一倭姫命世記の世界一 元伊勢の風景
長谷寺 與喜天満神社 阿紀神社 篠畑神社
一倭姫命世記の世界一 元伊勢の風景
長谷寺 與喜天満神社 阿紀神社 篠畑神社
伊勢内宮の起源について、日本書紀は次のように語っている。崇神天皇のとき、宮廷内で祀っていた二柱の神の勢いを畏れ、天皇は天照大神の方を倭の笠縫邑に遷し、皇女豊鋤入姫(とよすきいりひめ)に祀らせた。次いで垂仁天皇のとき、祭祀が倭姫(やまとひめ)に代わると、倭姫は天照大神を奉戴して大和を旅立ち、鎮座地を求めて宇陀の篠畑、近江、美濃を巡って伊勢に向かい、そこでようやく神意にかなう鎮座地を得た。
中世の神道書「倭姫命世記」には、天照大神の巡行地が数多く記されている。豊鋤入姫は笠縫邑での奉斎の後、大神を丹波や紀国など六箇所に遷座、また倭姫の巡行については笠縫から伊勢まで詳述され、二人の皇女の巡行地を合わせると、その数は二十七箇所にも及ぶ。(皇太神宮儀式帳では、倭姫の巡行地は十五箇所)
皇女たちが大神を祀った地は、伊勢に鎮座する以前に天照大神が祀られたので、元伊勢と呼ばれている。今回は日本書紀、倭姫命世記を参照しつつ、伝承の世界を巡ることにする。
まず太陽信仰の聖地といわれる長谷寺を訪ね、豊鋤入姫が天照大神を祀ったという與喜(よき)天満神社へと上り、倭姫の巡行をなぞる形で榛原に出た。そして阿騎野(あきの)の人麻呂公園に立ち寄り、万葉歌の世界にも触れたあと、宇陀の阿紀神社、さらに伊勢街道沿いにある篠畑(ささはた)神社へと進み、天照大神が祀られていった伝承地をたどってみた。天照大神との関連を考えつつ歩いた一日であった。
長谷寺
隠り口(こもりく)の長谷、と枕詞にもあるように、長谷の地は山々に囲まれ、隠れるような地になっている。その名の通り、長い峡谷なのである。大和で最初に太陽が上る山であることから、長谷寺の東に位置する與喜山は古来神聖な山とされてきた。長谷には色々な時代の信仰が重なり合っている。長谷寺は小初瀬山中腹の断崖に建てられた寺院で、創始は天武天皇の時代、西国第八番霊場、牡丹の名所としても名高い。
近鉄長谷寺駅から歩きはじめた。まず谷筋まで坂を降りていき、そこで初瀬川にかかる橋を渡って、土産物店の並ぶ通りを歩き続けると山門に着いた。ここまで約二十分かかり、そこからさらに本堂まで三九九段の登廊を上っていくのである。
登廊は吉備津神社の回廊にどこか似かよっている。登りはじめの頃は比較的傾斜がゆるやかで、吊るされた灯籠にも優雅な雰囲気が漂っていた。後半はかなり急勾配であった。斜面に植えられた牡丹はと見回すと、季節には少し早く、花はまだ咲いていないものが大半であった。
本堂は、「懸け造り」(舞台造り)という、清水の舞台と同じ建築法で建てられている。そういえば東大寺二月堂も崖上にあって同じ工法、本尊が十一面観音という点も同じである。けれども長谷寺は、大和では東大寺大仏殿に次ぐ大きさで、礼堂や外舞台の広さ、その威容には圧倒されてしまう。
六八六年、天武天皇の病気平癒のために、道明上人が「銅板法華説相図」を西の岡に安置したのが起源とされている。上人の祈願も空しく、天武天皇は同年秋に亡くなっている。
時代が下って聖武天皇のとき、勅願により徳道上人が、十一面観音像を造立して東の岡に祀った。祟りのある曰くつきの大木を祈り清めて彫ったと伝承されている。これが長谷寺の創建とされ、その後何度か火災に遭い、現在の本尊は室町時代の作だそうだ。
本堂に入る。ご本尊の十一面観音は、錫杖を持ち岩に立つお姿で身の丈十メートル余という大きな木造仏であった。見上げると畏怖の思いに打たれる。ちょうどお勤めの最中だったので、しばらくの間堂内に鳴り響く太鼓の音と、読経を聞きながらたたずんでいた。
本尊の左右に脇侍の厨子がある。左の厨子には「天照皇大神」の札があり、神鏡もかかっていた。神仏共存なのである。厨子の中の天照大神像は、雨宝童子の形をとっている。神仏習合の考え方では、天照大神の本地仏は十一面観音であり、天照大神は十六歳のとき日向に降臨、そのとき雨宝童子の姿となって化現したという。
天照大神は言うまでもなく伊勢神宮に祀られる皇祖神であるが、十一面観音と天照大神が一緒に祀られることは珍しいと思う。(ほかに同様の例として思い浮かぶのは、伊勢朝熊山の金剛證寺であろうか。虚空蔵菩薩と雨宝童子が祀られている)。
長谷寺では天照大神は十一面観音の左にあり、右側の難陀竜王とともに十一面観音の脇侍として祀られていた。「長谷寺では神と仏が並んで祀られている」とは聞いていたが、今日そのことを確認できた。以前長谷寺に来たときも、関心を持ち眺めたのだが、秘仏なのか天照大神の厨子の扉は閉じられており、拝観できなかった。今日は牡丹の時期に合わせての特別公開らしい。
近くに寄って拝する。天照大神は髪をみずらに結って宝冠をつけ、杖と宝珠を持ち、裳を着けて立ち、お顔は可憐な少年とも少女とも見える造形になっていた。衣装は女性のもので、髪形は男性にみえる。室町時代の作という。
お堂の仏様たちは直立したまま遠くを見つめておられる。その視線の先を追うように振り返ると、礼堂にはきれいな鉢植えの牡丹がたくさん並べられ、ときどき吹き抜けていく風に、重なった花びらが揺れていた。薄い桃色から真紅、純白、紫がかった濃い色までさまざまあって、その華やかさに思わず眺め入った。
広々とした外舞台に出て周囲を見回すと、新緑の山の木々の色が周囲に広がり、目に染みるようであった。東には、標高四五五メートルの與喜山(天神山)が聳えている。與喜山は天照大神の降臨伝承を持つ神体山で、ここから見ると整った形をしている。山頂には磐座もあるという。毎朝早朝に長谷寺の僧一同が舞台上に並び、與喜山に向かって拍手を打ち礼拝する儀式があり、これを「與喜山礼」(よきさんらい)というそうである。
以前テレビ番組で、この儀式が紹介されていたのを見たことがあった。そのときお坊さんたちは、東にある與喜山の方を向いて一列縦隊に並び、早口で唱えられるお祈りの声は呪文のように響き渡り、仏教でも神道でもないような、原初的な祈りの光景ともみえた。山から上る太陽を崇拝する古の信仰のかたちが感じられて、なにか不思議な印象を持ったのを覚えている。
與喜天満神社
與喜(よき)山へと向かうことにする。長谷寺境内にある二本(ふたもと)杉(源氏物語 玉鬘の巻に出てくる)を左手に見てさらに降りていき、初瀬川にかかる朱塗りの連歌橋を渡る。橋の名は、與喜天満神社で連歌の会が開かれ、長谷寺の僧侶が通ったことに由来するという。
與喜山に入るとすぐに約三百段という石段が現れた。これは與喜天満神社の裏参道に当る。どことなく荒れた感じのする寂しい道で、周囲には歩く人影も見られない。長谷寺の賑わいから遠ざかるにつれ、原生林の持つ山のたたずまいが迫ってくるのだった。與喜山の暖林帯は国の天然記念物だという。次第に木々の緑は濃く、山の気配は深くなる。山麓でこうなのだから、山にもっと分け入れば太古の森そのままの雰囲気なのであろう。野鳥の鋭い鳴き声がしきりに飛び交うので、藪のほうを見上げていた。ふと視線を下げると、目の前の石段をするすると長い蛇が横切っていくのに気づいて驚愕し、あわてて飛びのいた。マムシでなくてよかったと思った。
與喜天満神社の社殿に着いた。以前長谷寺の奧の集落、小夫(おおぶ)の天神社を訪ねたことがあったが、社殿の感じがこことよく似ていた。小夫の天神社は今も清冽な自然が残る、人里離れた山の中にあった。そこも笠縫邑伝承地(元伊勢)の一つであり、また天武天皇皇女の大伯皇女が、斎宮として伊勢に行く前に、一年半潔斎したという泊瀬斎宮、野宮の伝承地でもあった。そのとき訪れた化粧壷という山中の禊の川があまりにも寂しい場所だったので、潔斎の日々とは、年若い皇女にとってなんと厳しいことなのだろう、と感じたのを思い出す。
ここ與喜天満神社もまた、泊瀬斎宮の有力な伝承地のひとつであり、崇神天皇皇女豊鋤入姫が天照大神を八年間祀ったとされる、伊豆加志元宮(いつかしのもとのみや)であるともいわれている。
・・・・但波(たには)の吉佐宮(よさのみや)に潜幸(みゆき)なりまして、四年を積(へ)て斎き奉る。此れより更に倭の国を求め給ふ・・・・倭の国の伊豆加志本宮に遷りたまひ、八年斎き奉る。(倭姫命世記)
倭姫もまた三輪から伊勢へと旅立ったとき、ここを通っていったのかもしれない。三輪から宇陀、榛原へと続く道筋のちょうど中間に、ここ長谷峡谷は位置している。
與喜山での天照祭祀について、もう少しみてみよう。神武天皇から崇神天皇まで、九代にわたって二柱の神(天照大神、倭大国魂神)は、天皇と同じ宮殿内で祀られていたが、崇神天皇のときに、
・・・・二柱(ふたはしら)の神を、天皇の大殿(みあらか)の内に並(いはひ)祭る。然(しかう)してその神の勢を畏(おそ)りて、ともに住みたまふに安からず。 (日本書紀 崇神紀)
という状態になったので、神を天皇から離し、天照大神のほうは豊鋤入姫に託(つ)けて宮廷外で祀られるようになった。倭大国魂神のほうは渟名城入(ぬなきいり)姫が祀ったが、姫は髪が落ち痩せ衰えて祀ることができなかったという。
「倭姫命世記」によれば、豊鋤入姫は倭の笠縫邑(檜原神社が有力という)で天照大神を祀っていたが、やがてそこを出て丹波の吉佐宮(よさのみや)に行って四年、倭の伊豆加志本宮(いつかしもとのみや)に戻って八年、紀国の名草浜宮(なぐさはまのみや)で三年、さらに吉備で四年と各地で奉斎を続けた後、大和に戻ってきて姪の倭姫に神を託した。
そして今度は、倭姫が天照大神を奉斎して大和を出て、宇陀、名張、伊賀、甲賀、近江、美濃、尾張と鎮座にふさわしい地を求め、各地を巡幸しながら伊勢に向かい、最終的に五十鈴の川上に祭祀の地(伊勢神宮の起源)を定めたとされる。
なぜ天照大神は皇女とともに大和を出て長期間各地に行くのか、そこにどんな理由や背景があったのかについては、ふさわしい鎮座地を求める神の遍歴、大和王権の勢力拡大に伴う遠征説など、さまざまな説がある。その真相についてはよくわからないが、仮にそれが勇ましい行軍の旅であったとしても、神を祀る皇女が神鏡をたずさえ、長年にわたって各地を彷徨し続ける姿には、どこか流離の寂しさもつきまとう。皇女は大和に留まることを許されず、域外に出てゆくことを強いられたような気もしてくるからである。そこには、霊力ある女性が神の声を聞いて祭祀を司り、男王が政治、軍事を受け持つという、古代で続いていた「姫彦制」の時代の終焉の姿が重なって感じられる。
古代では、男王の妻や姉妹、あるいはおばなど霊力ある親族女性と、男王とが一対となり、それぞれ役割を分担して統治する例が多くあった。そうした姫彦制のかたちが崩れていくのを思わせる事例が、日本書紀に記述されている。
崇神天皇と倭迹々日百襲(やまとととびももそ)姫の場合をみてみよう。神懸かりによって敵の動きをいち早く知ってそれを天皇に伝え、戦の勝利に貢献したという記述のあった後に、百襲姫は三輪山の神との約束に背いたため、箸が体に刺さって謎の死をとげ、宮廷祭祀は途絶してしまう。
その祭祀を継いだとみられる豊鋤入姫は、天皇の住む宮廷から離れた笠縫邑で神祀りを続けるが、そのあとは大和からまるで遠ざけられるかのように、かなりの年月を、神を捧持して大和の外の地で過ごしている。いったんは大和に戻っても、再び神霊とともに大和から離れるのである。
そして(おそらくは老齢となった)豊鋤入姫は吉備から戻り、大和で倭姫に祭祀を引き継ぐのだが、次の垂仁天皇のときになると、倭姫は神とともに伊勢に向かって旅立ってゆき、天照大神が伊勢から再び大和に戻ることはなかった。
託宣を聞き、それを政治に反映させていくような古来の姫彦制を続けるには、何らかの不都合が生じてきたのかもしれない。神が憑依すれば、神懸かりした人が何を言いだすのかは予測もつかないことであったろうし、そうした託宣の持つ重みや意味も、変わりつつあったことだろう。神意や託宣が、政治の動向を大きく左右するような時代ではなくなっていったとも考えられるし、あるいは皇女がすぐれた霊能力を持っていたために遠ざけられたとも、その霊能の力を逆に政治に利用されるかたちになったのだとも考えられる。
何はともあれ倭姫は神の御杖代に捧げられ、神鏡を託されたまま、神とともに大和から伊勢へと去り、古代的な姫彦制のかたちはここに崩壊していくのである。
與喜天満神社の現在の主祭神は、その名が示すように菅原道真である。由緒によれば、その前は地主神の瀧倉権現が祀られていたが、菅原道真に座を譲り、長谷の滝蔵山に退いて鎮座したという。時代によって信仰は変わり、神の上に神は重ねられていく。さらに古層をめくればめくるほど古い神が現れてくるのであろう。磐座信仰は、縄文時代にまでさかのぼっていくそうである。
現在の祭神名をみると、菅原道真のほかに、天照大神、下照姫命(大国主の娘)の名も記されていた。もともとは土地神、国津神が祀られていたと思われるが、年月を経て主祭神は変遷し交替し、そのつど鎮座の伝承も塗り変えられ、古い神にまつわる記憶はこの地から消えつつある。
すぐ後方の鍋倉山頂には古の磐座があり、鍋倉神社もあったそうで、祭神は大倉姫命(別名は下照姫、国津神である)という。鍋倉神社は、現在は山麓にある素戔雄(すさのお)神社に合祀されているそうである。山中の鍋倉神社は廃墟となり、名残の古い石灯籠二基だけが、ぽつんと今もこの境内左手に立ち、その存在や歴史を無言のうちに物語っているのだった。
山中の磐座まで上ってみたい気もするが、先ほどの蛇を思い出すと、草に埋もれた山道をたどるのは、ちょっと無理のようであった。社殿の周辺を何度も見回すが、山に入る参道はすでに消えていて、道らしいものがまったくないのであった。
社殿の左側にも苔むした磐座が三体鎮座していて、それぞれに名があった。鵝形(がぎょう)石、沓形(くつがた)石、掌(たなごころ)石といい、それぞれ天照大神、天児屋根命、太玉命を表わし、この高天原系の神々の磐座三体は、天照大神の岩戸隠れを表現しているということであった。こうした天照大神にまつわる伝承が生まれた背景には、豊鋤入姫による天照祭祀が関連しているかもしれないと思う。
たたずんでいると、突如長谷寺の方から、ほら貝の音が鳴り響いてきた。力強く鐘も撞かれている。朝六時と正午に、鐘楼の高欄から與喜山の方に向かって、ほら貝が吹き鳴らされるとは聞いていたが、時間を見ると今まさに正午、風向きなのか、ほら貝の音はどうもこちらのほうにばかり流れてくるようであった。人が力いっぱい吹くということは、こういうことなのだと、人の叫び声のような音色にしばらく耳を傾けていた。ひとしきり山の空気を震わせていたほら貝がふっと止むと、再び與喜山は静寂に包まれていった。
阿騎野
近鉄で榛原に出て、バスで大宇陀町に向かい、阿紀神社を訪ねることにした。有名な万葉歌にちなんで近年整備された阿騎野・人麻呂公園の奥に神社があるという。阿騎野は古の御狩場で、天皇や貴族が訪れて薬猟(くすりがり)を行った地である。往時はどこまでも野が広がっていたのであろう。けれども今は人麻呂公園の隣には高校や体育館が建ち、近くを国道が走り、縮小された阿騎野の風景になっている。
公園内を進んでいくと中之庄遺跡があり、弥生、飛鳥時代の複数の建物の掘立柱の跡が示され、復元住居(竪穴式住居もあった)も展示されていた。
柿本人麻呂の石像がその近くにあった。人麻呂は騎乗して、遠く東のほうを見つめている。これは中山正實画伯の壁画「阿騎野の朝」をもとに製作されたという。草壁皇子の遺児、軽皇子の狩に随行してここを訪れたとき、この秀歌が詠まれたのである。
ひむがしの野にかぎろひの立つ見えて かえりみすれば月かたぶきぬ(柿本人麻呂)
(これは賀茂真淵の読み方で、それ以前は、あずま野のけぶりのたてるところみて かえりみすれば月かたぶきぬ と読まれていたそうである。同じ歌でなんと印象が違うことだろう)
皇子の一行は夕刻に阿騎野に着いて泊り、払暁に出猟しようとしていたようだ。かぎろひとは、いわゆる陽炎のことではなく、夜明け前にさす陽光のことという。薄い茜色に染まる空の色は、はねず色と呼ばれ、生命が誕生する瞬間の色として、神道の方では尊ばれるそうだ。その陽光を浴びることで身が清められ、生命もあらたまるとされる。
(余談だが、下鴨神社の神饌の薄いえんじ色のお餅は、小豆のゆで汁で搗き、これは上述の夜明けの「はねず」色を表わし、作り方は宮司口伝であったという。葵祭の申(さる)の日にお供えするしきたりなので申餅と呼ばれる)
同じときに詠まれたらしい人麻呂の長歌にも、このときの旅の情景が歌われている。
・・・・玉かぎる 夕さり来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき 小竹(しの)を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて (柿本人麻呂)
阿騎野には宿舎、役所のような施設があったという。広大な狩り場であったに違いない。古代の狩は兵の軍事訓練を兼ねることもあったそうで、そして薬猟とは鹿の若い角(鹿茸)をとる猟のことで、宮廷の女性たちも加わって薬草を摘んだというのは、もっと後の時代になってからという。
このときの軽皇子一行の狩とは、どのようなものであったろうか。皇子はこのときまだ十歳の少年であった。七歳のときに父の草壁皇子を失っている。この狩は旧暦十一月十七日と推定されているので、ほとんど冬、むろん鹿茸をとるような時期ではない。単なる遊猟であれば、もっと良い季節を選んだはずで、わざわざ冬至の頃に合わせ計画されたというのなら、やはり何らかの呪的儀礼にもとづく阿騎野行だったのであろう。
阿騎野は天皇家とはかかわりのある古い土地であった。神武天皇東征の折に、この地に本拠を置いて神を祀ったと伝承されているし、垂仁天皇の御代には、倭姫が三輪から神鏡とともに旅立ち、天照大神を奉じてここで四年祀ったとされる。
そして壬申の乱のとき、大海人皇子ら一行が吉野を出た日、追っ手がかかることを危惧しつつ先を急ぎ、緊迫した思いで立ち寄った最初の地が、ここ阿騎野であった。到着した皇子の一行には食事が提供され、村を通過するとき、地元の猟師二十余人がやって来て皇子に従ったという。道案内に立って警護してくれたのだろう。
・・・・事急(にはか)にして、駕(おほみま)を待たずして行(いでま)す。・・・・即日(そのひ)に、菟田(うだ)の吾城(あき)に到る。・・・・屯田司(みたのつかさ)舎人(とねり)食(おしもの)を供(たてまつ)る。甘羅(かむら)村を過ぎ、猟者(かりびと)二十余人(はたたりあまり)有り。(日本書紀)
壬申の乱が終息し、都が近江から大和に戻って情勢が落ち着くと、草壁皇子はたびたび阿騎野を訪れて、狩を楽しんだらしい。今回の旅では、軽皇子の一行は生前の父皇子の様子を偲びつつ、阿騎野の風景を眺めたことだろう。軽皇子は冬の厳しい寒さの中で野営したと考えるより、復元されていたような宿舎か、または阿紀神社に泊ったとするほうがふさわしいように思われる。
どちらにしても年若い皇子の旅が目指したものは、御祖ゆかりの古社に詣で、神霊に触れることによって加護を願い、亡き祖父や父の歩いた地を踏みしめることによって、新たな力を授かろうとしたのであろう。そして夜明けの「はねず色」の光を身に浴びることによって生命力を更新、猟に出て野山を駈けて地霊とも交流し、その恵みでもある何らかの野の獣を手にしたのではないだろうか。
立ち木が風に揺れる「かぎろひの丘」に上ってみた。人麻呂の歌はこの丘で詠まれたとする説が有力という。万葉の世界をしのびつつベンチに坐って歌碑の碑文を読み、眼下の景色を眺めてしばらく休憩した。そして反対側の斜面を降りてゆくと、小川の向こうに阿紀神社があった。
阿紀神社
由緒には、神武天皇が倭に入る前、ここに大旗を立て(大本営を置いて)天照大神を祀ったという伝承、垂仁天皇皇女倭姫による四年間の天照奉戴のことなどが書かれてあり、人麻呂の歌碑もあった。
安騎の野に宿る旅人うち靡き 眠(い)も寝(ぬ)らめやもいにしへ思ふに(人麻呂)
神社の祭神は天照大神。社殿は伊勢神宮正殿を模した形で造られているので、内部は何も見えない。川で手を清めて詣でるようになっており、それも神宮風であった。摂社には複数の国津神が祀られ、境内には能舞台があり、蛍の季節には今も演じられるという。鳥居の前には宇陀川の支流である本郷川が流れゆき、森の中に建つ静かなお社であった。
「古代の朱」(松田寿男著)を読むと、宇陀は古代には水銀朱を産する重要な地であったそうで、水銀は不老長寿の仙薬として珍重されたという。ごく微量を摂取すれば、若返りの効果があったのだという。水銀を含む赤土、朱砂を「はそう」と呼ばれる土器に密封して熱を加え、気化したものを竹の管で水中に導いて、水銀を取り出したそうである。また朱砂は鏡を磨いたり、道具や材木に塗ったりするのにも使われ、防腐効果が高いため古墳に撒くなど用途が広かったそうである。
水銀鉱脈は、近畿でいえば、吉野や高野山が有名で、桜井、宇陀、室生、伊勢、へと続いていくが、宇陀や伊勢は露頭が顕著でその産出も多かったという。ほかに室生、近江の坂田郡、米原なども朱砂のとれる地であった。鉱脈を探るのに長けた丹生一族が、全国に移動しながら採掘を続けていき、その痕跡が丹生の地名や丹生神社となって今も各地に残っているそうだ・・・・。
古代の王権は貴重な水銀を獲得するため、水銀産地には強い関心を持っていたのかもしれない。次に豊鋤入姫から倭姫へと祭祀が移行するくだりをみてみよう。
・・・・倭の弥和(みわ)の御室(みむろ)嶺上(みねかみ)宮に遷りたまひ、二年斎き奉る。この時、豊鋤入姫命「吾日足(た)りぬ」と白(の)りたまひき。その時、姪(いも)倭姫命に事依(よ)さし奉り、御杖代(みつえしろ)と定めて、此より倭姫命、天照大神を戴き奉りて行幸(みゆき)す。六十年癸未(みづのとひつじ)、大和の国の宇多秋宮(うたのあきのみや)に遷りたまひ、四箇年の間を積(へ)て斎き奉りたまふ。時に倭の国造(くにのみやつこ)、釆女香刀比売(うねめかとひめ)と地口の御田を進(たてまつ)る。(倭姫命世記)
(豊鋤入姫は)大和の三輪の嶺上宮に遷って、二年の間、神を斎き祀った。このとき豊鋤入姫は「私はもう充分に大神奉戴の日を重ねた」と言われ、姪の倭姫に祭祀を託し、今度は倭姫が神の御杖代となって神を奉戴し、大和から旅立っていった。そして倭姫は宇陀の秋宮に遷り、四年の間天照大神を斎き祀った。ときに国造が、釆女として香刀比売を、地口の御田を進上した。
倭姫が旅していった地は、その視点からみれば、水銀鉱脈を有する地域とよく重なっている(宇陀、室生、坂田、伊勢など)。まっすぐに伊勢に行かず、伊賀から甲賀、近江、美濃、尾張を経てから伊勢へと向かうのも、それぞれの地に向かわねばならない何らかの理由があったから、と考えるのが自然であろう。このときの大和王権は支配圏の拡大を図り、水銀の採掘権も手に入れるために、鉱脈を持つ地に精鋭軍を送り、まつろわぬ(従わない)人々を武力で制圧、王権の及ぶ範囲を広げていったのであろうか。
倭姫には、安倍、大伴、物部、中臣、和珥(わに)氏など五人の有力将軍が随伴していたとされる(倭姫命世記)。軍事面は彼ら武人が担当し、天照祭祀は倭姫が担ったのであろうか。
天照大神を戴く大和軍が侵攻してきたとき、その集落の人々は、不安と恐怖の中で、大和の支配に従うか、それとも戦うかの選択を迫られたことだろう。人々が敗北するとき、その地域で祀られていた土地固有の神々もまた敗れ去るのである。土地神、地主神は新来の天照の前に屈し、次々にその座を明け渡していったのではないだろうか。
倭姫の旅が進むにつれ、天照大神を祀った神社の数は増えていく。倭姫巡行地、いわゆる元伊勢の名が残る地は、二十一箇所に及ぶという。(元伊勢候補地も含めると、その数はもっと多くなる)
倭姫命世記を読み進んでみると、それぞれの地からの釆女の貢上、地口や御田、物品の進上、列挙されていく国名も増えていく。国の名も(そこに籠もる魂とともに)差し出されていく。これらはすべて、その地域の首長による大和王権への服属の証(服属儀礼)としてのものであろう。
このとき新たな境界が定められていったと思われる。さらに同書を読み進むと、倭姫が嶋(志摩)の国を巡行した折に「神堺を定めたまひき」というくだりがあり、それは土地の領有、王権の支配拡張を意味する表現にほかならない。
何はともあれ倭姫の旅は、鎮座地を求めての神の旅、あるいは神の漂泊や遍歴、という言葉ではおさまりきらない、別の政治的な意味も含んでいると思われる。
夕暮れが近づいていた。本郷川を隔てて盛り上がった丘があり、頂上にはこの神社の旧社地があるという。小さな丘は高天原と名づけられていて、今は阿紀神社の式年遷宮の際に、神霊を一時遷座する地ということだった。
上ってみることにする。近年整備を終えたらしく、伸びた草は刈られ、木の階段もつけられていたが、それでもなにやら木立の辺りには薄暗さが漂い、時間も時間なので、緊張感を持ちながら上っていった。ものの数分も行くと、杉や檜の直立する中に平らに開けた場所が現れ、石積みだけがみられた。そこが旧社地であった。石で囲まれた空間には落ち葉が散っている。わずかに残る夕照の中で、木漏れ日が地面に模様を作り揺れていた。寂寥感と、目に見えないものへの畏怖が混ざり合い、かつてここを領した神々の残像を思いつつたたずんでいた。
篠畑神社
バスで榛原駅に戻り、別系統のバスで篠畑神社へと向かう。神社は道路沿いにあるようだが、バスを降りてもまだしばらく歩かねばならなかった。
進むうちに左手山側に葛神社が現れた。何気なく立ち寄って由緒を読むと、お社の祭神には天照大神やそれを導守した倭姫、豊鋤入姫らの名があり、ここは今から向かう篠畑神社に天照の神霊を鎮座する前に、一時的に安置した場所、というようなことが書かれてあった。仮に安置されたというのだから、大神に所縁のある社であるが、ごく短期間ならここを元伊勢といってよいのかどうかはわからない。葛神社について、倭姫命世記には特に何も記されていない。
石段を上ってみると、社殿の横に古い磐座が祀られていた。葛神社は川が近く水辺に位置しているせいか、大樹の樹影も濃く落ちている。社殿の周辺には日は差さず、どことなく重たい感じが漂っている。空気はかなり湿潤な感じがした。
・・・・天照大神を豊鋤入姫命より離ちまつりて、倭姫命に託(つ)けたまふ。ここに倭姫命、大神を鎮め坐させむ処を求めて、菟田の篠幡(ささはた)に詣(いた)る。(日本書紀)
「倭姫命世記」ではもう少し詳細に語られている。
「我が思刺(こころざ)して往く処、吉(よ)からむならば、未だ夫(せ)に嫁(あ)はざる童女相(おとめあ)へ」と祈祷(ねぎごと)して幸行(みゆき)したまふ。時に佐々波多(ささはた)が門(と)に童女参り相へり。すなわち問ひたまはく、「汝(いまし)は誰そ」とのたまふ。答へて「吾(あ)は天見通命の孫(うまご)に、八佐加支刀部(やさかきとめ)が児(こ)宇太の大祢奈(おおねな)」と白(まお)しき。「御供に従ひ仕え奉らむや」とのたまふ。答へて曰さく、「仕え奉らむ」とまをしき。
件の童女を大物忌(おほものいみ)と定めたまひて、天磐戸(あめのいわと)の鍵領(あず)かり賜はりて、墨(きたな)き心を無くして、丹(きよき)心を以て清潔(きよ)く斎き慎み、左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を左にし、右を右にし、左に帰り右に廻る事も、万事違(たが)ふ事なくして太神に仕え奉る。元(はじめ)を元にし、本(もと)を本にする故なり。また弟大荒命、同じく仕え奉る。宇多秋宮より幸行(みゆき)して、佐々波多宮に坐(ま)します。(倭姫命世記)
倭姫は、「これから自分が思い目ざしていく地が、もし神の心に適っているなら、まだ夫に嫁がない童女よ、私に出会いなさい」と念じていくと、佐々波多の入り口で童女が参上した。名を問うと、「宇太の大祢奈」と返事した。「お供に従って仕えるか」と尋ねられると「お仕えします」と答えた。その童女を大神の身辺に奉仕する大物忌と定められて、天磐戸の鍵を預けられたが、童女は墨心なく丹の心をもって清浄に潔斎して大神に仕えた。その様子は左の物を右に移さず、左は左を守り、という風に右から廻って左に帰ることも万事定められたやり方であった。元を本にし、本を本にするとは、このことなのである。また弟の大荒(おおあれ)命も姉と同じく仕えた。倭姫は宇陀の秋宮から行幸されて佐々波多宮にゆかれた。(口語訳は、「倭姫命世記注釈」 和田嘉寿男著を参照した)
古代で男が女に名を問うことは求婚であり、相手が名を答えるのは(名前には魂が籠もっているので)承諾を意味した。この場面で、倭姫は女性であるが、まるで妻どいする男のように相手に名を尋ね、童女もまたそれに応えている。仮に大神が男神であるとしてみよう。大神は童女を見て気に入られたので、このとき神は倭姫に憑依し、童女に向かって問いかけられた。それで童女は、大神の求めに対し、倭姫を通して承諾の返事をした、そのようなやりとりの場面なのかと思うのである。
この先をさらに読んでいくと各行き先の国々で、倭姫が国の首長に国名を尋ね、長が返答する場面がたびたび出てくる。
・・・・国造(くにのみやつこ)建日方(たけひかた)命参り相(あ)ひき。
「汝が国の名は何ぞ」と問ひ給ふ。「神風の伊勢の国」と白(まお)して舎人弟伊尓方(とねりいろどいにかた)命・・・・また地口の神田また並びに神戸をたてまつる。
次に川俣の県造(あがたみやつこ)が祖(おや)大比古命参り相ひき。「汝が国の名は何ぞ」と問ひ賜ふ。白(まお)さく「味酒(うまさけ)鈴鹿の国の奈具波志忍山(なぐはしおしやま)と白しき。神宮(かむみや)を造り奉りて幸行(みゆき)せしめ奉りたまふ。また神田並びに神戸をたてまつりき。(倭姫命世記)
多くの国々の長は、国の名を問われると、枕詞のついた国名を教える。それぞれの国の様子が、ふさわしい言葉で形容された国名である。「草陰の阿野の国」「宍(しし)行く阿佐賀の国」「白浜の真名胡の国」「白鳥の真野の国」「百船度会(ももふねわたらい)の国、玉ひろふ伊蘓の国」という風に。
国名を問われることは、帰順の諾否を尋ねられることであった。大神の問いかけに対し、国の長は従順に返答し、自分の国を差し出していく。おそらくこのときの倭姫にも大神が憑依しており、問いを発したのは大神であろう。それに対し、返事をするのも、土地神が憑依した国の長であったと思われる。実際の問答は、倭姫と国造、あるいは県造の間でされているが、実は真の対話は、大神と土地の国神との間で行われている、と思われるのだが、どうだろうか。
篠畑神社に着いた。もう日暮れで、小高い所にある社は薄い闇に包まれている。石段を上ると、ひっそりとしたお社が現れた。何の物音もせず、人影もない。先ほどの葛神社とは数百メートルほどの距離で、社殿には似かよったところもあるが、篠畑神社のほうは小高い位置にあって、境内にはいかめしい大木らしいものもみられず、そのせいか風景は適度に開けていて、風が通り抜けていく社殿、右手の摂社の小祠のたたずまいなどにも優しい雰囲気が感じられた。夕暮れの社に行くと、ちょっと怖いときがあるが、ここはそのような怯えをまったく感じることなしに、境内に入り社殿に近づくことができた・・・・。
このようにして倭姫の旅は、阿紀から篠畑へと進み、ここからは一人の童女が、倭姫の旅に従い、仕えることになった。おそらくこの童女は、その刀部(とべ、とめ)という親の名から推測すると、篠畑の地の国神を祀る家系の、霊力ある巫女少女だったのだろう。中央では崩壊しつつあった姫彦制も、地方では依然として権威があり、重んじられていたのではないだろうか。弟も姉と一緒に仕えた、ということであるから、上述したように古代風の考え方でみると、彼らが成長したときには、いわゆる姫彦制のかたちをとり、篠畑姫、篠畑彦となってその地を統治していたかもしれず、そのような特別な身分の姉弟であったゆえに、選ばれて連れてゆかれたとみなすこともできる。
二人は一対であり、いわば大神に召し上げられていく国つ神を象徴するような存在、として登場しているのではないだろうか。さらに先を読み進んでいくと、一行が滝原の地に到ったとき、この童女は宮地を整え、大神に奉仕したと記述されている。滝原宮は重要な宮として位置づけられており、童女は有能であったということらしい。この童女は大物忌に定められたというのであるから、直接天照大神の身辺に仕え、後に神宮の重い職掌につくことになる。
このあと倭姫の一行は、篠畑から伊賀の国の名張へと向かい、「市守(いちもり)宮で二年、斎き奉る」ことになり、さらに旅の日々は続き、次の穴穂宮へと移っていくことになる。