尾崎翠
「 「第七官界彷徨」「花束」 (筑摩書房)
尾崎翠
「 「第七官界彷徨」「花束」 (筑摩書房)
尾崎翠(おさきみどり)は明治二十九年鳥取県生まれの人。父親は教員であった。三人の兄と三人の妹があり、翠十三歳のときに父が亡くなった。翠は女学校卒業後、十八歳で小学校の代用教員となり、勤めの傍ら創作に取り組み、文芸誌に短文や短編を発表し始める。教職を退き、文学を志して二十一歳のとき、東大在学中の三兄(肥料の研究をしていた)を頼って上京、いったん帰郷するが二十三歳で再度上京、日本女子大国文科に入学した。翌年「新潮」に「無風帯から」が掲載されるが、大学側がこのことを問題視したので、退学して帰郷。翌年上京して出版社に勤めるが続かず、郷里に戻った。以後創作を続けつつ、何度も上京と帰郷を繰り返した。文学を通じ、林芙美子とこの頃から親交を結んだ。
三十五歳で代表作「第七官界彷徨」を発表しているが、頭痛薬ミグレニンを常用し幻覚症状にも悩まされた。十歳年下の高橋丈雄と短期間暮らすが、体調が悪化、高橋から連絡を受けた長兄が翠を鳥取に連れ戻し、入院加療させた(三十六歳)。以後は上京の機運もないまま文壇的には沈黙し、東京の文学関係者とも疎遠になっていった。郷里での文芸活動は続けたようだが、母とともにひっそりと生活し、母が亡くなった後は、妹の遺児たちの世話をしながら暮らした。晩年は一時老人ホームに入るなどしたが、最終的には妹宅に引き取られた。最晩年には「第七官界彷徨」が全集に収録され、再評価されることとなったのを喜びとした。享年七十五。
「第七官界彷徨」 あらすじ
赤い縮れ毛の女の子、小野町子は田舎から上京し、一軒家で従兄や兄たちと同居して炊事係となる。兄の一助は病院に勤め、分裂心理が専門であるが、書く論文はどこか文芸的である。二助は大学で肥料の研究をし、家では人糞を鍋で煮て悪臭を発生させ、こやしで大根や蘚(こけ)を育てている。従兄の三五郎は音楽受験生で、調子外れのピアノを鳴らしコミックオペラを歌う。町子もいつか「人間の第七官にひびくような詩をかく」ことを密かに夢見ている。
田舎の祖母は町子の縮れ毛用に煎じ薬の美髪料を持たせたのだが、それは一度も使われないまま不要になった。三五郎が髪を切ることを勧め、たちもの鋏で町子の髪を散髪したのだが、虎刈りになってしまい町子は悲しむ。野菜風呂敷を安全ピンでとめて頭を隠す町子をみて、三五郎は鏝(こて)を買って来てヘヤアイロンを当て、見ばえをよくしてくれた。
三五郎は隣家の女学生と物干し場で交流し、淡い恋愛が始まるが、隣家は町子の家の雰囲気を怪しんで引っ越したので、その恋はあっけなく終わった。一助は同僚の柳浩六と女性患者を巡って争う三角関係にあり(後に二人とも断念する)、二助は前の下宿の「泣いてばかしいる女の子」に失恋の経験があった。そのため町子が試験官を割って作物の大根葉をだめにしても、女の子の涙が苦手な二助は怒らない。町子も誰かに失恋中なのだが、作中では相手の名は出てこない。
町子は都会風の「くびまき」がほしかったが、お金を渡した三五郎はたちもの鋏を買ってしまい、そのままであった。ある夜、届け物をしたお使いの帰り、柳浩六が思いがけず「ぼくの好きな詩人に似ている女の子に好きなものを買ってやろう」と言ってくれたので、やっと新しい「くびまき」が手に入る。町子は浩六に新たな恋を感じ、浩六のいうその外国の女詩人を知りたくて本を調べるがよくわからず、その浩六もどこか遠くへ去ってしまった。町子はノートに詩を書いてみるが、哀感のこもったごく普通の恋の詩でしかなかった。・・・・
尾崎翠はそう知名度は高くない作家で「第七官界彷徨」が代表作。若者たちの奇妙な同居生活を、滑稽さや哀感、幻想も織り交ぜて明るく描いているので、少女漫画の原型ともいわれているそうだ。「第七官界」の初出は「文学党員」(昭和六年)という同人誌だったそうである。
「第七官界彷徨」はこれだけでも充分楽しめるが、同じ作者の「歩行」「こおろぎ嬢」「地下室アントンの一夜」の作品世界が、町子とその周辺人物で構成されているので、合わせて読むと、人間関係がより理解しやすいかと思われる。
簡単に紹介しておくと「歩行」は、町子が上京する前の少女時代、兄一助の客人として数日間滞在した幸田当八への片恋が綴られる。当八に頼まれ、戯曲の恋の場面のせりふを、交互に朗読したことがきっかけとなり、町子は恋心を抱くようになる。当八が旅立った後も、町子はひそかに彼を思い続け、その面影を忘れるために「歩行」するのだった。
「こおろぎ嬢」の主人公(町子)は、関心を持つようになった詩人、ふぃおな・まくろおど嬢の作品を求めて図書館通いをする。ふぃおな・まくろうど嬢とは、詩人うぃりあむ・しゃあぷ氏の別名で、男と女の名を使い分け、異なる作風の作品を発表し、二人はまるで恋愛関係にあるかのように、世間に思わせていたことが判明する。情報は少なくて図書館では手がかりを得られない。図書室で主人公はふと自分の分身のような女性に出会い、心の中で話しかける。その女性は自分と同じ魂を持つ、ふぃおな嬢のようにも感じられるのだった。
「地下室アントンの一夜」は、失恋中の町子の姿が別の視点から描かれる。松木夫人に頼まれて、おたまじゃくしとおはぎを届けに来た町子に惹かれ、片思いする土田九作の内面の世界が中心となっている。
「第七官界彷徨」の作品世界をみてみよう。第七官界(第七感の世界)とは、耳慣れない言葉である。これはいったい何であろうか。調べてみると、人の五官(目、耳、鼻、舌、皮膚)の先には、いわゆる第六感があり、それは直観力、危険感知力、予知能力などのこととされているが、さらにその先に第七感があるという。第七感の領域には、あらゆる感情や感覚が混在しているが、それらには上位、下位の差がなく、優劣も、善悪も存在しない世界なのだという。ちなみにいうと、第七感のさらに先には第八感も存在するそうだが、それは意識の奥にある「悟り」のような世界で、凡人が到達するのはほとんど不可能に近いという。
「第七官界彷徨」は、第六感を超えた領域、第七感(第七官)を想定し、ある種の混沌の世界、感覚や意識の混ざりあう世界を作品上に展開し、自在に描きだそうという意図のもとに書かれたとみていいのであろうか。
「第七官界彷徨」は、平屋建ての悪臭発生装置のような家を舞台とし、そこで若者たちの日常が展開されてゆく。登場人物は皆どこか風変わりである。小野町子という名は、長い黒髪で歌人として名高い美女、小野小町の名をひっくり返したもの、それゆえに町子は赤毛で縮れ毛、良い詩がいまだ書けないが、いつか人の第七官にひびく詩を、と願っている文学少女、という設定になっている。
小野小町は平安時代の人、往時の「男の子」である貴公子たちは、衣服に薫香を焚きしめ辺りに芳香を漂わせ、笛や琴を巧みに演奏、文芸にも秀で、つややかな長い黒髪の美しい貴女と文をやりとりして恋愛するのであった。
それが翠の手によって東京の「第七官界彷徨」の世界でパロディとなって展開されるとき、薫香ならぬ人糞肥料の臭いを二助が家中に発散させ、みやびな音楽の代わりに狂った音程で三五郎がピアノを鳴らし、論文らしからぬ妙な文章を一助が書き、断髪した町子の詩の才能はなかなか開花せず、登場人物の全員が片恋や失恋に陥って悩む日々を送る、ということになってゆくらしい。
小野小町の生きた世を現代に移し替え、主人公の名も属性もひっくり返してみせ、取り巻く男の子たちにも奇妙な言動をとらせ、読み手をくすぐるユーモア風味の作品とし、あえて戯画化した世界を描いたのではないかと思われる。
この作品は、小野町子という名が出てきた段階で、パロディであることを読み手に印象づける。医師の長兄一助は自身が患者であってもおかしくない雰囲気、人糞を鍋で煮続ける次兄二助も、部屋でこんな実験をするということじたい黄害、従兄三五郎はまた町子に対して、何やら怪しげな振る舞いを当たり前のようにするので、次に何が起きるのかと、読み手の興味を引くという仕掛けになっている。
作者の臭気攻撃は相当なもので、読み手はページを繰るうちに何だか作品世界が黄色っぽく見えてくる。糞尿こやしの場面がこれでもかと続くため、うんざりして途中で本を閉じる人もあるかもしれない。そこを我慢し、ともかく読み進んでみると、町子は皆から「女の子」といわれていて、すぐに泣くし家事も上手くないが、それなりに可愛い「妹」として存在、家族の「男の子」たちも妙なことに熱中し、こだわり方も変だが、純粋で不器用な人たちで、憎めない性格に造形されている。特に筋らしいものもなく、彼らがそれぞれに課せられた物語上の役割を演じつつ、ところてん式に日々の暮らしが描かれてゆくのである。
気がつけば全員が誰かに恋をして、それは未熟だったり片思いだったりして各自失恋の痛手を受け、この家で唯一自然に恋愛が育ち、恋が健康に成立していくのは、人間ではなくて、二助が熱いこやしを与えたという「蘚(こけ)」だけなのであった。蘚の恋愛とはまた意表をつく着想で、その蘚について三五郎はこのように発言する。
「二助の机の上では今晩蘚が恋をはじめたんだよ。・・・・熱いこやしの方が利くんだね。あの鉢が花粉をどっさりつけてしまったんだ。ぬるいこやしとつめたいこやしをもらっている鉢はまだなかなか恋をする様子がないと・・・・植物の恋愛がかえって人間を啓発してくれるよ」
何だか植物の方が人間をしのいでいる、という結論になっていく。そして一助もこんなことを言う。
「蘚苔類が人類のとおい祖先だろうということは進化論が想像しているだろう。そのとおりなんだ。みろ、人類が昼寝のさめぎわなどに、ふっと蘚の心に還ることがあるだろう」
蘚の恋愛に着目したのは面白く、生命の根源的で、原初的な世界を連想させる。植物が恋愛するという場面も、新鮮で詩的なものに感じられ興味深い。
次にこの物語最大の山場である「散髪」をみてみよう。悪臭漂う二助の部屋で、町子は虎刈りの頭を三五郎にたちもの鋏で整えられている。町子はじっと座っているのに退屈しだんだん眠くなってくる。その場面に浮かぶ幻想は、次のように語られる。
「土鍋の液が、ふす、ふす、と次第に濃く煮えてゆく音は、祖母がおはぎのあんこを煮る音と変わらなかったので、私は六つか七つの子供にかえり、私は祖母のたもとにつかまって鍋のなかのあんこをみつめていたのである」
人糞があんこに変容してゆくのである。えっ、と驚かされて、一度読めば忘れられない。「私の眼には机の上の蘚の湿地が森林の大きさにひろがった」こういう感覚表現が続いてゆくうちに、読み手も幻を見ているような不思議な気分にさせられる。そして別の場面で町子はこんな風に考察する。
「蘚の花粉とうで栗の粉とは、これはまったく同じ色をしている。そして形さえもおんなじだ。私のさがしている私の詩の境地は、このような、こまかい、粉の世界ではなかったのか」「混乱した室内風景のなかに、私の哀愁をそそる一つの小さい風景を発見した・・・・
私の頭髪の切屑(きりくず)がいまは茶色っぽい粉となって散り、粉のうすれたところに液体のはいった壜があり、粉のほとんどなくなった地点に炊事用の鍋があった」
町子の鋭敏な目は、ものを粉として認識するところへ辿りつく。物質を解体し分解していけば粉になるのだが、肉眼で確認するとしたらまず限界はそこまでで、あとは顕微鏡の世界に入ってゆく。町子のまなざしは、まさにそのぎりぎりの境目のところで留まり、かつて自分の頭髪であった茶色い粉を凝視するのである。そして三五郎もこのように語る。
「たたみのうえにこぼれている頭髪の粉って変なものだな。ただ茶色っぽい粉としてながめようとしても決してそうはいかないじゃないか。女の子の頭髪というものは、すでに女の子の頭から離れて細かい粉となっても、やはり生きているんだ。ぼくにはこの粉が生きものにみえて仕方がないんだ」
町子の望みは「私はひとつ、人間の第七官にひびくような詩をかいてやりましょう」であった。そして赤い縮れ毛を人に見せたくないので「誰かいちばん第七官の発達した先生のところに郵便で送ろう」とも思うのだった。町子は何とかして高い領域にある第七官を感得し、良質の詩を書こうと模索しているのだが、残念ながらまだそこには至っていない。町子が探し求めている境地とは、次のようなものであるという。
「二助の部屋からながれてくる淡いこやしの臭いは、ピアノの哀しさをひとしお哀しくした。そして音楽と臭気は私に思わせた。第七官というのは、二つ以上の感覚がかさなってよびおこすこの哀感ではないか」
「淡いこやしの臭い」「年とったピアノの哀しい音」が重なって町子の「哀感」をそそり、第七官界に至らせる、ということらしい。よくわからないのでこの部分を試みに、作者独特のパロディ表現として読んでみることにしよう。
するとひっくり返されたもとの文意とは、遠い平安時代の世において、貴公子の衣が放つ「薫香」や貴公子の奏でる「琴や笛の妙なる調べ」が重なり合って、貴女小野小町の感覚が刺激され、哀感ならぬ「快感」が呼び起こされて、やがて第七官界に至る、というようなことになる。
そして町子はまた三五郎の部屋でひとり寝転んで、天井にあいた穴から空を見ているときにも、こう思う。
「第七官というのは、いま私の感じているこの心理ではないであろうか。私は仰向いて空をながめているのに、私の心理は俯向(うつむ)いて井戸をのぞいている感じなのだ」
これは境界のことについて、述べているのではないかと思われる。たとえば生の側から見る情景と、死の側から見る情景の対比。現世と異世界の狭間に人が至ったとき、あるいは人の心が極限の状況に陥ったとき、あるいは日常と非日常の境目に魂が辿り着いたとき、そこに生じる感覚や心象について語っているのではないか、とも思われるのである。
第七官について説明されている箇所といえば、上述のような部分になるだろうが普通に読む限りでは漠然としている。単に視点の変換とか、感覚の反転、が起こす現象のことをいうのでもないらしい。人の脳内で起きるある意識の変革、なのかもしれないが、もしそうだとしたら、そんな神秘的なことは、各自が深い体験にもとづいてそれぞれ感得するしかなく、いくら多くの言葉を尽くしても、読者に「第七官界」を真に理解させるのは困難であろうと思われる。
感覚鋭敏な「女の子」は耳鳴りがしたり、平衡感覚がおかしくなってめまいを感じたり、頭痛を起こしやすかったりするものだが、翠自身もいつの頃からか頭痛に悩み、ミグレニンを多用し、幻覚などの症状に見舞われていたらしい。創作を続けたいと心で願いながら、現実には健康を損なってしまい、薬物に依存するようになり、日常的に薬が手放せなかったというのは、不幸なことであったろう。
「第七官界彷徨」には宗教的な含みや意味もあるのだろうか。翠の母方はお寺であったというから、何らかの影響があったとみても、おかしくはないかもしれない。
この作品には、繊細で過敏な感覚描写が多いようだ。感覚反転の現象もそうだが、たとえば表と裏、虚と実、生と死、狂気と正気、理性と本能、現世と異世界など、どちらの側からみたとしても、目に映る現象はある意味で幻影であるのかもしれないと思う。作者は「第七官」の世界を、身体感覚の重なりによって起きる感覚ともとらえているようだが、単純に言葉通りそのまま読んでみても、そこにはほのかな神秘性や官能性も感じられ、そこに生じる儚さや危うさ、鋭さや脆さこそがこの作者の持つ感性の特徴なのであろうかとも思われる。
町子が作品中でたとえている「霧のかかった」または「霧のようなひとつの世界」、「そこでは私の感官がばらばらにはたらいたり、一つに溶けあったり、またほぐれたりして、とりとめのない機能をつづけた」という世界は、時空を超えた領域、独自の感覚世界をとらえていっているように思われる。
たとえば人が属しているあるひとつの世界から、さらにその奥にある世界との境界に向って魂が浮遊し、仮にそこに至ってとどまったとき、垣間見られる情景とはどのようなものであろうか。夢のように澄みきった透明な世界、あるいは静謐かつ静寂が支配する無の空間、それとも極彩色の夢のような世界、または目を背けたくなるような混沌の世界・・・・どれも意識の奥に潜む幻影であろうが、そのような魂の空想の旅にいっときいざなってくれるのが、この「第七官界彷徨」という作品の持つ面白さかもしれない。
けれどもどんなに空想と妄想をたくましくしてみても、第七官界がどういう境地、領域を示すものなのかという点は、結局は読み手に曖昧なままに残されていく。答えはそれぞれ読み手の心にゆだねられている、ということであり、その解釈は多様であろう。
再び作品の具体的な場面に戻ってみよう。町子は兄が失恋の結果、研究に精励しているのを見て、このようなことを考えつく。
「三五郎が音楽家になるためには失恋しなければならないし、私が第七官の詩をかくにも失恋しなければならないであろう。そして私には、失恋というものが一方ならず尊いものに思われたのである」
普通の「女の子」なら、まず恋愛の成就をと願うところだろうが、これも独特のパロディ表現なのかもしれない・・・・。ともかく失恋に憧れる町子は、恋愛の成就よりも失恋の方を重視し、そちらに心が傾くようなのである。この作中には多くの恋愛と失恋が出るが、二人の兄たちのいう恋愛も失恋もあまり実体はないようで、抽象的であり現実味は薄い。
三五郎と町子は幼馴染みの親戚なので、子犬と子猫のようにじゃれ合い、それはいわば疑似的な恋愛遊戯、血縁という枠の中で考えれば、本物の恋愛のようではない。三五郎は、いっとき隣家の娘(この人には名前が与えられていない)に恋心を抱くものの、やがて町子に心が戻るという風にみえる。三五郎が歌う「赤毛のメリイを愛していたジャックが途中で道草をはじめて黒毛のマリイと媾曳(あいびき)をして、そしてまた赤毛のメリイが恋しくなった」という内容に、その心情の経過が暗示されている。
何だかまともな恋愛は人の間には存在しないかのようで、三五郎の恋も始まったとたんに相手が去って消滅、その女学生も行動や性格が町子に似ており、まるで町子のコピーか分身のように描かれている。隣家の娘もかなり内気で、同様に内気な町子が、彼女と意志を通わせるのに、垣根越しに互いに三叉に手紙を挟み、贈り物を届け合うという妙な方法を用いて交流を続ける。これについて隣家の娘はこう述べる。
「私の国文教科書のなかの恋人たちは、みんな文箱という箱に和歌などを託して・・・・」
平安時代がここでもちらっと顔を覗かせてくるのが興味深い。
次に男の子の名前についてみてみよう。まるで記号のようで、個性が感じられない。小野一助、小野二助、佐田三五郎、柳浩六、幸田当八、土田九作と数字絡みで、四と七が抜いてあり、これは意図的に外してあるのではないだろうか。あえてこのふたつを空席にしておいたようにも思われるし、この作品中で、名は語られないものの「こおろぎ嬢」に出てくる外国の詩人しゃあぷ氏と、ふぃおな嬢(しゃあぷ氏の分身)で、すでにこの二つは指定席として埋まっているようにも感じられる。四の席はしゃあぷの「し」で、七の席はふぃおなの「な」・・・・。それにしても数字が連なる名を見ていると、何となくゲーム感覚、双六やサイコロの目を連想させる。
ところで平安時代の双六は、今のような絵双六ではなかったそうで、盤双六といい、囲碁や将棋のような木製の盤を使った。手持ちの駒(白、黒、十五個)で、サイコロ二個を振り、出た目の数によって、ます目を引いた盤上を時計回りに進ませ、陣取りをする人気の遊びであったという。作中の「男の子」たちの動きをみていると、何となく双六遊びのようにも見えてきて、彼らの名前にも、双六が関連しているのでは、と思ってしまう。
佐田、幸田、土田と、田が重なるのも変だと思いつつ、往時の双六盤のます目をよく見ると、中央に横一条に陣地分けの空白線が引かれ、左右とも六に区切ったその中央部分にも縦空白線一本があるということで、上から見ると視覚的に田の字が連想される。また「柳」は「積み替え」といって双六遊びのひとつなのだとか。町子の恋が、幸田当八から柳浩六へと積み替えられた、ということを暗示する作者なりの言葉遊びだったのではないだろうか・・・・などとも考えてみた。
こんなことを勝手な推測でいうのは強引なこじつけのようで気が引けるが、お許しいただきたい。何かの参考にでもなれば、と思ったのでついでに記しておく。
あと、作中の食べ物についてみてみよう。ご飯にわかめのみそ汁、浜納豆、海苔、くわいの煮物、そのほかの料理は出てこなくて、お菓子がご飯代わり。ほかには生け垣の酸っぱい蜜柑、生干しのつるし柿、祖母から送られてきたうで栗、生栗、かち栗、塩水を飲むとかかかなり質素で昔風、いくら何でももう少しおいしくて栄養のある家庭料理はあったはず・・・・こんなに禁欲的で貧弱な食卓にしたのは意図的で、あるいは平安食文化を意識していたのかもしれないとも思う。
また、出番は少なかったが、母性愛の象徴のような祖母(この人にも名前がない)の描写に、しんみりと心打たれるものがあった。町子は恋愛、失恋というけれども、それらはまだふわふわとしていて、遠い異性への甘い夢や憧れをひそかに投影しているような感じに過ぎない。町子が、誰よりも信頼しきって一番深い愛情を向け、心の中で会話しているのは、ほかならぬこの祖母なのであった。
道具類を見てみよう。作中に使われる小道具には、蜜柑、ピアノ、マドロスパイプ、くびまき、たちもの鋏、ボヘミアンネクタイ、ヘヤアイロン、バケツ、土鍋、浜納豆、とさまざまなものが登場して作品に彩りを添えている。バスケットの網袋蜜柑だけでなく、生け垣の蜜柑は何度も登場して、人物間の交流を助けているし、ボヘミアンタイもその都度場所や姿かたちを変えながら、住人と寄り添うかたちでともに生き続ける。たちもの鋏の金属的な重い質感、鋭い冷たさには奇妙な存在感があるし、バケツの使い方も巧妙である。
町子が手に入らなかった「くびまき」(こんな言葉は初めて知った。造語、それとも方言だろうか)は最後になって買ってもらえるので読み手もほっとするし、不要とされた辛い名物浜納豆もちゃんと後で出番が用意され、食べ物としての役割をきちんと全うする。ピアノに至っては古くからこの家のぬしみたいな存在で、出入りする人間たちの姿を一隅から見守っているかのような感さえある。きっと町子たちが出て行った後も、ピアノはずっとそこに鎮座し続け、住む人の変遷を見ているのだろう、というような思いも読み手に抱かせる。
つまりものが単にものでなく、そこには目には見えないけれど生命や意志がこもって存在し、人とともに生活しているかのような丁寧な描き方になっている。作者のものに対する思いや目の行き届かせ方、その気配りの確かさがしのばれて興味深い。
作者はこの作品を円環構造にしたくて、初出時にはそのようにつなぐかたちとして構想していたそうである。作品の冒頭に「私の生涯には、一つの模倣が偉(おお)きい力となってはたらいてゐはしないだろうか」という二行があったらしいが、後に作者自身が削除したとのこと。作者が意図する完全な円環構造にするためには、冒頭の二行を受けるかたちで、さらに最後に場面を用意し、加筆の必要があったが、充分な時間もなかったことと、理に落とさせないため、という理由で削ってしまい、円環ではない現在のような直線的に延びるような構造の作品にしたという。
作品の最後のほうにでてくる外国の女詩人というのが、ふぃおな・まくろおど嬢、のことを指しているのであろう。これは、うぃりあむ・しゃあぷ氏のなりすまし名だということが「こおろぎ嬢」で明かされるのだが、この「男と女の両方を生きた」男性作家の存在が、翠のいう「円環構造」や「模倣」へとつながる鍵を握っていることが想像されてくる。
ウィリアム・シャープはスコットランド生まれ、実在の人で、フィオナ・マクラウドという女性名でケルトの幻想的な作品を発表したという。翠自身この作家に惹かれていたと考えられ、作品に使いたかったのだろうが、「第七官界」を円環構造にするためには、この作家の名を出してきて、たとえば具体的な作品、あるいは作風などを町子が憧れて「模倣」するような、新たな場面を拵える必要もあったかと思われる。
けれどもうまく接続させるためには、整合性のこともあるし、難点も生じるとして、省いたのであろう。結果として「こおろぎ嬢」を別作品とし、外伝的なものとしてしまう方法を選んだのだと思われるが、おそらく内容的には「こおろぎ嬢」の部分がある程度重なっていたのではないかと思われる。
翠は「第七官界」を、円環構造にしなかったことについて、迷う気持ちもあったらしく、再び加筆して円環にする可能性も示唆していたということである。
(なお作中、一五五ページに「失恋とは、おお、こんな偉力を人間にはたらきかけるものであろうか」という一文があり、なんだか表現法が似通っているようなので、細かいことをいうようだが、だぶりを避けるという意味でも冒頭部分は削ってよかったのではないかと思う)
円環といえば「歩行」という作品の構造も、冒頭と結末の部分に同じ詩をわざわざ置くことによって、円環風になるように工夫しているし、「こおろぎ嬢」も、詩人に憧れる若い女性の話でありながら、その中にふぃおなとしゃあぷの物語を同心円のように埋め込み、内包する小さな物語が主人公の心情を暗示するかたちになっている。「地下室アントンの一夜」も土田九作の脳内の物語なので、球体に閉じ込められた意識の世界とみることができるし、そうなると「第七官界彷徨」も、翠が危惧するほどには直線構造という印象はなくて、むしろ一軒家を中心としたさまざまな出来事が有機的につながり合い、逸話が絡まり合って緩やかな円環構造となっているとみなしてもよいのではないだろうか。
作中にはところどころに亀裂のように嵌め込まれる印象的なせりふ、表現があって、うっかりしていると気づかずに読み流してしまいそうであるが、ときにはっとさせられるものもあり、読み手はそこへくると、何か心の琴線に触れたような気もしてきて、ページを繰る手を止め、読み直してしまう。そこに隠された意味でもあるのか、と深読みしたくなってくる。それがあるので、この作品は今なお読者を獲得し、読み継がれているのではないかと思われる。
「花束」 あらすじ
私は小学校の女の教員で、放課後に生徒の兄弟の漕ぐかんこ(小舟)で川を下ってゆく。兄弟は、浜えんどうや河原撫子などの野の花を摘み、麦の茎で結わえた素朴な花束をくれた。海に出ると曳船(ひきふね)という漁師の船が防波堤に留めてあったので、兄弟はかんこを寄せ、若い漁師に招かれて船に上がり、船内で遊び始める。私も何度か上がるように誘われ、若者の感じの良い笑顔や態度に惹かれるものの、舟に残って待っていた。若者が花束を欲しがったので、財布の黒いリボンをほどき、緩んでいた花束を結び直して、船に投げ上げると、若者は喜んで花束に何度も接吻した。やがて兄弟が戻ってきて、かんこは曳船から遠ざかっていった。「明日きっと来て」若者は私にそういって見えなくなるまで甲板で見送っていた。けれども若者とはそれきり逢うことはなかった。曳船は入江から去ってしまい、私はわずか二十分の出会いの幸福と、片思いに終わった恋を思うのだった。・・・・
「花束」は二十八歳のときの作。みずみずしい作者の感性が伝わる作品で、名前も年も知らない行きずりの青年に対して、若い娘が束の間感じた好意や、短い恋が語られる。何かしら古代的な世界を思わせる雰囲気が漂っていて、短編なのに余韻は深い。たとえば古代の祭りや歌垣の夜、男と女の間にもはや言葉など必要でない空気が生じ、目と目が合い、じっと相手の目を見つめただけで、一夜の恋が成立したというような、古の愛のかたちが想起される。「花束」に描き出されているのは、時空を超えてなお息づいている、恋を求める若い男女の普遍的な姿であろう。
もう一作見てみよう「初恋」という作品で、これは若い男性が主人公である。滞在先の田舎の村で、若者が女装して踊るという風習の盆踊りに遭遇する。恋人のいる若者が女の着物を借りて踊るのである。主人公は友人に誘われて、女物の扮装一式を貸してもらい、踊りの輪に加わる。すぐ前に若い男が踊っていたが、観察するうちに男装した若い女と気づき、魅力的なその様子に惹かれてゆく。盆踊りが終わると、月明かりの中、主人公は女の跡をつけてゆく。彼女はやがて主人公の住まいへと入っていった。その時点で初恋は凍りついた。女は主人公の妹だった・・・・。
成立しない美しい恋愛、というのが作者の書きやすく扱いやすいテーマであったのだろうか。盆踊りの情景は目に見えるように描かれていて、こういう異性装の習俗がどこかの集落に実際にあるのだと感じられ、民俗学の方から見れば、興味深い視点かもしれない。内容については特に説明も要しないだろう。好もしい短編とは思うが、最後まで読み進まないうちに、早い段階で読者に「落ち」が見えてしまうのが残念といえば残念である。
「花束」も「初恋」も中央の文芸誌に掲載されたわけではなく、多くの読者の目に触れることもなく、埋没してしまったのかもしれない。初出は同人誌だったようで、初々しさの残る素人の非常に上手い同人誌作品、という印象で受けとめられたのであろう。
翠は作風を変えて色々創作を試みていたようである。仮にこのような初恋、純愛、失恋路線を進めていったとしても、一定の読者は獲得したと思われるが、たとえば同時代の林芙美子のような貧乏を武器にした強靭さや、泥まみれになってでも生き抜こうとする激しさ、無一物の迫力でもって読者をねじ伏せてゆく熱いエネルギーはここには感じられず、時代の潮流には乗れなかったかもしれない。
尾崎翠は、有名作家ではなかったかもしれないが、隠れファンは多いそうである。図書館の目立たない棚にひっそりと本が置かれ、新たな読み手との出会いをそっと待ち続けている……ような、そんな風情が感じられる作家さんなのである。
活躍したのは昭和の初めとされるが、時を経ても古びない魅力があり、翠の生き方も劇的といえば劇的であろうか。作家としては思うように創作活動ができなかったかもしれないが「第七官界彷徨」「歩行」「こおろぎ嬢」「地下室アントンの一夜」などのライフワーク的な作品群を、三十代という時期に、まるで遺書のように書き残し、力尽きて郷里に隠棲した。症状が悪化し、兄に連れ戻されるというかたちで高橋氏とも別れ、東京の生活を捨てたのは、どんなに辛かっただろうと想像できるが、後になって振り返ったときには、鳥取での静かな年月もまた肯定できたのではないだろうか。帰郷後、創作からは遠ざかってしまったようだが、後半生は家族とともにあって甥や姪に慕われ、読書に安らぎを見いだしつつ穏やかに老いて、充実の日々を過ごした、と信じたい。
「ちくま日本文学全集20 尾崎翠」