前書き:
奈良~平安時代は、和歌・漢詩の全盛時代と言ってもおかしくない。日常的に詠われ、あるいは、何かの宴会・行事がある度に作られた。それなのに、沢山詠われた詩歌の中に、コケ(蘚苔類)を詠った歌がどの程度あるのか、あるいは、どんな風にコケが詠われたのか、均茶庵は未だ見た事がない。勿論、個別の詩歌を解説した本はあるが、全体像となるとはっきりとは分からない。
特に、どんなコケが詠われたのか、つまり、コケの同定については、色々と文献を探したものの、全く見つからなかった。改めて考えて見ると、詩歌の詞書きと歌だけで属・種を同定しようなんて、学問的には無謀な話だろう。詞書き・歌に含まれている情報は、非常に少ない。時には、それが本当にこの世に存在するのかしないのかさえも、判断できない。
そこで、均茶庵は敢えて取り組んでみる事にした。当然のことながら、学問的には巨大な曖昧さを避けられないため、ワイングラスを片手に持ちながらの仮想話になる。しかし、秋の夜長を、こうでもないああでもないと、こんな風に想像を巡らしながら古典文学を楽しむことは、また一興ではなかろうか。肉眼で月の地形を探るような話ながら、一緒に楽しんで欲しい。100人いれば、100の答えがでてくるだろう。それはそれで、面白いのではなかろうか。
尚、「㉞ 記載したコケの索引」に均茶庵のホンネを書いたので、ちらっと見ていただくと、ちょっと違った感想を持つかもしれない。
原典:
さて、奈良~平安の間と言っても、資料は膨大だ。従って、対象を下記の14の古典に絞った。この内、新古今集及び小倉百人一首の成立は、鎌倉時代初期となる。
万葉集
八代集(8勅撰集)
和漢朗詠集
伊勢物語
源氏物語
古今歌集六帖
小倉百人一首
これだけの歌集を読みこなすのは、均茶庵にとって大仕事であり、まあ、秋の夜長を利用してじっくりと進めるにしても、ワインボトルが一体何本空く事か。
参考書:
詩歌の本文・解釈・校注は、下記の専門書及び関係の論文による事とした。歌集の各論で、詳細に説明する。
新日本古典文学大系. 岩波書店
角川ソフィア文庫. 角川書店
国際日本文化研究センター(日文研). 和歌データーベース
コケの名称・植生などについては、下記によった。
岩月善之助(編)(2001). 日本野生植物 コケ. 平凡社
山本好和(2012). 地衣類初級編. 第2版. 三恵社
それでは、本論に入ろう。
全体像
先ず、全体像を捉えておきたい。上記の文献には、詩歌がどのくらいあるのだろうか。また、何首くらいコケを詠ったのだろうか。各文献の解題あるいは解説には、文献の撰者、成立年代の推定、及び、歌数の概算が書いてある。しかし、「コケ」を詠った歌が何首あるかは、不明だ。
均茶庵は、下記のような方法を取った。
① 歌数が比較的少ない本については、全文を読み、コケが詠われている歌をピックアップした。
古今和歌集、和漢朗詠集、伊勢物語、小倉百人一首
② 歌数が多い本については、勢田勝郭氏が作成した日文研和歌データーベース(以下、DB)から「こけ」を検索した。(2002年1月現在)このDBは、「柿本集」(700年前後に成立)から「春夢草 肖柏」(1527年成立)までを含んでいる。また、このDBは、全文平かなで記載されている。
次に、一部の論文は、コケの歌の数を、記載している場合もあったので、数値を照合してみた。(合致した)
最終的に、検索したコケの歌を、原典から取り出して、想像をめぐらした。
上記の結果、以下の数値を得た。
DBの全和歌約190,000件(詞書きを含む)の内、コケを詠んだ歌は、1215件あった。但し、「集」各々の間で重複している歌も、非常に多い。重複数は、個別に数えなければならないので、確認できていない。又、「濃ければ」などコケに関係しない言葉や、同じ「集」内での重複記載もある。今回は、確認できていない。半分以下としても、500件ある。この数は、ちょっと多すぎる感があるので、宿題としておこう。
また、均茶庵がコケ調べを行った和歌は、上記の表の通りとなる。つまり、総歌数約20,000首、文章232段(伊勢物語)ある内、コケを詠んでいると判断される歌は、85首あった。但し、蘚苔類について詠った歌は41首に過ぎない。残りは、地衣類及び現実には存在しないような、コケに仮託した表現だった。
尚、参考までに、「柿本集」(成立:700年前後)から「家持集」(成立:785年)に到る4集に載っているコケの歌は、6首あった。
均茶庵のコメント
以上の作業の結果、均茶庵は下記のような意見を持つに到った。下記にまとめた内容は、各集の紹介文と重複している点もある。
1. コケを詠った歌数が、非常に少ない:
まず気がつくのは、コケを詠った歌が、ビックリするほど少ない事だろう。漢詩と和歌の佳句を集めた「和漢朗詠集」に、15/803首収められている事を除けば、その比率は微々たるものに過ぎない。つまり、日本においては、南北朝~唐時代の中国に較べて、コケに対する興味が極めて低かったと言える。
これは、歌集だけに限らないようだ。均茶庵が「古事記」から数えた「こけ」は、唯一八岐大蛇を形容した際に、「またその身に蘿(こけ)また檜椙(ひのき・すぎ)生い」と表現してあるだけだ。この「蘿」は、地衣類又はヒカゲノカズラ類と解釈されている。
2. コケに対する考え方:
万葉集の時代においても、コケの印象は既に定型化されていた。万葉集では、専ら「長い」「久しい」という時間を象徴する植物として使われていた。コケが登場する歌では、殆どが「コケ生す」という定型表現がとられた。しかし、平安期に入ると、更に定型化が進むと同時に、植物のコケからは、どんどん乖離してしまった。「コケの袖」「コケの衣」という形で、「僧侶・隠者」を表すような言葉も生まれた。
更に、平安末に入ると、この傾向は一層強まり、本来の植物としてのコケの意味では、殆ど詠われなくなった。しかも、「本意」という概念が出現して、コケは、「悲しく寂しい」あるいは「質素な」という意味で使われるようになった。新古今和歌集では、コケを詠った21首の内、何と半数以上の12首が意味を「本意」に転用され、植物体のコケとは到底考えられなくなってしまった。(「新古今和歌集のコケ」を参照)
尚、万葉集の時期に存在したコケの歌が、平安の絶頂期である古今集や伊勢物語のなかでは、殆ど消滅してしまったのが象徴的だ。一見新古今集で復活したように見えるが、上記したように、万葉集の時代とは趣を完全に異にする。
3. コケの色:
コケの色は、もとより黄緑色だが、万葉集・和漢朗詠集の時代には、中国語の青苔の呼び方に影響されて、一般的に「青い」苔と表現された。つまり、青色が黄緑色を意味していた。しかし、中国との交流が途絶えた後、何時しか苔は「緑」色と表現されるようになった。「緑色のコケ」は、新古今集に2首、和漢朗詠集に1句(白居易による)あるだけだ。詩歌を見ている限りでは、何時頃この変化が起こったのか、不明だ。
「和漢朗詠集のコケ」 添付0 注意しておく点 を参照。
追記)
「あを」及び「みとり」がどのように使われているかの調べは、次の機会に譲りたい。
DBで検索しても、「あを」及び「みとり」でヒットする数は、極めて多い。その中には、「あをによし」あるいは、「みとりこ」と言った言葉も含まれている。つまり、一句一句調べなければいけない。「こけ」の場合にも、「濃けれ」といった言葉がかなり含まれていたが、「あを」及び「みとり」の場合には、その比ではない。根性を込めて取り組まなければならない。
追記)221024 均茶庵
頑張って作りました。下記をクリック。
4. コケを詠う人の限定化:
コケが未だ植物として認識されていた時期には、どんな地位・職業・境遇であっても、コケを詠った。しかし、平安末期になると、コケを詠う人は、僧侶あるいは落飾した人、及び、「隠棲」「死去」と何らかの接点を持った人たちに限られるようになった。これは、上記2.が大きき影響しているのではないかと思われる。
以上の総論を踏まえて、各集に詠われたコケの個別の同定に入って見よう。最初に述べたように、この試みは学問でも論文でもなく、秋の夜長を過ごすための遊びの一つだと理解して頂きたい。そう、楽しむために、考え、想像する。
丹沢世附川 コケの筵に宿る。
新古今集0398を参照。