箸休め 51
4. 柳島 厳島神社
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4. 柳島 厳島神社
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)をお祀りするが、「弁天さん」と通称されて、昔から漁業従事者の信仰が厚いそうだ。現在では、鶴嶺八幡宮の管理下にある。しかし、【市史】によると、河岸は元は柳島八幡神社の枝村だったようだ。柳島八幡宮は、遅くとも万治3年(1660年)には建立されていたとのことだ。
本殿にかかった扁額には、「厳嶋大神 昭和50年9月(1975年)須藤房太郎」と記されている。
2016年10月発行の湘南地区まちぢから協議会発行の「まちぢからマップ」には、八臂弁財天が坐すと書いてあるが、均茶庵は未だ拝観していない。本殿の中におられるのだろうか。
柳島弁財天由来記
当神社については、江戸末期の廻船問屋藤間柳庵の「雨窓雑書」の中の「柳島弁財天由来記」に、下記のような話しが載っている。
江戸享保年間(1716~1735年)に、柳島浦辺の農民須藤忠左衛門の弟に盲人がいた。東京神田の岩沢検校の下で数年修行をし、東京金沢に店を設けて(具体的な場所は、不明)、岩沢匀堂と称した。ある日、関西の生まれと言う老人が尋ねてきて、こんな話しをした。
壮年から羽州湯殿山に登拝し、遂に三十三度の本願を達成した。満願お礼祈念の夜、衣冠正しい貴人が現れ、小さな像を下さり、『敬え。』と言うと、忽然として消えた。枕頭の像を見てみると、異像の八臂弁財天だった。弁財天は、検校の深く信仰する神であるため注、老人は匀堂に像を渡した。匀堂は、その後、老人の行く先を探したが、分からなくなってしまった。
注)検校(盲人に与えられた最高の官名)は、弁天信仰が強い。管鍼法を発明した江戸時代の杉山検校は、江の島の弁天を尊崇した。墓地とともに、検校の像が江の島の両弁天像の側に安置してある。
匀堂が老年になってから、由来を説明して、清兵衛という人に託して、兄忠左衛門にこの像を送った。清兵衛は、戸塚に一泊した際に、夜夢を見た。朱を塗った宮殿に入ると、錦繍を粧わい、瓔珞を頂いた美人が珊瑚の褥に坐している。案内をした童子が、自分は十五童子の一人であると紹介し、早く帰着し像を祀れと言うと、清兵衛は目が覚めた。忠左衛門は、早速海辺に草堂を建立し、祭祀した。
宝暦12年4月(1762年)に、柳島山宝亀善福寺で、秀慶法印が密法修行をした注。
天保元庚寅年冬日 担斉主人拝礼誌 (1830年)
注)担斉主人とは、藤間柳庵の号だそうだ。
注) 善福寺は、享徳年間(1452~1455年)に創建された真言宗の寺だが、弁天像は伝わっていない。大正12年の関東大震災で倒壊し、昭和6年(1931年)に復興している。
天保12年(1841年)に刊行された「新編相模国風土記稿」の柳島十羅刹女社の項目には、「弁天社 今廃す、像は今善福寺に安ず」と記載されている。十羅刹女社は、明治の神仏分離令の際に、南湖が住吉神社、柳島が八幡宮に別れて、現在は存在しない。
善福寺
注)柳島八幡宮は、関東大震災で倒壊し、その後復興したが、昭和20年(1945年)空襲で焼失した。昭和32年(1957年)には拝殿が復興している。藤間柳庵の記念碑などは、当八幡宮にあ る。
柳島八幡宮
尚、「柳島うつりかわり」(1976年10月発行)によれば、文中の須藤家は、この時点で4月5日の弁財天の祭礼には、必ずお供え餅を奉納していた由。又、『野良浜止メ正月ヨー』と触れ回るそうだ。
残念ながら、均茶庵は、柳島厳島神社についての文献を、これ以上見つけられなかった。【市史】にも記載がない。非常に立派な神社だが、どうしてなのだろうか。
明治初期の柳島の鳥瞰図を見ると、八幡宮・神明社・山王社・善福寺はあるが、厳島神社の記載がない。なぜなのだろう。
230218 均茶庵
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それでは、旅に出てみよう。
運転免許証を返納してしまったが、チャリで回るには、手頃な距離だ。愛車は、ブリジストンXB-1 (2022年製の新車だ。)
社:
2. 小和田 熊野神社内
2.1 厳島神社及び石碑
2.2 弁才天 碑
3.1 厳島神社
3.2 石神弁天社
3.3 妙音弁才天
3.4 弁天石像
4. 柳島 厳島神社
寺
11.浜見平 宇賀神
12.小和田 広徳寺 宇賀神
その他:
14.中海岸 七福弁天庵