一四国の一宮一 大麻比古神社(阿波一宮)
一四国の一宮一 大麻比古神社(阿波一宮)
阿波一宮である大麻比古(おおあさひこ)神社は、四国八十八箇所の第一番札所、霊山寺(りょうぜんじ)の北側にある。まず霊山寺に寄ったのだが、参拝の人が多いのに驚いた。観光バスが着くたびに、白いおいずる姿のたくさんの人が降りてきて、お堂に吸い込まれてゆく。油煙で黒く煤けた堂内では、法話や力強い読経の声が絶えまなく響き、数珠の触れ合う音に混じって、ろうそくの炎が揺らめきお香の煙がもうもうと立ち込めている。人々の祈願や想念が渦巻くように空間に満ちている感じで、その場にいるだけで圧倒された。さすがに第一番札所、賑わいも予想以上のものであった。
霊山寺を過ぎると、そこはもう神社の静かな参道であった。人影もなくついさっきまでの喧騒がふっとかき消えた世界、辺りはひっそりとしている。大麻比古神社はかつて霊山寺の奧の院として(神仏習合)栄えた時代もあったという。お遍路の善男善女は霊山寺にお参りした後、足をのばして大麻比古神社にも詣でたのであろう。今は霊山寺と大麻比古神社は、信仰上結びついたかたちではないので、巡拝のバスは神社には立ち寄らず、そのまま第二番の札所へと向かうのである。
大麻比古神社の参道は長く、境内には樹齢千年余という大楠がそびえ立ち、広々としていて社殿も立派であった。祭神は二柱あって、大麻比古大神と猿田彦大神。
「古語拾遺」によると、神武天皇の御代、勅命を受けた天富命(あめのとみのみこと)が忌部(いんべ)一族を率いて大和から阿波国に良地を求めて移り住み、土地を開拓、かじ、麻の種を植えて栽培したという。(かじの葉は、柏の葉と同様、供物を盛る器として神事に用いられたという)移り住んで来た一族は、大和では橿原の殿舎や神殿を造営する仕事につき、また種々の神宝や鏡、玉、矛、楯、木綿(ゆふ)、麻、神具などを作り神祭りに携わる氏族であったという。
大和から彼らはどのようにしてここまで来たのであろう。いきなりの船出ではなく、まず先遣隊が現地に赴き下見や準備をしたことであろう。彼らが候補地と考えた阿波の平野部にはすでに先住民がいたかもしれない。
一行は大和の橿原から浪速の渡へ出て、大阪湾を南下し、阿波を目ざしたのであろうか。それとも大和から峠越えで吉野川へ出て、紀の川を下って海に出たのだろうか。当時の船旅は厳しいものがあっただろうから、途中淡路島か沼島に寄ったかもしれない。阿波に着くと吉野川をさかのぼり上陸したのだろうか。
・・・・天富命(太玉命が孫なり)をして・・・・二はしらの神が孫を率て、斎斧、斎鋤(いみおの、いみすき)を以て、始めて山の材を採りて正殿をつくり立てしむ。又、天富命をして、斎部の諸氏を率て、種々の神宝、鏡、玉、矛、楯、木綿(ゆふ)、麻等を作らしむ。・・・・天富命をして日鷲命が孫を率て、肥饒(よ)き地(ところ)を求(ま)阿波の国に遣わして穀(かじ)・麻の種を殖ゑしむ。其の裔(すえ)今彼の国に在り。「古語拾遺」より
天太玉命(あめのふとだまのみこと)の子孫の天富命が阿波の地の開拓英雄とされているようである。忌部氏の一族はこの地を拓き、祖先神として天太玉命(大麻比古神)を祀ったのがこの社の起源であるという。
阿波が開拓されると、天富命はさらに良地を求め、一族の人々を分けて阿波から旅立ってゆく。一行は海路東方に向かい、房総半島に上陸、阿波同様に土地を開拓して支配者となっていった。そして故郷の阿波にちなんでその地を安房と名づけ、祖先神を祀る社を建てた(安房一宮の項に、このことを書いている)。一族が遠くに移り住むとき、彼らが信奉する神もまたともに持ち運ばれていったのである。
大麻比古神社に戻る。祭神名は天太玉命と重なっているが、大麻比古神として斎かれたのは、やはりこの地に適した麻が多く植えられ往時の産業の中心となっていたからであろう。麻の守護神、麻の神としての名が前に出たものと思われる。
もう一柱の祭神猿田彦神は、天孫の道案内をした神であるが、神社の背後にある大麻山に鎮座伝承があり(時代は不詳とのこと)後にこの神社に合祀されたということである。鎮座のいきさつはよくわからないが、この地が古には交通の要衝とみなされ、路の守護神としての役割を担っていたことの反映かと考えられる。
境内を歩いてみた。奥に進むと公園風になっていて、メガネ橋、ドイツ橋という二つの石橋がある。小さな橋だがきれいに組まれている。これは近くの坂東捕虜収容所にいたドイツ兵が造った橋で、今も友好のしるしとして大切に保存されている。裏のほうに行くと小高い丘があり上っていくと、稲荷社がありたくさんの赤い幟が立ち、吹きぬける風にはためいていた。
坂東俘虜収容所跡を訪ねてみた。第一次世界大戦時、青島(チンタオ)で捕虜となったドイツ兵士四千七百余名のうち、千名がここに収容された。ハーグ条約に基づいた、所長の人道的かつ寛大なはからいで、捕虜たちは所内である程度の自由を得、農園で自分たちの食材となる野菜を栽培、鶏を飼い、運動施設で球技を楽しみ、海や吉野川で泳ぎ、劇に興じ音楽も演奏することができたという。兵士の多くは民間人で、時計職人、楽器職人、パン職人、靴職人、印刷工、木工職人、仕立屋、写真家など多岐にわたっていたので、それぞれ職種を生かして製品を作り、付近の住民に販売し、技術や製法を教え、また住民からは養蚕を習うなどして交流した。ベートーベンの「交響曲第九番」が日本ではじめて演奏されたのもここであるという。
やがて捕虜が本国に送還され、収容所は三年で閉じられたが、それらの逸話をもとにした映画「バルトの楽園」がつくられ話題になった。バルトとはドイツ語でひげを意味するという。また捕虜の中には、帰還せずにそのまま日本にとどまった人たちもいたという。
収容所跡は公園になっていた。第一次大戦時というから、もうだいたい百年くらい前のことになるのだろうか。雑木林の中には、当時の兵舎跡、給水塔などが古びたかたちのままわずかに残されていた。
収容中に亡くなった兵士たちの慰霊碑があった。近寄ってみると、碑には花が手向けられ、お掃除もしてあった。近くの住民のかたが気にかけておられるのだろうか。石に刻まれた兵士たちの名をしばらく見つめていた。ここで眠っている兵士たちを悼んで今も清掃を続け、お花を絶やさない坂東の人たちの優しさに触れた思いがした。