一海辺の森の社一
気多大社(能登一宮) 折口信夫の墓
一海辺の森の社一
気多大社(能登一宮) 折口信夫の墓
能登一宮の気多(けた)大社は、石川県羽咋(はくい)市にある。金沢からJR七尾線に乗り羽咋駅で下車。駅からはバスの便もあるが、今回は宿で借りた自転車で、一宮のバス停前から坂になっている参道に入っていった。神社は山麓に位置しており、社殿は海に向かって建てられている。
山側に数分進むと、簡素な木の鳥居が近づいてくる。これは二の鳥居で、一の鳥居は海の近くに立っている。境内にある神門は安土桃山時代のもので、拝殿と本殿は江戸時代の造営という。深い森を背景にした社殿はそう大きくはない印象、お参りの人は少なかった。
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと、亦の名は大国主命)。
社伝によると、古の時代に出雲から海路で来られたご祭神の一行が、民に害をなしていた大蛇、化鳥を退治して能登の各地を巡行し、平定の後、当地に鎮まったとされる。祭神は当初七尾に鎮座したという伝承もあるそうだ。それは孝元天皇の時代のことともいわれ、また当社は崇神天皇のときに、七尾の気多本宮から遷座したともいわれているそうである。この伝承は、外来の神が旧来の土地神を征服し、やがて土地の支配者となって鎮座した経緯を示しているようでもあるが、詳しいことはわからない。
お社の背後には「入らずの森」という深い森があって、禁足地になっている。三万平方メートルの原生林だそうである。森の中には奧宮があり、素盞嗚命(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)が祀られているという。複数の古墳(円墳)もあるそうだ。
昭和天皇が参拝の折に、この「入らずの森」を散策されたそうである。そのときの御製歌。
釜入らぬみやしろの森めずらかに からたちばなの生ふるを見たり 昭和天皇
また万葉集には、越中の国守であった大伴家持が、能登巡察の折、当地を訪れて詠んだ歌が載っている。
しをじから直(ただ)越えくれば羽咋の海 朝凪ぎしたり船楫(かじ)もがも 大伴家持(万葉集より)
境内地図を見ていると、折口信夫博士の句碑が、社叢の背後の池のほとりに建てられているとあったので、訪ねてみることにした。お社の左側に出て「入らずの森」を右手に見ながら、山道を上っていった。椎、タブノキ、ヤブニッケイ、椿などの樹木がうっそうと生い茂っており、力強い感じのする豊かな森である。人の入らない原生林はひっそりと静まっていて、時折野鳥の囀りだけが聞こえてくる。落ち葉を踏んで森に沿うようにつけられた道を進んでいった。「入らずの森」の外側を歩く道であるが、案内板があるので迷うことはなく、指示通りに歩くと用水池が見えてきて、その左手に句碑があった。
くわっこうのなく村すぎて山の池 折口信夫
折口信夫(釈超空)は大阪の出身で能登の人ではないが、門弟の藤井春洋(はるみ)が気多神社の社家の出であった縁で、羽咋を何度も訪れたそうである。後には春洋と養子縁組をし、気多大社の近くの墓地に一緒に葬られているという。句を詠んだとき、郭公の鳴く声はどのように折口氏の耳に響いたのであろうか。句碑はなんとも寂しい場所にあった。
しばらく佇んで見ていた。山を降りかけると、池の近くに「熊出没に注意」の立て札があったので、思わずぎくっとして立ち止まる。見ると傍らの木にいわゆる一斗缶が設置してあり、木の枝がひもで結わえてあって、これで十回叩くようにと書いてある。よく叩かれるせいか一斗缶は凹んでおり、見ているうちに緊迫感が漂う。こんな所でいきなり「熊に注意」っていわれても・・・・。どうせならこのことは入口に書いておいてほしかったと思いつつ、怖いものに遭遇したくないので、おまじないのように十回鳴らし、急ぎ足で山道を降りていった。何ごともなく境内に戻り着くと、ほっとひと息ついたのであった。
境内の鳥居の近くの木陰にも、折口博士と藤井春洋の歌碑があった。
気多のむら若葉くろずむ時に来て 遠海原の音を聞きおり 折口信夫
春畠に菜の葉荒びしほど過ぎて おもかげに師をさびしまむとす 藤井春洋
気多大社を辞し、折口父子の墓に詣でることにした。もし案内の立て札がなければ探すのは難しいと思うが、要所に案内板がいくつか立てられており、気多大社からは四百メートルほどの距離であった。
父子墓は藤井家の墓所にあった。近くにはコスモスがとりどりに咲き乱れて、吹く風に揺れていた。折口は愛する弟子を養子とし、固い親子の契りを結び、死後もここでともに眠っているのである。川村二郎氏の著書によると、氏は気多神社を訪れ、この墓を見たときの印象を「一種の比翼塚」と表現しておられる。十八年もの間、内弟子として折口を支え続けた藤井春洋は、硫黄島で戦死し、ここに葬られたのである。
近づいてみると墓は小高い位置に建立されていた。四角い直方体で何の装飾もない墓石であった。簡素であるし、それゆえにまた純粋とも濃密とも感じられる墓であった。余分なものを削ぎとってゆけば、深い想いだけが残り、たぶんこのような造形になるのであろう。門弟の岡野弘彦氏の歌碑もあった。岡野氏は「自分にとって歌碑とは墓」と仰って、ここに建てることを決意されたそうである。
荒御魂の二つあひ寄るみ墓山。わがかなしみもここにうづめむ 岡野弘彦
秋の空は明るく開けていたが、何となく重い情念の絡み合う気配が漂う空間と感じられた。これまで折口氏の著書から多くの示唆を受けてきたので、そのことに感謝し手を合わせた後、墓所を後にした。サイクリング道を見つけて入り、尽きるとさらに一般道路を走っていった。道端には葛が繁茂しており、生命力の強い葛はどこまでも蔓を伸ばし地面を覆い尽くそうとしている。このままでは能登半島の道筋は葛に呑み込まれてしまうのではないかと思うほどの勢いであった。
今日の移動手段は自転車なので、この後は長い砂浜が続くという千里浜(ちりはま)まで行ってみることにした。千里浜は、水分をふくんだ砂が硬く締まっていて、波打ち際を車やバイクで走れるのだそうである。
千里浜に着いてみると、ちょうど何かのレースが行われるイベント開催日で、浜辺は車、オートバイ、若者たちで一杯であった。波だけが打ち寄せる静かな渚の情景を期待して来てみたのだが。自転車を押している人など見回してもまったく見当たらず、場違いな感じであった。それでも試しにと、賑わいから外れたほうへ行って砂浜を走ってみると、砂は硬くて前輪が砂にめりこむこともなく、ちゃんと走れたのであった。
翌日は路線バスで移動した。車窓から見ていると、山の上に風力発電の白い風車が何基も建てられ、ゆるく羽根が回っている。通り過ぎるとまた別の山に似たような風車の列が現われる。そんな情景をぼんやり眺めていると、いつまでも同じ所を走っているような感覚にとらわれる。
能登金剛の巌門(がんもん)を訪れた。侵食により海辺の大岩が削られ刳りぬかれ、洞門になっている景勝地である。日本海の荒波に揉まれ、厳しい大自然が作り出した不思議な造形である。遊覧船には乗らず、洞門に近づいて眺めることにした。今日は穏やかな海であるが、能登の冬の海の厳しさを思いつつ、千畳敷の岩場も歩いてみた。平らな岩棚になっている。フジツボがびっしりと張りついた岩の間には浅く海水が溜まり、海草が揺れていた。岩から岩へと飛びつつ移動する。蟹や舟虫が這い回っている岩の上にたたずんでいると、時折強い潮風が吹きつけてくる。満ち潮であったのか、海水はひたひたと岩を黒く濡らしつつ寄せては返し、上ってくるようである。岩場を抜けて上の道路へ出てから、何気なくさっきまでいた場所を見降ろすと、千畳敷の岩場はもう半ば潮に浸されていた。
富来(とぎ)から路線バス、コミニュティバス(本数は少ない)を利用してほかの景勝地も訪れていった。奥州へ逃れる途中、義経と弁慶の一行が嵐に遭って舟を避難させたという「義経の舟隠し」という狭く細長い入江を見るが、崖の上に立つと吸い込まれそうで怖い。松本清張の「ゼロの焦点」の舞台地になったという「ヤセの断崖」も行ってみたが、二〇〇七年に能登半島で起きた震度六の地震で岩が崩落し、それまでとは地形が変わってしまったそうである。
「関野鼻」では、岬の突端へと歩いていった。この辺りでも建物や岩の崩落など地震の被害があったらしい。かつては営業していた観光施設も一部崩壊のまま放棄されて、無惨な姿をさらしていた。廃墟となった建物の横を通る。弁財天を祀るお社も廃されていた。弁天様は別の場所へと遷されたようである。お社付近には雑草が生い茂って荒れていた。鳥居の見える海辺への階段を降りてゆくと、海岸にある大きな岩が割れているのが遠望できる。これは「義経の一太刀岩」「弁慶の二太刀岩」と立て札にあったが、そこへ行く道もすでに消えており、岩場に小さなお堂も見えるが、遠目にも荒れ果てているのがわかる。眼下には青い海が広がり、波は穏やかであったが、道は途中で閉じられ岩場へと降りる木の階段も壊れ、風雨で朽ちてゆきつつあった。
先端にある展望台まで進んでゆくとそこからは「かぶと岩」が眺められた。奇怪なかたちだけれども、兜というには無理があるようだ。その隣にある名のついていない奇岩のほうが、妙に迫力が感じられてよかった。さらに右手にも亀の背のような岩があり、そこに黒い鵜が二羽留まって羽を休めていたので、興味深く眺めた。一羽の鵜は海にもぐってゆく。かなり長い間海中にいるので、浮上するまでじっと様子を観察していた。
気多大社に伝わる行事で「鵜祭(うまつり)」という神事があるそうだ。毎年十二月に行われる祭事で、七尾市の鵜浦で捕獲された鵜を籠に入れて羽咋まで持ち運び、気多大社の神前で放して、鵜の動きの様子などで吉凶を占うという。鵜は捕獲された時点で神霊が乗りうつったとみなされて敬われるそうだ。七尾から二泊三日の旅をして、気多大社に着くと餌止めになり、未明に神事が行われるという。灯りだけがともされた本殿で放されると、鵜は自然と灯りのほうに寄ってゆく。そして案という机の上にとまると占いは終了し、鵜は再び運ばれて海岸で放たれるそうである。
この神事の由来については、「祭神の大国主神が、神代の昔、初めて七尾市鵜浦町の鹿島に来着した時、同地の神門主比古神が鵜を捕らえて捧げた故事によるとか、あるいは同地の櫛八玉神が鵜に化して海中の魚をとって献上した故事にもとづく」(気多大社ホームページより)という風に解するそうである。
古に遠くから来た神と、在地の神の間にどのようなやりとりがあったのか。それは遠来の神への服属の証だったのか。遠い古代の出来事がこのような風変わりな祭事に投影され、その記憶が神事として長く受け継がれてきたのであろうか・・・・。金春流の能「鵜祭」には、この神事の様子が再現されているそうである。
海風を感じつつ青い海原や遠い水平線を眺めていた。ふと岩に視線を向けると、さっきまでいた鵜はもう飛び去ったらしく、どこにも姿は見えなかった。