奈良時代~平安時代のコケは、何に生えていたか ㉟
奈良時代~平安時代の詩歌に詠われたコケ まとめ & 目次へ
現代のコケは、石・岩、地上の土、樹木、そして例外的に葉上や水中に生育している。コケの「基物」と呼んでいる。それでは、奈良時代~平安時代のコケは、一体何に生えていたのだろうか。
コケの生えている基物を調べる
先ずは、この表を見て頂きたい。これまで各論で調べたコケの歌85首(重複を除くと、約80首)あった。この内、実植物を詠ったわけではなく、単にコケに仮託した詩歌も含めて、基物が分かる歌を取り上げてみた。中には、やや曖昧な歌もあるが、適宜推定してみた。そうすると、単純合計で、57首についてコケの基物が推定できた。
ここから、重複した歌(本歌取り)を併せて1首と数え、又、枕や太鼓などに生えたと言う非現実的なコケを差し引くと、約50首余となる。つまり、コケを詠った歌の内、6割以上について基物が想定できる。これは、単なる偶然ではなく、コケと基物の関係の定型化を予想させる。
植物としてのコケには、実体がない
これまで何度も見てきたように、和歌で詠われているコケは、ほとんど植物としての実体を持っていない。実物を見て詠ったわけではなく、頭の中の想定や、古今以降の「ルール」に則って、詠われている。漢詩では、ある程度実際の植物を見て、あるいは、即して詠っているのとは、大変な違いだ。
コケは、ほとんどの場合、象徴として扱われていた。万葉集の時代にあっては、「長い」「遙かな」時を象徴し、それ以降は、次第に「卑しい」「寂しい」「哀れな」を意味する言葉に変わって行った。従って、コケの基物についても、実際に見た上での表現と言うよりは、この流れの上で、観念化あるいはパターン化してしまった。結果として、基物は、圧倒的に石・岩が多く、植物では、松・真木(杉・檜)にほぼ限定される。
石あるいは岩
先ず気がつく事は、「コケは石の上に生える。」という固定観念に支配されていることだ。ほとんどのコケの歌が、石あるいは岩とセットになって出てくると言っても言い過ぎではない。
和漢朗詠集は、唐詩の佳句と倭人の漢詩・和歌を集めている。倭人の詩歌は、「唐風」の影響を大きく受けているものが集められたと考えて良いだろう。あるいは、唐風の表現方法に倣っている。この和漢朗詠集では、多くの佳句でコケと岩がセットになっており、一方、コケと植物の組み合わせが、全く見られない。当時の倭人の好みだったのか、あるいは唐詩の作風だったのか、均茶庵には理解できないが、いかにも不思議な現象だ。
いずれにせよ、和歌におけるコケと石・岩の組み合わせが、他の基物に比べて圧倒的に多い。「コケは岩に生えている」という決め事が、まるで、出来上がっていたかのようだ。
土あるいは地上
コケは、地上にも、岩上と同じくらい生える。しかし、地上に生えたコケを詠った例は多くない。しかも、必ずしも「地」という言葉として直接表現されているのではなく、「山路」あるいは地面の「床」などの表現をとっている。基物は、ほとんどの場合、コケの寂しさを強調するためのオマケに近い言い回し方となっている。又、万葉集には、後に成立する和漢朗詠集とは逆に、何故か「地」に育つコケは、全く見られない。
植物
植物を基物として生育するコケは、多種ある。しかし、和歌に詠われているのは、真木(松・杉・檜)・橘に限られている。非常に不思議なのは、コケが着けにくい針葉樹の樹種のみが選ばれている事だ。
例えば、真木(杉・檜)の根元には、カガミゴケやクサゴケが群落を作る。あるいは、ハイゴケやヨツバゴケが、こびり付くように生える。一方、肝心の樹幹には、湿度がかなり高い環境下で、古木・大木となってから、ヒロハヒノキゴケやカタシロゴケやカモジゴケが群落を作る程度だ。コケは、あまり一般的ではない。
地衣類は、広葉樹に生育するのが普通だが、針葉樹に付くこともある。16世紀に狩野永徳が描いた「檜図屏風」が有名だ。国立博物館の注では、ウメノキゴケあるいはマツゲゴケ(いずれも地衣類)と同定している。この場合には、「檜」についている。
しかし、松には、通常コケが生育しない。高山の唐松には、カモジゴケが付いている場合もあるが、それ以外でコケを見る事は稀だ。
狩野永徳 檜図屏風
勿論、松に地衣類が付く時は、時折ある。盆栽で、「苔松」を珍重したり、逆に、弱った松に付いた地衣類が嫌われることがある。だが、一般的には、松に生育するコケや地衣類は、非常に稀と言って良い。
松にコケがついた絵を5つ追記した。但し、全て地衣類だ。
以下は、あくまでも参考であって、「生えない」証明ではないが、浮世絵の松には、コケや地衣類は登場しない。狩野永徳との対比で、東海道五十三次の大磯、平塚、藤沢を見て見よう。均茶庵の地元だ。まあ、浮世絵師が、地味なコケや地衣類に興味を持たなかっただけかもしれない。
歌川広重
東海道五十三次 大磯
歌川国貞(三代豊国)
双筆五十三次 藤沢
同 平塚縄手道
更に、万葉集では、1首のみ橘に生えたコケを詠っているが、均茶庵は不勉強にして、柑橘類に地衣類やコケが生育しているのを見た事がない。
植物としてのコケの形跡が未だたどれる万葉集では、コケと真木(杉・檜)がセットで意識されて、寧ろ、松との関係が薄かった。所が、平安朝に入ると、今度は杉・檜が消えてしまい、逆に、コケと松の組み合わせに変わる。
まとめ
和歌においては、コケが早い段階で象徴化・形式化した。同時に、コケが生える基物も、形式化してしまった。つまり、早い段階では、「コケは岩か杉・檜に生える」ものだったが、時が移るに従い、「コケは岩に生える。植物に生える場合には、松」と大きく変わった。しかも、基物となる植物は、松・真木(杉・檜)の針葉樹数種に限られて詠われている。この事自体、コケの形式化そして、同時にコケの基物の形式化が早期に激しく進んでいた事を、物語っている。
現実世界ではコケや地衣類が一番生えにくい植物が、コケの最大のパートナーとして選ばれるようになった事情は、不明だ。今後の宿題だ。更に文献に当たって、調べてみたい。
尚、下記注)の月野文子(2019)の論文が示唆に富む。
221110 均茶庵
注)
月野文子(2019)によれば、漢文学の世界では、「蘿」は蔓植物を指しており、コケや地衣類と必ずしも一致していない。江戸時代に書かれた「和名抄」が、「蘿」をコケあるいは地衣類と誤って理解した結果、以降の古典解釈上、齟齬が生じた。特に、針葉樹と一緒に詠まれている「蘿」は、コケではなく、その木に絡む蔓性植物である。
「松と蘿」の関係は、万葉集の時代から定型化されていた。元々、「毛詩(詩経)」で定式化された形式が、そのまま日本に輸入されて、自動的に詠われていたとする。詳細は、下記論文を参照されたい。
非常に示唆に富む論であり、同時に、本邦の奈良時代~平安時代の文学における「コケ植物」の軽さを説得される。本邦詩歌のかなりの部分が、コケ植物とは関係なくなり、あるいは、地衣類でもなくなる可能性が大きい。又、本邦詩歌で松・杉・檜という針葉樹と「苔」が同時に詠われているのも、実体とは関係なく、中国由来の定型の模倣と考えれば、納得が行く。本当にコケ植物を詠っているのかどうか、個々の歌について、改めて詳細に調べてみる必要がありそうだ。
月野文子(2019). 額田王の113番歌題詞「蘿生松柯」再考. 福岡女子大学国際文理学部紀要「文芸と思想」第83号
追記) 221117 均茶庵
文章を書いた翌日の11月12日、中井町の丘陵を歩いた。ある農家の入り口に、綺麗に剪定した、それ程大きくない松を見た。何と、この松には地衣類もコケもついていた。量は多くはないが、紛れもない。採集するわけにはゆかないので、遠目に観察した。
改めて松の幹の苔を観察したところ、サヤゴケ、ヒナノハイゴケが生育していた。いずれも、群落にならないと小さくてわからない。顕微鏡でのぞくと、フルノコゴケやヒメアカヤスデゴケなどの苔類もあった。但し、苔類は非常に小さく、うっかりすると見落としてしまう。
少々ショックでした。
しかし、コケが生えていた松の木は数多くない。負け惜しみを言うわけではないが、「稀」と言ってもいいだろう。松になぜコケや地衣類が生えないのか、良く分からない。原因として想定できるのは、アレロパシー(忌避作用)、乾燥環境、大気の汚染、塩風の影響ぐらいだろうか。 限られた木にのみに生えるという現象は、どうもアレロパシーの影響の可能性が大きいように感じる。
松の木に生えた地衣類
追記) 221114 均茶庵
狩野永徳の「檜図屏風」を引用したが、江戸時代の有名な「コケ」の絵を下記しよう。狩野派が多い。松の木が2つに、楓、杉・檜、桜が各1つとなっている。
狩野探幽 四季松
松
狩野探幽 松に鷹図
松
狩野秀頼 高尾観楓図
鈴木基一 夏秋渓流花木図
杉・檜
胡蝶蒔絵掛硯箱
桜