22年(1889)年7月再建の碑がある。タウンニュース(20130927版)によると、元々姥島に尾根明神社があったが、波の浸食によって傷がついてしまうため、元禄の頃(1688~1703)にツト田(菱沼三丁目付近)に遷したと「皇国地誌」という本に書いてあるそうだ。尚、既述の5. 住吉神社にも、全く同じ話が伝わっている。しかし、住吉神社の場合には、尾根明神社の事なのか、あるいは、八大竜王神の事なのか、もう一つはっきりしない。不勉強な均茶庵は、深く追求しない。
その後、尾根明神社が何時ごろ熊野神社境内に遷ったのか、記録はない。上記した「姥島神社・八雲神社・八大竜王」の碑も、元々は尾根明神社にあったが、当社に移されたのではなかろうかと言われている。両碑に刻まれた「再建」の年月も同時だから、明治22年(1889)の可能性が強い。一村一社令は、明治39年(1906)だから、この遷座とは関係ないだろう。
南湖には、八大竜王の社が4つある。しかし、南湖鎮守の八雲神社には、祀られていない。一方、小和田熊野神社に、八雲神社と八大竜王が祀られているというのは、何か特別な事情があったのかも知れない。小和田村と茅ヶ崎村境が決まったのは、天正19年(1591)と古い。
偶々居合わせたお正月準備の氏子に、八大竜王の社を聞いたところ、神社入り口右側の境内社厳島神社を教えてくれた。創建は、昭和43年(1968)と新しい。厳島神社の鳥居の向かって左に、大村宮司の歌碑がある。(下記注2.を参照)
厳島神社の池の奥畔に、竜の線刻の小碑がある。銘文はない。又、社の側面に、竜の白い浮き彫りがある。もしかすると、くだんの氏子さんは、この竜を指したのかもしれない。しかし、安芸一宮厳島神社の祭神は市杵島姫命(中世後期以降は、弁財天の本地垂迹とされた。)であり、八大竜王と言うのは、誤りだろう。Googleの地図を見ても、熊野神社の本殿の東側に八大竜王の印しがついている。市杵島姫命は、天真名井の誓い(うけい)の時、素戔嗚尊の剣から、天照大神が生んだ。
竜が弁天の守り神となる説話は、あちらこちらにある。例えば、近くでは鎌倉深沢に住んでいた五頭竜が、江之島弁天に求婚するものの、見事に断られて、以後は弁天様の守り神になったという話がある。岩屋に祀られている。
尚、小和田熊野神社のWebサイトの「ごあいさつ」で、大村宮司が当社を「霧島神社」と呼んでいるが、サイト作成時の誤りではないかと思う。
注1)豊受稲荷(ゆたかいなり)は、所謂正一位稲荷大明神とは異なり、昭和40年(1965)に、千葉県柏市に、石井善祥によって創建された神仏習合の宗教である。仏教の密教あるいは修験道の修法である護摩や火渡行を行う。神殿には、豊受大神(伊勢神宮外宮)・稲荷神と共に、諸々の神々や仏像(不動明王・弁財天・他)を祀る。埼玉県川口市に分社を持つ。
注2)石碑の判読が難しいが、「まこと有て 詣てる人に 幸あれと 祈りていつつ 厳島大神 熊野神社宮司 大村明徳」と解釈した。背面の銘は、祠と同じ昭和43年(1968)だ。
学園通りを北に向かい、JRを過ぎた直ぐの細い通りの奥に、本行寺がある。日蓮宗だが、昭和13年(1938)創立の新しい寺だ。開基金子妙松法尼が鎌倉腰越に結社を創立し、昭和27年(1952)日華上人が開山した。平成2年(1990)に、コンクリート造りの本堂の落慶をした。
その後、小和田伍仁原に藤原氏五武将の供養塔を再興し、昭和51年(1976)に第三世日光が、伍仁原の守護神八大竜王を勧請したそうだ。謂われが、碑の背面に刻ってある。小和田の東海道付近を伍仁原と呼ぶ。市のコミュニティーバス停に名前が残っている。学園通りとJR東海道線が交叉する場所は、伍仁原踏切と呼ぶ。歴史が新しいだけに、寺の由緒がはっきりしている。お墓の真ん中辺りに、八大竜王と書かれた大碑が立っており、その回りを、春山龍神・開運妙法龍神・宝運龍神など種々の竜王の小碑が取り巻いている。この竜王達の来歴については、未だ調べていない。
「ちがさきナビ」では、八大竜王の話は、「茅ヶ崎村」のこととしている。江戸時代23ケ村及び明治22年4ケ村で、「茅ヶ崎村」に含まれるのは、上記の内、2.中海岸 3.茅ヶ崎漁港 5.住吉神社 6.サザン通り の4ケ所のみとなる。1.浜須賀は、含まれていない。但し、あまり拘る必要はないだろう。「ちがさきナビ」は、今の茅ヶ崎市の意味で「茅ヶ崎村」と言っているのかもしれない。
神様は、祀られてこそ初めて神様だ。誰も祀らなくなってしまったら、単なる石材にまで落ちてしまう。八大龍神も、道路工事や時の事情によって、あちらこちらに引っ越しを余儀なくされている。その都度、祀る人も変わったのだろうか。伝承がはっきりしない。現代の激しい嵐の中ではあっても、一柱でも多くの神様に生き延びて欲しい。
さて、茅ヶ崎の八大竜王は、8.で終わったわけだが、実は、茅ヶ崎市と境を接している藤沢市の西端にも八大竜王が祀られている。県立辻道海浜公園東側を南北に通る通称「サーファー通り」と134号のT字路に、漁協と浜見山交番がある。この真ん中に、八大竜王が鎮座している。銘はない。
高木和夫の「鵠沼海岸百年の歴史」によると、辻道海岸の竜王社が、戦時中に海軍のカタパルト演習で失われた。昭和15年(1940)年に鵠沼漁協と辻道漁協が合併したが、この機会に、鵠沼の竜宮橋にあった八大竜王を現在地に移転したそうだ。すぐご近所なので、付録として追記した。
201231 均茶庵
日本三大厄神の筆頭 西宮の東光寺に、令和元年(2019)に「厄神竜王 竜壁」が出現した。内尾和正が原画を描いた、長さ30mの大作だ。竜は、厄神明王の眷属とされ、又、厄神明王の使いの姿でもある。竜神は、「あらゆる災厄を打ち払い魔を退散させる」大役を仰せつかっている。何とタイミング良く、2020年1月1日から、一般公開となった。コロナ退散。
尚、東光寺では、拝礼の際には、真言『うんしっちかんまん』又は、『南無厄神大明王』と7回唱えるそうだ。
210110 均茶庵
9.柳島厳島神社内 八大竜王 (230209 追記)
柳島海岸から、134号線を少し北に入った場所に、厳島神社が鎮座する。祭神は、市杵島姫命だ。広島県宮島から勧請したのだろうか。詳細は不明だ。この境内内の半僧坊脇に、石碑が雑多に集められて居る場所がある。
石造りのお社を挟んで、向かって左に、道祖神があり、右側に碑が3本ある。真ん中の六臂の像は、庚申塔に良く祀られる青面金剛神像だろうか。そして、像の左側の碑には「猿田彦太神」と刻まれ、右側には、蛇を彫った石碑がある。猿田彦は、道祖神あるいは庚申塔に良く出てくる。バランスがちょっと良くない。道路か河川改修の工事の際に、まとめて集められたのかもしれない。この付近には、嘗て松尾川が流れていた。だが、いまでは殆ど暗渠あるいは排水溝になってしまった。
蛇を彫った碑の正面には、「白龍大明神・川崎大明神・青龍大明神」と彫ってある。注意しなければ気がつかないが、背面には、「八大竜王」と彫ってある。
又、この碑の右側には、「明治31年4月27日午前3時ノ出現」と刻まれている。この時間に、アルビノの蛇が現れたのだろうか。但し、この碑は今の場所へ移されていると思われ、元々どこに現れたのかはわからない。恐らく、旧松尾川沿いだろう。反対側には、良く読めないが、「触光柔軟 弥陀仏二千玉」と彫ってあるようだ。均茶庵には、意味が全く分からない。
色々と調べて見たが、碑のこれ以上の由来は不明だ。碑には、全く偶然に出会った。
230209 均茶庵
注)モノの本によれば、下記のような意味だそうだ。
触光柔軟(そっこうにゅうなん):「仏説大無量寿経」の中にある言葉で、阿弥陀様の知恵の光りに出会うことで、自らの心が柔らかくなるという意味。
弥陀仏二千玉:これは、全く分からない。
注)「川崎大明神」について調べたが、どうしても見当たらない。川崎市内には、該当する「大明神」が、見つからない。
一方、埼玉県鶴ヶ島で、元文4年(1739)~寛延2年(1749)の間、鶴ヶ島を中心とした武蔵野の新田開発に功があった川崎平右衛門が、「川崎大明神」として祀られている。平右衛門は、美濃国の河川工事、石見銀山奉行、幕府勘定吟味役などを務めて、明和4年(1767年)に74才で亡くなっている。柳島厳島神社の八大龍王の碑は、何か関係があるのだろうか。但し、この大明神は、八大龍王とは何とも相性が良くない。
川崎平右衛門像
川崎大明神祠
祠の碑文