柞原八幡宮(豊後一宮) 西寒多神社 (豊後一宮)
柞原八幡宮(豊後一宮) 西寒多神社 (豊後一宮)
柞原八幡宮
九州にある一宮を訪ねることにした。豊後一宮は二社あるそうなので、先に柞原八幡宮(由原八幡宮とも)のほうを訪れる。訓みはゆすはら、ゆすばる、ゆはらなど何通りもあるようだ。
JR西大分駅から二、三分歩くと、柞原八幡宮の仮宮というお社が見えてきた。立ち寄ってみると、今は人影もなくひっそりしているが、秋の祭礼時には、四キロ先の二葉山(八幡柞原山とも)山麓にある柞原八幡宮の三柱の神様が神輿で山を降り、ここをお旅所として鎮座されるので、市も開かれて賑わうという。境内には石祠、摂社が多くみられた。
仮宮を出ると、柞原八幡宮の一の鳥居であろうか、道路上に見上げるような大鳥居が立っている。川沿いに道を進み、本数が少ない路線バスをしばらく待つことにした。やがてバスが来て、山道を縫うように上っていく。通りすぎる山間の集落の情景や道端の草花などを眺めているうちに、ほどなくバスは終点の柞原八幡宮に着いた。
山奥に来たともみえないのにしんとした山の冷気がただよい、森林が作り出す深い緑の世界の広がりに心が洗われていく。参道脇に立つ樹齢三千年という大楠の前で、思わず立ち止まってしまった。以前屋久島の太古の森で、縄文杉をはじめ樹齢千年を越える杉の大樹をたくさん見たけれども、今日ここでこんな立派な姿を保つ樹に出会えるとは思わなかった。単に大きいとか古いとかいうだけでなく、三千年間の時を超え、内部に痛ましいような空洞を抱えながら、今もなお生きてここに立ち続けている、そのありように心が揺さぶられたのだった。
楠の近くにある南大門をくぐる。細かく緻密な彫刻で知られ、一日中眺めて飽きないので日暮し門と呼ばれるそうだが、大楠に心を奪われてしまったので、有名な龍の彫刻も簡単に見て通り過ぎてしまった。
参道を進み西の門から入ると、靴を脱いで回廊から拝殿前に上るようになっていた。気温九度という寒い日だったので、足元から冷えが染みてくる。八幡造りの社殿は、かつては華麗を極めたのだろうが、長押の彩色はかなり剥がれ落ち、回廊も階も床が古びて木に傷みが見受けられた。この社殿の造営は江戸中期という。けれども社殿のたたずまいには、往時を思わせる社格の高さが感じられ、何ともいえない山の静けさがあたりに満ちている。野鳥が舞い降りてきて社殿の中庭で遊びはじめたので、邪魔しないように体を動かさずそっと眺めていた。
祭神は仲哀天皇、神功天皇、応神天皇。その関係は両親と子どもにあたり、一般に八幡とは応神天皇を指し、その生母の神功皇后には朝鮮半島侵攻の物語がかかわることから、この母子神はよく並立して祀られている。
由緒によれば、社の創建は平安時代前期、天台の僧侶によって宇佐八幡宮からこの地に勧請されたという。(ただし宇佐八幡宮の祭神は、応神天皇、神功皇后、比売神となっているが)一宮の多くはもともとその土地の神霊を祀るものであったろうが、ここでは三柱の天皇名のほか社殿に神名はみられず、土地神の名は公式には消されてしまっている。
分社であってもこれだけの美麗な社殿なのだから、(まだ訪れていないけれども)宇佐八幡宮の威容がしのばれ、各地にあるいくつかの八幡宮を心のうちに思い浮かべていた。たとえば奈良の手向山八幡宮(聖武天皇が東大寺大仏造営に際し、守護神として宇佐八幡から勧請)、京都の男山八幡宮(のちの石清水八幡宮、平安時代に天皇家により京都に勧請)、鎌倉の鶴岡八幡宮(源氏によって京都から勧請)など。八幡は武運の守護神として全国に祀られている。
広い境内を散策した。八幡宮のある山は二葉山という。神社はこの山麓にあるので、二葉山は神体山とみてよいのだろうか。境内には鮮やかな赤や黄に彩られた木々が枝を差し広げ、足元にも黄葉が厚く散って踏みしめると心地よい。秋山の気配は濃く、急勾配の古い石段上の楼門の辺りは特にみごとな紅葉で印象深く、立ち去りがたかった。
参道を下っていると、二葉山稲荷神社の鳥居があったので、近寄って由緒書きを読んでみた。それによると伏見稲荷から分霊したお社で西宝殿に祀られてあったが、ここに遷したとあった。見ると少し離れた高所にぽつんと稲荷社だけが建っており、まわりには何もなくその布置には違和感があった。どうもこの辺りには池があったらしく窪んだ形もぼんやりと目でなぞられるし、そこに漠として広がる空間は、何かが取り去られた跡地のようにうつろであった。推測だが、おそらくこの辺りには明治の廃仏毀釈のときまで寺院関係の建物、神宮寺とか、お堂、講堂とかそういうものがあったのではないかと想像した。
手水舎のところまで戻り、バスの時間を確かめるが、かなりの時間を待たねばならない。じっとここで待つのも、と思ったのでバス道を歩きはじめることにした。一本道なので、途中どこかのバス停でうまく下りのバスに乗るつもりである。
集落が点在する道である。民家の庭先に色とりどりの小菊が咲いていて、柿の木にひよどりが止まっている、そんなのどかな情景の続く道であった。ふと道端でからすうりの実を見つけたので、つるや実の様子を観察する。熟した実はつややかな朱色の細長い卵形、熟していない青い実には筋が入って、可愛いうり坊の模様であった。
大山寺というバス停で足を止める。疲れてきたので歩くのはこのくらいにして、ここで下りのバスを待つことにした。見まわすと近くには大山寺があるらしい。どんな所なのかとつい立ち寄ってみたくなり、矢印に従って山道を少し上ると、小さなお堂があった。仏様は収蔵庫の中に安置されていて拝観はできなかったが、説明文には、もと柞原八幡宮境内の普賢堂で祀られていたが、明治の神仏分離の折に、本尊の普賢菩薩坐像がここに移されたことが書かれてあった。
ふと先日訪れた上賀茂神社の神宮寺のことを思い出し、(賀茂の社の項に片岡社の神宮寺のことなどを書いている)神仏分離の折に起きたさまざまな出来事について考えたことであった。
西寒多神社
豊後一宮はもう一箇所あるといわれる。その西寒多(ささむた)神社を訪ねることにした。JR敷戸駅から二キロほど寒田川に沿って歩いてゆく。冷たい風の吹きつける日で、川に遊ぶ水鳥の姿も見えず、空は今にも雪が降りそうな感じ、神社までの道は長く感じられた。
ようやく神社が近くに見えたときはほっとした。厳しい季節に駅から遠い神社を訪れるには体力も要るのだった。川に掛かる古い石造りの橋を渡る。ゆるやかな太鼓橋になっていて江戸時代のもの、こういう雰囲気のある橋が残されていてよかったと思う。
主祭神は西寒多大神(天照皇大御神)、左右に月読尊、天忍穂耳命、ほかに相殿にも高天原系の神々の名がいかめしく並んでいる。社伝によれば創祀は古く、神功皇后が外征の帰途ここに行幸し、背後の山(本宮山)に上った証として白旗を立て、のち応神天皇の御代に、武内宿禰が勅命を受けて山頂に祠を建てたという。その山頂奧宮に通じる登山道が本殿横にあった。山頂には大きな磐座があるという。近いのなら上ってみたいが、片道二時間の山道と知って断念する。
境内は美しく掃き清められて実にすがすがしい印象である。本殿の千木はとても長くてまるで剣を上部で交差させたようなかたち、珍しいものであった。普通によくみられる神社の千木は短めに切ってあるので、このように長いままの千木は古い様式なのだろうか、と思いつつ眺めていた。
豊後一宮としては、柞原八幡宮よりもこちらのほうが創建由緒は古いようであるが、のちに一宮の名称を巡って柞原宮とは争いがあったらしい。江戸時代には、柞原八幡宮のほうが隆盛をみていたようで、西寒多神社はさびれていたという。
静かな境内にたたずんで背後の神体山を見上げていると、しみじみと土地の神霊を祀る社に来ているという思いが湧いてきた。祭神名には皇祖神の名が重ねられているが、ここに祀られているのはこの土地を領した古の神なのであろう。
神功皇后の軍がここに来て、山頂に白旗を立てたとは、つまり領有を示す行為、それまで山頂の磐座を神として斎いていた先住民が、そのとき皇軍に屈し、祭祀権を失ったことを意味するのだろう。それ以降この地域は皇軍の支配下に入ったのだと思われる。
帰途につく。境内から川沿いに細く延びる木立の参道が見えたので、そこを抜けていくことにする。樹木が重なり合い薄暗い空間をかたちづくっている。道の脇には石塔が立ち、基壇のあとらしいもの、建物の跡地などがみられ、寂寞とした雰囲気である。おそらく柞原八幡宮で起きたような廃仏毀釈の嵐がここにも波及したのだろう。長く人々の崇敬の対象であったのに、あるときを境に価値のないものとみなされ、破壊され祀り捨てられていく、そのような空間にただよう何ものかの哀しみが今も感じられる道であった。