「蘚苔か苔蘚か」で色々考えてみた結果、蘚と苔の中国における意義そのものから、それぞれ直接的にMossとLiverwortに結びついた訳ではなかった。しかし、本来の文字について、考証しておくことも必要だろう。簡単に触れてみよう。
苔の元々の字(正字)は、「菭」だ。明末に張自烈が著わした『正字通』などの中国の古い本では、単に「水青衣」「水土润气所生」と説明している。又、「苔,又藓也。」と蘚苔の間で区別をしていない。要は、湿ったところに生えている植物という事だけだ。ついでに、「菭」は漢の時代に「苔」に代わった。「蘚」という文字が使われるようになったのは、晋の崔豹『古今注』あたりからだ。
それでは、『大字源』はどこからこの言葉を取ってきたのか、もう一つはっきりしない。上記のような説明をしているのは、数ある字典の中でも、『大字源』のみとなっており、しかも、【解字】の中で、艹と共に構成する文字「鮮」「台」について解説をしているだけだ。だが、元々、「鮮」や「台」には、『大字源』で言っているような意味はない。
南宋の戴侗が、1275年前後に著した『六書故』には、「藓,息浅切。苔之浅驳者曰藓,犹人之疥癣。」とある。『大字源』は、もしかするとこの文に依拠したのかもしれない。但し、後半の「人の疥癬の様なもの」はあるものの、前半の文章は、辞典から何故か抜けている。前半は、「苔の扁平で薄い物を蘚という(=浅薄qian3bo2)。」と訳せば良いのだろうか。
清初めの『品字箋』には、苔を「斑点者」、蘚を「成片者」と定義している。苔は、Lichenのようだ。一方、「片」とは薯片(ポテトチップ)のように、平たい物を指す。この表現であれば、『蘚』は、LiverwortやLichenのような形を思い浮かべる。いずれにせよ、中国では、蘚と苔の字の間に明快な区別は無かったようだ。
久保は、「西洋ではLichenに皮膚病の意味があった。固着性のライケンをさす可能性があろう。また蘚は苔に比べ薄く、まだらであると記される点も、固着性のライケンであるとすれば矛盾はない。ただし、・・・苔と蘚を明瞭に区別していない。・・・苔蘚とは、下等植物を広く指す語句」と結論づけている。
前述の『六書故』には、更に前段があり、『大字源』には記載されていない。「苔,徒哀切。苔生于水者,青绿如发。生海滨者人多取○而食之,又名陟釐。陆地下湿亦生苍苔。」とあり、つまり、「苔」は、海藻の事で、陸上の湿った所に生えるものを「苍苔」と呼ぶ。これは、つまり、苔はLiverwortだけではなく、非常に広範な言葉だった事を意味する。「衣のような・・・」は、出典が異なるようだ。
字義としては、寧ろ、『漢字源』の【解字】にある、「台:自力で動く、おのずと生じる」「鮮:ばらばらで小さい」の方が、原義に沿っているように思える。清の康熙字典の説明にも近い。(但し、康熙字典では、「小」ではなく、「少」としている。)ただ、どちらの説明でも、MossにもLiverwortにもLichenにも通じる。それに、そもそも、現代の概念を古の文字の意味だけで、直接説明する事には、無理がある。
参考までに、苔の旧漢字と一見良く似ている「薹」は、苔とは全く異なった字で、ニンニク・ニラ・アブラナなどの茎を表す。
日本では、コケを一般的に苔と呼んでいた。日本産のコケ植物は、約2000種ある。この内、蘚類が約1700種を占めている。数百種類しかないLiverwortに比べて圧倒的な量と種数がある。従って、「普通のコケ」Mossに、苔の字を当てる方が、流れとしては寧ろ自然だったろう。事実は逆だ。使い慣れない漢字の蘚を、わざわざMossに当てなければならなかった特別な理由が、はっきりしない。蘚をMossに、苔をLiverwortに当てた理由は、「蘚苔か苔蘚か」に述べたような、意外と単純な経緯だったのではなかろうか。
2019年7月16日
Rev. 2019年8月9日
追補:2020年7月30日 均茶庵
参考書)
井上浩.1972.日本の蘚苔類研究史I. 自然科学と博物館 第39巻第9号/10号、
同II. 1972第39巻第11/12号、
同続. 1977第44巻第2号
上野益三.1939.日本生物学の歴史
湯浅明.1948.日本植物学史
湯浅明.1952.生物学史
日本学士院.1963.明治前日本生物学史II
上野益三.1973.日本博物学史
久保輝幸.2004.地衣の名物学的研究
久保輝幸.2009. Lichenはいかにして地衣と翻訳されたか. 科学史研究 第48号
安藤久次.1993~1994.コケのシンボリズムI~VI. 日本蘚苔類学会会報
国会図書館デジタルコレクション
中国関係の資料・解読は、『百度百科』及び『实用汉字字典(1985)』に多くを依った。
下記文献に、アクセスできていない。もし、蘚苔類に関する記述が含まれているようであれば、教えていただきたい。
『生物学史研究』日本科学史学会 生物学史分科会 No.10~30
『生物学研究ノート』同上 No.1~9