さすらいの皇女
さすらいの皇女
大伯(おおく)(大来)皇女の父は天武天皇、母は大田皇女(天智の娘)である。西征の船旅の途上で生まれ、早く母を亡くし、壬申の乱後、斎宮に選ばれて伊勢で十二年を過ごした。弟大津皇子の刑死により任を解かれ、大和に戻るが、後に名張の夏見寺に入り生涯を閉じた。万葉集に秀歌を残している。大伯皇女が伊勢に向かう前に過ごした桜井市の泊瀬(はつせ)斎宮趾と禊をした化粧壷、そして名張市の夏見廃寺を訪ねてみることにした。
六六一年のことである。唐の助力を得て新羅に滅ぼされた百済を救援するため、老齢の斉明女帝は船団を率いて瀬戸内海を進んでいた。船が岡山県の海に達したとき皇女が生誕した。
御船(みふね)、大伯(おほく)の海に到る。時に大田皇女(おおたのひめみこ)、女(ひめみこ)を産む。よりて是の女(ひめみこ)を名(なづ)けて大伯皇女(おほくのひめみこ)といふ(日本書紀 斉明紀)
日本書紀が皇女の生誕場所について記すのは珍しい。それが戦に赴く船上というめったにない出来事だったからであろう。
船団には斉明女帝、間人(はしひと)大后、額田王、中大兄皇子(天智)、大海人皇子(天武)、妃の大田皇女、鸕野讃良(うののさらら)皇女ら、王族のおもだった人々がいた。
大田皇女は臨月に近かったにもかかわらず、船に乗ったことになる。当然船上出産の覚悟も持っていただろうが、大和に残るよりも一族の人たちと行動を共にするほうを選んだのだ。大田皇女の年齢はおそらく十八から二十歳くらい、妹の讃良皇女はこのとき十七歳であったという。
姉妹の生母は遠智娘(おちのいらつめ)といい、蘇我石川麻呂の娘であった。石川麻呂は中大兄皇子らの起こした乙巳(いつし)の変にも加わった人だが、異母弟に讒言され、謀反の罪で兵を差し向けられて山田寺にこもり、妻子らと自害した。遠智娘は突然の悲報に打ちのめされて病み、幼い子供たちを残して世を去った。
大田皇女も讃良皇女も、頼るべき実家や生母をすでに失っていたのだった。そのことを思えば、旅に同行することに迷いはなかったのかもしれない。
船団は伊予の熟田津を経て娜大津(なのおおつ、博多)に着くが、斉明女帝はほどなく病で亡くなった。二年後、大田皇女は大津皇子を生んだ。その前年、讃良皇女にも草壁皇子が生まれている。
六六一年に倭軍は出兵、情勢はいったん落ち着いたが六六三年、再び新羅が侵攻、倭軍は二万七千の大軍を送り出したが、白村江で唐に大敗した。百済は滅亡、投降し捕虜になった兵を残したまま、船団は百済遺民と共にかろうじて帰国する。
唐、新羅軍の追撃も予想され、本土で迎え撃つ恐怖に人々はおびえたことだろう。防衛準備が進められる一方で、妃の女性や子供たちは順次大和へ戻っていったものと思われる。
大田皇女はこの年に大津皇子を出産、その後皇女は若くして亡くなり、六六七年、斉明女帝と間人大后が合葬された折に葬られたようである。
「天豊財重日足姫天皇と間人皇女とを小市(をち)岡上陵に合せ葬(かく)せり。是の日に皇孫(みまご)大田皇女を陵の前の墓に葬(かく)す」
と書紀にある。このとき大伯は七歳、大津は五歳であった。
昨年、奈良明日香村の牽牛子(けんごし)塚古墳で新たに石室が見つかり、越塚御門(こしづかごもん)古墳と命名、これが大田皇女の墓と報道されたことはまだ記憶に新しい。
六六七年、都は近江へ遷都される。幼い大伯大津姉弟の面倒は誰がみたのだろうか。その後の冷酷な仕打ちをみれば、叔母の讃良皇女が親代わりになって育てたとはとても思えない。おそらくは母方の親族、姪娘(めいのいらつめ、天智妃)などに引き取られ、天智天皇にも目をかけてもらっていたのではないかと思われる。
天智天皇はその晩年、病の床で大海人皇子に譲位を持ちかけるが、天皇の真意が大友皇子の即位にあるのを知る大海人は固辞、ただちに出家して讃良と草壁を伴い吉野へと逃れた。
天智天皇が亡くなって半年後、吉野を出て挙兵した大海人皇子は、朝明郡の川のほとりで遠く伊勢の大神を拝み、戦勝を祈願した。
大海人軍はいち早く不破関と鈴鹿を押さえたことで有利になり、伊勢、美濃、大和の豪族も味方につけることができた。高市、大津の両皇子もそれぞれ近江を脱出して合流し、高市軍の活躍もあって近江軍を打ち破った。六七二年、壬申の乱である。大友皇子は自害し近江朝は終わった。このとき大伯皇女はおそらく十市皇女ら他の皇女たちと共に戦乱を逃れ、近江から離れた地にいたのではないだろうか。
六七三年、飛鳥浄御原(あすかきよみがはら)宮で大海人皇子は即位、天武天皇となった(鸕野讃良皇女は皇后)。そしてその二ヵ月後、戦勝祈願の礼として、大伯皇女が伊勢の大神に献じられる。これまでにも伝承上の斎王は何人もいたが、制度として確立した最初の斎宮であった。
皇女たちの中でなぜ大伯皇女が選ばれたかについては、わが子草壁を皇太子にと考える皇后の意思が強く働いたとされる。天武には十人の皇子と七人の皇女があり、その中で母を失っていたのは大伯大津姉弟のみであった。大津皇子はすぐれた資質を持つ皇太子候補であったし、大伯皇女が有力皇子と婚姻すれば、大津皇子は心強い後見を得て、草壁皇子の王位がおびやかされることになる。皇女は異母兄弟の皇子との婚姻は可能なので、適齢期が近づいていた大伯皇女を、できるだけ早い時期に伊勢に遠ざけてしまおう、と皇后は画策したのであろう。
十三歳の大伯皇女は卜定によって伊勢の大神に仕えることとなり、泊瀬斎宮で一年半の潔斎の日々を過ごした。斎宮趾は初瀬川の上流、小夫(おおぶ)の地にある。
近鉄長谷寺駅を降りると、山には薄く靄がかかっていた。駅は坂の上にあり、石段を下りて橋を渡り、土産物屋の並ぶ門前町を歩くと、長谷寺山門に出た。長谷寺は天武天皇の病気平癒を願って建てられた寺である。ここで小夫までは片道十キロの上り道と知る。バス便はすでに廃止され、数キロなら歩くつもりであったが、タクシーに乗ることにした。
車は初瀬川の流れを見ながら上っていく。ところどころに大岩があり、急流が白く渦巻いている。皇女の禊の地である「化粧壷」の表示が見えたので、頼んで山道に入ってもらう。地元の運転手さんでもその旧跡はまったく知らないということであった。修理枝集落の入り口で車を降り、川沿いに山道を登っていった。一度迷ったが、山道を降りてきた村のおじいさんに道を教わり、辿り着くことができた。
山の斜面に畑が開墾されていて、奥に細い流れが見え、小さな滝壷状の窪みに水がたまっている。それが化粧壷という古の禊場であった。黄色い岩が露出し、岩肌を勢いよく水が流れ落ちていく。ここで皇女が禊をしたという。往時は草原が広がり、水は澄みきっていたことだろう。岸辺に仮屋を建てて、皇女は冷たい川水に身を浸したのだろうか。
夏四月・・・・大来皇女を天照皇太宮に遣侍(たてまだ)さむとして泊瀬(はつせ)斎宮に居(はべ)らしむ。是は先(ま)づ身を浄めて稍(やや)に神に近づく所なり。(日本書紀 天武紀)
水は黄色い岩を打ち続ける。山中を縫って流れ落ちる川の水音だけが周囲に響きわたる。今でもほとんど人の気配のない寂しい場所であった。
神の御杖代(みつえしろ)という名のもと、あらかじめ巧妙に仕組まれた卜によって選ばれたことを、十三歳の皇女はどう感じていただろうか。他の皇女たちは家族と大和で暮らし、適齢期になればふさわしい皇子と婚姻していくのに対し、自分だけはその権利を奪われ、たった一人の弟と引き離され、いわば追放にも等しい仕打ちを受けているのだ。寂しかったことだろう。これまで斎王となった皇女のうち伊勢には行かず、大和にとどまって神祀りをした人もいた。このままずっと泊瀬にいられれば、と内心で願ったかもしれない。けれども一年半後、皇女は伊勢へと下向する。
伊勢の祭祀権とのかかわりの中で考える場合、在来豪族の度会(わたらい)氏の力を抑止し、天武朝の権威を浸透させるための皇女派遣という意味合いもあるという。仮に政治上の駆け引きに利用されたのだとしても、庇ってくれる母のいない大伯皇女にはどうしようもないことであった。
化粧壷を後にし、山道を抜けていくと、前方に隠れ里のような雰囲気を持つ上之郷集落が現れた。ここに住む人々は綴靖(すいぜい)天皇の兄の末裔、多(おお)氏の子孫といい、小夫(おおぶ)の地名もそこに由来するという。
斎宮山を背にした清浄感の漂う社殿が、目指す斎宮趾であった。主祭神は天照大神で皇女も祀られており、現在は小夫天神社となっている。
急な石段を上り社殿に立つと、静かに雨が降ってきた。時雨である。周囲の木々から滴が落ち、地面が濡れ遠くの山々が霧に包まれていく。しばらくするとどこからか小鳥のさえずりが聞こえて空が明るみ、霧が流れて山の稜線がはっきりした輪郭で現れ始めた。心に染みる清澄な大和の里の情景であった。
六六八年、天武天皇が亡くなり、その翌月には大津皇子が謀反の罪で処刑された。謀反の事実はなく、皇后による謀殺であるともいわれている。この少し前、大津皇子はひそかに伊勢を訪れた。姉に別れを告げたかったのか、身の処し方を相談したかったのかは不明だが、その再会が姉弟には最後のものとなった。弟を救う手立てを見出せないまま見送った大伯皇女の歌。
我が背子(せこ)を大和へ遣(や)るとさ夜更(ふ)けて 暁(あかとき)露に我が立ち濡れし
ふたり行けど行き過ぎかたき秋山を いかにか君がひとり越ゆらむ
父天武天皇の死と弟の刑死により大伯は、十二年ぶりに大和へ戻った。その折に詠んだ皇女の歌。
神風の伊勢の国にもあらましを 何しか来けむ君もあらなくに
見まく欲(ほ)り我がする君もあらなくに 何しか来けむ馬疲るるに
大津皇子は当初二上山麓の烏谷口古墳に葬られ、後に二上山雄岳に移葬された。大伯皇女の挽歌。
うつそみの人にある我れや明日よりは 二上山を弟背(いろせ)と我れ見む
磯の上に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに
どの歌も哀切で叙情性がある。悲しみと孤独が伝わってくる。罪人の姉という立場であれば、親しんでくれる人も限られていたと思われる。
泊瀬斎宮趾を後にし、長谷寺へと歩いて戻っていった。滝蔵山を経て、落ち葉の厚く積もる旧道を降りていく。かつて長谷寺奥の院として人々の信仰を集めたという滝蔵神社は人影もなく静まり返っていた。
近鉄で名張まで行った。駅から名張川に沿って徒歩約二十分、丘の上にある夏見廃寺跡を訪ねた。
建立は六九四年頃、当時は小規模なものであったという。講堂、金堂、塔、僧坊の建物の礎石だけが草の上に点在していた。皇女はここで数年を過ごしたらしい。その没年は四十一歳であった。
大伯皇女は名張へ来るより、本心は弟の眠る二上山の近くにいたかったのではないだろうか。ここから大和は遠く、その気配はもう感じられない。寺院は緩やかな斜面に位置し、その向こうには静かな草地が広がっている。
伊勢から大和へそして名張へ、ある時は神に仕え、また仏に仕え、命じられるまま俗を離れて漂うように生きるしかほかに道はなかったとしても、どこにいても皇女は弟を思い続け、その深い喪失感を自らの歌に託したのだと思われる。歌にこもるいちずな思いは時を超え今も人の心に届く。
資料館に入って、廃寺跡から出土した瓦などの展示品を見た。奥の間のほの暗い空間には、鮮やかな朱塗りの柱が林立している。その正面には粘土板に浮き彫りされた「塼仏」(せんぶつ)という小さな仏群が隙間なく並び、その数に圧倒され立ち尽くした。実に丁寧で細かい彫刻で、実物大の復元模型という。
見終わって外へ出ると、細かい雨が落ちていた。先ほどの草地に、幻の寺院を浮かび上がらせてみる。たたずんでいると、やがてその残像も夕暮れの雨の中にはかなく消えていった。
(2011・07・3号)