渡船は、古来決して珍しく無かった。正式な「渡し場」の他に、あちらこちらに渡船場があった。橋が殆どなかったのだから、当然だろう。平太夫新田のように、川の中州や対岸に耕地を持っていた農家は、毎日私船で馬入川を渡った。但し、時の流れと共に、歴史の中に消えていってしまった。今は、どこに渡し場があったのか、跡も残っていない。
例えば、平塚市八幡と茅ヶ崎市萩園の間には、「八幡の渡し」があったと伝わる。古くは港だったが、その後渡し場に変ったそうだ。当時は、この辺りが相模川の河口だったと考えられている。しかし、もの凄い勢いで土地が隆起し、又、陸地が海へ伸びたため、消滅してしまった。跡も残っていないので、確たる証拠はない。
碑文が建てられている有名な渡し場は、3ヶ所ある。碑は、いずれも平塚市側に建てられており、茅ヶ崎市側には、何も無い。東岸の変動が激しく、又、殆どが平塚市に所属するから、尤もな話だ。
馬入橋の北側にある、馬入ふれあい公園の南の堤防の上に、記念碑が建っている。古来尤も有名な渡船場だった。歌川広重・他多くの絵師により浮世絵に描かれている。茅ヶ崎市中島には、渡船の番所があった辺りに「番屋」の地名が残るそうだが、確認できていない。1886年の架橋により、渡し船は廃止となった。
1849年の文献では、渡しは朝6時から夕方6時まで動いていたそうだ。冬場は、もう真っ暗になっている。正直、川渡りはちょっと恐ろしいだろう。又、増水の時には、船を止める事になる。正月~6月は、常水が2mで、0.9m増水すると川留になった。7月~12月は、常水が1.5mで、同様に0.9m増水すると川留になった。一方、増水が0.6mに戻ると、川明けとなった。「川留」のイメージが、何となくつかめるだろう。
江戸時代のアメリカ総領事ハリスが、1857年11月に渡った時には、川幅は183mだが、5~6月の梅雨時には1.6kmにもなると記録している。又、1875年の小田完之の武甲相州回歴日記によると、もの凄い天井川で、『川底平地より高きに似たるあり。』と記している。
ちょっと説明がいるだろう。日本の山に木々が生えて青々としているのは、実は数百年ぶりの大事件だ。丹沢や大山は、バイオマス(要は、木材・薪炭・茅など)の伐採で、江戸時代末~明治中期までは完全な禿山だった。木を切り、その後に生えた茅やススキは、肥料や牛馬の飼料にされた。貴重な現金収入源として、販売までされた。入会(「いりあい」と読む。「にゅうかい」ではない。)と呼ぶ、「茅・ススキを刈り取る利権」が、近隣部落の間で厳格に取り決められていた。そして、荒れた山は、一雨降ると、土砂崩れとなって川に流れ込んだ。
1923年の関東大震災は、土砂崩れや山体崩壊を起こし、丹沢・大山は、全く手の施しようが無い程の禿山になった。そして、第二次世界大戦中は、更に乱伐と燃料獲得のため、山の荒廃が一段と進んだ。終戦後、河川の洪水を防ぐ意味もあり、組織的な植林が行われた。現在の、花粉騒動の原因となる、杉植林の始まりだ。又、工業化に伴い生活様式が変わり、「バイオマスの利用」から、「化石燃料への転化」が起こった。牛馬がトラクターに代わり、化学肥料が使われるようになり、茅やススキの需要が無くなった。この植林事業が完了したのが、1955年の事だった。それから60年経った。緑の山々が戻り、河川への土砂の流出が減少し、「天井川」も解消した。実に、数百年ぶりに出現した緑の丹沢・大山だ。
序でに、もう少し古い時代を見て見よう。鎌倉時代末に、北条高時の子時行は、足利直義を鎌倉に破って、一時鎌倉を占拠した。(中先代の乱)しかし、京都から鎌倉に急遽攻め下った足利尊氏は、1335年8月に、時雨で増水した相模川を3ヶ所から渡り、北条軍を急襲して、時行軍を鎮圧した。世に「相模川の会戦」と言う。
1802年刊行の十返舎一九の東海道中膝栗毛には、こんな彌二郎の句がある。『川の名を問へばわたしとばかりにて 入(にう)が馬入の人のあいさつ』注)馬入の渡しのエピソードは尽きないので、この辺で止めておこう。
注)「わたし」は、「私」と「渡し」
「入(にう)」は、悟れば皆仏となる意の仏語。転じて区別がつかぬ、要を得ぬこと。「馬入」の「入」をかけている。尚、弥次さん・喜多さんのご関係については、「箸休め番外④ 東海道中膝栗毛」をご参照。
附)
馬入・柳島の渡し(平塚市馬入~茅ヶ崎市柳島)
戦前の大銀行安田銀行(東大の安田講堂で有名。現みずほ銀行)の当主安田善次郎は、1881年に柳島に木材事務所を開設した。相模川上流から筏で運ばれた木材を、柳島に集積した。当時は、東岸は巨大な湖になっており、貯木場が作られていたとの事だ。
(写真は、東大安田講堂。一時は、「解放講堂」というワンパターン名で呼ばれていた。)
須賀・柳島の渡し(平塚市須賀~茅ヶ崎市柳島)
地形が大きく変ってしまい、現在では、どこに該当するのかはっきりとは分からない。須賀も柳島も、馬入川の重要な河港だった。
四之宮の渡し (平塚市四之宮~寒川町一の宮)
湘南銀河大橋の北、前鳥神社付近にあった。明治初期の「皇国地誌」という本には、川幅167mで、常に流水の所は93mと記載されているそうだ。但し、水深は0.3~1.5mと浅い。更に古い相模風土記には、川幅182mとある由。いずれも、現在に比べると、遙かに広い。
古来、この地は交通の要衝であり、右岸には相模国四之宮の前鳥神社があり、又、相模国國衙とされる遺跡も出土している。更に、西には、徳川家康の別荘あるいは館とされる中原御殿跡がある。
「四宮の逆船」という伝説も伝わっている。家康が中原御殿に宿泊し、江戸へ戻る途中、四之宮で乗船した。この時家康は舟尻に座ってしまった。このため船頭は、家康の上に立って操船すること憚り、船首に立って、船尾を東岸に向けて漕いだ。この後、四之宮の船は、舳先を角形につくるようになったと言う。
元々、馬も乗せる大型の「馬船」は、馬が船に乗りやすいように、舳先を角形に作っている。従って、『家康に憚って』舳先を角形にしたものではなく、元々そのようになっていたはずだ。残念ながら、伝説は伝説に終るようだ。
この渡しは、川の流れの変遷に伴い、場所を川の上下に移している。丁度四之宮神社の東側・湘南銀河大橋ゴルフ練習場の南側の堤防上に、「四之宮の渡し」の碑がある。渡しは、1955年に廃止された。
田村の渡し
(平塚市神田~寒川町一の宮・田端)
神川橋の下流の堤防上に、渡しの碑がある。西岸に八坂神社があるが、この南側の道路は、古くから「鎌倉街道」と呼ばれた。平安時代に、坂上田村麻呂が陸奥征伐に行く際、この地に暫く滞在したため、田村の名前がついたと伝える。又、鎌倉時代には、三浦義村が館を構えたと伝わる。遺跡跡地と推定される場所近くに、「田村館跡」の碑が立つ。今では、アパートに囲まれている。
江戸時代には、相州大山へ参詣する人で、賑わったそうだ。葛飾北斎・歌川広重・歌川国芳などの錦絵が残っている。渡し場から見る大山・箱根・富士の眺めが、絶景だったそうだ。1939年に木橋が出来たのを機に、渡船は廃止となった。
今時、馬入川に水上交通は存在しない。自動車で走った方が、遙かに簡単だ。あるいは、自転車でも良い。河口~神川橋の6.4kmしか漕げないのであれば、交通もへったくれもないだろう。しかも、カヤックを除いて、銀河大橋下の浅い瀬を遡上するのが困難だから、実際には水路は河口から4.3km程度しかない。嘗て、色々な水上交通手段があった時代に比べたら、凄く寂しい。
1. SUP (Stand Up Paddleboard)
1960年代にハワイで始まった。初心者にも簡単にできることから、2000年頃から急速に普及した。河口~西岸の湘南ベルマーレ・馬入サッカー場そばの川中島下流あたりまで、良く見るようになった。本来は、サーフィン用の道具だから、海で遊ぶわけだが、河口には波がないので、「練習」している初心者が殆どだ。スポーツ人口は、どんどん増えている。
2. Jet Sky
馬入橋の上流両岸に、マリーナがいくつも並んでいて、シーズンになると、PWC(Personal Water Craft)が引っ切りなしに出て行く。東岸には、湘南リバーサイドマリーナ、ハーバー湘南、Auto Swap湘南マリーナ、リバーポート・マリーナ、ジェットフィールド湘南、西岸には湘南マリーナと、大盛況だ。轟音としぶきを上げて、相模橋の上流で練習をしている人もいるし、河口から烏帽子岩辺りまで海を走る人もいる。
元々、カナダのBombardier社がSeaDooの名前で1968年に発表した。この会社は、スノーモービルを作っていたが、現在はビジネスジェットや電車のメーカーとして有名だ。均茶庵は、1980年代に、仕事でde Haviland(当時は、Boeing Canada後にCanadair-Bombardier)の工場に行ったことがある。こちらは、ジェットスキーではなく、飛行機の工場だ。SeaDooの日本でのシェアは大きく、馬入川でも良く見かける。
川崎重工業が、1971年にJet Skiの名前でオートバイ型を発表した。均茶庵は、1970年代にオーストラリアで良く見かけた。Jet Skiはもうあまり乗る人がいなくなってしまい、馬入川で見るのはPWC型だけになってしまった。PWC型は、ちょっとダイナミックさに欠ける。残念だ。もう一社、ヤマハが、1986年にPWC型のマリンジェットを発表している。大体この3ブランドくらいで、嘗てあったスズキ(スティンガー・ジェット)、ブリジストン(サーフジェット)、ヤンマー(ウェットジェット)などは、いつの間にか消えてしまった。
3.Wind Surfine
1967年にカリフォルニアで開発された。日本には、1969年頃に紹介されたと言われている。本来海で楽しむスポーツだから、馬入川で見かけるのは、初心者の練習が多い。川面で出会わせても、避けるのが困難なレベルの人もいる。そして、良く転ぶ。PWCに遠慮しているのか、あるいは、川幅が広い利点があるのか、専ら馬入橋下流でしか見かけない。
4.プレジャーボート
土・日・休日は、両岸のマリーナから、次々と海に向かって出て行く。河口で楽しむのではなく、専ら相模湾沖合でのトローリングを目的としている。小さなモーターボートから、クルーザーまで多彩だ。以前は、小出川に違法係留していた船が多かったが、2017年に国交省京浜河川事務所が行政代執行をして、整理した。
水深が浅いので、ヨットは全く見かけない。
5.漁船
トラスコ湘南大橋を少し上がった西岸に、旧須賀漁港がある。2000年に平塚新港が河口の外にできてからは、こちらに入る船の数は、少なくなった。馬入川は、ただの通り道だ。何と、2016年からは、新須賀漁港は、「ひらつかタマ三郎漁港」に名前を変えていた。東海大学の池村研究室とコラボして作ったそうだ。「ワイルド」「酒が好き」「女好き」「川柳好き」がキャラだが、地元でもご存じの方は少ない。
6.カヤック
残念ながら、均茶庵の1隻(ファルトボート)しか見かけない。ちょっと前まではあと2~3隻(プラスチック艇)いたような気もするが、SUPの人気に推されて、老人用の道具になってしまった。しかも、まず見かけなくなった。河口から出て、魚釣りに行くようだが、詳しくは知らない。
均茶庵は、最近は河口から海には滅多にでない。カヤックは、高波に向かって行く時には滅法強いが、波を船尾から受けると、簡単に沈してしまう。波にのって走るには、ちょっとした技術がいる。2015年には、5.4トンのクルーザーが、河口でひっくり返っているのを見た事がある。2010年には、水上バイクが顛倒し、ご夫婦が亡くなった。長い間、砂州に壊れた水上バイクが放置されており、悲しみを誘った。2011年、2015年にも事故があった。
河口は、結構危ないところだ。高齢者の均茶庵としては、みなさまにご迷惑をかけるわけには行かない。だから、河口にはあまり近づかないようにしている。専ら、湘南大橋下~神川橋をゲレンデとしている。
7.今はいなくなってしまった船
嘗て隆盛を極めた相模川の船運は、交通手段が自動車や汽車に変るに従って消滅した。ダムと堰の建設が留めを刺した。そんな過去の船を思い出してみよう。川を遡る際に、目を閉じて、在りし日の景観を蘇らせるのも面白い。
相模川は、厚木の三川合流地点(相模川、中津川、小鮎川)以南から、「下流」となる。流路も、殆ど南北直線になる。合流地点~戸沢橋まで1/700あった傾斜は、戸沢橋~寒川取水堰では1/1,350になり、更に河口までは1/1,000~1/2,700と急速に緩くなる。尚、三川合流地点の上流東川(海老名市)には、2004年に県立相模三川公園が作られ、春の桜で賑わうようになった。古来の有鹿神社は、変らずにひっそりと建つ。均茶庵は、時々家からチャリしては、公園でお昼とお昼寝を楽しませていただいている。
7.1 筏
何と言っても、川の交通の代表は筏だ。
道志川から一本ずつ流されて来た丸太は、相模川との合流点の、津久井で筏に組まれる。丈三物(4m)を幅三尺に組んだ物を三つ寄せて幅九尺(2.7m)とする。これを2つ繋いで、一鴨と呼ぶ。三鴨(5.4x12m)に筏師が2人乗り、現津久井湖の出口辺り(旧荒川村。今はダム湖の底)で6鴨に併せて、筏師は1人に変る。5.4x24m位の大きさになるのだろうか。ちょっと大きいような感じがするが、どうだろう。そのまま、ゆったりと河口まで下る。雄大な姿だ。
明治の末期までは、馬入川の河口は柳島にあったから、そこに貯木した。昭和10年頃(1935年)からトラック輸送が開始されて、筏下りは行われないようになった。こんな長閑な、但し、船頭さんにとっては一瞬も油断できない風景を目に浮かべるのは、いかがだろうか。
尚、歌川国貞師匠の「花筏」が好きな方は、pulverer.si.eduからどうぞ。原作・無修正。
7.2 高瀬舟
高瀬舟は、土地・川によって、形も大きさも異なった。相模川の船は小型で、長さ約12m幅1.5m位の細長い形だったそうだ。船頭3人で航行し、荷物を3tほど積んだ。現津久井湖(旧荒川村)から須賀まで、5時間ほどで下ったそうだ。遡上する時も、春~夏は南風を利用して、小倉まで早くて5時間ほどで着いたそうだ。しかし、風の無い季節には、舳先の穴に通した「背張り棒」を一人が押し、残りの1~2人がロープで引いた。こんな時は、到着するまでに3~4日かかった由。
カヤックのポーテッジをするのも嫌なのに、こんな作業は聞いただけでぞっとする。まして、真冬の氷が張る季節にも、強風や雨・雪が降らない限り、船運には休日が無かった。
相模川の高瀬舟は、帆に特徴があり、一枚帆ではなく、4~5枚に割けていた。川に屈曲が少ないため、この方が操船し易かった、あるいは、持ちが良かったと言われている。江戸時代の浮世絵に描いてある船は皆一枚帆だが、これは完全な誤りだ。実物を見る前に版画が出版されたため、絵師が他の川の船と同じように画いてしまったと言われている。写真は、現代の復元舟だ。
上流からは、木材、薪炭、絹、薬草などが下ってきた。途中、厚木からは年貢米や農産物が積まれた。一方、須賀からは、塩、干鰯(ほしか=肥料)、日用品、反物などが運ばれた。現在のトラック輸送の役割を担っていた。
7.3 廻船・弁財船
須賀から江戸へ荷物を運ぶ大型の弁財船が、河口から入港した。主に、年貢米を出荷し、帰りに醤油などを運んできた。しかし、須賀湊は、湊口36m満潮時の深さが1.5~1.8mだったため、400石船(米1,000俵、60t)注が限度だった。勿論、馬入川は、遡上できなかった。
注) 1石=2.5俵 1俵=60kgs 400石=1,000俵x60kgs=60t で計算した。
7.4 馬船
長さ16.2m幅3mもある大型の渡船で、馬5匹と人15人、あるいは、人のみであれば60人は乗れたそうだ。街道の渡しで使われた。
7.5 屋形船
江戸時代からの風物だが、今では厚木に残っているだけだ。大正末~昭和初期が全盛で、須賀・馬入・四之宮・田村・平太夫新田と河口付近では、遊船が盛んだった。昭和時代末までに、殆ど姿を消した。
特に、1904~1905年頃に、当時食道楽で有名だった村井弦斎さんが平塚で始めた川魚船は、特に豪華だった。漁船と客船と料理船を一組にして、魚を捕っては船中で食した。当時は、酒の四斗樽(72ℓ)に鮎が一杯捕れるほど魚影が濃かったそうだ。客船と料理船には、下記の平田船を使い、漁船には三八船を使った。
7.6 その他の船
平田船:
物資の運搬などに使われた、比較的大型の船。必ず船霊様を船中に祭ったそうだ。「麻苧1クリ、紙5枚、紅少々、店の土少々、女髪の毛5本」がご神体だった由。又、船下ろしの際には、酒2升と鯖2尾を上げたそうだ。
石船:
砂利運搬の専用船。9.9mx0.9m程度。1917年から運行し、1964年に砂利採取が全面禁止となったため、廃止された。冬場、あるいは、秋~春の鮎漁の無い季節に運行したそうだ。
和田伝の「五風十雨」という随筆には、「春の相模川 砂利船」として、こんな情景を描いている。
『両岸の平野に青畳のやうにのびた麦畑の上空で雲雀が声をからして囀つてゐるにはゐるが、それが人の耳には近ごろは殆んどはひらない。川原は砂利船の騒々しいモオトルの音、バケットコンベアの音、鍋トロの音でしづかに話もできぬほどだからである。砂利船と言えば厚木付近から馬入の川口までで今日二十一艘もはひつてゐるのであるが、最近また一艘ふえた。この春にはもう一艘ふえるとかきいた。これもオリンピック景気といふやつで、東京の砂利の需要激増はいまのところ見さだめもつかぬといふことである。』
三八船(さんぱ)等と呼ばれる雑多な用途あるいは漁業用の小舟が走っていた。その他、色々な小舟が利用されており、細かい分類があるが、煩雑なので省略する。