白鳥飛翔
1
日本武尊(やまとたけるのみこと)を遣(つかは)して熊襲を(くまそ)を撃(う)たしむ。時に年(みとし)十六。(日本書紀)
天照大神・倭大国魂(やまとおほくにたま)、二(ふたはしら)の神を、天皇(すめらみこと)の大殿(みあらか)の内に並(いはひ)祭る。然(しかう)して其の神の勢(みいきほひ)を畏(おそ)りて、共に住みたまふに安からず。(日本書紀)
三輪山は厚い黒雲に覆われ、時折雷が鳴り響いていた。倭姫(やまとひめ)は窓辺に佇み、夕闇迫る庭を眺めていた。倭姫は大帯彦大王(おおたらしひこおおきみ)の妹に当たる。祭祀を司る最高位の巫女として、宮廷から少し離れた三輪山麓に住んでいた。
館の庭にある木の枝が大きく揺れてしきりに風が騒ぎ、西の空に立て続けに閃光が走ってゆく。辺りを白く照らしだしたかと思うと、乾いた地面に音を立てて雨粒が落ち始めた。
三輪山麓の清浄な山林を切り開いた地に神籬(ひもろぎ)が立てられ、神が祀られるようになって久しい。その神の名は天照大神、神籬とは神が降臨される場のことである。倭姫はこの地で神に仕える日々を過ごしていた。倭姫の霊力は高く、人々に敬われている。
風に煽られて舞う木の葉の行方を見つめながら、倭姫は甥の小碓王子(おうすのみこ)は無事でいるだろうか、と思いを巡らせた。
(小碓王子はまだ十六歳になったばかり、征西にふさわしい将軍がいないわけではなく、勇猛果敢な武人なら幾人もいる。それなのに大王は、なぜ選りによって年若い小碓王子に危険な熊襲討伐を命じられたのか)
そのことが倭姫には納得できなかった。小碓王子が船と兵士を大王から賜って西海に旅立ってから、もうかなりの日数が過ぎている。
巷の噂によれば、小碓王子は熊襲討伐を命じられる少し前の頃であったか、兄の大碓王子(おおうすのみこ)と組み打ちをしていて、簡単に兄の腕を折ってしまったのだという。
「よほど力があり余ってのことらしい。まるで木の枝でも折るように腕をもぎ取ってしまわれた」
というのは人が大げさに言いふらした噂であって、実際には兄の右腕が折れ、ぶらりと垂れ下がった状態になってしまったのだった。何しろ小碓王子は重い鼎(かなえ)を持ち上げてみせるほどの腕力の持ち主であったので、兄の腕を素手でひねり、引きちぎったかのように尾ひれがついて伝わったのである。
そのとき大碓王子は痛みで気を失ってしまい、倒れて動かなくなった。館に運ばれて薬師や呪師が呼ばれ、さまざまな手当てが続けられたが、右腕は元通りにはならず、使えなくはないが不自由さは残った。大碓王子は恥ずかしさから家に籠もってしまい、人前に姿を見せるのを好まなくなった。それで小碓王子は、どうも兄をひねり殺してしまったらしい、という噂も広まっていったのである。俗に双子のうちの一人は、左利きであることが多いといわれている。確かに、大碓王子は「左利きの王子」であったが、それはこういう事情が加わったためでもあった。
小碓王子は、人を素手でひねり殺せるほど並外れた力を持っている、と噂されるようになり、恐れられるようになった。誰もこの王子とは組み打ちをしようなどとは思わない。小碓王子の姿を見かけると皆ひそひそと耳打ちをし、なるべく係わるのを避けるようになり、大王を前にした朝餉、夕餉の席でも、ほかの王子たちは隣に坐るのを何となく譲り合い、小碓の側には近寄らなくなった。何気なく、誰かが大王にそのことを告げると、大王はしばらく考えておられたが、こう仰(おっしゃ)ったという。
「そうか。それほどの力があるのなら、熊襲の討伐もやり遂げるだろう。今回は小碓に任せてみよう」
熊襲が背いて大王に貢物を奉らなくなったのは、これが初めてではなかった。かつて熊襲が背いたとき、大王自身が軍を率いて西に赴き、服(まつ)ろわぬ熊襲を悉(ことごと)く平定されたのであった。けれども熊襲が大王に従ったのも束の間のことで、大王の軍が引き揚げて日が経つと、熊襲は少しずつその本拠地で勢力を盛り返していった。そして近頃ではまた背くことが多くなり、獣皮や鹿の角などの貢物、地の産物の類も献じられず、それどころかたびたび辺境を侵しているという知らせが届くようになったのである。それで大王は、誰かを遣わして再度熊襲を討つことを考えておられたのであった。
また密かに別の噂も囁かれていた。大王は実は小碓王子の乱暴な振る舞いに悩み、小碓王子を疎んじられる心がおありだったので、この機会に討伐を命じられたのだという。大王は年に似合わない小碓王子の豪胆さや膂(りょ)力を警戒し、内心では恐れておられる、というのだった。
それでは、これは西征に名を借りた小碓王子の追放なのだろうか。倭姫は考え込む。倭姫がみるところ、小碓王子は、確かに気性に荒々しいところはあるが、心は真っ直ぐであり、そのすぐれた資質のゆえにどこか孤独な面を持つ少年であった。
大和の神事、祭儀に関しては倭姫が祭祀を務め、大王は主として軍事、政治を行われる。大王の決断に何か迷いが起きたときには、倭姫が神意を伺う慣わしであった。天神地祇の祭祀の人選の吉凶や日時、旅の方位や時期などである。それ以外でも俄かに神が降りられたときには、倭姫が神の言葉を取りついで大王に伝えた。また占や託宣、夢見で神意が知らされると、たちどころにその内容を大王に告げることになっている。何か問題が生じたときには、直接大王がここを訪れることもある。
軍旅、将軍の派遣、また王族の婚姻の適否など、大王にも即断できないことはあった。そんな折、倭姫は潔斎して神前に進み、斎串を捧げて神に問うのだった。
神はよく倭姫に降りられ、神がかりした倭姫の言葉を、大王は面を伏せ一言も聞き漏らすまいとじっと耳を傾けるのが常であり、倭姫の夢見や宣(の)り言は、いつもある重みと畏怖をもって受け止められてきた。ところが今回、小碓王子を熊襲討伐のため西海に遣わすことに関して、倭姫には事前に何の相談もなかった。
「誰かが、小碓王子を用いるようにと、大王に勧めたのですか」
小碓の派遣を知ったとき、倭姫は驚いて周りに問いただしたが、
「実は、八坂入姫(やさかいりひめ)さまの夢見と伺いました」
と侍女が言いにくそうに告げると、あとは言葉を濁してしまった。八坂入姫の名が出ると、倭姫の眉は曇った。大王には吉備出身の后がいるが、そのほかにも多くの妃がおり、美濃出身の八坂入姫は、近頃大王の寵を一身に集めている有力な妃であった。何人もの男(ひこみこ)女(ひめみこ)を生んでおり、特に一番上の稚帯彦(わかたらしひこ)王子は、次の王位に即(つ)くのではないかと噂されていた。大王がいつも側に置き、ことのほか可愛がっておられたからである。噂では八坂入姫も自分の生んだ王子が王位を継ぐことを切に望んでおられるということであった。
その噂を耳にするたび、倭姫は甥のことを思って気を揉んできたのだった。本当は小碓王子の方が、母方の血筋やその実力、度量の大きさからみて、どの王子よりも大王位にふさわしいのだと倭姫は内心で思っていたからである。倭姫は夫も子も持たないが、もし自分に小碓王子のような子がいれば、と夢想することがある。
(小碓王子は幼少時から体力にすぐれ、聡明でものに動じない強さがある。それに較べると八坂入姫の生んだ王子たちは、武勇は人並み程度、気質も温和なのは良いが、大王の器としては凡庸で胆力に欠けているようにみえる。八坂入姫も、目をかけている長子の稚帯彦王子や次子の五百城入彦王子が、小碓王子に較べて色んな点で劣っているのはよくわかっているのだ。それゆえに八坂入姫は、本気で小碓を困難で危険な西征に出したかったのであろう)
倭姫は思うのだった。八坂入姫は自分の王子たちを安全な手元に置きたかったし、より確実に自分の子に大王位を嗣がせるためには、小碓王子を西海に向かわせるのが望ましいのであった。熊襲討伐は、いくら大力の持ち主であったとしても、まだ十六歳の小碓には難しい任務であった。怪我を負うかもしれないし、命を落とすかもしれない。仮に無事に帰還できたとしても、成果がないのであれば、小碓王子の評価は下がる。八坂入姫は、今のうちに競争相手となる王子を排除しておこうと考えたのに違いない。
(何とかして小碓王子の身を守る方法を考えなければ)
倭姫は小碓王子を失いたくなかった。生きて帰ってほしいと思う。何か小碓のためにできることはないだろうか、と思案するのだった……。
倭姫は神前に坐っていた。塵ひとつ落ちてはおらず、そこは清め尽くされた静謐な空間であった。倭姫が奉仕するのは天照大神で、この神はずっと倭姫の叔母に当たる豊鋤入姫(とよすきいりひめ)によって祀られていたが、豊鍬入姫が老齢になったため、その祭祀を倭姫が引き継いだのである。
天照大神はもともと大国魂神(おおくにたまかみ)とともに宮廷内でずっと祭祀されていたのだが、大王の側近くで祀られていたこれら二柱の神の勢いがあまりに強く、ともに住まわれるには不安が起きるようになった。国の中に疫病が蔓延して多くの民の命が失われ、また飢饉により百姓の流離、逃亡するものも止むことがなく、民草が尽きかけたのである。太占(ふとまに)の卜占や巫(かんなぎ)の夢見によれば、神の祀り方を変えよ、とのことであった。
そこで霊威を畏れた当時の大王によって、二柱の神は宮廷を出て、宮の外で祭祀されることになった。別々の女(ひめみこ)に神霊を託(つ)け、卜定した地に新たにそれぞれ神の宮が建てられたのである。
ところが大国魂神を預けられた渟名木入姫(ぬなきいりひめ)は、神との相性が良くなかったのか、身体がやせ細り頭髪も抜け落ちてお祀りができなくなったので、再度の占により、この神の祭祀は別の神官に任されていった。
天照大神を託された豊鋤入姫の方は、御神体である八咫鏡(やたのかがみ)と神剣を捧持して宮廷を離れた。初めは大和の笠縫邑に堅固な石の神籬(ひもろぎ)を造って神を祀り、次いで神の望まれる鎮座地を目指して大和を離れた。神は霊を分かつことができるので、やがて遠く丹波の地にも新たな宮地が定められて神は遷座、吉佐(よさ)の宮において大神が祀られた。豊鋤入姫は大和に戻ったが、その後も紀の国に赴いて名草浜の宮で、また吉備に赴いて名方浜の宮で大神を祀り、神威を広めるとともに各地で神を祀り鎮めたのであった。豊鋤入姫は再び大和へと戻り、三輪山麓の宮に籠もって大神に奉仕する日々であったが、老年になったので衰えには勝てず、ずっと傍らで祭祀を補佐してきた姪の倭姫にこの役を譲ったのである。
交替してからは、倭姫は三輪山麓の地において、引き続き大神に仕える日々を送っていた。神は心を籠めた奉仕で次第に和まれてゆかれたのか、ここのところ国のうちには悪疫も流行らず、百姓の離反も国境での騒乱も起きてはいない。
倭姫は朝夕の務めとして、明け方には昇る陽の光を拝し、夕べには沈む日に向かって拝礼を続けた。それは太陽を招き寄せて迎え、謹んで見送る古来の呪術であった。倭姫はまた神のために日に二度、食物を整えた。水、洗米、塩、醸した酒を土器に少しずつ盛り、季節の山の果実、茸、青物、豆類、干した海草、海老、鮑なども片木(へぎ)の上に美しく盛りつけてお食事を差し上げる。炊いた御飯や餅なども神の好まれるものであった。
奉斎する神鏡の鏡面はすぐに曇ってしまうので、朱砂と布を用いてよく磨き清めておかなければならない。小さな傷、汚れや染みもあってはならない。光り輝く鏡面にはどんな魔も近づけず、陽光を受けて発する光は、邪悪なものをはね返す力があるとされる。鏡が持つ辟邪(へきじゃ)としての呪力を倭姫は信じて疑わなかった。また滑らかな鏡面にはものごとの真性を映しだす力もある。映るのは真実であり、ものの本質でもあるから、それを知り、直視することは恐怖でもあった。けれどもそれを正しく視るのは神に仕える巫女自身の霊力であり、もし神の心に適わなければ、いくら磨いても何も視ることはできないのである。
美しい光を取り戻した神鏡をそっと神前に安置するとき、倭姫は畏れつつも、いつもその比類ない輝きに魅了された。明るく照り映える鏡は神の御姿そのものなのである。鏡にじかに触れること、奉仕することは誇りであり、心満たされるひとときでもあった。
(そういえば、近頃は大王がここへ来られることも絶えている)
倭姫はいつとはなしそのことに気づいた。以前のことになるが、判断を求められ倭姫が行った神占を、そのとき大王は神妙な表情で頷きつつ耳を傾け、帰ってゆかれたのだが、結局はそれを無視され、占は無駄になってしまった。大王は倭姫の占よりも自分の考えの方を優先されたのである。それより以前にも、人選について神意の是非を請われて神前で告げた託宣を、なぜか反故にされてしまったことがあった。大王が神意に背くようなことをなさっては、と倭姫はそのたびに訝(いぶか)り、不安に感じたものであったが……。
神が憑依し、神がかりした人間が何を言い出すかは大王には予測がつかないし、それはひたすら心を無にし、空(から)の器となって神の言葉を受け止め伝える倭姫自身にもわからないことであった。占や託宣とはそういうものである。大王に都合の良いことが必ず告げられるわけではないし、大王にとって受入れ難く、意に反することを言いだされたときに、困惑するのはほかならぬ大王自身であった。ここのところ大王が倭姫を訪ねなくなってきているのは、神の宣(の)り言と実際の政(まつりごと)の方向が、微妙にずれ始めたことが原因でもあったのだ。
当事者である大王と倭姫自身が誰よりもそれを感じており、実際に神前で両者の間に気まずい空気が流れたこともあった。倭姫が告げる神の言葉を聞き、大王が沈黙したまま長く考え込むこともあったし、内心の怒りを隠したまま冷静さを装って帰られたこともあった。託宣や占、夢告で示される神意のもとに政治が動き、さまざまな無理もまかり通った時代は少しずつ過去のものとなりつつあった。倭姫の受ける託宣によって政治が左右されるという事態を、もう大王自身が望んでおられないからであった。
(今回の小碓王子の派遣のことも、寵妃の八坂入姫の夢見というのが、取り上げられたようだ。それが大王の考えに合致するものであったからであろう。妃の夢見というのも、本当にそうなのかどうか)
倭姫には少々疑わしく思われる。自分の生んだ王子の王位を強く願うあまり、ほかの王子を排除したいという母の心が作りだした幻影ではないのか。けれども大王がそれを利用するかたちで、小碓王子に遠征を命じられたことが気になった。あまりにも秀でている王子、目立ちすぎる小碓に対し、大王には複雑な感情が生じ、密かに憂慮されているのかもしれない。大王は抑制しておられるが、自分を超える力を蓄えつつある小碓王子に、対抗心や嫉妬めいた感情を持っておられるのではないだろうか。もしそうだとしたら……倭姫は、わが子を警戒し、敢えて危険な試みに向かわせようとする大王の心を、ふと恐ろしいものに感じるのだった。
先の大王の治世の終わり近くから、流れは変わりつつあった、と倭姫は今にして思う。叔母の豊鋤入姫が、なぜ当時の大王に命じられて大和を離れなければならなかったのか。その事情はまだ幼かった倭姫にはわからなかったが、神を奉戴し、未知の地を指して進む旅の年月は、決して楽なものではなかった。倭姫も叔母に付き従って旅をともにしたことがあるので、その困難さを知っていた。
同じ大王の女(ひめみこ)として生まれながら、ほかの姉妹たちは大和で人にかしずかれて日々平穏に暮らし、年頃になればそれぞれふさわしい夫を得ていくのである。それに対し、選ばれて神に仕えるということは、宮廷の生活から切り離され、神の依り代となって厳重に身を慎むことを強いられ、多くの禁忌に呪縛され、ひたすら神に身を捧げることにほかならない。
神に近い特別な存在として「神の御杖(みつえ)」と呼ばれ、常に人に敬われはするが、大和にとどまることを許されず、あたかもさまよい人の如く、各地を流離するかのように旅を続けなければならなかった日々の辛さ、それに耐えていた叔母の豊鋤入姫の心を倭姫はしみじみと思う。先の大王、いやその前の大王の御代の頃から、占や託宣を巡っての対立や軋轢は始まっており、少しずつ潮流が変わりつつあったのだ。
大王の后あるいは妃、大王の叔母や姉妹など、霊力ある女性が神の声を聞いて祭祀を司り、男王が政治、軍事を受け持つという、「姫と彦」による国を統治する古の形態は少しずつ内部から崩れ、変容を遂げつつあった。
(今の大王も、私が受ける託宣や占をまったく否定されているわけではないだろうが、どうも私の告げる言葉がお気に召さないことが多いようだ。なるべくなら避けようとされる節があるし、占や託宣が、邪魔とも迷惑だとも感じておられるように見受けられる。小碓王子に突然遠征を命じられたのも、私が異を唱えれば面倒なことになるので、私が係わってくることを封じようとされたのであろう。目障りな小碓王子をこんなやり方で西へ遣わされるのなら、やがて私もまた、何か別のことを理由に大和から遠ざけられてしまう日がくるのかもしれない……)
「いつのまにか、風向きが変わってきている」
戸外に吹き荒れる風の音を聞きつつ、倭姫は独り呟くのだった。
小碓王子(おうすのみこ)の生母は播磨稲日大郎姫(はりまいなびのおおいらつめ)という女性であった。吉備に勢力を持つ有力な一族の娘で、その系譜をたどれば皇統につながる格の高さであった。大王がまだ若かった頃、播磨まで正式に妻どいに来られた折のこと、娘が婚儀の前に相手から身を隠すしきたりがあるのを知ると、大王はそのやり方に従い、自分の手で娘を探しだされた。娘は探索を逃れるため海上の小島にひそんでいたのだが、娘の飼っている白犬が吠えて居所を教えてしまったので、大王は舟で島に渡り、娘を見つけられたのである。
そして土地の慣わしのまま手順を踏んでゆき、娘に贈り物をし、親しく語らって心を通わせ合い、やがて住まいとなる宮が新たに建てられて、婚礼の祭儀も盛大に行われた。ほどなくして大郎女は身ごもったのだが、生まれたのは双子の兄弟であった。
双子というのは非常に珍しい上に、難産で母子ともに生命が危ぶまれる状態になったので、大王は呪(まじな)いとして臼(うす)に何度も大声で呼びかけられた。臼や杵は農具であるが、竪杵(たてきね)はその形状から男性、臼は女性になぞらえられ、古では呪性を持つ神聖な道具でもあった。
出産時、臼は女性の子宮に見立てられ、産屋(うぶや)の前に安置される。このときの臼は単なる道具ではなく、新たな命の籠もる容れものとしてであった。それゆえ生死の境にいる不安定な赤子の魂をこの世に呼び戻そうとして、父の大王が臼に向かっておらび続けたのである。人の叫び声には、この世を去って黄泉の国に向かおうとする魂を、この世に引き戻す力があるとされた。願いが届いたのか、双子は危うい死の淵を越え何とか無事にこの世に生まれることができたのである。そのことに因み、先に生まれた兄は大碓王子(おおうすのみこ)、弟は小碓王子(おうすのみこ)と名づけられた。
けれども母の稲日大郎女は力を使い果たし、若くしてそのまま黄泉の国へと旅立っていった。子の誕生と引き換えに、大切な母の命が失われたのである。双子の王子の誕生は大きな喜びごとであったが、娘の家族と大王の嘆きは大きく、深い悲しみの日が続いた。稲日大郎女にはすぐ下に妹があったので、この妹がとりあえず双子の王子の母親となり、面倒をみることになった。
日が過ぎるうちに、妹は亡き姉に代わって大王の寵を得るようになり、やがて双子を伴って大王の住まわれる大和へと迎えられていった。妹は亡くなった姉の名を負っていたため、すでに多くいた大和の妃たちの中には混じらず、特に選ばれて大王の后の座に上るという幸運にあずかったのである。それは父方の吉備の豊かな財力や権威、吉備の勢力が重視されたことによるものであった。この妹は面影が姉に重なっていたため、姉の名を引き継いで播磨稲日大郎女と呼ばれることとなった。そして后となってから立て続けに子どもたちを授かったので、吉備で姉が生んだ双子の王子のためには乳母や湯浴み役の湯坐(ゆえ)、守り人が何人もついて双子の養育に当たったのである。
双子の王子は人手に委ねられて順調に育っていった。双子の方からみれば母と子としての間柄は濃密なものではなく、接し方もどことなく希薄なままであった。実母ではないが、血はつながっており、双子を冷遇するわけでもないし、苛めるようなことも決してないのだが、母としてどうしても自分の生んだ幼い子どもたちの方に多くの愛情を注ぎ、強い関心を払ってしまうからである。そしてどう身びいきにみても、大和へ来てから新たに生まれた幼い弟王子たちは、小碓王子よりも多くの点ですぐれているとは言いがたかった。
双子の王子は母の后からあまり構ってもらえず、軽く扱われることに慣れ、いつも自分たちで遊んで過ごす日常をそんなものだと思い、逆に心が鍛えられて、母とは少し距離を持ちつつ大和で成長していった。自分たちの母として敬ってはいても、実母ではないこと、生母はすでに亡くなったことを、人から聞かされて知っていたからである。
双子どうしで過ごす日々の様子を侍女から聞き、自分でも垣間見て、倭姫はそのことを不憫に思い、機会があれば双子に近づいて親しく言葉をかけるようになった。倭姫自身も赤子のときに生母を亡くしていたからである。倭姫の母親は身分が高くはなかったが、倭姫は大王の子として認められたので、宮廷に引き取られ、后の子の数のうちに入れられて養育された。幼少の頃から夢見にすぐれ霊力が強く、その素質が並外れているのがわかると、祭祀を司っていた豊鋤入姫が自分の手元に置くことを願い出て、姪に当たる倭姫を引き取り、わが子のように慈しんで育てたのである。倭姫はずっと祭祀を手伝いつつ、豊鋤入姫のもとで影のように寄り添い、年月をともに過ごしたのだった。
倭姫は生母のことも知らず、宮廷に引き取られたいきさつも知らなかったが、成長した後になって、人からそのことを教えられた。そういえば幼い頃、ぼんやりとした記憶ではあるが、なぜかほかの姉妹たちとはよく馴染めず、母の后にもあまり可愛がられなかった。日々の暮らしの中で何かと後回しになることも多かったし、居る場所にも困り、いつも姉妹から離れて独りでぽつんと過ごしていたように思う。庭で花を摘み、集めた花で遊んだのを覚えている。そういうときに叔母の豊鋤入姫が近寄ってきて優しくしてくれたので、倭姫は叔母に惹かれ、懐いてしまったのだった。
神祀りをする女性は俗を離れ、身を清浄に保って神に近づき、神事の前の物忌みにも厳しい約束事がある。夫も子も持たない慣わしだが、人との交わりを一切絶って暮らしている訳ではなかった。双子の王子の置かれた境遇を知ると、倭姫はつとめて二人に話しかけて親しむようにした。肉親の愛情に餓えていた子どもの頃の自分の姿を、双子たちのどこか寂しげな表情や仕草に見たからであった。兄の大碓王子は人見知りしてなかなか打ちとけず、どこか用心深い気質であったが、小碓王子の方は関心を示してくれる倭姫に対してすぐに心を開き、倭姫も真っすぐな瞳を向けてくるこの甥に対しては、特別な親しみを感じて接するようになった。
双子の性格は大きく異なっていて、大碓王子は争いや競争が苦手であり、目立つことや前に出るのを好まない。小碓王子の方は逆に常に人の先を行こうとし、失敗など少しも恐れず思ったまま活発に行動しようとするのであった。弓矢や剣、石投げ、狩でも組み打ちでも、すぐれた小碓王子の技が評判になると、その分大碓王子は引っ込みがちになり萎縮するかのようにみえる。小碓王子は多くの才に恵まれ、臆せず人に混じり大声で話し性格も明るかったが、大碓王子はまるで弟の負の部分を一身に引き受けているかのように、万事控えめで後ろに引き、どこにいるのかわからぬほど存在が目立たなかった。それでも二人は双子という離れがたい特別な絆で結ばれているのか、兄弟仲は良いのであった。
小碓王子は倭姫を訪ねてくると、よく吉備の生母の話を聞きたがった。倭姫も実際には会ったことはない人であったが、双子を生んで若くして亡くなった吉備大郎女のことは兄の大王からも聞いていたので、知るかぎりのことは話して聞かせた。
「あなたのお母さまは、気品があってとてもきれいな方だったと大王から伺いました。あなたたちを生んですぐ、残念なことに亡くなられて、亡骸(なきがら)は丘に葬られることになったのですが、船で印南川(いなみがわ)を渡っているときにつむじ風が起き、川下から近づいてきて、亡骸を川の中に巻き込み、船が沈んでしまいました。いくら捜しても亡骸は見つからなかったと聞いています。ただ愛用されていた櫛笥(くしげ)と比礼(ひれ)だけが見つかりました。それでこの二つのお品を亡骸の代わりとして、お墓に葬ったそうです。褶(ひれ)墓と名づけられ、吉備の日岡の地にあるそうですよ」
この話を兄の大王から初めて聞いたとき、子どもの命と引き換えるようにして亡くなった吉備の大郎女のことが哀れでならなかった。その人は出産が長引いて母子ともに危険になったとき、自分の命はもう望まないから、子どもたちを生かしてください、と必死の思いで吉備の地の神に祈ったのではないか、と感じた。葬送の船が傾き、亡骸が川に沈んで見つからなかったというのも、神が女性の切なる願いを聞き入れた証として亡骸を受け取り、その衣の一部のみを返してこられた、とも考えられる。
倭姫は双子と接していると、亡くなった吉備の大郎女から、この子たちのことをお願いします、と頼まれているような気がしてくることがあった。
王子はたびたび言うのだった。
「吉備を訪ねて、その墓に詣でてみたい」
「いつか機会はありましょう。その折に訪ねられるとよいのですよ」
そんなやりとりも交わしたのである。
小碓王子が発路(みちだち)の挨拶に倭姫のもとを訪れたとき、久しぶりに見る甥の表情が思いのほか生き生きとしているのに気づいた。危険であることは承知しているのだが、大和を離れたことのない王子にはまだ何の実感も起きない。むしろ武勲を立てて、父王に力を認められたい、と少年の率直さで思っているようだった。自分が選ばれて差し向けられる本当の理由には気づいておらず、初めての旅を前にして気持ちが高揚し、その高ぶりを隠せない。成功の暁には叔母にも自慢できる、とさえ考えているらしい。身体は大きくなっても、心はまだ稚ない子どものままなのだ、と倭姫は感じた。
旅立ちに当たり、倭姫は餞(はなむけ)の品を差し出した。倭姫が着用する衣装であった。倭姫は小碓王子の無事を祈ってこの衣に思いを籠めたのであった。王子は女物の衣装を手にとって眺めると、首をかしげた。
「これは、どのようにして使うのでしょうか」
「役立つことがあるでしょう。そのときが来ればわかります。この衣を身に着ける機会は一度だけです。この衣で自然に振る舞い、人と同じように舞うことができます」
謎めいた言葉とともに、倭姫は白い衣にさらに白い羅(うすもの)を添えて渡した。
衣はそれを身につけていた人の魂が宿るものである。それゆえに人の衣をもらうことは、その魂を授かることでもあった。けれども小碓にはその意味がまだよくわからないらしく、ただ不思議そうに見ていた。とにかく叔母からの餞別の品であるので、王子は大切に押し戴いて持ち帰った。
軍船とお伴の兵士を大王から賜って軍を率い、小碓王子は西征に赴いていった。途中嵐に遭って船が漂流しかけて難儀したこともあったようだが、何とか力を合わせて皆で切り抜け、上陸後は敵に襲われることもなく旅を進めることができ、小碓王子はやがて熊襲の住む地に至った。逸る気持ちを抑えて人を放って土地の事情を探ってみると、熊襲の首領は兄弟で名を熊襲建(くまそたける)といい、その本拠とする邑(むら)の中に、新しい大室(おおむろ)を建てている最中であった。近く室が出来上がるらしく、そのときには近隣から多くの客を呼んで新室の宴が催されるということであった。
王子がさりげなく様子を見にゆくと、邑では男たちが大勢集まって幾重にも熊襲の住処を囲んで守っており、その近くでは新たな室が造られつつあった。男たちが分担して働いており、山で伐った木を運んできて削ったり並べたり、それぞれに仕事をしている。枝を払い落とした木や樹皮をはいで滑らかにした木、水に浸して充分に乾燥させたらしい、吟味された太い木などもたくさん貯えられて置かれてあった。
地面は大きく円形に掘り窪め、築(つ)き固められてあった。壁代わりに木の枝を周囲に隙間なく差して立て並べ、掘った土は雨水が流れ込むのを防ぐために、建物の周りに堤のように盛り上げ固めてある。次いで柱を高く立て、梁や垂木を差し渡し、綯った藤蔓で木と木を結び合わせ、茅で屋根を葺いてゆくのである。出入り口は一箇所で、足掛けの刻みがついた板梯子(いたはしご)が取りつけてある。室へ入るには、数段下るようになっていることなどを、王子はしっかり心に刻みつけた。何日かたつと大室はいよいよ完成に近づいたらしく、どこからか女たちが集ってきた。多くの食べ物を前にして賑やかにしており、祝宴の支度に取りかかっているようである。山の獣の肉、川魚、保存しておいた干肉や干魚などを炙ったり煮たり茹でたり、手分けして忙しく立ち働いている。
小碓王子の一行は気づかれないように近くにひそんで、祝宴が始まるのを待っていた。宴は夕方から始まるというので、小碓は結っていた髪を解いて土地の乙女のように梳(くしけず)って垂らし少女を装った。叔母の言っていたのはきっとこのことだと思い、授かった女物の衣装を着てみると、ぴったりと身に合った。次いで宴の開かれる場へと出向き、新室を祝う女たちが集っている中にそっと混じったが、誰も気づかなかった。小碓王子のすぐ近くにいた女たちですら、王子がいつ紛れ込んだのかわからなかったのである。
白いひと揃えの衣は小碓王子の身を守る護符であり、その実体を覆い隠す隠れ蓑のような不思議な働きをした。倭姫は強い霊力を持つ女性だったので、その身につけた衣をまとうと、たちまち小碓王子は倭姫の霊性を身に帯び、倭姫と同様の呪力を得たのである。
新築の室の宴では、まず女たちが室の中で床を踏み鳴らして舞踊をし、地の精霊を鎮めるしきたりがあった。王子はその「大地踏み」の列に難なく溶け込んで入っていった。それは歌に合わせて大きく足踏みをし、地に棲む悪霊、邪霊をくだき伏せる儀式であった。先頭をゆく女は、頭に特別な草飾りを巻き、色の違う織り布の帯を締めた老女であったが、続く女たちは中年の女も少女も混ざり、その年齢もさまざまであった。皆で大きな円をつくり、ゆっくりと進みながら地を力強く踏んでゆく。反閇(へんばい)と呼ばれる足踏みである。その緩やかな動きは三歩ごとに両足を揃える禹歩(うほ)に似て、いっせいに踏み鳴らす音、その轟きが邪気を祓いのけるのであった。
三輪山では山麓に嵐が近づいていた。激しい雷鳴が頭上で炸裂したかと思うと、白い閃光が立て続けに走って暗い山の稜線をくっきりと浮かび上がらせる。今まさに敵の中に入ってゆこうとする小碓王子の緊張を感じ取った倭姫は、冷静な声で王子の心に呼びかけた。
「私は今、王子とともに列の中にいます。ゆっくりと手と足を動かしなさい。人の動きに合わせてゆっくりと、そして力強く拍子をとって、女たちと一緒に地を踏むのです」
小碓王子は、女たちの中でその力ある所作と高い足踏みの音で他を圧していたが、薄ものの下に隠した素顔とその意図には誰も気づかなかった。少し風変わりで見かけない顔だが容姿の整った乙女だと、人の目に珍しいものに映っただけであった。やがて鎮めの舞が終わると、女たちはそれぞれに散らばって座に混じり、酒や料理もふんだんに運ばれてきて、その場に集う人々に振舞われた。室内ではさかんに酒が酌み交わされ、声高に歌や手拍子が打ち鳴らされ談笑が続き、宴がたけなわになっても、まだ誰もこの少年が懐に隠し持っている剣のことを知らなかった。熊襲の兄弟は、見慣れない装束だったがこの乙女が好もしく思われたので、側に招き手を取って坐らせた。乙女はいかにもしおらしい様子で、交互に兄弟に酒を勧めるのであった。
小碓王子はもともと胆力があったが、それに加えて叔母の霊能をも合わせ持ったため、異族の男たちは女装する男子を間近に見ても、その正体を見破ることができなかったのである。熊襲の兄弟は珍しい乙女に注がれるままに酒を呑んだ。座の男たちはある者は酔いつぶれて横になり、起きている者も次第に少なくなり、酒を含みながら朦朧とした赤い目になって視線を宙にさまよわせている。
ひときわ大きな落雷の音が響き、三輪山の木が裂ける音がした。周囲に気を配りつつ時を窺う小碓王子の耳もとに、倭姫は低く告げた。
「今です」
小碓王子は、そっと懐から剣を出して握り直すと、隙を見て素早い動きで横にいる熊襲の首領の兄の方に身を寄せていき、相手の衣をきつく掴むと一気に胸を深く刺した。夜も更けてきた室内は灯された火も消えそうに揺らいで暗く、誰も一瞬何が起きたのかよくわからない。酔ってその場に崩おれかけた首領を、乙女が手を添えて介抱しているのだとしか見えなかった。小碓王子は思いがけない力を発揮して、このとき敵を倒すことができたのである。熊襲の首領は、小碓王子が絶え間なく注いでくる酒を呑み続けて酔ってしまい、油断していて刺され、変装した王子の真実の姿に気づいたのは、息が絶える寸前であった。
弟の熊襲建(たける)はふと異変に気づいた。声を上げることもなく前のめりに倒れ伏した兄の体から流れ伝う血を見たとたん、はっとなって我に返り、立ち上がろうとして思わずよろけた。酔っていて足がもつれたのである。熊襲の弟建(おとたける)は出入り口の梯子のもとに何とか急ぎ、一刻も早く外へ逃れ出ようと梯子につけられた段刻みに足をかけた。二段目を上ろうとしたときに、王子が追いついた。そして弟建がまとっていた鹿皮の背当てをつかんでめくるなり、後ろから剣で刺し通した。
弟建は身動きもできず、低いうめき声とともに痛みに耐えつつ、逃れる方法はないかと探っているようだった。信じられないことであるが目の前で兄が呆っ気なく倒され、自分もまた刺されてしまい、もはや助かる道がないのを知った弟建は、苦しい息をつきながら言った。
「何方(どなた)ですか」
「私は、大和を統(す)べる大王の子で小碓という者だ。お前たち兄弟が大王の意に従わず、しばしば無礼を働くというので、討伐のために大王から遣わされた」
「そうでしたか。西の方には我々兄弟を除いて、猛者はおりません。けれども大和の国には我々二人よりもっと強い方がおられた。そのことがよくわかりました……。どうか今少しその剣を動かさないでください。申し上げることがあります。もしお許し願えるのなら、我々の服従のしるしとして建(たける)の名を献上いたしましょう。名に籠もる魂もともに差し上げます。王子を大和のすぐれた勇者と称えましょう。これからは、やまとたけると名乗られますように……」
言い終わると弟建はがっくりとその場に膝をついた。敗者の名の献上は、服属の証であった。大王に背いた賊徒として討伐されることには違いないが、先に部族の長が大王側に降伏の意思を示した、ということになればまた事情は違ってくるし、今回の討伐にも手加減がなされるかもしれない、という心が働いたのである。懲罰の度合いが少しは軽くなるかもしれない。死の間際ではあったが、とっさに決断し、ともかく熊襲の長は大和の王子に服属することを告げたのであった。
背後では倒れて動かない首領の姿に異変を感じ、刺客の存在と敵襲を知った者が、大声を上げていた。室内はにわかに騒然となった。王子はためらわず剣を振るい、弟建の身体を、熟した瓜を切り刻むようにして割(さ)き殺した。怨みを呑んで死んでゆく者は、殺した当の相手に取り憑いて祟りをなすことがある。死体(むくろ)を分断するのは、その霊の蘇りを封じる呪術でもあった。
そうする間にも叫び声を聞いた王子の軍が外からなだれ込んできて、双方入り乱れての戦いとなった。そしてその夜のうちに抵抗する熊襲の人々はすべて平らげられ、敵対する者はいなくなった。
是(ここ)に、日本武尊、髪を解きて童女(をとめ)の姿と作(な)りて、密(ひそか)に川上梟師(かはかみのたける)が宴(うたげ)の時を伺ふ。(日本書紀)
その弟建(おとたける)見畏みて逃げ出でき。すなはちその室の椅(はし)の本に追ひ至りて、その背の皮を取り剣を尻より刺し通したまひき……。
「ここを以ちて吾、御名を献らむ。今よ後、倭建(やまとたける)の御子と称えまをさむ」とまをしき。この事白(まを)し訖えつれば、すなはち熟瓜(ほそぢ)のごと、振り拆(さ)きて殺したまひき。(古事記)
2
爰(ここ)に倭姫命、大神(おおみかみ)を鎮(しづ)め坐(ま)させむ処(ところ)を求めて菟田(うだ)の篠幡(ささはた)に詣(いた)る。更に還(かへ)りて近江の国に入りて、東美濃(ひむがしのかたみの)を廻(めぐ)りて、伊勢の国に到る。(日本書紀)
御杖代と定めて、此従(ここよ)り倭姫命、天照太神を戴き奉りて行幸(みゆき)す。
大和の国の宇多秋宮(うだあきのみや)に遷りたまひ、四箇年の間を経て斎き奉る。時に倭の国造(くにのみやつこ)、釆女香刀比米(うねめかとひめ)と地口御田を進(たてまつ)る。(倭姫命世紀)
倭姫は大和を出て、宇陀の阿紀の宮で天照大神を祀っていた。山あいを流れゆく小川のほとりに祠が建てられ、なだらかな丘が近くに見えている。庭先には静かに雪が降り積もり、人の賑わいは遠のき、寒さだけが身に染みるように感じられる。今年に入って初めての雪であった。冷え込みがいつにも増して厳しく思われて、倭姫は大和を離れた地に来ていることを改めて思うのだった。
西に向かった小碓(おうす)王子が熊襲を討伐したという知らせは、直ちに使者によって大和の大王のもとへと届けられた。叔母の倭姫の御衣装を着て酒宴の席に紛れ込み、巧みに敵の目をくらまし、難なく熊襲の首領兄弟を倒した、という話が伝わると、大和の人々は皆そのめざましい活躍に驚き、口ぐちに若い王子の勇気を誉めそやした。小碓王子は死に臨んだ熊襲の首領からもその力を称えられ、たけるという名を献上されたという話も伝えられた。たけるとは雄々しい男の呼び名である。日本武尊(やまとたけるのみこと)という名は、小碓王子に似つかわしい名であり、王子はまるで神のように振る舞える人なのだ、と評価が一挙に高まっていった。王子が旅から帰還する前から、大和ではいずれ大王になる器の人だと多くの人が思い始めたのである。
「やがて小碓王子が次の大王位を嗣がれ、倭姫さまが祭祀をなさる」
霊能の倭姫と武勇の誉れ高い若い王子、この叔母と甥の組み合わせは最良かつ最強のものとも考えられ、まだ今の大王が健在であるにもかかわらず、次の大王はこの王子に間違いないなどと言いだす人もいた。有力な後継者だと思われていた八坂入姫の長子、稚帯彦(わかたらしひこ)王子や次子の五百城入彦(いおきいりひこ)王子の存在はすっかりかすんでしまったのである。少し前まで、大碓王子の腕を素手でもぎ取ったらしい、などと噂され恐れられていた乱暴な小碓王子の風評がたちまち一転し、武勇の王子、日本武尊と称えられるようになっていった。けれども巷でのそんな評判を耳にするたび倭姫の不安は募っていった。複雑な大王の心のうちも八坂入姫の胸中も、そこにくすぶる不快の念や感情の揺れも手にとるようにわかったからである。
そんなある日、大王が久しぶりに倭姫のもとを訪れた。用向きは宇陀の地への将軍の派遣についてであった。宇陀は大和からみて東、山を越えた地にある。
宇陀は阿騎野(あきの)とも呼び慣らされるが、古くからそこは朱砂の産地として知られていた。朱砂は辰砂(しんしゃ)とも呼ばれ、丹(に)として珍重されている。鮮やかな赤土の色には強い呪力があるとされ、塊はくだいて細かくして用いた。神事、祭儀の折の魔よけ、祈祷、呪術に使用するほか、器物に塗り、武器、道具に模様を描くのにも使った。また貴人の埋葬時には遺体を朱で覆い、墳墓の内部にも多量に撒かれた。建物や船の材に塗れば防腐の効果があるし、鏡を磨くのにもよい。また朱砂を「はそう」という特別な土器に入れて密閉し、熱を加えて竹の管で水中に導くと、貴重な水銀(みずがね)が得られた。これをごく少量服用すれば、老いを遅らせ、老人も若返ることができるといわれ、不老長寿の仙薬であった。朱砂の用途は実に多岐にわたっていたので、その産地はどの時代の大王からも重視されてきた。
朱砂が採れる地としては、桜井、吉野、宇陀、室生、近江の坂田、米原、伊勢などが知られていた。中でも宇陀と伊勢にはすぐれた朱の鉱脈があり、地表に露頭が見られ産出が多かったため、大王は朱砂のとれる地には格別の関心を持っていたのである。
大王は倭姫に言われた。
「宇陀の地では、近年土地神の力が盛り返しており、天照大神を祀ることが怠られている。大神の祭祀がされておらず、弓弭(ゆはず)の貢物も、地の産物の丹も、織り布の類も届けられるのが遅れがちで、量も減っている。そのことを宇陀の村の長にたびたび教えさとしたが守らない。何かと言い訳ばかりして逃れようとする。人を遣って調べてみると、長には大和に対し密かに不服従の心があるというのだ。何か企みを持っているのかもしれない。そこでこのたび武渟川別(たけぬなかわわけ)、彦国葺(ひこくにぶく)ら将軍を遣わすことになった」
大王はほかの将軍の名も幾人か挙げる。いずれも精鋭である。
「宇陀の地に、軍を遣わされるのでしょうか」
「軍は出すが、いきなり宇陀に攻め込むという訳ではない。まずは大神が赴き、土地の神に対して、大神によくお仕えするかどうかを改めて問うかたちをとる。大和に服(まつろ)うか否か、大王の命に従うかどうか、その諾否を宇陀の長にじかに訊く。長の返答次第では、あるいは兵を用いることもやむを得まい。戦に備え、そのためにも軍は選りすぐった兵を集めた。倭姫は天照大神の神霊を奉戴してここを離れ、随伴する将とともに宇陀の地へ赴いてもらいたい。宇陀には大神を祀る阿紀の宮が置いてある。その神前で長に対して、服するか否かを問いただす役を務めてもらいたいのだ。大神の加護を願い、神の降臨を乞い、そこでよく大神の神威を顕し、土地の神を鎮めることを頼みたい。その後のことは、宇陀の側の出方にもよる」
倭姫は少し沈黙する。宇陀の長は急に現れた大王の軍を見れば、おそらく畏まって帰順の意を示し、反逆するようなことはないであろう。気が緩んだかして貢物や祭祀のことは怠慢になっていただろうが、この際大和を敵にしたらいったいどうなるのか、大和の兵力の恐ろしさについて長は知悉(ちしつ)しているはずである。鳥獣など産物も丹も布も、今まで滞っていたことを詫び、より多くのものが貢進されるようになるのではないか。
それでは倭姫が宇陀でどのくらいの間逗留することになるのか、その後は大和へ戻れるのかどうか。大王はその点については、曖昧にしていた。
「それでは、いつ宇陀へ軍を動かそうとお考えですか」
「兵の準備さえ整えば」
大王がそのような言い方をするとき、すでにほとんど出発の仕度は完了しているのだった。そのことを告げるために、大王は今日ここへやって来たのであろう。大王の顔色を見ていて、倭姫は心の中で、ああ、やはり、と感じたのだった。いずれ大和を離れる日が来るのではないかと覚悟はしていたが、それにしても小碓王子の帰還の日も近づき、会うのを楽しみにしているのに、その気持ちを知りながら、小碓を待たずに宇陀に行くように、と命じられるのはどういうことだろう。大王は私を王子に会わせたくないのであろうか。きっとそうなのに違いない。倭姫はそっと溜め息をつく。
(大王は平然と私の大切なものを遠くへやってしまおうとされたし、やっと再開の日が近づけば、たちまちこうやって引き離してしまおうとされる)
宇陀へ兵を出す、というのは軍事上のことであるから、倭姫が直接係わる領域ではない。大王の意思ですでにそう決まっているのなら逆らえないが、小碓王子の帰還をここで見届けられないのが心残りであり、残念であった。王子は帰途吉備に立ち寄ったのはいいが、そこで母方の親族に歓迎されるまま日を過ごしているらしく、帰る予定がかなり遅れていたのである。
祭祀にかかわる忌部(いんべ)の神人たちが出入りして、慌しく出発の準備がなされていった。御神体の鏡と剣は幾重にも布で巻いて厳重に筥(はこ)におさめられ、神祀りの祭具、呪具の類も同様にしまわれた。そして倭姫は神霊を奉戴して大和を離れ宇陀へと向かった。旅の列には、忌部の神人たちや倭姫を補佐する巫女、身の回りの世話をする侍女たちがつき従った。警護には武渟川別(たけぬなかわわけ)、彦国葺(ひこくにぶく)、十千根(とおちね)、大鹿嶋(おおかしま)、武日(たけひ)ら武人たちの顔が見える。これら随伴する多くの将に囲まれると、倭姫はあまりのものものしさに驚き、心に当惑を覚えた。今回の旅の持つ意味についても考えさせられる。安倍、和珥(わに)、物部、中臣、大伴、これら五部の武人たちはそれぞれ軍を率い、大王が言ったようにどれも精鋭の兵を揃えてあったからである。
(どのような旅になるのか。どんな危険が待ち受けているのか)
大和の地は少しずつ遠ざかってゆく。もうこの先大和に戻って住むことはないような気がしてきて、青垣の山並みを、その麗しい山の重なりを、切ないような思いで目に焼きつけるのであった。
宇陀の長は大和の軍を見て恐懼(きょうく)し、畏まって迎え、恭順の意を示した。まさかこのような軍勢が来るとは思ってもみなかったようである。倭姫の一行は川に沿って青草の生い茂る阿騎野を南下し、山蔭にひっそりと営まれている阿紀の宮に着いた。ここは初代の大王である磐余彦(いわれひこ)大王が戦の陣を置いて神を祀り、大和へ入る前にとどまった地であった。
磐余彦大王の軍は日向を発ち、大和を目指し内海を進んで浪速の渡に達し上陸した。そして生駒山麓の日下(くさか)で戦となり、土地の長髄彦(ながすねひこ)軍に破れ、長兄が負傷して海上に退いたのだが、長兄は軍中で歿(な)くなられた。熊野の海を迂回するうちさらに長兄に続いて兄弟二人を海で失うが、軍団は再び南部の浜辺に上陸し、熊野山中を八咫烏(やたがらす)に案内され、宇陀に至ったと伝えられている。
大王軍は宇陀の地を戦の拠点とし「大旗を立てた」といわれており、それがここ阿紀の宮であった。大王はしばらく宇陀にとどまり大和へ入る戦略を練ったが、その間臣下の天日別(あめのひわけ)に兵を与え、伊勢の地を平定するために遣わした。天日別は伊勢へと向かい、土地の長の伊勢津彦を退けて大風の吹きすさぶ海上に追放、伊勢津彦は海を漂ってやがて信濃へと逃れ落ちていった。天日別は伊勢を掌握した後、宇陀にいた大王のもとに復命している。
宇陀では、磐余彦大王の軍と、土地の長の兄宇迦斯(えうかし)軍との間で、熾烈な戦いが繰り広げられ、多くの血が流されたのであった。そのことにより戦の地は今も宇陀の血原と呼ばれていた。
阿紀の宮は長く手入れもされておらず、古びて荒れていた。早速同行の忌部の人々によって近くの山から木が伐りだされると、新しい宮と倭姫のための御座所が造営されていった。そして卜定された場所に神籬が立てられ、必要な祭具が調えられた。神前にはうやうやしく神鏡が掛けられ、神剱が安置され、幣帛も捧げられていった。
準備が整うと、宇陀の長が阿紀の宮に呼びだされた。神前に倭姫が坐り、その前に宇陀の長とその娘が平伏し、周りの座には五部のお伴の武人たちが控えて、成り行きを見守った。神前を静かにひとしきり風が吹き抜けてゆく。
ややあって倭姫に神が降りられると、おごそかな神の声が降った。
「宇陀の国津神は、天津神に仕えまつるか」
倭姫の声は、よく通る力強い男神の声であった。大神の声は辺りの空気を震わせて響いた。宇陀の長は聞くなりさらに深く身体を折り、その場に額づいて返答した。
「謹んでお仕え申し上げます」
「如何にして」
「良き地口および御田、そしてわが娘の香刀姫(かとひめ)を大王に奉ります」
それは服属の儀礼であった。そこにいた人々には、倭姫と宇陀の長の間で交わされる問答と聞こえるのであったが、実は大神が憑依した倭姫が、同じく国津神の憑依した長に対して、服属の諾否を問うているのであった。真の対話は天照大神と国津神の間でなされていたのである。そして服属の証となる長の娘香刀姫は、その身に宇陀の国魂を付して、大和の大王のもとへと送られるのであった。
倭姫は香刀姫の様子を見て、娘は大和へゆくのを少しも嫌がっておらず、むしろ選ばれたことを内心で喜んでいるように感じられたので安堵した。宇陀と大和はそう離れてはおらず人の往来も割にあったから、これまで色々噂に聞いてきた華やかな場所だと思っているらしい。
倭姫は国津神の祠に覆いを掛け、天津神を奉斎する正式な祭祀を執り行なった。国津神は覆われることによって大神に屈して冥界へと去り、その力を大神の前に封じられるかたちとなる。その後覆いは外され国津神は小祠の主として蘇ることは許されるが、社の境内の一隅にとどめ置かれて、その神霊の力は弱められ、大神に従属する立場となる。衰退した神を幽暗の世界に隠れる神と化(な)す、これが国津神を封印する呪術であった。天津神にとって、異族の神、地の神は脅威となり害となる場合もあるが、滅ぼしてしまうことはせず、このようにして従わせるのであった。
別の日、長から献上される地口と御田を、倭姫自身が確かめることになった。見て歩くのは倭姫であるが、大神が憑依しておられるので、実際にご覧になるのは大神ということである。
宇陀の長に案内されて川筋を歩むと、鮮やかな朱の色の大岩が目を引いた。川底に朱砂が厚く溜まっている所もある。一瞬それが血の色にも見えて、倭姫はこの地で起きたという戦の日々を思い浮かべ、心が痛んだ。血原というように血がつく地名は、戦場で流された血の色に由来するものと、土の色が本来赤いためについた地名とがあり、両者が重なっていることもあるという。ここはどちらとも見分かちがたかった。戦の記憶の残る地は、宇陀に点在していたからである。
土が赤いのは山中に朱の鉱脈が走っており、雨で削り崩されてきた朱砂が、川の曲がっている所や流れの淀みに集まるからだという。鉱脈を見つけて井を掘り、採掘や加工に長けているのは丹生(にう)の民で、この一族は朱のある場所を求めて住みかを変え、山々を移り住んでいくということであった。美しい紅の縞になっている石や、斑入りの朱色に染まる岩を珍しいものに感じ、倭姫はじっと見つめるのであった。
宇陀の長は地口と御田を献じていた。御田は神田のことであるが、地口というのは、いわば水のない井戸で、地面にぽっかりとあいた穴が地の口であり、そこから水銀を含む赤い土が掘り出されるのである。
採掘のために男たちが獣の皮の腰当てをつけ、藤蔓を伝いつつ地底の穴に降りてゆく。長い尾を垂らしているような姿を倭姫は興味深く見守った。男たちは井の底でしゃがみ込み、黙々と赤い土を採っている。固い土のようだが、水を含んだねば土の場合もあるという。井の内部は赤く染まり、朱の壁に染み出た水銀の粒が玉のように光って妖しい輝きを放っており、覗き込んだ倭姫は畏れを感じ、思わず身を引いた。不思議な地底の異界を垣間見る思いであった。
宇陀の長が献じた地口は、従来のものよりも経が大きい上に、底から水が湧くこともなく、まだ掘り進めてから日が浅いけれども、良質の朱が多く採れるということであった。
次いで近くの山へ案内されて、倭姫は宇陀の地をしばし眺めた。これは大神のなさる国見の儀礼のひとつとして行われたのである。国見をするのにふさわしい高い山は別にあるが、倭姫が上ってゆくのは難しいため、近くにあって見晴らしの良い低い山が選ばれたのである。頂上に着くと、豊かな緑の野が眼下に広がり、川がうねって流れゆく山里の情景が眺められた。のどかな風景の中に佇んで憩っていると、従者が息を切らせながら上ってきて、倭姫に告げた。
「今、大和から王子が訪ねてこられました。お目にかかりたいと仰(おっしゃ)っています」
「まあ、小碓王子が」
従者は誰とは言わなかったのに、倭姫にはそれが小碓だとすぐにわかった。
「王子を阿紀の宮にお連れして、そこでお待ち頂くように申し上げたのですが」
従者は困ったような表情を浮かべた。倭姫が驚いて山道を見ると、そこにはもう近づいてくる小碓王子の姿があった。王子は倭姫を見るなり、こちらに向かって駆け上がってくる。人目があるので、再会の嬉しさを大げさに表すのは控えるつもりだったのに、倭姫は小碓王子の手をとって思わず涙ぐんだ。
「よくご無事で帰られました。みごとな働きをなさって」
「それもこれも、みな叔母さまのおかげです」
王子は弾んだ声で礼を述べると、戦のあらましを語った。宇陀の長も傍らで熱心に耳を傾けている。長は勇猛な小碓王子のことは伝わってくる噂で知っていたが、これがその当の王子なのだと感じ入ったらしく、宇陀の山々の名や、川の名、眼下に開けた村落を指さしてはその名を告げ、丁寧に王子にも説明していった。王子は宇陀の地を眺めつつ、頷いてそれを聞くのだった。
王子は数日宇陀に滞在して狩なども楽しみ、やがて大和へと戻っていった。倭姫は名残を惜しみつつその姿を見送ったが、王子がこんな風に宇陀を訪れたことは、ほどなく宇陀から近況報告の用なども兼ね、大和へ戻った将の大鹿嶋によって、大王の耳に入ることとなった。
大鹿嶋は倭姫と宇陀の長とのやりとりの一部始終を大王に奏上し、次の指示を仰ぎ、また宇陀からの貢上品と香刀姫を送り届ける役として、大和へ赴いたのであった。大鹿嶋は、大王から倭姫へのねぎらいの言葉とともに、新たな命令も持ち帰った。
「大王はこのように仰っています。倭姫はよく務めてくれた。今後のことであるが、倭姫は引き続いて大神を奉じ、大神の神霊を阿紀から篠畑(ささはた)の地へと遷すように。そして篠畑の次には伊賀を目指してほしい。伊賀からはさらに近江へ還って、美濃、尾張を経て伊勢へと入り、最後に伊勢の川上の所縁ある良き地を求め、大神を祀り鎮めるように、と」
大鹿嶋の伝える言葉を聞いて、倭姫は確かめた。
「大王は、最後には大神を伊勢に祀り鎮めよ、と言われたのですね」
倭姫は考え込む。この大神は大王の殿舎の中に祀られていた霊威ある神ではあったが、その根源(もと)を探れば、初めて大和に降りられた神ではなかった。天界から伊勢のとある霊地に降臨されたと伝承される神であり、伊勢の民が斎き祀ってきた伊勢の日の神であった。
この大神は、天日別(あめのひわけ)が伊勢から宇陀へと遷し、磐余彦大王に献じた神霊であった、と倭姫は聞いていた。天日別が伊勢討伐に赴き、伊勢津彦を下して伊勢を掌握した際、伊勢で祀られていた日の神の神霊が、磐余彦大王に献じられたのだという。ある土地を支配することは、その地の祭祀権を掌握するにほかならない。天日別はかつて宇陀で復命の折に、伊勢のあらたかな神霊を、大王に献じたのであろう。
神は、篤く敬い加護を願って祭祀するものに対し、その願いに応え霊威をあらわし恩恵をもたらすとされる。このとき以来、伊勢の大神は、初代の磐余彦大王から九代の大王まで宮廷内に祀られていたが、その示される神威のあまりの激しさにより宮廷にとどまることを得ず、大和を出られたのであった。
この神は豊鋤入姫に斎かれて多くの地を巡り、各地の神々を従えてゆかれたが、どこにも永くとどまることはなかった。それは大王が国覓(くにま)ぎや妻覓(つまま)ぎの旅に出かけられたように、大神もまた大和を出て各地に遷幸し、地霊、地の神を従属させる神覓(かみま)ぎの旅路をたどられたというのであった。神はどの地を求めて進まれるのか、豊鋤入姫はついにその最終地については明らかにしないまま、倭姫に神を託したのであった。倭姫は長年にわたって豊鋤入姫の祭祀を傍らで補佐してきたが、この神の旅が終わりに近づいたとき、永久(とわ)の鎮座地として真に望まれるのは、その初めに天から降りられた地、伊勢の川上であるかもしれないと、近頃では倭姫もまた心のどこかに感じられることがあった。
この神は、その霊威の強さゆえに大王からも畏れられ、次々と遷座を繰り返されてきたのだが、もうそろそろ神にもとの地にお還りいただく季(とき)に至ったことを、大王自身も気づかれたのではないか……。このとき倭姫はふとそのようにも考えるのであった。
大王が挙げる神の遷座先の宇陀、その先の伊賀も近江も伊勢も、それらは名だたる朱の産地であり、大王がその地に並々でない関心を持ち、大和の支配力を強めようと考えているらしいことは、倭姫にも理解できた。大王には多くの王子があり、王子たちを各地に配って治めさせようと思えば、さらなる勢力の拡大と支配の強化をはからねばならない。大神祭祀、神の鎮座という御旗を前に掲げて軍を進め、各地に大神を祀ることによって国津神の力を弱め、大和による支配を強化し、各地の良質の朱の採掘権を手に入れること、これらが大王の当面の目的でもあったろうか。どれも大和の王権の基盤を固める意味を持つ。大王にとってこの旅は実際多くの実利をもたらすものであった。
継続的な朱の獲得、神田や神戸の領有、長の姉妹や子女の貢上、子女のほとんどは霊力ある身分の高い若い女性、その弟などで、それぞれ身に国魂を副(そ)えて大和へと送られる。本来なら将来は彼(か)の地における中心的な人物となるべき人々なのであった。さらには地産の貢ぎ物、織布、山野の鳥獣、果実、魚貝など御贄(みにえ)の貢進、それらは地の物なので、いわば地霊の付着した産物であり、それらを大王が所有し、あるいは食することは支配、領有につながる象徴的な意味を持った。また大神祭祀を正面に据えることによる国津神の弱体化、それに加えて大神を伊勢に還して森の中か山麓に鎮祭し、倭姫を斎主に任じれば大和から遠ざけておくここともできる……よく考えられた策なのであった。
大鹿嶋は倭姫には何も告げなかったが、大王は小碓王子の突然の宇陀来訪を聞くと、大いに不快感を示されたのであった。王子は誰にも行き先を知らせず、ふと思い立って叔母に会いに行ったようである。
「それでは、小碓王子と倭姫は、二人で国見を行なったのか」
大王は大鹿嶋に向かって訊いた。大神と倭姫はいわば同体なので、倭姫が国見の儀礼をするのは当然のことなのだが、そこへ小碓王子が勝手に加わって国見をするというのは、また別の意味を持った。高い山に上って民の暮らしや国の地形を見るのは、普通は大王のする行為であったからだ。
「仲睦まじいご様子で語り合っておられた、と聞いております」
「二人は密かに通じ合っているのか」
「さあ、それは……」
大鹿嶋はさすがに口をつぐんだ。倭姫と王子の年齢差は、ほぼ十歳と少しである。男女の仲のことを問われていると感じた大鹿嶋は慎重になり、
「私どもには、わかりかねます」
低く答え、話題を変えたのであった。
いつのまにか季節が移っていった。
「今後も宇陀からの季節ごとの貢の品々はもちろんのこと、大神の祭祀も怠りなく続けて参ります」
宇陀の長に固くそう誓わせて、倭姫の一行は阿紀の宮を離れ、大王の意に従って篠畑へと旅立っていった。祭祀の維持と宇陀の監視のために、忌部の神人が四年間は阿紀にとどまることになり、土地の乙女の中からふさわしい巫女たちも選びだされ、宮で奉仕することになった。
篠畑は、川の流れが望まれる清らかな地であった。小高い位置に宮地を卜定し、神の宮が造営される間、大神の御霊は少し手前の葛という地にとどまった。倭姫はある日、篠畑の入口に当たる地で、こちらへ向かって歩んでくる愛らしい少女を見かけた。少女は近づくと身をかがめて倭姫に挨拶した。倭姫はその様子をじっと見守った。
そのとき突如倭姫に神が降りられた。大神が憑依した倭姫は、少女に言葉をかけた。
「名は何という」
少女は驚いて顔を上げ、目を見開いて倭姫を見つめた。たおやかな倭姫の姿とは異なり、それは野太い男の声であった。男が女に対して名を訊くのは、妻どいのときである。名には魂が籠もっているので、男に自分の名を教えることは、相手への承諾を意味した。少女は、倭姫が斎いているという男の神から求婚を受けたことを感じ、畏れとともに少しの間迷っている風であったが、やがて決意したらしく、
「八佐加支刀部(やさかきとべ)の子、宇陀の大祢奈(おおねな)と申します」
と返答した。倭姫は微笑んだ。
「この旅に付き従って、長く大神にお仕えするか」
「お仕えいたします」
少女は、今度ははっきりと答えた。
大神は少女を見て気に入られたので、倭姫に懸かってこの少女を求められたのであった。少女は霊力があり巫女の素質があったので、問いかけた相手が神であることをただちに感じ取ったのである。大神が特に選ばれたことにより、倭姫はこの少女を大物忌(おおものいみ)と定めた。これは大神のお側近くに侍って仕え、鍵を預かって社の扉の開閉をするなど、大神に奉仕する重要な務めを担う役であった。
幸行(みゆき)したまふ。時に佐佐波多(ささはた)が門(と)に、童女参り相へり。即ち問ひ給はく、「汝(いまし)は誰そ」(倭姫命世記)
伊勢津彦の神は、逃れて信濃の国に来往(ゆ)けりといふ。
天の日別の命、この国を懐柔(ことむ)けて天皇(すめらみこと)に復命(かへりごと)まをしき。(伊勢国風土記逸文)
3
其の祠(やしろ)を伊勢国に立てたまふ。因(よ)りて斎宮(いはひのみや)を五十鈴(いすず)の川上(かはのほとり)に興(た)つ。……則(すなは)ち天照大神の始めて天(あめ)より降(くだ)ります処(ところ)なり。(日本書紀)
倭姫の旅は伊賀へと進み、市守の宮、穴穂の宮、甲賀日雲の宮へ、さらに近江坂田の宮へと達した。どっしりした鈴鹿の山並みが絶えず右手に聳え、その山を眺めつつ裾野をたどるように進んでゆく旅であった。
宇陀や篠畑での長の服属や貢進の様子が、たちまち各地に伝わってゆくらしく、行く先々の国の長は抵抗することなく、倭姫の一行を丁重に迎え入れ、到着した軍をもてなし、献上の品々もすでに用意して待っていた。なるべくなら咎めなど受けることなく、軍には早く通り過ぎてもらいたかったのである。これらの国々はすでに従属している国々ではあったが、一行は改めて長に服属を誓わせ、その意思を確認し、大和による支配の強化を図っていった。伊賀の長からは、地口、御田、山の戸、鮎取る淵など、また甲賀、近江からは地口、御田がそれぞれ貢上されていった。美濃の国からは地口、御田に加えて大王に献じる釆女として忍姫(おしひめ)、祭祀用土器の類も献じられた。新しく服属する国、またすでに帰属しているが必要がある国に対しては、名乗りの儀礼が行われた。
「汝(やつがれ)が国の名は何という」
長が答える。
「草蔭(くさふか)の阿野の国でございます」
同じく問うと、別の長が返答する。
「害行(あらゆ)く阿佐賀(あさか)の国と申します」
大神が憑依した倭姫が、国の長に対して問われると、地の神が憑依した長が「神風の伊勢の国」「味酒(まさけ)鈴鹿の国」という風にその国の風俗や様子をあらわす言葉で国名を告げて平伏した。名を告げることは相手に魂を差し出すことにほかならず、長は名乗りによってそれぞれの国魂を捧げたのであった。
忍山(おしやま)に着いたとき、この地の長は新たに神の宮を建てて一行を迎えたので、倭姫はしばらく滞在することになった。年老いた長と話していると、思いがけず小碓王子の名が出てきたので、倭姫は話に聞き入った。
「忍山一族は、大和と亀山に別れて暮らしておりまして、息子たちは長く大和で大王に仕えております。息子の忍山宿禰には弟橘姫(おとたちばなひめ)、弟財郎女(おとたからのいらつめ)という二人の娘があり、この娘たちを大王の有力な王子の妃にと考えております。息子から聞くところによりますと、大王には日嗣(ひつぎ)の王子として三人もの有力な方々がおられるとのことでございます。小碓(おうす)王子、稚帯彦(わかたらしひこ)王子、五百城入彦(いおきいりひこ)王子とうかがっておりますが、どの王子にどの娘を差し上げたものか、と迷い、思案しているところでございます」
小碓王子にかかわることだったので、倭姫は強い関心を持った。
「それでは、私が神に伺いましょう」
早速占を行なった。
「小碓王子の妃には弟橘姫を。また弟財郎女は稚帯彦王子に、と出ています。この組み合わせがふさわしく思います」
長は、ではそのように息子に申し伝えます、と礼を述べ、深く頭を下げた。
旅はさらに進み、長い旅路の果てに伊勢の五十鈴川の川上の霊地へとたどり着いて、この地にようやく大神の神霊が鎮まることとなった。大神の旅は終わりに近づき、神は多くの地域にゆかれて各地の神を従えられ、遠い日に降臨されたというその地に還られることとなった。
すがすがしい森の中に宮が造営されることになった。鎮座の神事にとりかかる前に倭姫は川に入って禊をし、身を清めた。神事の前の禊はいつも近くの川や泉で行うしきたりであったが、長旅の間には、さまざまな禍々しいことも起きたので、今回は特に念入りに身に受けた穢れを祓う必要があったのである。
滝原の大川の瀬を渡ろうとしているとき、鹿の死体が流れ寄ってきたことがあった。別の地では思いがけず野の獣が襲ってきて、倭姫を守ろうとした従者が深い怪我を負ったこともあった。一行の行く手を妨害する賊徒や、容易に従おうとしない国での小競り合いもあって双方に死者も出ていた。
阿佐賀(あさか)の地では「百人の旅人が通れば五十人を取り殺し、四十人が通れば二十人を取り殺す」というほど恐れられた賊がいて先へ進めず、やむなく大和へ急ぎの使者を出して大王に策を尋ねると、大王は多くの美麗な絹布を使者に託された。それで使者が持ち帰った賜り物はすべてこの賊に与え、喜ばせて油断させた挙句、隙を見て大若子(おおわくご)という武人が討ち取った。大若子はその昔、初代の大王に命じられて伊勢の地を平定した天日別(あめのひわけ)の子孫で、途中から道案内役としてこの軍旅に加わっていたのである。この賊徒の霊は祟ることが懸念されたので、大若子が山の頂に祀って、その霊を封じ込めた。ただこれらの品物については、一度は相手に与えたものなので、敢えて返し取ることはせず、そのままにした。
長い旅路であったので、大神の神霊を捧持する貴い身分の女性であっても、このように人の死やさまざまな穢れが身辺近くで発生することは、避けようのないことであった。旅は多くの予期しない危険を伴ったからである。そのためにも念入りな禊は欠かせなかった。
新たに霊地の森林が伐りひらかれ、大神の宮が造営されると、倭姫はそこに大神の和御魂(にぎみたま)、および荒御霊(あらみたま)を祀り鎮めた。随伴してきた五部の将軍たちはその任を解かれ、警護のための兵士は残して、大半の兵は大和へと戻っていった。倭姫は斎主としてこの地にとどまり、日々の祭祀、季節ごとの祭儀を務め、大神の御贄(みにえ)のことにも気を配り、大神に仕えて、やがて時が過ぎていったのである。倭姫は折々には近辺の国々の様子を見るために海辺を巡って民の暮らしを見、国と国との境界を定めるなどの務めを行い、平素は森の奥まった地に建てられた機屋に籠もって、神が召される御衣の布を織ることにいそしんだ。
東国で蝦夷(えみし)が背いて騒乱が続いた年のことであった。大王が軍を興し、東へ兵を差し向けるという知らせが大和からあった。軍を率いる将軍には日本武尊(やまとたけるのみこと)が選ばれたということも伝わってきた。
「小碓王子が、再び戦の旅に……」
倭姫は、小碓王子が東国平定の旅に出ると聞いて、複雑な思いにとらわれた。王子はまた大王に疎まれて東征を命じられたのであろうか。危険で長い旅の日々を思うと、王子の身が案じられてならない。
今回の旅には、吉備武彦(きびのたけひこ)、大伴武日(おおとものたけひ)らの勇猛な武人が従うという。また食事を整える膳夫(かしわで)の役は、七掬脛(ななつかはぎ)という者が務めるという。大伴武日は、かつて倭姫が大神を奉じて大和から伊勢へと向かった折、旅の警護を務めてくれた武人であった。日に焼けた精悍な顔つきが目に浮かぶ。あの武日が王子の遠征にずっとついてくれるのなら、東征の旅も心強いであろうか……。
尊(みこと)の軍は大和を発ち、鈴鹿の山を越えて、まず尾張に向かう予定だが、その途中、尊が伊勢に立ち寄るという知らせが追いかけて届いた。尊は倭姫に暇乞いの挨拶をするために、寄り道をして伊勢の大神の宮を訪ねるということであった。
尊は伊勢に来ると、おもだった将らを伴ってまず伊勢の大神を拝して戦勝を祈った後、倭姫のもとを訪れた。
倭姫にとっては、王子との久しぶりの対面であった。小碓王子は今では日本武尊と呼ばれているのだが、倭姫にとっては幼い頃から呼んでいた小碓王子という名が自然に口をついて出る。逞しい若者に成長した王子を見て、倭姫は感慨深いものがあった。もう何年も会っていないのである。すでに何人もの妃を持ち、子も多くなしていると大和での暮らしの様子を知って安堵しつつも、倭姫は王子と宇陀で別れて以来、二人の間に流れた年月の長さ、時の隔たりを改めて思うのだった。
「この旅には、巫女として妃の弟橘姫を伴っております」
「その妃は、確か忍山一族の娘では……」
「そうです」
尊は連れていた弟橘姫を引き合わせた。忍山宿禰の娘、弟橘姫は静かに頭を下げる。
「まあ、可愛らしい方……」
伊勢への旅の途中、忍山の長から相談を受けたときに占をし、弟橘姫という長の孫娘を小碓王子の妃に、と告げたことがあったのを、倭姫は思い出した。そのときからでも、もう何年もの年月が経っているのであった。しばし遠い日々の記憶をたどっていたが、ふと現実に立ち返ると、改めて今回の討伐の旅の危険が気づかわれ、最近聞き知る東国の動向について、倭姫は懸念を伝えるのだった。倭姫は、控えている武人の中に、見覚えのある大伴武日がいるのに気づいて目を留めた。武日の方も、倭姫と視線が合うと懐かしげに会釈を返した。武日は倭姫の語る話に、傍らでじっと耳を傾けている。
「たとえ相手が味方のように見えたとしても、決して油断なさいますな。敵は欺く心はうまく隠して振舞うものですから」
「はい。心して参ります」
尊は頷いて聞いている。雄々しく落ち着いた様子であったが、二人きりになったとき、尊はありのままに本心を語るのだった。
「大王は、私のことを心の中ではよくは思ってはおられないように感じるのです。どうも目の前から私を遠ざけてしまいたい、そう考えておられるのではないか、ふとそんな気がすることがあるのです」
「それはまた、どうして」
「熊襲討伐に続いて、また私に対し蝦夷討伐をお命じになりました。あまり軍卒も賜らないことに加え、頂いた武器も思いのほか少ないのです。これでどうやって東国の蝦夷を平らげることができましょう。軍卒もやはりそう感じるのか、士気が上ってはおりません。どう考えても無理なことです。やはり大王のお心は、私の上にはありません。私に早く死ね、と、そのように考えておられるのでは、と思われて、そのことが苦しいのです」
尊の眼には涙がにじんでいた。どこかで親の愛情が信じられず、辛いのだと倭姫には感じられた。
「小碓、あるいは王子の言う通りかもしれません。でも、王子にはほかの人にはない強い心と意思があります。目に見えない何かを引き寄せる力もあります。王子の行く手に、きっと自然に道は開けてゆくでしょう。ご自分を大切にして、どこまでも生き抜いていってください。王子の身が無事でありますように、王子が心に願うことがかないますように、私は遠くからずっと見守っていますよ」
倭姫は、ひと振りの剣を王子に与え、また手縫いの袋をひとつ手渡して励ました。
「これは霊威のある神剣です。きっと王子の身を護ってくれましょう。もしも火急のことがあれば、この袋の口を解いてご覧なさい。助かる道が見つかります。剣とこの袋は一対のものと思い、旅の間は離さないように大切に身に着けていてください。どうかこのことを忘れないように」
熊襲討伐の折に授かった衣装のことを思い出したのか、尊は剣と袋とを押し戴いて伊勢の宮を辞した。
尊は軍を進めていった。途中からは弟橘姫の実家である忍山一族の軍船、軍卒が亀山から来て合流し、人数は出発時より増えて膨らんでいった。一行は船団を組んで尾津の浜辺から船出し、伊勢湾を横切って尾張へと向かった。海は荒れることもなく船は年魚市潟(あゆちがた)に達し、船津に上陸すると、尾張の長の小豊(おとよ)が自ら湊まで丁重に出迎えてくれて、一行を館へと案内した。
ここに来て事態は思いがけず良い展開をみた。尾張の長が、息子の建稲種(たけいなだね)を尊の軍に従わせることを申し出たのだった。むろん大和の威光のせいであったが、長が尊の人となりをたいそう気に入ったことは明らかで、息子を従軍させるだけでなく、娘の宮簀姫(みやずひめ)をぜひ尊のお妃に、と申し出た。お伴の吉備武彦の娘がすでに尊の妃となっていて大和には御子たちがおり、また忍山宿禰の娘が妃としてこの旅に伴われているのを知って、自分の娘もまたこの前途のある尊に娶(めあわ)せようと考えたのであろう。
尊と建稲種は年齢が近かったので、日々行動をともにし、夜は酒など酌み交わし語り合ううちにすっかり打ち解け、二人はじきに兄弟のように親しくなっていった。尾張の長は息子に多くの兵、武器、軍船も副えて尊に奉ったから、尊の軍は俄かに兵士が増え、軍備が増強されて心強いものとなった。建稲種も、ぜひ妹を娶ってほしい、と尊に何度も勧め、尊はそのことには異存がなかったが、東征の前の慌しい時期のことではあり、正式な婚儀については帰還の折に、と尾張の長、宮簀姫にもそのことを定めおいた。尊は建稲種を副将軍とし、尊は陸路で、建稲種は海路で発ち、途中で合流することにして、それぞれの軍を率いて尾張から東に向かって旅立っていったのだった。
倭姫は、小碓王子を見送って以来、その旅の行方をずっと案じていたが、ある日のこと、言いようのない胸騒ぎが起きて、王子の身に何かあったのではないかと心配になった。いてもたってもいられないような気持ちになったので、身を清めて神前に坐ると神に祈り、神鏡に近づいてそこに映るものを見つめた。
東国かと思われるが、どこの地かはわからない。丈の高い草が風に揺れる野がどこまでも広がっている。弓矢を手にした大勢の人々の姿が見えてきた。それは土地の長に道案内されて草の中を進んでゆく尊の一行であった。土地の長(おさ)らしい男が先導している。
「この先には沼がありまして、そこに得体の知れない魔ものが古くから棲んでおり、皆困っております。水を汲みに行った者が戻らないこともあり、何やら祟りがあるということで、土地の者も怯えて近づけないのでございます」
土地の長が説明している。尊はその怪しいものを退治した後、祀り鎮めればよいと考え、まずはその様子を見定めようと思われたのであろう。長の言葉を疑う風でもないようである。一群の人々の中には神官の忍山宿禰や弟橘姫の姿も見える。
土地の長は前方を示すと、いかにも恐ろしそうにその場に立ちすくみ、尊に道を譲ったので、一行はそのまま進んでいった。ところが目指す沼は、まったく姿をあらわさない。一行は草を分けて左右を見回しながらさらに野を進む。後方では土地の者が示し合わせて、あちこちに枯れ草を集めて積むなど怪しい動きをしつつ、しきりに風の吹く方向を見ている。
後方で密かに仕組まれているらしい企みに、尊の一行はまだ気づいてはいない。土地の長は巧みに口実を設けて、一行を先に行かせたようだ。土地の長は急ぎ足で後方に退くと、ひそんでいる配下に向かって何かの合図をした。すると呼応するように後方の野からいっせいに火の手が上った。数箇所から煙が立ちのぼると、火はたちまち大きな炎となって燃え広がっていった。
秋の枯野に火がつけられたのである。尊の一行が煙の臭いと火の爆(は)ぜる音に気づいたときには、もう一面に火の手が上り、火は尊のいる方向に向かって波のように押し寄せ迫ってくるところであった。
倭姫は急いで呼びかけた。
「王子、火が来ないように早く剣で足元の草を薙ぎ払いなさい。あの袋を開けて火打ち石を使いなさい。敵に向かい火をつけるのです」
倭姫は懸命に教えるのだが、その声は大声で何か叫んでいる尊の耳には届かなかった。お伴の人々も突然の出来事にすっかり動転してしまい、逃げる方向を探して右往左往するばかりである。風に煽られた炎は予想を超えた速さで尊の方に向かって近づいてくる。倭姫は王子のすぐ近くに弟橘姫の姿を認めると、必死の思いで呼びかけた。
「急いで王子に伝えるのです。今すぐ剣で周囲の草を払いなさい。できるだけ大きな輪になるように」
弟橘姫は、耳に響いた声が倭姫のものだと感じると、さっと王子に駆け寄った。
「大丈夫か」
尊は弟橘姫が火に怯えて走り寄ったのだと思い、庇おうとした。弟橘姫は叫んだ。
「倭姫さまが、今すぐ剣で周りの草を刈り払って、できるだけ大きな輪を作るように、と仰(おっしゃ)っています。尊にそう伝えてほしい、と」
尊ははっとなった。その意味を理解したのか、神剣を抜くなり、勢いよく周囲の草を薙ぎ払い始めた。ひと振りごとに草が宙に舞い、倒されてゆく。それを見たお伴の兵たちも同じように剣を抜き、懸命に周囲の草を刈り払っていった。男たちの決死の働きで、一行を火から守る円形の空き地が形づくられていった。尊が倭姫から授かった袋の口を解いてみると、そこには火打ち石があった。次いで何をするべきか悟った尊は、素早く石を打ち合わせて火を出し、こちらからも向かい火をつけていった。尊の軍の火と、敵の火が戦うのである。向かい火はこちらへ押し寄せてくる火とぶつかり、その勢いを呑み込み、逆に敵の方へと燃え広がっていった。尊の火が勝ったのである。思いがけない事態に慌てふためいて後退する敵の姿が煙と炎の向こうに見え隠れしていた。こちらへ向かって吹いていた風向きが変わったことも幸いし、押し寄せてくるはずの敵は、逆に後方へと退いていった。風はそのまま尊に有利に吹き続け、こうして尊の一行は危機を免れることができ、その後、体制を立て直して報復を行ない、敵を殲滅したのであった。このような霊妙な働きをして尊を護ったことにより、この剣は草薙(くさなぎ)の剣と呼ばれるようになった。
吾を既に死ねと思ほしめすなり」とまをして、患え泣きて罷りたまふ時に、倭比売の命、草薙の剣(たち)を賜ひ、また御嚢(みふくろ)を賜ひて、「もし急(とみ)の事あらば、この嚢(ふくろ)の口を解きたまへ)と詔(の)りたまひき。(古事記)
欺かれぬと知らしめして、その姨(みをば)倭比売の命の給へる嚢(ふくろ)の口を解き開けて見たまへば、その裏(うち)に火打ちあり。ここにまずその御刀(みはかし)もちて、草を刈り撥(はら)ひ、その火打ちもちて火を打ち出して向火(むかへび)を著けて焼き退(そ)けて……その国の造どもを皆切り滅ぼし、すなはち火著けて焼きたまひき。(古事記)
4
暴風(あらきかぜ)忽(たちまち)に起(おこ)りて、王船(みふね)漂蕩(ただよ)ひて、え渡らず。(日本書紀)
発船(ふなだち)を前にして、走水(はしりみず)の海は静かであった。この朝、日本武尊(やまとたけるのみこと)の軍が上総へと向かうのである。この渡海のため新しく造られた尊(みこと)の乗る船はすでに海に浮かべられ、岩に繋がれて揺れていた。随伴する何艘もの船の準備も整いあとは軍卒(いくさびと)を乗せるばかりである。
忍山一族の娘、稚姫(わかひめ)は身支度を整えて海辺に佇み、仕えている弟橘姫(おとたちばなひめ)が御座所から出てくるのを待っていた。稚姫は、この日はまだ暗いうちから目が覚めてしまったのだった。昨夜は潮騒がいつになく耳について眠りが浅く、海の底に波打つうねりのようなものを感じ、船に乗らない前から大波に揺られているような心持に襲われた。もしや時化(しけ)の前触れではないかと気になると横になってはいられず、起きて浜に出てみたのである。
海は案外穏やかであった。船子たちが掛け声をかけつつ綱を引き、積み込む荷のことでやりとりする声が朝の空気を震わせて響いている。人々が忙しく立ち働く様子がここからも見てとれる。船長(ふなおさ)の指揮に従って楫取(かじとり)が水手(かこ)たちに命じ、順に荷を船に運び入れ納めているのだった。動きののろい若者や、置き場所を間違う者がいると、楫取は声を荒げた。
船長は浜辺に佇んだままじっと明け方の空と海を見ている。走水の海は薄い茜色に染まりつつあった。波の上を白い海鳥が羽を広げて飛び交い、緩く風が渡ってゆく。
「早くから起きていたのですね」
声に振り向くと、そこには弟橘姫の姿があった。庇うようにそっと手を腹部に当てている。まだ人目につくほどではないが、懐妊しているのである。
「なぜか、昨夜はよく眠れませんでした」
「私も」
二人は思わず顔を見合わせた。弟橘姫の顔色は悪く、暗い紫色に見えたので稚姫は息を呑んだが、そのことを口にするのははばかられた。暗紫は死者の顔色であった。けれども弟橘姫の方も、はっと小さく怯えたように稚姫から目を逸らした。それで稚姫は自分の顔色も弟橘姫と同じく暗い紫色に見えたのだと悟った。船出の朝に、これは何とも不吉な色の暗示であった。案じるうちに、弟橘姫の死の顔色はすぐにいつもの顔色に戻っていった。ほっとしたものの、心に生じた不安は拭えない。二人は無言のまま互いの目の色に危惧を認め合うのだった。
「夢を見たのです」
弟橘姫が呟くように言った。
「伺ってもいいのでしょうか。もし悪い夢でしたら今すぐお話しください。私がそれを流して参りましょう」
夢を打ち明けられた者が、唱え言をして水に悪夢を流し、良い夢に変える呪術は、忍山一族の家系に伝わる秘法の一つであった。ここは海辺なのでたやすく夢を流せると稚姫は思った。忍山の祖はよく神がかりをしたといわれる人物で、外れることなく夢の意味を解き、予言をする高い能力があった。そして親から子へと受け継がれる秘儀や祭儀、呪術をもって一族は大和の代々の大王に仕えてきているのであった。男だけでなく忍山の一族の女たちもまた夢見にすぐれ、魔よけをはじめ各種の呪術に長(た)け、普通の人にはない特別な霊力を持っている。
弟橘姫は気がかりな面持ちで空を見上げた。
「私は、嵐の夢を見たのです。朝からこんなに晴れ渡っていますし、嵐の心配などないのでしょうけれど。その後、夢の中で近江の老蘇(おいそ)の森に佇んでいる自分の姿を見ました。森は静かで清らかな泉が湧いておりました」
弟橘姫の母は近江の出で、老蘇には姫の母方の生家がある。老蘇の森は繖山(きぬがさやま)を神奈備とし、古来蘇りの霊地として知られていた。繖山は笠を伏せたような形の山である。繖山の頂上には古に神が降りられたという大きな磐座があり、崇敬されている。なだらかに広がった山裾には沼や池が広がり、さらに大きな湖へと続いていた。蘆の多い水辺には白鷺が群れをなして飛び交い、湖水は青く澄みきって美しい。老蘇の森には霊泉があって、その水は変若水(をちみず)と称えられ、飲めば若返ると信じられていた。
「老蘇の森を訪ねれば、永遠の若さが得られると申します。たとえ夢に見るだけでも、きっとそれは良いしるしでございましょう。でも嵐の夢というのは……」
稚姫は空と海を確かめるように眺めた。まだどこにも嵐の兆しはないが、風にはほんの少しだが湿り気が混じっているようだ。
「昨夜は、空に星が瞬いておりましたが」
あまりに美しい煌きであったので、不穏な感じすら受けるほどだったのを思い出した。稚姫は弟橘姫の見た嵐の夢というのが気になったので、悪夢を消すための唱え言を、早速小声で繰り返し始めた。
弟橘姫の父親は忍山宿禰(おしやますくね)といい、神事、祭儀を司っていた。大和に来て大王に仕えているが、忍山の本拠は亀山の地にあり、そこには古くから一族の者が住んでおり、老齢になった長はまだ健在で、地域では大きな勢力を保っていた。
弟橘姫と稚姫は、従姉妹同士なのでどこか似通った顔立ちをしている。目元がそっくりと言われることもあり、年齢は稚姫の方が下であったが、二人並んでいると仲の良い姉妹と思われることもあった。
ただ稚姫の生母の身分が低かったので、幼い頃からともに遊んでいても、皆が集るような公の場では、弟橘姫の方が常に上座の目立つ席と位置が定まっており、格についての上下ははっきりしていた。一族の娘たちの中で、弟橘姫の美しさとすぐれた霊力は際立っており、その上明るくて優しい性格なので、稚姫は弟橘姫を羨んだり妬んだりする気持ちは起きなかった。自分にないものを多く備え、むしろ憧れる気持ちの方が強かったのである。幸運はいつでも弟橘姫が引き寄せるように身につけてゆく。いつも自然な成り行きでそうなってしまうのを見てきたので、人々の弟橘姫への賛辞もそれが当然のことのように感じられ、自分にはとても及ばないこととして、稚姫は競い合う気持ちは持たなかった。最もすぐれているのは、弟橘姫が自分を人に対して誇らないことであった。
稚姫の生母は婢女(はしため)であった。それもかなり身分が低かったから、稚姫は公のときはどんな場合も隅にそっと坐るようにしつけられ、立ち居振舞いも人より控え目にする慣わしであった。ずっと続けているうちに、いつも誰かの後ろにいることが普通になり、その方が気も楽であり、たまに人前で目立つようなことでもあれば、かえって心が落ち着かないのであった。けれども弟橘姫とは小さい頃から仲が良かったので、日常の暮らしの中では親しく言葉を交わしたし、行動をともにすることも多かった。稚姫は自分の立場を弁えていたから、公の場で一緒にいるときは、まるで側に仕える侍女のようにかしずいて動き回るのだった。そんなときは弟橘姫への憧れや敬う気持ち、劣等感も入り混じり、いつもよりも快活さを心がけ機敏に身を動かしている自分に気づく。
忍山宿禰には娘が何人もいたが、弟橘姫が年頃になると、次の大王の位に上ると噂されていた日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃の一人にと差し出していた。日本武尊にはすでにもう何人かの妃がいて、御子も次々に生まれていた。日本武尊は、少年の頃から武勇の王子といわれており、年若くして父の大王から熊襲討伐を命じられても、それを受けて立ち、動じない心の強さがあり、人望もあった。
忍山宿禰は日本武尊を次の大王と心に見込んで、娘の弟橘姫を妃にと献じたのだった。父親の勧めもあったので、そうしたのである。もっとも適齢の娘はもう一人あったので、稚帯彦(わかたらしひこ)王子にも妃として献上しておく用心深さを持ち合わせていた。もしこのままであれば、日本武尊が大王位に即(つ)く日もそう遠いことではなく、弟橘姫に男子が誕生すれば、忍山一族からも遠い将来、大王位を継ぐ御子が出るかもしれないという期待があった。そしてそういう父の思いに応えるように弟橘姫は早々に懐妊し、無事に御子が生まれたのであった。赤子は若武彦(わかたけひこ)王と名づけられ、忍山一族によって大切に養育されていた。
稚姫は一族の女の一人として、弟橘姫の出産や御子の養育を手伝う立場であった。弟橘姫の身に次々と続いてゆく幸せを、自分とはほど遠いものに感じる気持ちは心のどこかにあった。すでに立派な夫や子らに恵まれ、なお輝くような美しさを保っている弟橘姫との隔たりを、同年齢の女として意識しない訳ではなかったし、一抹の寂しさも過(よ)ぎることがあったが、まったく邪気のない弟橘姫の笑顔に触れ、子どもの頃遊んだときと変わらない隔てのなさ、優しさで親しく接してくれるたび、そんな気持ちもどこかへと掻き消えてしまう。
弟橘姫は運に恵まれている、と一族の誰もが感じていた。御子の誕生は一族の誇りであり希望であった。日本武尊は数多い王子たちの中で抜きん出ており、将来に何の不安もないはずであった。そんな折、稚姫は日本武尊に東国の服(まつ)ろわぬ蝦夷(えみし)を討つように、と大王から命が下ったことを弟橘姫から聞いたのであった。
稚姫がまず思ったのは、なぜ今回もまた尊に、という疑問であった。熊襲討伐に次いで、再度の遠征の命令である。軍旅に適した若い王子はほかにいるのにもかかわらず、日本武尊ばかりが選ばれるのは不公平では……という印象を受ける。弟橘姫に尋ねてみると、事情はこうであった。
「尊は一度は辞退されたのですよ。この役はぜひともほかの王子に、と仰(おっしゃ)って。大王はそれでは大碓王子はどうだ、と話を向けられたのだそうです。大碓王子はそれを伺うなり驚かれて不安になり、庭の草の中に隠れてしまわれたのだそうです。大王は、お前が望まないのに無理に東国に遣わすことはしない。何事だ。まだ敵に遭ってもいないうちからそんなに恐がって、と嘆かれ、次いで立腹されました。お怒りはおさまらず、このままではほかの王子たちにも示しがつかないので、大碓王子は、大和を出て美濃の国に行くように、と命じられたのだそうです」
「そうだったのですか」
「表向きには、美濃を治めよ、ということですが、美濃の辺地に封じられたのだとも。大碓王子が草むらに隠れられたのは、わざと愚か者、臆病者の風を装って大役を逃れようとしたのでは、という者もいましたけれど、どちらにしても不名誉なことです。そんなこともあって、大碓王子のことをこれ以上人に悪く言わせないためにもと、大碓王子の代わりに、尊が蝦夷を討つことをお引き受けすることになったようです。尊は大碓王子のことをずっと案じておられるし、ご兄弟の仲はとても良いのですよ」
蝦夷の討伐は、先の熊襲討伐に次ぐ勅命であった。そして今回の東征には、忍山宿禰も神官として同行を命じられた。忍山宿禰は補佐役として息子の忍山彦も同行させ、また弟橘姫に仕える巫女、侍女として一族の女たちも同行することになった。
この当時、軍旅には兵士だけでなく、祭祀を司る人々も付き従うのであった。祭儀や祈祷を担う神官や巫女は神霊を携えて旅に赴き、神によく祈り、敵対するものを封じ、軍を守護する役目を負っている。
忍山宿禰は同行する高位の巫女として弟橘姫を定め、その控として稚姫を置いたのだった。弟橘姫はすでに尊の妃の地位も得ており、弟橘姫も稚姫もともに霊力が高い上、長旅に必要な若さや体力、気力があった。次いで二人の世話をする女たちも何人か選び出され、軍旅に従うことになったのである。
「ここにおられましたか。お二人ともお急ぎくださいますように。都合で予定より早く船を出すことになりました」
船長の使いの者がやって来て二人にそう告げた。稚姫の唱え言はそのため中断してしまった。
「土地の者によると、この季節は思いきって早く海を渡ってしまうのが良いそうです。ここのところずっと好天続きで、かえって心配になるくらいだと」
「尊はどう仰(おっしゃ)っておられますか」
「遥かに海を臨まれて、それでは早く船を出し、ひと思いに渡ってしまおう、と」
「わかりました。すぐに支度をいたします」
尊がそう言われるのであれば、急ぐよりほかない。
ところがまさに船出をしようというそのときになって、それまで吹いていた風がぴたりと止んでしまった。
「こんな小さい海は、ほんのひと飛びで渡ることができよう」
尊が何と思われたのか、自信に溢れた声で遠くかすむ上総の方を眺めつつそう言われると、まるでその言葉に対抗するかのように、それまで緩く吹いていた風が止んだのである。そしてほんの一瞬だが、空が暗くなったような気がした。急に静まり返った海の表情に稚姫は不穏なものを感じ、そっと弟橘姫を見ると、困惑したような表情で目を伏せている。船長、楫取、水手たちも何か異変を感じ取ったらしく沈黙し、身じろぎもせずに海面を見つめている。よく見れば空は元通りのまま、波はちらちらと陽を受けて揺れているのだった。次の瞬間、再び空は暗くなってゆき、その妖しさに人々は少しく動揺して空を仰いだ。
忍山宿禰が意を決したように一歩進み出ると、海に向かって拝礼し、雲を分けて昇ってくるはずの太陽に向かって大きく拍手を打った。続いて航海の無事を祈る詞(ことば)をおごそかに唱え始めた。神官が発する力強い声にその場が清められてゆくのがわかる。軍卒ら一同も我に返り忍山宿禰に倣ってそれぞれ拝礼した。
弟橘姫と稚姫は並んで海に向かって立ち、肩にかけた領巾(ひれ)を緩やかに打ち振りつつ神歌を口ずさみ、順風を祈る「風招(かぜお)ぎ」を行った。波が動きわずかに風が流れ始めたのを機に、船は滑るように青い海に漕ぎ出していった。
「尊はどうしてあんな風に仰ったのでしょう」
「よほど自信がおありだったのですよ。船はまだ新しくてしっかり造ってあるし、海の向こうの陸地が見えているくらいだと思われて」
「良い言葉を発して、良い事態を引き寄せようとなさったのですよ。言霊(ことだま)の呪力をもって、この海を渡ろうとされたのです。尊のお言葉には普通の人にはないような強い力がありますもの」
「でも、海がさっと暗くなったではありませんか」
侍女たちがひそひそと囁き合っていた。稚姫は尊が強い言葉でもって少々言いすぎられたような感じを受けた。船の行く手にはどこか不安がある。
そしてその不安はほどなく現実のものとなった。一陣の強い風が吹き降ろしてくると同時に、海が俄かに荒れ始めたのである。底からうねるような強い波が船を叩き、大きく船体がかしぐ。空は暗くなって急に風が激しくなり、雨が落ちてきた。
突然の天候の急変に、船中の人々は驚き慌てふためいていた。船は風雨に揉まれ、揺すぶられ、波に翻弄されてくるくると回り始める。不気味な嵐の襲来に畏怖を感じる者もいた。
「これは海神の怒りかもしれない」
そう感じた忍山宿禰は、海神に幣帛を捧げることにした。祈りの言葉とともに、忍山宿禰は幣串を海に投供した。少しの間白い鳥の羽のように波間に浮いていたが、やがて沈んで見えなくなった。海神は幣帛を受け取られたようだが、黒雲は空を覆って去らず、風はさっきよりも激しく吹きつけてくる。次いで忍山宿禰は柏の葉を皿に見立てた葉盤(ひらで)に塩や米を盛って箸を副(そ)え、海に散らし浮かべて祈った。それでも波はおさまらず雨足はいっそう強まってくる。忍山宿禰は、今度は酒を瓢(ひさご)から直接海に注ぎ入れて神に祈り、空(から)になった瓢を海に浮かべた。船が沈まぬように、という呪(まじな)いである。船中の人々は恐れつつ暗い空を見上げている。波にさらわれぬよう積み荷や帆柱につかまる者もいたし、抱き合って身体を支え合う者もいた。
「何か自分の持ちものをひとつ、海に入れよ」
船長(ふなおさ)に命じられて、梶取が大声で叫んでいた。海がこんな風に急に荒れるのは、海神が船中の人の持っているものを何か欲しがっておられるからで、それを入れれば波が静まるのではないか、と考えたのである。幣帛、酒、塩、米がお気に召さないのなら、この海神の好まれるものは何であろう。それがまだわからないのである。
まず尊が足結(あゆ)いの紐を解き、祈りつつ鈴飾りのついた足結いを荒れる海に投げ入れられた。続いて弟橘姫は手に巻いていた玉飾りを、ほかの者たちもそれぞれ差し櫛、髪飾り、釧(くしろ)など護符として身につけているものや、大切なものを一つずつ投げ入れて祈った。それでも海は静まらず、波は荒れ狂う。
「ほかに、捧げるものはないか」
船長が声を張り上げた。忍山宿禰が、取り出した鏡をうやうやしく投供した。海神は鏡を好まれるかもしれない。そしてこの鏡の面のように海が平らかになりますように、という願いを込めたのである。武人が剱をそっと捧げてから波の上に横向きに置いた。縦に投供するのは、海神に対して礼を欠くからである。尊も大きな勾玉を首から外して献じた。けれども吼えるような風が船を襲い、帆柱は悲鳴のような音を立て船はきしみ続ける。
荒れる海の様子を見ながら思い悩んでいた船長は、ある決意をしたらしく、一隅に固まって震えている巫女、侍女たちをじっと見つめた。重苦しく張りつめた緊張感が船内に漂う。次に入れるものがあるとしたら、それは人であった。海神はもしかすればこの船の中の乙女を求めておられるのではないか。そういう場合もこれまでにあったらしい。船長と目が合った一番若い侍女が、何かを感じ取ってわっと泣き崩れた。誰もが息を呑んでいた。顔を覆ってむごい場面を見まいとする者もいた。今から辛い選択がなされるのだった。
皆手を合わせて祈る中、一番若い侍女が海に投げ入れられた。この少女は無邪気な笑顔と愛らしい仕草でいつも皆を和ませていた。悲鳴とともに少女は波間に浮かび沈みしつつ消えていった。海の様子を見守るが、波は少しも静まらず荒れ狂っている。そしてしばらくして、また別の侍女が名指され、投げ入れられた。この少女はおとなしくて優しいので、誰からも好かれていた。それだけでは終わらない。また一人次いでまた……。もう男たちは何か目に見えないものに支配され、取り憑かれたかのように振る舞い、どうみても正気ではなくなっていた。異様な雰囲気に呑まれたのか、諦めきって黙ってうずくまり海に入る巫女もいたし、恐怖からほとんど気を失った状態で投じられていく巫女もいた。納得できなかったとしても、女たちはもう従うしかないのだつた。
稚姫が独り言のように言った。
「次は、私たちなのでしょうか」
船中から一人ずつ女の姿は消えていった。周りを見ると残ったのは弟橘姫と稚姫だけになっていた。弟橘姫は放心したような表情で荒れすさぶ海を見ている。
「今倭姫さまに、どうすればよいのか、心で伺っていたのです。叔母さまは悲しいお顔で涙を浮かべて、お願いします、と私に深く頭を下げられました。入水せよ、と仰るのです。でも私は、ここで死にたくはない」
弟橘姫は涙を流していた。大和には幼な子を置いてきているし、今二人目の子を身ごもっているのだ。弟橘姫はずっと尊とともにどこまでも旅を続けたい、尊と一緒にいたい、ひたすらそう願っているのだと、稚姫には痛いほどその気持ちが伝わってきた。
稚姫は、自分たちが助かる道はあるのだろうか、と絶望のまなざしで周囲の人々に目を向けた。誰も二人をまともには見られなかった。波に翻弄され、船は今にも沈みそうであった。
稚姫は思う。海神がこんなにお怒りなのは、尊のあの「こんな小さい海は、ほんのひと飛びで渡ることができよう」という海神を侮ったかにもとれる言挙げのせいではなかったか。尊が我が身をもって真にお詫びなさるのでなければ、海神はどんな謝罪も受け入れられないように思われる。けれども軍を率いる尊が、この荒海に身を投じる訳にはいかなかった。その身代わりが唯一務まるのは、弟橘姫の腹に宿っている尊の赤子であったろう。この御子を贄(にえ)として捧げ、海神にお詫びするのであれば、もしかすれば海神のお怒りは解けるのかもしれない。
今や弟橘姫が入水するのを、船中の人たちは、尊や姫に申し訳ないことと思いつつも、待っているのであった。海神がお望みなのは、この弟橘姫なのではないだろうか。皆見ないようにしていてもやはりこちらを見ている。痛いように視線が突き刺さってくる。稚姫は心の中で思わずにはいられない。
(それでは私たちも含め、女たちがこの船に乗せられたのは、こういう非常の事態が起きた場合、次々と海に投げ入れて海神に献じるためでもあったのか)
皆の視線に耐えきれず、ついに弟橘姫の悲しげな声が響き渡った。
「私が海に入ります。尊の代わりに」
尊の代わりに、という言葉は波の音に掻き消され人々には聞こえなかった。弟橘姫も尊の発した言挙げが良くなかったことはわかっているのだ。けれども海神はおそらく弟橘姫を求めておられるのであろう。船中の多くの人々の目はそう思っていた。
「私もお伴いたします」
稚姫も続いて言った。こんな荒れる海の底に、弟橘姫を一人で行かせることはできないと思った。倒れそうになっている弟橘姫の身体を支え、手を握って励ました。細く白い指はこわばっていて冷たかった。稚姫は弟橘姫に言った。
「老蘇の森へと参りましょう。ご一緒にこの海を抜けて」
忍山宿禰は、激しく動揺する心を抑え、娘の弟橘姫と姪の稚姫の二人を黄泉へと送るための褥(しとね)を震える手で用意するのであった。菅草で編んだ敷物の上になめした柔らかい鹿の皮を重ね、絁(あしぎぬ)の布を広げ、愛用の枕も添えられた。折敷(をしき)や片木(へぎ)に供え物を盛って神前に捧げるように、敷物の上に女たちを乗せて波の上に置き、海神に供するのである。忍山一族の男たちは皆この上なく辛く悲しい気持ちであった。
尊は、最後に弟橘姫に近寄って肩をそっと抱いた。
「済まない。許してほしい」
弟橘姫はかすかに頷き、歌を口ずさんだ。
さねさし 相模(さがむ)の小野に
燃ゆる火の 火(ほ)中に立ちて
問ひし 君はも
(相模の野の 燃える火の中に立ち 大丈夫か と問いかけてくださった あなた)
弟橘姫と稚姫は身を寄せ合って敷物の上に座ると、そっと身を横たえて目を瞑った。せめてもの心尽くしとして敷物は厚くされ、さらに絹布が重ねられてある。忍山宿禰の合図で、男たちによって敷物が持ち上げられると、暴風の海に祈りとともに投じられていった。高い波しぶきが上り、しばらくの間二人は波の上で左右に揺れ漂っていた。稚姫は目を開けて最後に船の方を見た。手を合わせて祈る人々の姿がそこにあった。見ると弟橘姫もまた虚ろな目を見開いて、船上の尊の姿を求めている。その目はこんな風に語っていた。
(短かい年月だったけれど、尊とともに過ごした日々は本当に幸せだった。思いがけず尊の旅に伴われて父や兄、稚姫とともに夢中でここまでついて来たけれども、これ以上の旅は叶わず、こうやって今ここで別れていくのだ……)
弟橘姫は船から目を逸らすと、ぼんやりと空を見つめて浮き沈みしていた。稚姫も次第に意識が遠のいて目の前が霞んできた。やがて立て続けにやって来た大きく高い波に呑み込まれ、二人の姿は船中の人々の視界から消えていった。
ほどなく海は鎮まっていった。嵐は去ってゆき、荒波は静まって、風は順風に変わり、船は上総へと進み始めたのであった。
尊は浜辺に弟橘姫が打ち上げられているのではないかと、亡骸を求めて何日も海岸を探して歩かれた。忍山宿禰もまた自分の手で投じた娘たちを痛ましく思いつつ、終日無言で手がかりを求め一人海辺をさまよっていた。忍山宿禰の白髪交じりの髪や髭は海風に煽られ、岩陰を隈なく探し、寄せては返す波を見つめて佇んでいる様子は、急に年をとったように見受けられた。
妃の亡骸は上がらなかったが、尊はやがて弟橘姫の見覚えのある差し櫛が波打ち際に漂っているのを見つけられた。忍山宿禰も、稚姫の物かと思われるちぎれた袖が砂浜に半ば埋もれているのを見つけて持ち帰った。これらの遺品を丁寧に清めて筥(はこ)に納め、魔除けの赤い布で包んで埋葬し、尊はここに妃の塚を築かれた。
ここにその后名は弟橘(おとたちばな)比売の命の白したまはく、「妾(やっこ)、御子に易(かは)りて海の中に入らむ。御子は遣さえし政(まつりごと)遂げて、覆奏(かへりごと)まをしたまはね」とまをして、海に入らむとする時に、菅畳八重(すがたたみやへ)、皮畳八重(かはたたみやへ)、絁畳八重(きぬたたみやへ)を波の上に敷きて、その上に下りましき。ここにその暴(あら)き浪おのづから伏(な)ぎて、御船え進みき。
かれ七日の後に、その后の御櫛(みくし)海辺に依りき。(古事記)
5
坂下(さかもと)に到りまして、御粮(かれひ)きこし食(め)す処に、その坂の神、白き鹿(かせき)になりて来立ちき。ここにすなはちその咋(を)し遺れる蒜(ひる)の片端もちて、待ち打ちたまへば、その目に中(あた)りて、打ち殺しつ。(古事記)
荒ぶる蝦夷どもを言向け、また山河の荒ぶる神どもを平(ことむ)け和(やわ)して……甲斐に出でて、酒折宮にまします時に歌よみしたまひしく、
新治(にひばり)筑波(つくは)を過ぎて 幾夜か宿(ね)つる (古事記)
甲斐の酒折(さかおり)の宮は緑濃い山の中腹に営まれていた。そこは盆地になっており、遠い昔にはここは大きな湖だったといわれていて、やがて湖水は山の一部を切り崩し、甲斐から南へと流れ始めたという。気の遠くなるような長い年月の間に湖は少しずつ干上がり、沼や池を残しつつその地形を緩やかに変えていった、と言い伝えられてきた。
酒折宮の背後にある山は神奈備の山で、三角に尖った秀麗な形をしている。酒折御室山(さかおりみむろやま)と呼ばれ、古くから聖なる山として崇められてきた。霊威のある山で、頂には神が降臨されたと伝わる大きな磐座があり、祭祀者のみがそこに近づくことができる。ほかの者が行けるのは、山の途中までであった。山頂へと続く木立の間にもひっそりと磐座が見え隠れし、山裾の斜面にもさまざまな貌(かお)を持つ奇岩が多く点在している。
酒折の宮に立つと、眼下には青味を帯びた静かな沼が広がっている。周囲の山々の影が水に映り、季節ごとにその彩りを変えてゆく。春には花が香り、山で鶯が鳴き交わし、秋には木々が紅葉して山は照り輝く。草の茂る水辺には青鷺(みとさぎ)が舞い降りて餌をついばみ、水面にさざなみを立てて山からの風が吹き渡ってゆく。山鳩がのどかに鳴き蓮(はちす)が浮き、水鳥が泳ぐその情景は、どこか大和を思わせるものがあるらしく、この地に宿営する大和の武人たちは、皆感慨深げに、ここにいると磐余(いはれ)の池を思い出す、まるで軽(かる)の池のようだ、あの山は三輪山に似ている、などといって景色を飽きずに眺め、故郷を懐かしむのだった。
古くから酒折には行宮が設けられていた。多くはないが常駐する兵がおり、大和から東国の様子を巡察するため武人が来たときには宿舎として使われる。ほかの国々に通じる分かれ道の起点でもあるので、交通の要衝として大和から重視される宿営地のひとつであった。大王の軍は、東方巡察、また平定の軍旅の折々には、酒折に立ち寄る慣わしであった。
甲斐の国の村の長(おさ)、塩海足尼(しおのみのすくね)と孫娘の志保(しほ)は、何度か館を出ては道端に佇み、酒折の宮に到着するはずの日本武尊(やまとたけるのみこと)軍の一行を待っていた。東国の平定を終えた尊(みこと)の軍は、ここでしばし滞在し疲れを休められる。その間に兵は弓弭(ゆはず)など武器、武具を修繕(つくろ)い、傷病の兵はここで傷を癒すことになる。
尊(みこと)の軍が岳坂(やまさか)を越えて、甲斐に向かう、という知らせが入ると、酒折では軍を迎える準備に取りかかったが、旅の行程が遅れているのか、一行はなかなか姿を見せなかった。
実は尊の軍は山中で霧に巻かれて道を失い、難渋していたのであった。行く手にはまるで白い生き物のように冷たい霧が現れ、谷から這うように上ってきて人を包み込んでゆき、霧の向こうにもまだ霧があるようだった。霧は動かず、濃い霧にまとわりつかれているうちに、閉じ込められたかのように目の前の道が見えなくなってゆく。髪の毛も衣服も濡れそぼって身体が芯から冷たくなってくる。雲の中に分け入ったようで、今自分たちがどこにいるのか、どう進むのか、昼なのか夕べなのかもわからなくなる。白い世界に長く浸っていると、皆心がぼんやりとして気も遠くなっていくようで、おかしなことを口走ったり、急に笑い出したりする兵もおり、次第に怪しい雰囲気になってきた。
尊は、これではいけない、と山中で御粮(みかれい)の食事を摂ったときに、残しておいた野蒜(のびる)を出してかじり、
「野蒜を見つけたなら、すぐに取ってかじれ」
周りの兵にもそう命じた。
野蒜には、ほかの草にはない特別な力があった。強い匂いが邪気を遠ざけるし、噛めばひりひりする辛味で正気を取り戻すことができる。何か口に入れれば冷えた身体も少しは温まる。細い草ではあるが、何となく蛇を思わせる形をしているので、呪力も期待されたのである。丸く膨らんだ白い根の部分は蛇の頭部に似ているため、山中で魔に魅入られたようなとき、忍び寄ってくるものを打ち払う仮の呪具として役に立った。尊は野蒜の片方の端を持って前方の霧を打ち、自ら呪(まじな)いをし、
「白い魔ものに負けるな」
と兵を叱咤したのであった。そうするうちに霧が少しずつ流れ、薄く風景が透けて見えるようになった。野蒜の呪力かどうかはわからないが、空も明るくなって視界が開け、ようやくのことで霧は晴れていったのである。そして軍は道を取り違えずに坂を無事に越えることができたのであった。尊は坂の上に立ったとき、遠く海の方を顧みて「吾嬬(あずま)はや」、わが妻よ、と仰(おっしゃ)って走水の海で入水した弟橘姫のことを偲ばれた。軍旅の様子は、やって来た使者によって酒折宮に伝えられた。
軍が到着したのは、夕暮れであった。炊舎(かしきや)の竈の前で女たちとともに菜を茹でたり蒸したり、忙しく立ち働いていた志保は、人々のざわめき、物音の気配に気づいて手を止めると門の方を見た。そこに現れたのは、足取りも重い疲れきった男たちの一群であった。
志保はその中に、いまだ帰らない夫の姿を探している自分に気づく。志保の夫も何年か前、東国で蝦夷(えみし)が騒いだ折、村からの兵として軍に加えられ旅立っていった。村のほかの若者は帰ったのに志保の夫は戻ってこなかった。旅先で蝦夷との小競り合いがあった際に行方が分からなくなり、そのまま死んだものと考えられた。けれどもその知らせがどうしても信じられず、僅かな望みをつないで志保は今も心の中ではずっと帰りを待ち続けているのである。
庭燎(にわび)を焚き、祖父の塩海足尼(しおのみのすくね)が門口に立って出迎えている。祖父はこの村でずっと祭祀を司っている。長である父が病を得て臥せっていたため、本来なら父も出るべきところであったが、祖父が代わりに尊の一行を迎えたのである。近づいてくる一行は、どの兵もひどく汚れ疲労していた。戦で多くの人の血を浴び、死と隣り合う場面を経てきた人々の持つ異様な表情が漂っている。
「ああ、これは」
何という暗さだろう、と志保は思った。戦(いくさ)からかなりの日が経ったことだろうに、どの兵もその背後にまだ数多(あまた)の死を負い、殺された者の思いを引きずっているかのようである。祖父が火を焚いたのは、館の目印ということもあるが、人々が身に受けた罪や死の穢れ、怨念、さまざまな悪霊を火によって清めるという意味もあった。くたびれきった兵は揺れる炎をしばし見つめ、煙の中を掻いくぐるようにして次々と館へ入ってゆく。
上総や陸奥で起きた戦のことは、ここまでもその噂が届いてきていた。尊の軍は走水の海を渡ろうとして嵐に遭い難船しそうになったが、妃の弟橘姫と巫女や侍女たちが入水して海神の怒りを鎮め一行を救った。女たちの命は失われたが、船団は無事に上総に上陸し、尊は浜に打ち上げられた妃の遺品を納めて御墓を築かれた後、予定通り軍を進めていった。別行動をとっていた副将軍の尾張の建稲種の軍とは上総で無事に合流し、以後は行動をともにして、土地の王でかねて大和に従わず、抵抗を続けていた一族の討伐に向かったのである。今回尊が遣わされたのは、これら東国の賊徒を討ち、内乱を鎮めることであった。そして尊の軍は、叛いた王とその一族を包囲して追いつめ、これを悉(ことごと)く滅ぼし、平定したのであった。
賊徒の王の死体は、祟りと蘇りを封じるため分断され、数箇所に分けて埋められ大石で封印された。戦は、この地ではかつてないほどの激戦であったという。
尊の軍は、上総からさらに進み、陸奥の国へと入っていった。竹の水門(みなと)では、蝦夷の首領らが遥かに王船を眺めてその威勢に恐れを抱き、尊を近く仰ぎ見て神のようだと感じたらしく、武器を捨てて服従した。尊はこの首領らを俘(とりこ)とし、蝦夷の言葉に通じ各地の事情にも詳しいことから道案内、説得および交渉役として使役することにした。
軍は東国を進み、各地を平定していった。白河では戦に勝利した後、三森(みもり)にある筒古山に上って頂に鉾を建て、神を祀り鎮めた。鉾は神の依り代、神座でもあるので鉾に神霊を招き寄せ、地霊を鎮めたのである。この山は緑濃く樹木に覆われ秀麗なかたちで、磐座もあり古くから神が鎮まるとされる聖地であった。
この地域には、それぞれの首領に率いられた蝦夷が、要害の地である八つの岩窟に住んでいて、尊の軍に対し激しく抵抗を続けた。蝦夷は互いに連絡を取り合って防戦し、もっと北の津軽の蝦夷からも援軍を送ってきて、狩に使う強弓を岩屋に並べて張り、尊の軍が近づくたびに狙いを定め射かけてきた。そのため軍はなかなか進むことができなかったが、尊は霊威のある槻(つき)の木で作った弓矢を手にすると、七発(ななさ)、八発(やさ)と発(はな)たれた。この槻の木には特別な力があり、尊の力の方が敵よりもまさっていたので、矢は首領たちに中(あた)り、敵を倒すことができた。八人の首領のうち二人は武器を捨てて降伏し、尊に服属を誓ったので命を許された。
尊の軍は、さらに旅を重ねていった。その後は小さな衝突は起きたものの、もう大きな戦闘は起きなかった。賊徒を討伐した折の激しい戦いぶりが伝わっていたようである。尊は各地を巡行して地勢や民の暮らしを見、天津神を新たに祀るなど祭祀にも力を注ぎつつ旅を続けていったのだった。
酒折の宮は久しぶりに大勢の人々を迎えて賑わった。女たちは温かい食べ物を整え、広間に次々と運んでいった。長も病の身ではあったが、尊に礼を失しては、ということで少しの間宴に出ることになり、宴席に連なっていた。
宴は進み、座にはくつろいだ気分が満ちていた。湯気の上がる食事を摂って疲れもやわらぎ、人々は心和んで笑顔で談笑していたのである。串に刺して炙った魚や、干し肉、山の果実でつくった酒もあり、ゆでた青菜、熱い粥も充分に用意されていた。
空には白い月がかかり、遠くの山々が黒い影となって重なり合っていた。尊は上座から夜の庭を眺め、静かにもの思いにふけっておられる様子である。それを見て、遠征の疲れを休めておられるのだ、と給仕に出ていた志保は思った。
庭に目を向ければ、そこには祖父が庭燎(にわび)の側にうずくまるように坐っている。火は勢いよく爆(は)ぜ、あかあかと燃えて、湖からの風に揺れ動く炎が、年老いた横顔を照らしだしていた。この火は浄めと魔よけの意味もあるので、祖父は炎の色を見つめつつ掻き立て、絶やさないようずっと側についていたのである。
新治(にひばり) 筑波(つくば)を過ぎて 幾夜か宿(ね)つる
ふっと尊が歌いだされた。その歌の調べに、座の人々は談笑を止めて尊の方を見た。中には居ずまいを正す者もいた。神はしばしば貴人に降り、歌のかたちでものを仰(おっしゃ)ることがあった。このときも、尊の歌われる声の調子を聞いて、もしかすれば神が降りられたのかもしれない、と座に侍る人々は感じたのであった。
尊の問いに対し、単に新治、筑波からの軍旅の日にちのみを言うのであれば、何日でございます、とただちにお側の者が答えればいいのだろうが、これがもし神詠であるのなら、気軽に誰でも答えるという訳にはいかない。神と向かい合い、対等に歌でもって即座に答えられるのは、神と同等の資格を持った人ということであろうから。
誰かがお答えするだろう、と皆心待ちにするのだが、誰もそれに対して返すことができず、座はしんと静まっていた。すると、
日日並(かがな)べて 夜(よ)には九夜(ここのよ) 日には十日を
(日数を重ねて、夜は九夜で、日は十日でございます)
夜の静寂(しじま)に、歌声が朗々と響き渡った。それは庭に坐って火を焚いていた祖父の声であった。尊はその歌を聞くと大きく頷いて、
「あの者は」
と尋ねられた。志保が、
「祖父の塩海足尼(しおのみのすくね)でございます」
と答えると、満足そうに微笑まれた。尊の笑顔に安堵して、座に連なった人々の緊張が緩んでゆくのがわかる。改めて指を折って自分たちがたどった旅の日数を確かめてみる者もいたし、今聞いたばかりの歌を、小声で繰り返してみる者もいた。
志保は誇らしく思うのだった。祖父は祭祀者であったから、このようにみごとに続けて歌うことができたのだ。宴の座での余興の歌のようでもあったが、歌いだされたときの尊の歌の調べには、確かに神が降りたときのようなおごそかな響きがこもっていたようにも感じられた。そして祖父の返した歌にも、平素の祖父の声にはないようなある高らかな響きがあった。
酒席の戯れともみまがう歌のやりとりであったが、実は大和のいずれかの神が憑依された尊の歌の問いかけに対し、酒折の土地の神が憑依した祖父が、歌でもって正しくお答えしたのではないか、と志保には感じられた。
夜でいうなら九夜、日で数えるなら十日、という答えはすでに尊のうちにあり、尊は旅の日数についてもあらかじめご存知だったのではないか。実は後の返しの歌ももう尊の心のうちではできていて、誰かその調べをわかる者がいるなら、その通りに言い当ててみよ、と問いかけられたのではないだろうか。正しく歌を返した者こそが、この村を統べる長としてふさわしい。尊はそのことをこの場で確かめようとされたのかもしれない。祖父には人の心を読みとる不思議な力があったし、隠された気持ちを見抜く能力もあった。その力を駆使してこのとき尊のうちにあるものを直感で感じたまま、歌ったのに違いない。
尊(みこと)は塩海足尼(しおのみのすくね)を信頼されて常に側に置き、酒折の村々を巡察される折にも案内役として伴った。足尼もまた尊に心の通うものを感じたのか、労をいとわずよく奉仕した。足尼は杖に頼りつつ神奈備の山の頂に尊をいざなってともに磐座の祭祀を行い、また尊の旅の日々を慰めるため、湖沼の上に舟を出して遊ぶこともあった。
湖上で、足尼はこのとき尊に対して、ある忠告をした。
「尊には、もしかすればご存じないことかもしれませんが、こんな出来事がございました。以前ある将軍とその嫡子が大王に命じられて、東国の敵を征伐するため大和を発たれました。そして勇猛果敢なお働きで東国を平定され、その帰りにここ酒折にも立ち寄られました。将軍は尊によく似た面ざしで、まことに高潔なお方でございました。その方は帰途、美濃に着かれたとき、大和へも近づいたことから臣下の者を大和へ遣わして、討伐をなし遂げたこと、近日中に大和へ帰還する旨を大王に報告なさいました。ところが、その使者が将軍の討伐の成功をかねてから妬んでおり、将軍には謀反の意思がおありだ、と讒言したのでございます。大王は使者の言葉を信じて将軍のお心を疑われ、兵を美濃に差し向けられました。将軍は朝敵として、その嫡子とともに美濃の稲葉山という所で討たれてしまわれたのでございます。後になって疑いは晴れ、稲葉山麓の椿原に手厚く祀られたと聞いております……。尊には、まさかそんなことが起きるはずもない、とは存じますが、実はこのような戦は、勝って還るときこそが、危のうございます。尊にはどうぞくれぐれもお気をつけられますように……」
「それで、その将軍の名は」
「五十瓊敷入彦(いにしきいりひこ)王子というお方でございました」
尊は長く沈黙したまま、足尼の言葉を聞いて考え込んだ。それは尊の伯父にあたる人物だったからである。
足尼はぜひともこのことを伝えておきたくて、尊を舟遊びに誘ったのであった。
尊は酒折の村々を巡行して、残りの日々を過ごしていった。酒折ではまだ大和の神が祀られていなかったことから、足尼はこの地で大和の神を祀ることを申し出て、尊もそれを許されたので、忍山宿禰によって宮地が卜定され、大和の神のために新たに宮が営まれることになった。大和から神が勧請されたので、それは美和の社と呼ばれた。
尊は大伴武日に対し、村の若者たちによる軍を新たに編成し、ここに滞在する間に軍事訓練を重ねて、兵として鍛えておくようにと命じた。また今回東国については平定が終わったが、信濃の国と越の国に関しては王化(みおもぶけ)がそれほど進んでいないことから、誰かを遣わして、国の地勢の険しさの程度や帰順する者、背く者の有無、民の風習について調べることについて、吉備武彦らの意見を訊いた。一方建稲種(たけいなだね)は武日の訓練を手伝う傍ら、部下を引き連れてたびたび魚を獲りに川や湖に出かけ、また山野で狩をしては鹿や兎、山鳥などの獲物を持ち帰って尊に献上し、一同の食膳にも並べて賑わせた。
尊はここで軍を分けられた。吉備武彦は尊としばらく行動をともにするが途中で別れ、信濃から越の国を巡察した後、尾張までの道のどこかで尊の軍と合流する予定である。一方副将軍の建稲種は南へと下り、海路をとってまっすぐ尾張へと戻る。尊の軍は酒折を出て信濃に入り、信濃の坂を越えて美濃から尾張へ戻り、それから大和へと還ってゆくのである。酒折から後は、もう行く手を遮るような強敵との遭遇はないと考えられたので、尊はこのように軍を配分したのである。これはいわば凱旋(かちかえり)の旅であった。
いよいよ旅立ちの日がやって来た。まず副将軍の建稲種の軍が出発し、その後で尊の軍が発った。尊の軍の長い軍列の最後の兵が遠ざかり、その姿が消えてしまうまで、塩海足尼と志保は別れを惜しみ道端で見送っていた。
志保は、寂しげな表情になった。こうして去ってゆく人を見送るのが辛いのである。何年か前、村の若者であった志保の夫もまた東国へ兵として旅立った、その日のことが思い出されて切ないのである。
「とうとう尊もほかの方々も、行ってしまわれました」
「無事に旅を続けて、大和へ帰り着かれるとよいのだが」
「ここで過ごしていると、まるで大和に戻ったような気がする。心が和んでくるようだ、と尊はしみじみ仰(おっしゃ)っていました。それにしても何か、気がかりです」
「志保もそう思うのか」
二人は尊の行く手に、どことなく不安を覚えるのであった。
「尊がここへ来られたときは、長い戦の旅で本当に疲れておられました。どこか眼の光が暗く鋭くて」
尊だけでなく、多くの兵もまた疲弊していた。騒乱を起こした蝦夷を倒したといっても、殺した敵の男たちにも妻や子があり、親も兄弟もあるのだ。私たちと同じように、と志保は思う。それぞれが夫であり息子であり、父であり、帰りを待つ家族がいることに変わりはない。戦というもののむごさを思い志保は嘆いた。
「そうだな」
しばらく二人は黙っていた。
「でもここでゆっくり過ごされるされるうちに、尊は段々と和やかなお顔になってゆかれました」
尊も兵たちも、ここで穏やかに暮らすうちに、身体も心の傷も癒されていったのだ。酒折の地にはそんな力がある、と志保は思う。二人は、尊との日々のあれこれを思い浮かべては懐かしみつつ語り合うのだった。
酒折での宿営が終わりに近づいた頃、旅立ちに際して、尊は塩海足尼に対して謝意を示し、形見として火打ち袋を手渡した。
「それは尊が倭姫さまから授かったものでございましょう。大切な護符かと存じますが」
塩海足尼は辞退しようとしたが、尊は続けた。
「いずれ私はこの地へ戻ってくるつもりだ。そのときまで預けておくことにしよう」
「酒折がお気に召したようで、いつか帰ってきて住んでくださるのなら、それは私どもにとっては、何より嬉しいことでございますが」
足尼はそう言い、迷いながらも押し頂いて受け取ったのである。倭姫は心を籠めて尊に贈ったのだと思われる。尊が敵に欺かれて野火に巻かれたとき、尊は剣で足元の草を薙ぎ払い、火打ち石で向かい火をつけて難を逃れることができたという。二つの品のうちもしどちらが欠けていたら……。
尊のこれからの旅の安否が気遣われる、と足尼は思うのだった。
「尊が、私どもへの形見にと、このお品をくださった」
塩見足尼は、火打ち袋を取り出して志保に見せた。長旅でかなり傷んではいるが、丁寧に縫ってある。
「倭姫さまのお手づくりでございましょう。魔よけの文様の縫い取りがしてありますね。尊が私たちにこれを下さったのは……見て思い出にせよ、ということでございましょうか」
先日、尊の身の回りの世話をしていて、持っておられる火打ち袋があまりに綻びが目立っているのに気がついた志保が、新しい袋を縫い、
「もしおよろしければ、予備としてこれをお持ちくださいませ」
と差し上げたのであった。志保の心遣いに、尊は袋を取り替えられたようである。
尊は、これを置いてゆかれていいのだろうか、と志保も訝った。いつかここに戻ると仰るが、尊は大和で次の大王位に即(つ)かれる方だと聞いている。そんなお方が、果たしてここへ戻ってこられるような日が来るだろうか。死後、霊になったらまた話は別だろうけれど。霊ならどこへでも好きな所や気に入った地に行くことができる……。ふっと不吉な死や霊という想念を思い浮かべたことに志保は自分でも驚き、慌ててそんな考えを打ち消した。
「尊はもうひとつ、倭姫さまから授かった御剣(みつるぎ)を大切にお持ちでした。あの剣がこれからもずっと尊を守ってくださいましょう」
「そうあってほしいものだ」
塩海足尼と志保は、さまざまな思いとともに、尊の軍が去っていった方向を見つめるのであった。
ここにその御火焼焚(みひたき)の老人(おきな)、御歌に続(つ)ぎて歌よみして曰ひしく、
かがなべて 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を
と歌ひき。ここを以ちてその老人を誉めて、すなはち東の国の造(みやつこ)を給ひき。(古事記)
6
ここに大御食(おおみけ)献(たてまつ)る時に、その美夜受比売(みやずひめ)、大御酒盞(さかづき)を捧げて献りき。ここに美夜受比売(みやずひめ)、その襲(おすひ)の襴(すそ)に月経(さはりのもの)著(つ)きたり。(古事記)
尾張の長、小豊(おとよ)の娘、宮簀姫(みやずひめ)は、兄の建稲種(たけいなだね)の突然の死の知らせを聞いて茫然としていた。戦で亡くなったのではなく、東征を無事に終え、酒折で日本武尊(やまとたけるのみこと)の軍と別れ、海路で尾張へ凱旋する帰途、駿河の海で水死したというのである。
使者の久米八腹の話によると、その日、駿河の海は穏やかであったという。建稲種が海に舟を浮かべていたところ、珍しい鳥が飛来した。それは鶚(みさご)という鳥であった。海の鷹ともいわれる精悍な鳥で、顔は白く翼は濃い茶色、鳴き声から覚賀(かくか)の鳥とも呼ばれている。ゆっくりと滑るように空を飛んでいるが、獲物を見つけると空中で大きく羽ばたいた後、急降下して足で魚を掴み飛び去ってゆく。飛んでいるときの姿は美しく、海面を打つときには大きな音を立て豪快な水しぶきがあがる。建稲種はしばらく見とれていたが、ぜひともこの珍しい鳥を捕獲して、尊に献上しようと考えたらしい。帆を張ってこの鳥を追いかけていたところ、折悪しく突風が吹き荒れて船が覆り、建稲種は海に落ちたというのである……。
日本武尊の東征の副将軍として水軍を率い、晴れがましく従軍する兄を見送ったのがつい昨日のことのように思われる。兄は尊が尾張に着いて以来、尊とは気が合うのかまるで兄弟のように親しく行動をともにしていた。尊にも信頼され、戦では数々の軍功を立てたと聞いていたあの兄が……。
尾張では突然の出来事に衝撃を受け、皆深い悲しみに沈んでいた。母親は悲嘆にくれ食事もとれず寝込んでしまい、父の小豊は虚ろな目を宙にさまよわせていた。あまりにも唐突な息子の死をすぐには受け入れられず、尾張かあるいは大和に何らかの恨みを持つ者らによる謀殺の可能性もあるのでは、という疑念にさいなまれ、苦しんでいるのであった……。
建稲種は無事に帰還していれば、父の小豊の跡を継ぎ、尾張の長となる人物であった。長にはほかに息子はおらず、建稲種を唯一の望みとしていたので、尾張はこのとき有力な後継者を失って、混乱のさなかにあったのである。夫の帰りを待ち待ちわびていた建稲種の妻は、悲報を聞いて以来、泣き続けるばかりであった。建稲種の子どもたちはまだ成人しておらず、幼少のものもいて、遺骸もまだ上っていなかったことから、父の死の意味もわからず、そのあどけない笑顔が新たな周囲の悲しみを誘うのであった。
尾張に近づいている尊にも、使者が出されることになった。久米八腹がその役を務め、道を早駈けして尊にこのことを知らせた。尊は思いがけない出来事に驚き、現(うつつ)かな、現(うつつ)かな、と嘆き悲しまれたという。
宮簀姫は、今どうするべきか、考えなければならない立場にあった。尊の軍はもうすぐ尾張に到着する。本来なら尊の軍を迎え、東征の成功を寿ぎ、無事帰還されたことをねぎらうため盛大な宴が催される予定であった。そしてその席には建稲種も連なるはずだったのである……。尊を尾張でどのようにお迎えすればよいのか。歓迎の宴をどうするのか。兄の死はこの上なく辛いことであり、嘆き悲しんでいる両親の気持ちを思うと胸が痛んだが、尊に対しては、できるだけの心尽くしでもってお迎えしなければ、と宮簀姫は考えたのであった。兄もそうすることを望んでいるような気がした。このような事態になったため、尊はあるいは尾張には長くとどまろうとされないかもしれない。兄は尊のことを心底敬愛していたから、自分の死によって、尊の軍が尾張で快く迎え入れられず、また妹との婚儀が整わなかったとしたら、そのことを残念がるに違いない。
宮簀姫は館に尊をお迎えし、歓迎の宴を催し、かねて約束のあった尊との婚儀のことも予定通り進めることに対し、ためらう心がないことを両親に申し出た。兄という大きな存在を失った今、誰を頼ればいいのだろう。建稲種の息子たちはまだ少年で、成人するまでは皆で見守ってゆかねばならない。両親は打ちのめされており、悲しみに沈んでいる。今の尾張にとって頼れそうな相手は、尊しかいないのであった。本能的に宮簀姫はそう感じ、心から尊にすがろうとしていたのであった。
この気丈な娘の申し出を受けて、両親もようやく気持ちを立て直して宴の準備を始め、その一方では息子の葬儀の心づもりと準備にも取りかかったのである。
尊の軍が尾張に入ったとき、人々は歓迎したが、そのまなざしには悲哀の色が垣間見えるのはどうしようもないことであった。尊の一行が火上の里にあった尾張の長、小豊の館に着くと、最愛の息子を失って憔悴した小豊とその妻、そして宮簀姫が出迎えた。宮簀姫は、尊が兄の死を聞くなり、尾張へと急いだことを知った。一刻も早く尾張に残された家族を慰めようと、足を速めたという。
海のもの、山のもの、珍しい料理、ご馳走の数々が高盛りにされて並べられ、やがて歓迎の宴が始まっていった。それはまた宮簀姫との婚儀の宴でもあるのだった。服喪中であったので、両親は遠慮もあって宴の途中でそっと席を立ち、退出していった。
宮簀姫が大きな酒盃を捧げて尊にたてまつった。そのとき宮簀姫のはおっている白い衣の裾に月のものがついていた。実は直前に血の染みに気づいた侍女の一人が、近づいてそっと姫に耳打ちしたのであった。姫もそのことはわかっていたのであったが、今から部屋を出て水で身を清め、衣服を取り替えるなどしていては、尊を長々と待たせることになってしまう。両親もすでに部屋から退いていたため、その間尊のお相手をする者がおらず非礼である。かといって血のついたままでいるのも礼を失しているが、どちらも非礼であるのなら、いっそのことこの場を動かず尊のお側にいよう、と心に決めたのであった。
女が月ごとに血を出すことは、病ではないし、女として健やかなしるしであり、経血を穢れとして忌まなくともよい。宮簀姫は少なくとも母からはそう教えられて育ったからである。尾張のこの家ではそうであったろうが、大和の異なる習俗で育った尊はそれをご覧になると、このように歌で問われた。
枕(ま)かむとは 吾はすれど
さ寝むとは 吾は思へど
汝(な)が著(け)せる 襲(おすひ)の襴(すそ)に
月立ちにけり
(あなたと契ろうと思っていたのに あなたの着ものの裾には 月が出ている)
宮簀姫は即座に歌を返した。
あら玉の 年が来経(きふ)れば
あら玉の 月は来経往(きへゆ)く
うべなうべな 君待ちがたに
吾が著(け)せる襲(おすひ)の裾に
月立たなむよ
(新しい年が過ぎれば 新しい月も来て過ぎてゆきます
ほんとうにあなたを待ちきれず 私の衣の裾に月が出てしまったのです)
尊が軍を率いて尾張に来られたとき、宮簀姫はまだ少女であった。尊が東征に費やされた期間は長く、その間に宮簀姫は成長し、もはや子どもではなくなっていたのである。月のものがあるということは、すでに婚姻が可能な年齢となった証、これは暗に女性の側から尊をいざなっているかたちでもあった。宮簀姫は、堂々と機知に富んだ歌も即座に返せるような一人前の女性となったことを、尊に示してみせたのであった。
予定通り婚姻は行われ、尊は月を越えて尾張にとどまられた。
尊は尾張から使者を大和へ遣わして東征の成果を大王に伝えることにした。使者に立ったのは忍山宿禰(おしやますくね)の息子、忍山彦(おしやまひこ)で、弟橘姫の兄に当たる人物であった。忍山彦は大和へ着くと、大王に尊からの言葉を伝え、東征の成果を奏上した。すると大王は尊に対し数々の戦の労苦をねぎらわれた上、今尾張にいるのであれば、最後にもう一箇所、伊吹山の平定を、とつけ加えられたのであった。忍山彦は、尾張に戻ると尊にその旨を言上した。最後の任務とは次のようであった。
「近江と美濃の境にある伊吹山には、いまだ王化に従わない山の民がいるが、大和の御子の手によって、山の頂で天津神の祭祀を執り行い、その山を鎮めるように。伊吹山への道案内と警護は、美濃の国の伊福部(いふきべ)という一族が務めるので、心配はいらない」
つまり尾張からの帰途、伊吹山に上って神を祀った後、大和に帰還するように、と命じられたのであった。高い山に上って祭祀をすることは、その地域を制したことを意味する。祭祀権を持つ者が、その土地を支配するからである。
たとえば初代の磐余彦大王が紀の国に上陸した際に、先住の民の聖地である神倉山に上って祭祀をされたことはよく知られていた。尊も今回の旅で、相模の国平定の折には、霊威ある楯を埋めて地の鎮めとしたし、武蔵の国平定の折には、武蔵御嶽山の頂に鎧、兜を埋めて東国の鎮めとした。東国の白河の山の頂に鉾を立てて神を祀ったこともあったし、またある地では地主神への報恩謝意として羽々矢(ははや)二筋を奉斎した。各地の山、要害となる地、あるいは謂れのある地に武具や品物を奉斎、あるいは地中に埋納し、それぞれ東国の鎮護としたのである。今回近江と美濃の国境(くにざかい)にある伊吹山の頂に鎮めとして埋めるものがあるとすれば、それは霊威のある武具がふさわしく、剣ということになるだろう。
尊は伊吹山へと向かうことにした。宮簀姫には、
「伊吹山を平定し、大和へ帰って大王に戦の成果を奏上した後、尾張へまた戻ってくる。必ず妃として大和へ迎えよう」
と約束されたが、宮簀姫はどこか不安であった。
(尊はそう仰るが、大和へ帰ってゆかれれば、そこには以前からのお妃たち、御子たちも待っていらっしゃる。東征の大きな成果を認められ、新しいお妃も迎えられて、大和にあってそのまま次の大王の位を踏まれるかもしれない。そうなれば遠い尾張にいる私のことなどはそのまま打ちおかれ、やがて忘れられてしまうのではないか。大和の貴人、武人は旅先で、行く先々の土地の女性と契られるものだという。私もそのような大勢のうちの一人ではないのか)
そういうことが気がかりだったのである。宮簀姫はこのまま尊に従ってともに大和へと向かいたいほど尊とは離れがたい気持ちであったが、実際には兄亡き後、その遺族に頼られ、両親からも頼みにされていて、尾張を出ることは適わないのであった。
旅立ちの日が近づいてきた。寂しい気持ちを抑えていると、尊は剣を取りだしてこう言われた。
「この剣には神の霊気が宿っている。私の形影(みかた)としてここに置いてゆく。私が戻ってくる日まで、これを私と思って大切にするように」
「私が、大切な御剣(みつるぎ)をお預かりするのでございますか」
宮簀姫は尊を見つめる。形影というのは、体とその影のことである。離れず寄り添う親密な間柄をたとえて言ったのである。宮簀姫は改めて御剣を眺めた。特別な力があるようである。神を祀るとき、神霊が依りつく「依り代」を授かったような気がする。草薙の剣と称えられているような霊威ある剣を預かってよいものであろうか。あまり寂しそうにしていたので、これを置いていってくださるのだと思うが、貴重なものを預かることもまた不安であった。
「よろしいのでしょうか。これをここに置いてゆかれましては、万一のとき、尊を護るものが……」
「大丈夫だ。この剣は持たなくとも、代わりとなる弓矢がある。多くの武人も軍卒もいる。心配することはない」
尊は自信ありげに言われるのだった。
大伴武日は、尊が宮簀姫のもとに神剣を置いてゆくことを知ると驚きの表情を浮かべ、尊を諫(いさ)めた。
「伊吹山の頂には、御剣を埋めて、山の鎮めとされるものと思っておりましたが。倭姫さまから授かった御剣を伊吹山の頂で、この平定の旅を最後のものとし、無事に山を鎮め納める鎮護と謝意のしるしとして」
「頂には弓矢を埋めることにする」
「弓矢で、ございますか」
武日はあまり賛同したようではなく、剣の方がふさわしいと思っているようである。
「伊吹山は金気(かなけ)の強い山と聞いております。そういう山が発する気に立ち向かうのに、木で作った弓矢では……。もっと霊威の強いものを持ってゆかれるのが良いと存じます。頂に埋めて山を鎮めるのは、弓矢よりも私はやはり御剣をお勧めいたします……。でも尊がどうしても弓矢と仰るのなら仕方ありません。それでも尊の身を護るための御剣は、ぜひとも山に帯びてゆかれますように」
「置いてゆくことに差し支えはない。お前たち武人もいるし、警護には伊福部の者らがつくそうだ。伊福部はすぐれた鍛冶(かぬち)や工人を多く抱え、武具の扱いにも長けた一族と聞いている。剣に不足することはないだろう」
武日は剣にこだわっているようなので、もし神剣を佩いていれば、山頂での鎮護の祭祀の際に、尊、やはりここは弓矢よりも御剣の方を、と言い出しそうであった。尊は宮簀姫に預ける、とすでに口に出したことでもあるので、今さら変えることはしたくないようなのであった。
やがて尊の一行は館から旅立っていった。宮簀姫は見送ったが、何か不安を感じ、心は晴れないのであった。
大和の貴人が鄙(ひな)の地を訪れて土地の女性を娶った場合、別れに際して何か形見の品を置いてゆくのが慣わしであった。たとえば身につけた玉や冠、武具など、身辺で愛用しているもの、衣服などである。もし子どもが生まれ、成長して母親から話を聞き、ぜひ父親に会いたいと願うようになったときには、この品を携えて大和を訪ねてくるように、という意味でもあったろう。また実際に訪ねることができなくても、形見の品が置いてあれば、その品を通じて夢の中で心を通い合わせることもできる。形見とはそのような品であった。
尊が旅立って何日か経ったある夜半、ぱちぱちと火の爆(は)ぜる音で宮簀姫は目を覚ました。火事だ、と叫ぶ声がする。室内にはすでに煙が立ち込め、ものの焦げる臭いがする。急いで飛び起きたが、足がすくんで動けなかった。自分を励まし、尊が床の辺に置いてゆかれた御剣ににじり寄るとしっかり抱き、駆けつけた侍女に助けられて外へと逃れ出た。
建物が燃えていた。火は竈の残り火の不始末なのか、別棟の炊舎(かしきや)が火元のようで、折からの風に煽られて火は居館の方にも広がりつつあった。男たちが懸命に火を消そうと走り回り、女たちは怯えて一箇所に集まり、互いに安否を確かめ合っている。火の勢いは何とかおさまり、消し止められた。
夜が明けてみると、人死にこそなかったものの怪我や火傷を負った者が何人かおり、炊舎と館の大半が燃え落ち、一部はまだくすぶっていた。このままでは煮炊きもできず住めそうもないことがわかったので、とりあえずは建稲種の館へと移ることとなった。打ち続く災難に皆気落ちしてしまい、足どりも重く住みなれた館を後にしたのであった。父の小豊は、この火事もただの失火とは思えず、もしかすれば自分たち一族に悪意を持つ者の仕わざではないのか、という疑念が頭をもたげたらしく、あれこれ思い悩んで憔悴していた。
宮簀姫は尊の剣を持ち出して守ったのだが、実際には自分がこの剣に護られて館から導かれ、火から逃れられたように感じた。
(この剣には、人を護る不思議な力がある。尊はいつもこの剣を身に帯びておられた。これを手放して伊吹山に行かれたが、果たして大丈夫だろうか)
宮簀姫は尊と武日との剣を巡るやりとりをそれとなく耳に挟んでいたから、尊がどうしても伊吹山の頂に神剣を埋めたくないお気持ちなのだ、ということは感じていた。
(尊は、愛用の剣をいくら鎮めのためとはいえ、山の頂に埋めてしまうことなどしたくはないと思っておられる。倭姫さまから授けられた特別な剣なのだ。でもそんな大切なものを私に預けてくださった。これを託されたからには尊がここに戻られることを信じ、その日まで身辺に置いて大事にしなければならない。そして無事に尊の手にお渡ししなければ)
宮簀姫は改めてそう決意するのだった。
かれここに御合ひしたまひて、その御刀(みはかし)の草薙の剣(たち)を、その美夜受(みやず)比売のもとに置きて、伊服岐(いぶき)の山の神を取りに幸行(い)でましき。(古事記)
7
時に山の神、雲を興して氷(ひ)を零(ふ)らしむ。……然(しか)るに霧を凌(しの)ぎて強(あながち)に行く。……猶(なほ)失意(こころまどひ)せること酔(ゑ)へるが如し。(日本書紀)
能褒野(のぼの)にとどまっているという日本武尊(やまとたけるのみこと)の軍の使者が、伊勢の大神に仕えている倭姫のもとへと着いた。東国の異族の男たちを引率しており、
「尊(みこと)から最後に言いつかって参りました。伊勢の大神の宮に献上される蝦夷の俘虜の者どもを、連れてきております。俘虜は竹の水門(みなと)の蝦夷の首領らで、よろしければしばらくここにとどめ置かれますように」
そう口上を述べた。長く小碓王子(おうすのみこ)の消息を聞かず、王子のことが気になっていた倭姫は、すぐに使者に会った。使者は忍山宿禰(おしやますくね)の息子で忍山彦(おしやまひこ)といい、弟橘姫の兄であった。
「実は尊は伊吹山で難に遭われ、山を下りられましてからも体調がすぐれず、漸く能褒野(のぼの)に着かれましたが、日々病が重くなり……」
忍山彦は声を詰まらせる。倭姫は言葉を失った。
「……王子がそんなことに……。どうぞ、詳しく聞かせてください」
促されるまま忍山彦は少しずつ語り始めた。
尊の軍は伊福部(いふきべ)の兵士に導かれて伊吹山の山麓を進み、山道を上っていった。伊吹山はどっしりとした山容を持ち、横に広がった大きな山で、山頂は平らであるというが雲に閉ざされており見えなかった。雲は笠のように広がった形をしており、まるで山が笠を被っているようであった。上ってゆくうちに、薄く濃く静かに霧が湧いてきた。霧は蛇のように地を這い、尊の軍に忍び寄ってくる。かつて酒折へ至る途中の坂でも、尊の軍はこのような魔ものめいた白い霧に苦しめられたのであった。冷たく濃い霧に巻かれた折の嫌な記憶が皆の心に蘇ってくる。
尊は、野蒜をかじることを思いつかれたようだが、探してもこの山道には野蒜らしい草はなかった。ただ小さな兜のような紫色の草花が、道端に揺れているばかりである。それは付子(ぶし)といって毒を持っているのでむやみに触れないように、と伊福部の者が周りの者に注意した。伊吹山の山道は思ったよりも勾配が急であった。歩いている道も、山の高さでいうならすでに今までの旅のどこよりも高く登りにくい。岩が多く険しいのであった。
白い帯のように、濃い霧が流れてきて、行く手に立ちはだかるかのように道を塞いだ。ある意思を持った、不思議な生き物のようであった。たとえば大蛇(おろち)のような……。畏れを感じたらしく先導していた伊福部の若者が立ち止まった。
「何か危ない気がします」
尊は言われた。
「ただの霧ではないのか」
「確かに霧は霧ですが、何かがいつもと違うようなのです。このまましばらくお待ちください。もう少し霧が晴れるまで様子をみます」
若者はじっと前方を凝視したまま動かない。しばし時が流れていった。
「この白い魔ものを恐れているのか。これも山の神の従者であろう。ものの数ではない。頂で山の神を鎮めれば、こんなものは直ちに消えてしまうであろう。いつまでも、ここにとどまっている訳にもゆくまい」
苛立ってきたらしい尊が、先導の若者の横をすり抜けて横たわる霧を踏み越え、その先へと進もうとされた。
「私が先に参りましょう」
吉備武彦が先頭を歩こうとすると、尊はそれを手で制し、自ら先に立って歩いてゆかれた。前方は白くぼんやりと霞んでいてよく見えない。
「お気をつけください」
武日が尊に声をかけた。尊は怯むことなくそのまま進んでゆかれるようである。霧に溶け込んでその姿はたちまち見えなくなった。吉備武彦らが遅れないように急いでついてゆく。そのとき、草がそよいだかと思うと、どこからかひゅっと矢が放たれるような音がした。次いで人が倒れる音もする。何かあったと感じた吉備武彦が音のした方に走ってゆき、後の者も続いた。
見れば尊が地に膝をつき、足に刺さった矢を抜いていた。幸いなことに、矢は浅く尊の膝の上を掠めた程度であった。緊張が走り、兵は武器をとって身構える。
「大丈夫ですか」
武日が尊の傷を調べた。念のため傷口を水で洗って刀子で少しえぐり、持参の袋から蓬(よもぎ)の葉を出すとよく揉んで傷に当て、布で縛った。すぐ近くには人の気配は感じられない。賊がどこかにひそんでいるのを警戒し、兵は手分けして周辺を調べた。
何かを見つけた吉備武彦が叫んだ。
「ここに奇妙な弓がある」
「これは山の民が、猟に用いる仕掛け弓です」
伊福部の若者がそれを見て説明した。仕掛け弓とは、山の民が獣を獲る道具で、獣の通り道に小型の弓を仕掛けておき、張っておいた糸に獣が触れたとたん、矢が発射される仕組みになっているという。低い木の股に矢をつがえた弓を置くようになっている。
「近辺に賊の姿はないようだが」
どうしたものか、と武日らは互いに顔を見合わせ、空を見上げた。雲が降りてきて低く垂れ込めている。
「たいした傷ではない。このまま進む」
尊はきっぱりとそう言われた。その言葉に従って、伊福部の若者が先頭に立つと、一行は山道を上っていった。
前方の草が大きく揺れた。皆身構えたが、鼬(いたち)か貂(てん)らしい獣が人の気配に驚いて急いで逃げてゆくところだった。その後、強い風が吹いたかと思うと、俄かに空が暗くなり、続けざまに空に閃光が走った。そして激しい雷雨が始まり、やがて大粒の雹が降ってきた。打たれると痛いが、山道には身を隠すような大木がない。あるのは低い木や茂みばかりで、付近には逃げ込むような場所も見つからなかった。そのうちに止むだろうと思い、我慢して木陰に寄って凌ぐのだが、空はますます暗くなり、夕暮れのようになっていった。不気味な暗さであった。雹は止んだが雨は断続し、霧はさらに深くなった。尊は焚火を思いつかれたのか火打ち袋を探り、火打ち石を取り出したが、尊の衣服も袋も石も雨で濡れそぼち、付近には乾いた草木も枯れ枝も見当たらない。石は打ち合わせても火はつかず冷たいままであった。
先へ進んだ者が道を踏み外し、斜面を滑り落ちてしまったようだが、助けに降りていった者も戻っては来ない。いつの間にか列からはぐれてしまう者も出たようである。前へ進んでいるつもりなのだが、道がよく見えず、いつの間にか同じ所をたどっているような気がしてきて、不穏な感じがする。行くべき道が見つからないのである。
ふと気がつくと、尊の歩き方がどうも普通ではなく、身体が左右に揺れる上に、片足を引きずって庇っておられる。
「尊、少し休みましょう」
武日が声をかけた。振り向かれた尊の顔を見ると、ほとんど正気を失い、酔ったような熱っぽい目であった。寄ってきた伊福部の者が言った。
「山の神が道を閉ざしてしまわれたようです。こういうときは逆らわず降りた方がいい。尊を早く雨の当らない所にお移ししましょう」
武日らも同意した。皆このような尊の急な体の変調を今までに見たことがなかった。代わる代わる尊に肩を貸し、ふらつく尊の身体を支えつつ来た道を降りていった。山麓で小さな泉を見つけ、冷たい湧き水を汲んできて木陰で尊に勧めると、飲み干してようやくひと息つかれ、少し正気を取り戻して落ち着かれた。
付近の伊福部の一族の家に尊を運び入れ、そこでしばらく休養することになった。尊はその夜から高熱を発し、数日後熱が少し下がると足の痛みを訴えられた。薬草で手当しているが、傷を受けた足は赤黒く色が変わりひどく腫れている。
吉備武彦は伊福部の男に、仕掛け弓について問いただした。
「仕掛け弓の矢には、付子(ぶし)という毒が塗ってあることが多いのです。鳥兜(とりかぶと)の根からとった毒です。山の民は毒草の扱いに長けています。たまに張られた紐を踏み誤って人が矢を受けてしまうこともありますが、軽い場合は、一月ほどで直ります」
「重い場合は」
「……まれには、助からないときも……あります」
吉備武彦は怒った。
「なぜ今頃になって言うのだ。それを知っていたら尊に前を歩いて頂くのではなかった。なぜそういう罠のことを前もって言っておかないのか。尊に万一のことがあったらどうするのだ」
伊福部の男は、申し訳なさそうにただひたすら頭を下げるばかりであった。
この話を吉備武彦から聞くと、武日は顔を曇らせ、声をひそめた。
「これは、もしかすれば巧みに仕掛けられた罠だったかもしれない。謀(たばか)られたとも考えられる。伊福部の一族は、五百城入彦(いおきいりひこ)王子と所縁が深い一族と聞いている。尊は東国の蝦夷の討伐を命じられたのであって、伊吹山に上って鎮めよ、などという話は、当初の予定にはなかったことだ。裏に何か別の企みがあったのではないか。尊が伊吹山の平定に失敗すれば、それを良しとする者どもがいるということだ」
吉備武彦も考え込む。五百城入彦王子の母、八坂入姫は美濃の出であり、実家は格が高く、以前から美濃の一大勢力となっている家柄であった。
「そういえば、山に入ったとき、大きな笠雲が山にかかっておりました。後で土地の者に聞くと、ああいう雲は嵐の前触れであるとか。天気が崩れるのがわかっているのに、なぜ皆で山に上られるのかと、土地の者は思っていたようです」
「それも、伊福部の考えのうちだったかもしれない。逆に嵐の到来を待っていたのではないか」
吉備武彦は沈黙した。武日は膳夫(かしわで)の七掬脛(ななつかはぎ)を呼び、尊の食事について訊いた。
「薬湯や水のほか粥が少々、ほとんど何も召し上がることができません」
「その薬湯は、お前が作ったものか」
「私が煎じていましたが、伊福部の者がよく利くと持ってきてくれて勧めるので、その薬草も混ぜました」
「それで尊はそれを飲んで、良くなられたか」
「いいえ。むしろ悪くなられたように……」
七掬脛はすっと青ざめた。
「これからは、伊福部の勧めるものは、使うな。早くここを離れることを考えるから、それまで尊の召し上がり物にはくれぐれも用心せよ」
七掬脛はいっそう青ざめて大きく頷いた。
尊に少し回復のきざしがみられたので、武日は美濃を出ることにした。歩く距離を短くするため、近くに川があれば川を利用してここから遠ざかり、尊を舟で運ぶことも考えたのである。できるだけ早く尾張に戻って、宮簀姫のもとで尊の回復を待つのがいいかと思われた。吉備武彦は、早速使者を尾張に発たせて、尊が病で帰還することを伝えようと、火上の館へと急がせることにした。
一行が美濃を離れ、水路も利用しながら少しずつ尾張に向かって進んでいると、尾張へ行った使者が思いがけない知らせを持って戻ってきた。
「火上に着いてみますと、驚いたことに館は火事に遭って焼け落ちておりました。宮簀姫さまには幸いお怪我もなくご無事であったようで、御剣も持ち出され、館の人たちも建稲種さまや別の建物に避難されているとのことでございます。お取り込み中のようなのでためらいましたが、尊のご様子はお伝えいたしました。取りあえずこのことだけを早くお知らせしようと、急ぎこちらへ戻りました」
「何ということが起きるのだ」
吉備武彦は嘆息した。皆で集って相談していると、忍山宿禰が考えを述べた。
「こうなったら、尊を亀山にある私どもの忍山の館までお連れして、そこでしばらく静養なさるのがよいかと思います。そこは大和へ戻る道筋にも近づいております」
忍山宿禰の提案に一同は同意し、尊にもそう申し上げた。尊は宮簀姫の安否を気遣われたが、無事と聞くと安堵されたようであった。
一行は旅を続けて尾津の浜に着いた。ここは尊の軍が尾張へと向けて船出した見覚えのある浜辺であった。長い道のりであったが、ようやく尾津に戻ってきたことに皆感慨を覚えた。忍山の兵士たちは、故郷の亀山に近づいたことを喜び、それぞれ家族への思いを口にするのだった。
尊は浜辺の一本の松の木に寄ってゆかれると、尾張へ旅立つ際、ここにとどまって食事をされたとき、剣を外して松の根元に置いてゆかれたのを思い出された。その剣は、いまだそのままにあった。
「持ち主が戻ってくるのをずっと待っていてくれたのだな。健気なものだ。この松も剣を守ってくれたのだろう」
そう仰って慈しむように剣を手元におさめ、松を見上げられた。そしてその思いを歌にされた。
尾張に直(ただ)に向へる
尾津の埼なる 一つ松あはれ
一つ松 人にありせば 衣著せましを
(尾張の国に真っ直ぐに向かっている 尾津の埼の一本松よ もし一本松が人だったなら 衣を着せてあげようものを)
尊は剣を置き忘れてゆかれたのではなく、いつか皆でここに戻れるように、と願いをかけて故意に置かれたのかもしれない、とは後で武日が呟いたことであった。
そこを離れて進んでいったが、尊は足が腫れて痛むために疲れやすく、少し歩いては休みまた歩かれるという具合で、行程ははかどらなかった。とある急な坂道にかかると、尊は大きく息をはずまされた。見かねて武日が尊に肩をお貸しようとし、屈強な者が背負って差し上げようと申し出た。急ごしらえの輿のような乗り物も用意してあったが、どれも尊は手で制して拒まれ、あくまで自力で歩こうとされた。雄々しい大和の王子と称えられた矜持が、そうさせなかったのであろう。尊は杖にすがり、腫れた足を庇いながらあえぎつつ坂を上ってゆかれるのだった。尊のかつての勇姿を知る者にとって、それはあまりに痛ましく、見る者を辛い思いにさせた。
やっとの思いで能褒野(のぼの)まで来ると、病は俄かに重くなった。七掬脛(ななつかはぎ)が懸命に食べやすいものを工夫して差し上げるのだが、尊の苦痛は増してあまり食事も進まず、起き上がることも難しくなった。もはや誰の目にも尊の生命の力が日に日に弱まってゆくのが感じられた。尊も近づく死を悟っておられるのか、故郷を偲びその思いを歌にされた。
倭(やまと)は国のまほろば
たたなずく 青垣
山隠(こも)れる 倭し 美(うるは)し
(大和は ひいでた国 重なり合っている青い垣のように 山に囲まれている大和は 美しい)
命の全(また)けむ人は、
畳薦(たたみこも) 平群(へぐり)の山の
熊白檮(くまかし)が葉を
髷華(うず)に挿せ その子
(生命が充ちて健やかな人は 大和の平群の山の 白檮の木の葉を 頭に挿してことほぎなさい お前たちよ)
尊はきれぎれに歌われた。
はしけやし 吾家(わぎへ)の方よ 雲居起ち来も
(懐かしいわが家の方から 雲が立ち昇ってくる)
嬢子(をとめ)の 床(とこ)の辺に
吾が置きし つるぎの大刀(たち)
その大刀はや
(乙女の床の辺に 私の置いてきた剣 あの剣よ)
尊の思いはいつも大和にあり、心は常に故郷のことを思っておられた。そして武人らしく剣への愛着を最後に歌うと、静かにその命を終えられた。
倭姫は忍山彦の話を聞きつつ、何度も涙をぬぐった。若い王子の死が痛ましい。小碓に東征の命が下ったと聞いたときから、不安があった。多くの苦難が予想されていたし、考えたくないことだが心のどこかでは王子の死を予感していたような気もする。小碓王子はそのすぐれた資質ゆえに、周囲から信頼されまた多くの期待も寄せられていたが、その非凡な能力が仇となり、妬まれ疎まれる面も強かったからである。
今の大王の御代、たくさんの王子があったが、日嗣の王子の候補としては、小碓王子、稚帯彦(わかたらしひこ)王子、五百城入彦(いおきいりひこ)王子の三人が有力であった。実力では間違いなく小碓王子であったが、父王の心に適うのは稚帯彦王子、母の美濃出身の妃が内心で願っているのは五百城入彦王子、というのが巷の噂であったらしい。
おそらく大和では次の王位を巡ってそれぞれの王子、その身辺の者たちは、互いにしのぎを削り合い、競争相手となるほかの王子の動きに目を光らせていたことであろう。そんな中で浮上してきたのが小碓王子への東征の勅命であったのだ。
倭姫はもし自分が大和にいれば、東征の将軍には別の人物を、と大王に進言したであろうし、西征に次いで再び小碓を東国へと赴かせることはなかったと思うのだった。小碓は行きたくなかったに違いない。けれども現実にはどうすることもできなかった。倭姫は伊勢の神の宮にとどまって祭祀を続けており、大和での軍事の動向については何も知らされなかった。世俗を離れて久しく、小碓とは会う機会もなく、神事に際しての禁忌も多い厳しい神仕えの身であった。
東征を成功させた将軍が、無事に帰還することが叶わなかった例を倭姫は知っていた。腹違いの兄の五十瓊敷入彦(いにしきいりひこ)王子であった。倭姫は兄の死の事情について詳しいことはわからなかったが、帰途に謀反人として美濃で討たれたという兄王子のことは心に残っていた。妹から見てもそのような企みをする人柄とは思われず、兄王子の旅は、結局は帰還を許されない旅だったのではないか、とひそかに結論づけていた。
小碓王子の東征を聞いたとき、兄王子のことが頭をよぎったが、そんなことを軽々しく口にするのも旅の門出には不吉であり、ただ小碓を力づけ励ますことしかできなかったのだった。
護符として渡した神剣と火打石の袋は、剣は男を、袋は女を表わす一対の呪物であった。それぞれ単独でも護符としての力を発揮するが、野で火が迫ってきた折、剣で草を刈り、袋にあった火打ち石で向かい火をつける、というように両方を適切に使えたからこそ難を免れ、敵を倒すことができたのである。もしどちらか一方しかなかったら、ことはそう順調には運ばなかったであろう。この護符は、贈った人と贈られた人の心が、どんなに遠く離れていても深く通い合い、寄り添い合っている間は霊力が働いて不思議な力が発揮できる、そういう性質のものであった。
野火の災難は何度もあることではないだろうから、火打ち袋の役目は一度で終わったともいえるし、その後小碓がどこかで手放したとしてもそれは構わない。だが神剣の方は、今から考えれば山に携えていたら、と思う。本人が大事にしていてこその護符であった。霊威ある剣を身辺から離し、新たに心を捉えた若い宮簀姫に与えてしまったときに、それはもう王子を守護する力を失ってしまったのに違いない。護符としての神剣は、それを大切に保持し敬う人にのみ加護をもたらすものだからである。
忍山彦が一礼し退出してゆくと、倭姫はしばしもの思いに沈んだ。小碓王子と建稲種(たていなだね)、今回の東征を成功させた軍の将軍と副将軍の二人が、ともに帰途で命を失っている。二人にいくら気の緩みや油断があったとしても、それは偶然の出来事とは思われなかった。どんな巧妙な企みが裏にひそんでいたのだろう。大和と尾張、大和と美濃、美濃と尾張、この力関係には微妙なものがあったのではないだろうか。美濃も尾張も代々の大王とは縁戚関係にあり、娘たちを妃として納(い)れるなどして絆を深め、大和に帰属のかたちをとっているが、真に従属している訳ではなかったと思われる。また美濃と尾張は国境を接しているため、領有を巡ってたびたび衝突を繰り返しており、また尾張の東の地域においても、未だ隣国との境界が定まらず、絶えず揉めていると聞いていた。どの国も表面は大和に友好的と見えたかもしれないが、実は裏では互いに緊張を孕んだ関係にあったのである。小碓はそれをわかっていただろうか。東征の前に、王子のために何かもっと助言してあげられることはなかったのか。倭姫は今となっては、あれこれと悔やまれるのであった。
思いがけずこのようなかたちで小碓王子の死を知らされ悲しかったが、神に仕える身であるため伊勢を離れることはままならず、弔問のために能褒野を訪ねてゆくことも叶わなかった。せめて王子のためにここで喪に服し、ありし日の面影を偲びつつ過ごそうと倭姫は思うのであった。
能褒野では、大和から人が遣わされ、尊のために殯宮(もがりのみや)が営まれ、御墓の地が定められ、陵墓が築かれてゆくとのことであった。その様子は伊勢にも伝わってきた。
尊が逝去されると、能褒野から大和の大王のもとへと急使が遣わされた。吉備武彦が使者となり、大和へ行って大王に尊の最期の様子を詳しく奏上した。その間、能褒野では武日らが遺骸を守って日夜お側に付き添っていた。
やがて大和から尊の妃たち、御子たち、従者らが能褒野へと下ってきて、声をあげて嘆き悲しみ、尊の殯宮(もがりのみや)が営まれていった。霊の蘇りを祈って歌や舞を捧げ、遺骸を納めた棺の前に多くの供え物をし、室内には灯火を絶やさず、何日も寄り添って霊を慰めるなどして、少しずつ御葬(みはぶり)の準備が進んでいった。そして卜定された能褒野の地に土が盛り上げられて築き固められ、大きな御陵が築かれていった。
墳墓の内部には厚く朱が撒かれ、魔よけの鏡や剣が置かれ、武具、玉飾り、愛用された冠やお沓(くつ)など、身に着けられた所縁の御品も副えられ、尊は埋葬されていった。妃たちや御子たちは付近の田に身を投げだして這い廻り、悲しみ泣きながら歌を詠まれた。
なづきの 田の稲幹(いながら)に
稲幹に 蔓(は)ひもとほろふ 薢葛(ところづら)
(周りの田の茎に 稲の茎に 這いめぐっている蔓芋のつるよ)
そのとき御陵から一羽の大きな白鳥が羽ばたきとともに飛び立っていった。尊の霊は、白鳥になって空へと翔け、彼方の世界へと去ってしまわれたのだ、と皆感じた。
妃たちや御子たちは、その白い鳥の後を追っていった。篠竹の株に足を取られ血が流れて痛んだけれども、その痛みも忘れて泣きながらついていった。
浅小竹原(あさじのはら) 腰なづむ
虚空(そら)は行かず 足よ行くな
(小笹が原を 行き悩む 空を飛んでゆけずに 歩いてゆくもどかしさよ)
海が行けば 腰なづむ
大河原の植草
海がは いさよふ
(海の方から行けば 行き悩む 大河の草のように 海をゆくときは 波に腰をとられるもどかしさよ)
浜つ千鳥 浜よ行かず 磯伝ふ
(浜の千鳥は 浜からは行かず、磯伝いをする)
白鳥は能褒野から飛び立って河内の志幾(しき)という地に留まり、その後、さらに海を目指して高く飛んでゆき、遠い空の彼方へと消えていったという。志畿にもそのことに因んで御陵が築かれることになり、それは白鳥陵と呼ばれた。
倭姫は陵から白い鳥が飛び立ったという話を伝え聞いた。死後、人の魂は鳥となって、天へ運ばれるという。大空を翔る鳥が人の魂を遠くへ運んでゆくのだとも。尊の魂も白い鳥になって他界へと飛び去ってゆかれたのだろう、と人々はいつまでも噂し合った。
倭姫は思う。小碓王子も自分も大和から遠ざけられるようにして長い旅を重ねてきた。自分は命じられて伊勢の聖なる森に神の宮を営み、長く大神に仕えてきた。大和を出て伊勢へと向かう旅は、表向きは大神の奉斎、鎮座、あるいは遷座という大義名分の旅であったが、その裏には政治的な意味合いがあったように思われる。倭姫にとっては、その実質は大和から遠く離れた地に神を託されて、いわば聖空間に神とともに隔離されたかのように感じられる側面があった。
東征を成功させた小碓王子が、ゆくゆくは大和の大王となり各地を統治する、それは最もふさわしいことのように思われたが、吉備の勢力を背景にした王子の御代の到来を望まぬ人たちがおり、その人たちにとっては小碓王子の存在が目障りであり、疎ましくてならなかったのであろう。大王は各地に間諜を放って絶えずその動向に気を配り、警戒することも怠らなかった。尊が尾張でかねて約束のあった宮簀姫を娶ったのはよいが、その父親や親族から信頼されてすっかり頼られており、滞在が思いのほか長引いていること、まるで尾張の地を任されて治めているかのように振舞っている、などという噂が、間諜によって大和に伝えられていたのではないだろうか。また美濃には尊の兄、大碓王子がいるので、尊が長く尾張にとどまってこの兄弟がもし手を結ぶようなことがあれば、尾張と美濃という吉備系の王子たちによる大きな支配圏が生まれることにもなりかねない。それは大和にとっては脅威であり、危惧することでもあった。
次期の大王の座を巡っては、さまざまな憶測が飛び交っていたことと思われるが、勢力が拮抗したとき、先に相手を制した方が勝ちであった。力で先に相手を倒した方が次の王位を踏む、そういう時代なのであった。
今回の小碓王子の東征は、それはたとえば力を持つ神が、その力のゆえに天上から神やらいに追われ、遠い世界に追放されるようなものであった。王子はそれでも多くの困難を乗り越え、よくその任務を果たし、予想以上の成果をあげたのだったが、この旅は讒言により帰途で嫡子とともに美濃で討たれた倭姫の兄、五十瓊敷入彦王子の場合と同様、実は帰還することを許されない旅でもあったと思う。小碓は仮に無事に大和に帰還できたとしても、それだけでは済まず、また次の陥穽(かんせい)が待ち受けていたことであろう。
倭姫は神鏡と剣を捧持して、命じられるまま多くの地へと神霊を負って旅を続けた。奉戴する神霊への絶対的な畏れ、託宣を受ける身としての喜びはあったが、それはまた言い換えれば、神とともに漂泊した流離の年月であり、故郷を追われたさすらい人のように、孤独が心に染みる旅でもあった。高貴の身でありながら、未知の遠い山野を歩み続けることを強いられた旅の夜の夢に、はかなく浮かび消えてゆくのは生まれ育った大和であり、懐かしい故郷の山河のうつろいゆく四季の情景であった。大和へ帰りたいという切ない願い、慣れ親しんだ地を離れざるを得なかった哀しみ、それは小碓王子も同様であったろう。王子が最後まで帰り着くことを願ってやまなかった故郷への思い、それは倭姫の心情とも重なり、心の底で深くつながっていた。
倭姫は空を見上げた。青い空に円い白い雲が浮かんでいる。上空では強い風が吹いているらしく、雲はたえず変化し、ちぎれては集まり流れてゆく。じっと見ている間に、雲はたちまち羽を伸ばした大きな白鳥の形となって、しばらくの間大空にその姿をとどめた。どこか不思議な思いに駆られ、思わず倭姫は空に広がる白い鳥の雲を追うかのように二、三歩進み、雲を見つめた。まるで白鳥の幻を見ているようであった。雲は風に漂いつつ、海の方へと流れてゆく。倭姫はそっと呼びかけた。
「王子、来てくれたのですね」
大きく広がった鳥の形の白雲は、まるで生きている白鳥のように見えた。そしてその白鳥は倭姫に何かを語りかけるかのように大空にあって翼を広げ、その麗しい純白の姿で別れを告げると、青空の彼方へと飛翔していった。(了)
能褒野(のぼの)に崩(かむさ)りましぬ。時に年(みとし)三十(みそぢ)。(日本書紀)
ここに八尋白智鳥(しろちどり)になりて、天翔(あまがけ)りて、浜に向きて飛び行(い)でます。(古事記)
かれその国より飛び翔り行でまして、河内の国の志畿(しき)に留まりたまひき。かれ其処(そこ)に御陵を作りて、鎮まりまさしめき。すなはちその御陵に号(な)づけて白鳥の御陵といふ。然れどもまた其地より更に天翔りて飛び行でましき。(古事記)
参照文献
「古事記」 角川文庫
「日本書紀 」岩波文庫
「古事記伝」 本居宣長 岩波文庫
「風土記」 植垣節也 小学館
「倭姫命世記注釈」 和田嘉寿男著 和泉書院
「古代の朱」 松田壽男著 ちくま学芸文庫
「伊勢の闇から」 川村二郎著 講談社
「斎宮志」 山中智恵子著 大和書房
「白鳥飛翔」の背景について
古代の英雄日本武尊の西征、東征逸話、および叔母の倭姫の伊勢への旅を題材としています。日本武尊は景行天皇第二皇子で、元の名は小碓(おうす)、日本書紀では日本武尊、古事記では倭建命と表記され、西征の帰途、伊吹山で遭難、病を得て若くして亡くなりました。倭姫(やまとひめ)は叔母に当たる人で、大和から伊勢へと神霊を遷し、天照大神を祀り鎮めました。これが伊勢神宮の起源とされており、倭姫が旅の途上で順次神を祀っていった地は、元伊勢と呼ばれています。
日本武尊の旅は、一人の王子の物語ではなく、各時代に辺境に遠征した複数の王子や将軍たちの逸話が集成されたものだといわれています。それを否定するものではありませんが、やはり古のある時代に、中心となる一人の傑出した王子が存在し、その王子に複数の人物の姿が重ねられ、さまざまな討伐の伝承や逸話が仮託され、記紀に書かれているような物語世界ができたのだろうと思います。
父の景行天皇から熊襲討伐を命じられた日本武尊は、叔母の倭姫から衣装を授かって旅立ち、女装して宴に紛れ込み、熊襲を討ちます。東征では倭姫から頂いた火打石と剣によって野火の難を逃れ、走水の海で嵐に遭ったときは、妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)が海神を鎮めるために入水しました。日本武尊の軍旅には、救い手となる女性の姿が見え隠れするのが特徴です。
記紀を読むと、日本武尊はそのすぐれた資質のゆえに父王に疎まれ、大和から遠ざけられた悲運の王子、という印象を受けます。尊と叔母の倭姫との信頼関係や親密さも強調されています。
本作では、異なった人物の視点を用いました。文献は少なく、記紀の記述はいずれも簡単なものにとどまっています。そこにはどんな背景があり、どのように事態が展開したのでしょう。古事記、日本書紀、古事記伝、倭姫命世記、風土記、熱田神宮縁起、走水神社の由緒、大和の伊射奈岐神社、美濃の伊奈波神社、近江の奥石(おいそ)神社などの社伝、伝承なども参考とし、女性たちの視点で作品世界を作ってみました。