奈良時代~平安時代のコケは、何に生えていたか
㊱ 附)松に生えるコケ
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奈良時代~平安時代の詩歌に詠われたコケ まとめ & 目次へ
奈良時代~平安時代のコケは、何に生えていたかでは、松に生えるコケが圧倒的に多く詠われている事を知った。しかし、どうも実態からは、大きく離れている感じがする。均茶庵は、松に生えたコケを見た記憶がない。但し、ボンヤリとした記憶だけで、本当に生えないのかどうか、確固とした自信がない。調べて見ることにした。
勿論、仮の調査だから、湘南の松に限られる。この結果から、奈良~平安時代の植生を推定するのは、余りにも無謀な事を承知している。
松の種類
日本大百科全書(ニッポニカ)には、下記のように書いてある。
松の種類は、世界中で約100種ある。この内、日本には、16種が生育している。その内、日本に自生している種を羅列すると、黒松(雄松)・赤松(雌松)・五葉松(姫小松)・琉球松(琉球赤松)・朝鮮五葉・這松・蝦夷松・椴松・奄美五葉・唐松の10種となる。公園や植栽にモンタナ松・コロラドトウヒ・ヒマラヤスギなどが利用されているが、あくまで外来種であり、奈良~平安時代には、日本には無かった。
この10種の内、歌に詠まれる奈良・京都を中心とする西国の平地~低山地に生えている松は、事実上3種に限られる。琉球松・奄美五葉は、鹿児島県以南にしか自生しない。一方、蝦夷松・椴松は、北海道に限られる。又、朝鮮五葉(標高1050~2500m)・這松(780~3180m)・唐松(中部以北の亜高山~高山)は、いずれも高山にしか生えない。
黒松は、潮に強く、標高950m以下に生える。「白砂青松」の名前の通り、海岸に林を作る。又、街道の防風林や防砂林に使われる。樹肌が灰黒色で、鱗のように剥がれ、亀甲のような深い溝ができる。葉は、硬くて痛い。一番良く見る松の木だ。
赤松は、黒松とは異なり、潮を嫌う。標高2290m以下に生える。明るい山地を好み、松茸の生産林となる。樹肌が赤味を帯び、生長すると薄く剥がれる。葉は、柔らかくて痛くない。関西に多い。
五葉松は、名前の通り葉が五本一束になっている。標高60~2500mに自生する日本原産種だ。耐暑性・耐寒性がある。京都大原野の小塩「遊龍松」や佐賀県唐津市の「虹の松原」など、有名林がある。
松はどこに生えているか
第二次世界大戦中に、日本中の大木が切られてしまった。現在はえている松は、殆どが戦後生まれの人工林だ。従って、奈良~平安時代の植生を想像する事さえ、困難だ。
例えば、均茶庵の済んでいる神奈川県の山地丹沢・大山は、江戸~明治中期には、一木もはえていない禿山だった。これは、大正時代の写真にも残されている。山地は、周辺農民の入会地として、茅やススキなどの草が生えていた。村総出で刈り取り、肥料や飼葉とした。あるいは、余った草は、近隣に販売もして、小銭稼ぎとした。だから、松は生えておらず、一雨降ると土石流となって河川に流れた。これは、関東に限らず、関西他全国に共通する景観だった。
更に、1923年の関東大震災による丹沢・大山の山体崩壊で、完全な禿山となってしまった。その後、第二次大戦中の乱伐により、禿山化が一層進んだ。これは、山林だけではなく、茅ヶ崎では例えば南湖の守護神八雲神社の場合には、米軍の上陸を阻止するための要塞用に、境内の松が伐採されて、一時神社が剥き出しになった。1944年の事だ。その後、地元氏子による植林が、1950年の完成し、現在の景観が復活した。
丹沢・大山の保水・洪水防止のために、1950年代に植林が行われた。この植林事業が完成したのは、1955年だった。但し、山地に植えられたのは、松ではなく、杉・檜が選ばれた。その結果、現在の山林の景観がある。
一方、海岸地帯の松は、1931年の国道134号線建設を機に植林が進められた。そして、1941年には、第二次世界大戦の勃発と同時に、砂防林の維持管理が中断された。更に、戦時中には、松根油の採集や、戦後の燃料用として伐採が行われた。砂防林の復旧に着手したのは、戦後の1946年に入ってからだ。第二室戸台風の襲来などにより、黒松が大量に枯死するなどの苦難の時代を経て、現在の姿になったのは、1980年代にはいってからだ。ごく最近の話しだ。
その結果、現在の海岸は、殆ど黒松一色となった。また、関東の松は、殆どが黒松であり、五葉松や赤松は、一部の庭園に例外的に植えられているだけだ。
この辺の経緯については、箸休め第44回「馬入川を漕ぐ 第三幕」を参照いただきたい。
調べた松樹
上記したように、均茶庵の住んでいる湘南から、奈良~平安時代の松林の景観を復元することは、非常に難しい。まして、どんなコケが松の木に生えていたかを推定するのは、殆ど不可能だ。現在の植生を見ても、当時の状況とは似ても似つかぬ姿だろう。まして、詩歌に詠われた関西を中心とする地域を想像すると言うのは、殆ど冒険に近い。
コケ類や地衣類は、環境の影響を大きく受ける。特に、地衣類は、大気汚染に非常に弱く、ウメノキゴケなどは、指標としても使われている。大気汚染とコケ類・地衣類の植生の関係は、古くから調べられている。(例えば、梅津. 1978)言うまでも無いが、古代においては、大気汚染に大きなインパクトを与える自動車の排ガスは存在しなかった。しかし、現在の松に生える種を見る事は、多少の参考になるのではなかろうかと、敢えて調べてみた。
均茶庵の済んでいる湘南を中心とした松林あるいは公園・庭園の松を見て歩いたが、例外なく黒松だった。唯一、均茶庵のお隣の庭に、赤松が植えられていた。黒松以外の赤松及び五葉松を調べようとも考えているが、そんな場所が見つかっていないので、とりあえずは、黒松の結果を考えたい。
均茶庵は、運転免許証を返納してしまったので、丹沢・大山などの山地に行く交通手段を失ってしまった。ちゃり・バスで行ける、海岸~内陸50kmくらいまでの平地と里山の一部しか調べていない。機会を見て、より標高の高い場所を調べて見たいと考えているが、今回はあくまでも取り敢えずの調べとしたい。
尚、海岸地帯を除くと、松林の余りの少なさに驚いた。主な植生は、桜・杉・檜・欅・樫・楢などであり、場所によっては、松を見つける事も難しかった。天然木はなく、殆ど全てが人工植林だった。植物分布から、奈良~平安を懐古する事は簡単ではない。現在の景観は、奈良~平安時代の関西の景観とは大きく異なっていると思われる。
湘南の黒松に生えるコケ
蘚類:松に生育しているコケは、ほぼ下記4種、特に最初の2種に限られていた。これは、いずれ場所にも共通していた。どの場合でも、樹幹に密集して生育していた。
サヤゴケGlyphomitrium humillium
ヒナノハイゴケVenturiella sinensis
コモチイトゴケ Pylaisiadelpha tenuirostris
カラフトツヤゴケ Entodon scabridens
注)白色は、地衣類。
苔類:殆どが蘚類あるいは地衣類に混生する形で、僅かに生育していた。大部分がLejeuneaceaeで、肉眼で判別するのが殆ど困難な程だった。例外として、マルバヒメクサリゴケが、海岸から離れた、平塚市の里山で群落を作っていた。
ヒメミノリゴケ Acrolejeunea pusilla
ヤマトヨウジョウゴケ Cololejeunea japonica
ヒメアカヤスデゴケ Frullania parustipula
フルノコゴケ Trocholejeunea sandvicens
マルバヒメクサリゴケ Cololejeunea minutissima
ヒメミノリゴケ Acrolejeunea pusilla
地衣類:周囲の桜や梅に生育している場合でも、松には、殆ど生育していないケースが多かった。従って、殆どが小さな群落だった。又、海岸近くでは、大部分がコフキメダルチイであり、海岸からやや離れた場所で、ウメノキゴケやムカデコゴケなどが見られた。文献をみると、コフキメダルチイは大気汚染に強く、市内にも一般的に見られるとの事だ。
コフキメダルチイDirinaria applanate
コフキシロムカデ Physcia caesia
ムカデコゴケ Phaeophyscia melanchra
ロウソクゴケ Candelaria concolor
ウメノキゴケ Parmotrema tinctrum
ヤマトキゴケ Stereocaulon japonicum
蘚苔類・地衣類ともに、「詩歌」に詠われるような目立った種及び群落を見つける事はできなかった。
221227 均茶庵