八坂神社 安井金毘羅宮 六道珍皇寺
八坂神社 安井金毘羅宮 六道珍皇寺
秋の一日、阪急河原町で降りて周辺を散策することにした。鴨川を渡り、南座を過ぎてさらに東に進むと、八坂神社西楼門に行き当たるが、お茶屋一力の手前で右へ折れ、花見小路を建仁寺の方向へと向かう。通りは内外の観光客が行き交い、平日にもかかわらず賑わっている。やがて建仁寺山門前まで来るが、ここは以前訪れて庭園や襖絵、小泉淳作画伯の迫力ある双龍図(天井画)もゆっくり拝観したことがあるので、今回は境内を散歩する程度にとどめ、安井金比羅宮へ。
安井金毘羅宮
境内はさほど広くはないが、参詣の人は途切れず、それも女性が多いようである。近年は「縁切り神社」「縁結び神社」としてその名を高めているらしい。
由緒によれば、祭神は崇徳上皇、大物主神(讃岐より勧請)、源頼政(鵺退治で知られる)。創建は、藤原鎌足が一堂を建て、藤の花を植えて藤寺と称したことによるという。後の時代になって、崇徳上皇がこの藤を愛でられ、妃の一人、阿波内侍をここに住まわせ通われたそうである。上皇はその出生のことからして波乱が多いかたと思うが、保元の乱に敗れた後は讃岐へ流され、そこで帰京の望みが叶わないまま崩御された。
藤寺に参拝した大円法師の夢に、崇徳上皇の霊があらわれたことから、後白河法皇の命により、上皇のみたまを祀る寺院が当地に建立されたという。その寺院は応仁の乱で荒廃したので、太秦安井の地から別の寺院が移建され、鎮守社として讃岐から金毘羅宮の神が勧請され源頼政も祀られた。明治になって廃仏毀釈の折に寺院は廃され、ここは安井神社と改称、その後安井金毘羅宮となった。崇徳上皇が讃岐で一切の欲を断ち切って参籠されたことから、断ち物祈願の社として知られるようになったという。歌人としても名が高かったという崇徳院の歌。
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞおもふ 崇徳院
(百人一首)
境内には縁切り縁結び碑(いし)という巨大な岩があり、中央部が丸く刳り抜かれていて、祈願する人は願いを書いた形代(かたしろ、紙)を持って身を屈め、ここを表から裏にくぐり抜け(これで悪縁が切れる)、さらに裏から表へくぐり出ると、良縁が得られるという説明であった。新しい縁を神から授かるためには、これまでの古い絆を断つ必要がある、という神道の考え方なのであろう。形代は最後に祈願者自身が碑に貼りつけておく慣わしという。
その碑には、形代の白い紙が日々貼られ続けるので、重なり合って厚い層をなしている。巨大な白髪のおかっぱ頭のかつらを置いたような形に盛り上がり、さらに膨らんでゆきつつある。おびただしい祈願の紙が、風にざわざわと揺れているのを見ているだけで怖い。無邪気で微笑ましい願いだけではないであろう、おそらく呪詛の祈願も多いかと思われるので、とても近寄る気にはなれず、掛かっている絵馬も見ないようにする。良縁祈願なのであろうか、二人連れの若い女性が順にくぐっていくのを、遠くからちらっと眺めて通り過ぎる。
境内には立派な藤棚があるので、藤の季節にはさぞ美しいのだろうと思われる。今は秋、花が少ないので少し寂しい感じがする。境内は特に不気味な感じはしないけれど、何かしら落ち着かない雰囲気も漂う。人の負の感情、暗い情念の絡み合う空間とも感じられるからだろうか。
この神社の近くには崇徳上皇の御廟があり(祇園歌舞練場の裏)、以前歩いていて偶然通りかかり、手を合わせたことがあった。阿波内侍が自分の住居内に上皇の遺髪を埋めたと伝承されている。廟所への戸は閉ざされ、入ることはできなかったが、道路からうかがい見ると、ひっそりとした寂寥感の漂う空間であった。
崇徳上皇が讃岐で崩御の後、都では色々な変異が起きたので、上皇の御霊を鎮めるため、御廟、御影堂などがあちこちに建てられていったらしい。それほど上皇の怨霊や祟りが恐れられたということであろう。上皇の廟所は戦乱や地震、焼失など災害に遭うと遷されたようである。
丁寧に祀られて上皇の御霊は鎮まったのであろうか。そう思いたいが、由来を知ればしみじみと暗い歴史の流れが感じられる安井金毘羅宮界隈であった。
六道珍皇寺
安井金比羅宮を出て、六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ、ちんこうじ)へと向かう。なんだか地獄巡りをしているような気分に陥る。うっかりして道を取り違えたらしく、珍皇寺の閉じてあるほうの門に出てしまった。門にはカラスが二羽止まってこちらを見降ろしている。ここが正面入口ではなかったことに気づき、引き返して回り込んでゆく。なにか既視感がある情景と思いながら歩いていると、以前ここへ来たときも同じように道を間違い、ここから引き返したのを思い出した。方向感覚に弱いのである。もう一箇所、門の前を通ってゆくがここも閉じてあり、結局次に向かった門が正面入口であった。正式名称は大椿山六道珍皇寺、臨済宗建仁寺派に属している。
お盆の頃になると、「六道まいり」といってお精霊迎えにお参りするお寺として、ここの情景がテレビで紹介されることがある。鳥辺野に葬られた先祖の霊は、ここを通って帰って来るとされたからであろう。参道で高野槙を買い求め、境内で迎え鐘を撞き、石地蔵の前の水槽に水塔婆を立て並べ、水に浸した槙の葉で水回向をする人たちの姿が画像で流れるのを見るたび、ああもうお盆なのだな、とその時季が巡って来たことを思うのである。
門の入口には「六道の辻」と刻まれた古びた石碑があった。重々しい印象である。六道とは、衆生が死後に赴くという六種類の世界で、天界、人間界、阿修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界を指す。つまり六道の辻とは、この世とあの世の境界という意味で、冥界へ通じる道の入口とされている。
ここは古くは京の東の葬送の地であった。往時はきっと人家もなく野が広がる寂しい地だったのだろう。ここへ置かれた遺骸は、隠亡さんの手によって鳥辺野へと運ばれ、風葬にされたそうである。積まれていったおびただしい人の亡骸を思い戦慄する。京都の寺社は災害などで場所を移すことがよくあるそうだが、このお寺に関しては、創建以来ここから動いていないそうである。
珍皇寺の創建に関しては諸説あって、平安時代の創建といわれているが、その時期は詳らかではないそうで、一説には空海が開いたとも、また小野篁(おののたかむら)であるとも、鳥辺山に住んでいた鳥部氏の氏寺とも、山城の豪族が建てたもの、ともいわれ定かではない。
門をくぐって境内へと入る。お盆のときは人で混み合うのだろうが、今は閑散としていて人影もなく、敷き詰められた玉砂利の上で、カラスが数羽鳴きたてているのが妙に物悲しい雰囲気である。カラスの一羽が何を思ってか小石を一個くわえるとちょこちょこ進み、石を置く。そしてまた別の所から石をくわえてきて置くのである。これを繰り返しているようなので、何をしているの、と話しかけると、カラスは驚いてぱっと飛び立っていった。まあそうやって石で遊んでいたのであろう。
右手にある閻魔堂(篁堂)をおそるおそる覗いて閻魔様に手を合わせる。かっと目を見開き口も開けた恐ろしげな形相、傍らには衣冠束帯姿の小野篁像も置いてあった。次に鐘楼に行き、縄を引いて「迎え鐘」を撞いてみると、地底へ引きずり込まれそうな低く深い音色が辺りに響き渡った。これが死者を呼ぶ鐘なのであった。余韻が長く続き次第に消えていく音色の中に、亡き両親の姿を思い浮かべていた。
本堂にお参りする。ご本尊は薬師如来坐像、こちらは穏やかなお姿であった。次に小野篁ゆかりの井戸というのを遠くから拝観する。小野篁は嵯峨天皇に仕えた人で、六尺二寸という偉丈夫、文武ともにすぐれていたという。あるとき遣唐副使に任命されたのだが、遣唐大使、藤原常嗣の乗船する船が破損して漏水し、小野篁の乗る船と取り換えるよう命じられたことから常嗣と争いになり、結局篁は老母の病、自身の病を理由として船を降りてしまった。このことを含め、朝廷を風刺する内容の漢詩をつくったことがもとで天皇の怒りを買い、篁は隠岐に流されてしまうのである。このときの篁の歌。
わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海人(あま)のつり舟 小野篁
(百人一首)
許されて都に戻った後、篁はその才を認められて皇太子に学問を教える役をつとめ、また要職を歴任したという。目立つ言動によって隠岐へ流罪にはなったが、大変有能な人であったらしい。また奇妙な伝説であるが、小野篁は、昼は朝廷に出て天皇に仕え、夜は閻魔大王のもとで冥官として働いていたとされている。いったいどういうことを意味する伝承なのかはよくわからない。よほど人間離れしていたということであろうか。冥界で働くのには、何か理由があったのだろうと思われるけれども。そして珍皇寺の庭園には、小野篁が冥土に通うのに使ったという井戸が今も残されている。井戸の傍らにある高野槙の枝葉を伝って篁は井戸に降り、冥界の閻魔庁へ通ったというのである。そして出るときは嵯峨野大覚寺門前六道町にある福生寺(往時)の井戸を使い、この世に戻っていたといわれていた。
ところが二〇一一年になって、珍皇寺の北側の旧境内地からもうひとつの井戸が発見され、話題になった。これが寺には口伝があったという帰りの井戸で「黄泉がえりの井戸」と名づけられた。嵯峨野のほうにも別に出口はあったのだろうが、珍皇寺にも帰途に使われた井戸があって、それが民有地の開発に伴い見つかったというのである。篁にとっては入口、出口が近接しているほうが便利だし自然でもあったろうか。たしかに東山から入って嵯峨野へ出るのでは、ちょっと距離が離れすぎているような気もするが。
ともかく口伝だけで、寺側もその存在を知らなかったという戻りの井戸が、偶然のことから見出されたのであった。新井戸は整備され一般公開されているという。
入口に使われたというほうの古い井戸を、本堂右手の格子の間から遠く眺める。庭園の緑の木々を背景にした、覆いのある井戸とその横にある祠が望まれる。おそらく篁は何もおそれることなく、その生涯を闊達に生きた人なのであろう。正しいと信じたことを主張し、その結果としての流罪も受け入れた。小野妹子の子孫という名家に生まれた人が、いったんは罪人に落ちてみじめな島暮らしも味わい、そこから復活をとげたのである。人生観も変わったであろう。そういう人であったからこそ、閻魔の領する異界に通って務めを果たすことも厭わなかったのではないだろうか。篁にとってはこの世もまた一種の異界であったかもしれない。
古井戸は近寄ってみればまた感じが違うのかもしれないが、格子のある覗き窓のような所から垣間見る分には何ら妖しい気配はなく、しばし眺めて伝説の小野篁の人柄を偲んだのであった。
八坂神社
清水坂を上って清水寺へ向かおうとしたのだが、人が多いので今日は割愛し、八坂神社へと産寧坂を下っていった。この坂道も大変な賑わいである。高台寺や霊山観音を通り過ぎ、やがて円山公園へと入り散策の後、八坂神社へと向かう。
祭神は素戔嗚尊(すさのをのみこと)妃の櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、八柱御子神、ほかに妻神、妃の父神など全部で十三座。
お社の創祀は古く、斉明天皇の御代、渡来人の伊利之(いりし)が、当地に牛頭天王を祀ったことが起源とされる。伊利之の子孫は八坂造となって繁栄した。また平安時代に、僧円如が薬師千手等を祀る堂宇を建立し、祇園神が東山の麓に垂跡したのが起源であるとも。
平安時代に疫病が流行し、占うと東山の小祠の祟りと出て祀ったところ疫病が止み、これが祇園社の信仰のもととなったそうである。藤原氏の崇敬も厚く、天皇方もたびたび行幸、参詣されるようになったという。疫病退散を祈る夏の祇園祭は日本三大祭のひとつとして有名である。
祇園祭の由来としては、貞観五年、疫病が流行したとき、神泉苑(神泉苑に関しては、平安京を歩く 神泉苑の項に書いている)で御霊鎮めの御霊会が行われた。すると疫病が鎮まったので、貞観十一年に疫病が流行したとき、神泉苑に六十六本の鉾を立てて(諸国六十六国の数にちなむ)悪霊を鎮め、牛頭天王(薬師如来の化身とされた)を祀って祭祀を行い、さらに男児たちが曳くお神輿を送って厄災を祓った。後にこの祀りのかたちが町衆の間で定着し発展、鉾を華やかに飾り立てて、市中を練り歩く祇園祭となっていったとされる。
八坂神社は、交通の便利な地にあるので、いつ訪れても人で賑わっていて、以前お正月に参詣したときは、身動きもできないほどの混みようであった(これに懲りてお正月は避けるようにしている)。これまで八坂神社への参拝は、知恩院や美術館への往き帰りとか、円山公園の散策の途中で、とか南禅寺や清水寺の帰途とか、ほかの寺社との組み合わせで通るときなどにお参りすることが多く、考えてみれば、今日もそうなのであった。改めてきちんと参詣したことがないようにも思えてきて、長年にわたり神様に失礼なことであったと反省する。
本殿にお参りした後、右手にある「ご神水」の所へ行って柄杓でお水を頂く。伝承では、本殿は池の上に建っていて(風水でいう龍穴)、その水が湧水となって出ているのがこのご神水であるという。学者の方々の研究によれば、京都盆地の地下には巨大な京都水盆と呼ばれる水がめがあるそうで、それは琵琶湖にも匹敵するような規模といわれ、そういう豊かな地下水がずっと古都を潤してきたというのである。今でも市内各所に名水が湧き出る井戸があるそうで、ここのご本殿の下の池もそういう由来のものかと思われる。
ご神水のほかにもう一箇所、宗像三女神を祀る美御前(うつくしごぜん)社の前にも「美容水」といわれる水が湧き出ていて誰でも頂くことができるが、あまり欲張ってもと思い、ご神水の方だけにとどめる。
境内には摂社、末社が多く、木陰にひっそりと鎮座されていて趣がある。よくテレビドラマや映画の撮影にも使われるようで、京都の刑事ものを見ていると、見覚えのある場所が出てくることがある。摂社は、ちょっと引っ込んだ目立たない場所にあるため、見過ごされがちだけれども、時間があるようなとき、ふっと訪れてみると、思いがけず木立に包まれた由緒あるお社と出会えて、印象深いのである。
そんなお社のひとつ、蘇民将来を祀る「疫神社」(祭神は蘇民将来)を紹介しよう。本殿左手の奧、西楼門の近くにあり、木立に包まれた静かなお社である。その由来について、風土記はこのように語っている。
疫隈(えのくま)の国つ社(やしろ)蘇民将来(そみんしょうらい)
備後の国風土記には次のように出ている。
昔、無塔(むた)の神(素戔嗚尊)が南海の神の娘の所へ妻どいに通われたとき、日が暮れてしまった。その場所に蘇民将来という二人がいた。兄は貧しく、弟は裕福であった。裕福な弟将来の家で神は宿を借りようとされたが、物惜しみして弟は貸さなかった。貧しい兄蘇民将来は宿をお貸しして、粟柄(あわがら)で編んだ円座に坐っていただき、粟のごはんを差し上げた。神が出立なさって何年も経過したとき、八人の御子神を率いての帰り道で、「私は蘇民将来のために礼をしようと思う。お前の子や孫が家にいるか」と尋ねられた。兄蘇民将来が答えて、「娘と妻がいます」と申し上げた。神は「茅(ち)の輪をつくり、それを腰につけさせるとよい」とおっしゃった。その通りにすると、その夜、輪をつけていた蘇民の娘一人を除いてほかは全部、疫病で殺し滅ぼしてしまわれた。そうして「私は速須佐雄(はやすさのお)の神である。今後悪い疫病が流行ったなら、お前たちは蘇民将来の子孫だといい、茅の輪を腰につけていると病から逃れるであろう」とおっしゃった。(備後の国 風土記逸文より)
京都の祇園祭の最終神事が行われるのが、八坂神社のこの疫神社であるという。七月三十一日、疫神社の鳥居に立てられた茅の輪をくぐり抜けて厄を祓う、夏越の祭りが行われる。そして神事が終わったことを神様に報告すると、七月一日から始まりひと月に及んだ祇園祭は終了するのだそうである。
蘇民将来の逸話は、「備後の国風土記逸文」に載っている(山背国風土記逸文ではない)。登場人物の名には異国風の雰囲気が感じられる。調べてみると広島県福山市にある素盞嗚神社がこの逸話の舞台地とされ、同神社の敷地は疫神に滅ぼされた弟将来の屋敷跡といい、摂社の痘瘡神社が風土記の疫隈国つ社に当たるとされているそうだ。後に京の都で隆盛をみるようになった祇園祭、その発祥の地は、どうも福山市であったようである。
以前のことになるが、福山市の鞆の浦を訪れたとき、港の近くの沼名前(ぬなくま、ぬなさき、とも)神社に立ち寄ったことがあった。神社は残念ながらコンクリート造りのお社であったが・・・・。沼名前神社の祭神は二柱で、大綿津見命と素戔嗚尊が祀られており、お社は地元では鞆祇園宮、祇園社とも呼ばれていた。鞆の浦の祇園宮の創建については記録が失われていて(焼失)、詳細がよくわからないそうだが、風土記逸文の蘇民将来の逸話との関連を指摘する説もあるということであった。
推測するに、鞆の浦は古代から良港として知られ、内外の多くの船が出入りすることから、物や人の移動により疫病も持ち込まれることが多かったのではないだろうか。そう考えれば港の近くに祇園社が造営され、福山市内に素戔嗚尊が祀られることは自然ななりゆきであったろうし、また福山市の素盞嗚神社が、蘇民将来の逸話の地であるとされることにも納得がゆく。
古では疫病の流行は大変な脅威であったことが想像できる。往時の疫病とは主として天然痘を指すのだと思われるが、赤痢などの伝染病、感染症も含まれたであろうし、いったん流行すれば恐ろしい速度で広がったと思われる。
六月になると各地の多くの神社にさまざまな茅の輪が立てられ、夏越の祓いとして、半年の間で身についた穢れを祓い、息災に過ごせるようにと願いつつ、八の字のかたちに輪を三度くぐる慣わしがあるのは、よく知られているだろう。茅の輪は護符で、蘇民将来の逸話が起源とされ、茅の輪をつけていた者は疫病から逃れたという故事にちなんでいる。以前京都で暮らしていたとき、家の玄関口にずっと八坂神社の「蘇民将来之子孫也」と書かれた厄除けちまきを飾っていた。これが門口にある家は多かった。ちまきとはいうもののそれは食べ物ではなく、笹で作られた護符なのである。
祇園祭の宵山のあの熱狂的な雰囲気をときどき懐かしく思い出すことがある。夜空に高々と浮かび上がる駒形提灯、露店の賑わい、わらべ歌を歌いながらお守りや厄除けちまきを売る浴衣の子どもたち、氏子のお家の玄関先にしつらえられた季節感のある生け花、その後ろには古い衝立や屏風、飾られている置物や古風な日本人形・・・・。幻のような情景が、ありありと脳裏によみがえってくる。そして八坂神社に来るたび、ふと若い日の自分がそこにいるような気がして、しみじみとした思いに浸るのである。