一古の森をゆく一
宇佐神宮(豊前一宮) 菱形池 耶馬渓
一古の森をゆく一
宇佐神宮(豊前一宮) 菱形池 耶馬渓
菱形池・大尾神社
宇佐神宮は、全国で四万を越えるという八幡宮の総本宮として知られ、神域は広大で左手には静かな池があり、深く美しい森をかたづくっている。
表参道は広々としていて大鳥居も立派、格式の高さを感じさせる。そのまま参道を直進してもよかったのだが、ふと見かけた左手に広がる緑の池に心惹かれ、先に水辺を歩くことにした。菱形池というそうだ。池が菱形というわけではなくて、山に囲まれた呪的なかたちの霊地を意味するようである。菱形は古代では神聖なものとして捉えられていたらしく、意匠として連続文様、神紋などにもよく用いられている。
菱形池の小道はひと気もなく、薄暗くひっそりとして異界への入口めいた雰囲気、こわいような感じも漂っている。右手奥に鳥居が立ち、三つの井戸(泉、御霊水)があった。その手前には石橋があって、池の中の小島へと渡れるようになっている。手すりはなく巾も狭く少し危なっかしい橋である。島には水分神社があり高おかみの神(水神)など五座、水に所縁のある神々が祀られている。
神社由緒によると、三つの井戸は霊泉で八幡神顕現の場であるという。欽明天皇の御代、この泉のほとりに八つの頭を持つ奇異な姿の「鍛冶の翁」があらわれた。この翁を見た者は病気になったり死んだりしたので、大神比義という人が見にゆくと、翁ではなく金色の鷹がいた。鷹は鳩に変じてみせたので、比義は神の顕現と感じ入って、三年潔斎し遂に神の名を八幡神と知り、当地にお祀りした。宇佐神宮の起源という。この神は託宣神としても知られ、後に中央政権とも結びつき、現在地の社殿に比売神らとともに祀られてゆく、という流れになるそうである。
八つの頭というと八岐大蛇を連想するが、なにか人間を超越した神秘の存在ということであろう。異形の神の姿を見ただけで人が命を落とすというのもおそろしいが、異世界から来られたばかりの神は顕現の当初は荒々しいお姿、とされるそうである。祭祀を受けることによって次第に和まれるのであろう。「鍛冶の翁」という伝承から、金属採取、鍛冶にかかわりのある渡来系氏族の奉じた神という説もあるそうで、八幡神はもともと八流の幡に依りつく神、風に靡く旗に降臨する神霊という性格を持つそうである。この神が応神天皇と同一視され、武勇の神として崇敬されてゆくのは後の時代ということになる。
しばらく島にたたずんで水面を見つめていた。季節には蓮が咲いて美しいのだそうである。今は緑が身に染みるようで、水辺特有の湿潤な空気が漂い、木々が深く重なり合って影をつくっている。鳥の囀りの中、魚がはねて水面が揺らめき波紋が広がってゆくのを放心して見ていた。
別の石橋を渡って頓宮のほうへと歩き、さらに東の方向へと進んでゆくと、蓮華の花が咲き乱れる田んぼがあって小川が流れゆき、のどかな日本の原風景のような情景である。前方の大尾(おお)山の正面に大きな石灯籠と狛犬が見え、山上へと急な石段が続いている。和気清麻呂の神託で有名な大尾(おお)神社の参道、先にこちらをお参りすることにする。
石段のところどころに菫が咲いていた。可憐である。石段が終わると和気公之碑があり、そこを左手に回り込むと大尾神社に出る。大尾山頂近くの林を切り拓いたらしい草地に小ぶりの社殿が建っていた。比較的新しく再建されたもののようで古色はないが、和気清麻呂が神託を受けたという場がここなのであった。
称徳女帝の寵を得て皇位に上るという野望を抱いた僧道鏡の事件はよく知られているが、それは宇佐の神が、それまでにも神託というかたちを通じて、大仏建立はじめ策謀渦巻く都の政治に深く介入していたことを意味するであろう。和気清麻呂は姉広虫に代り勅命を受けて宇佐に詣でたが、彼は女帝や道鏡の望んだような神託は決して持ち帰らない覚悟をもってやって来たのであろう。
しかしながら宇佐の神は、このとき二度にわたって託宣を拒んだとされる。神託を聞くのは禰宜であるが、神と禰宜と清麻呂の間でどのようなやりとりがあったのか。興味深いことである。何はともあれ道鏡の望みは打ち砕かれ、臣下の者が皇位に就くということはなかった。
草地にたたずんで社殿を眺める。木々に包まれた静かな場所である。神がここに祀られた期間は短く、鎮座の期間は十五年間であったという。中央政権とかかわりを持った神は、諸事情によりたびたび遷座されたようである。和気清麻呂がここに参向したときはどのような佇まいであったろうか、往時をしのびつつしばらく草地を歩いた。
上宮本殿・下宮・弥勒寺跡・神用仏・足一騰宮跡
もとの道へと戻り表参道を進む。小椋山(亀山)の山頂に社殿が営まれている。県文化財の宇佐鳥居(重厚な感じがする)を見上げて、桃山風の唐破風の門をくぐりぬけると、社殿が三棟、一之御殿から三之御殿まで壮麗に並び立ち、いずれも八幡造りという独特のかたち、柱は丹塗りで白壁に映えてきれいである。
祭神は左に八幡大神(応神天皇)、中央に比売神、右に神功皇后(応神天皇の母)。現在は三殿の祭祀であるが、最初からこのようなかたちの祭祀であったとは考えられないそうである。川村二郎氏の本の解説によると、当初は土地の信仰として在った比売神(地主神)の圏内に、大神氏の奉ずる神が進入して、それが応神天皇と同一視されてゆき、さらにその母である神功皇后も合わせて祀られるようになった(母子信仰)という経緯があるらしい。
真ん中で祭祀されている比売神は、神社側の見解では宗像三女神とされているが、謎の比売神として人々の関心を引き、豊玉姫説、玉依姫説、応神天皇の后説、卑弥呼説、など諸説あってその実像を見分けることは難しい。
参拝はここでは二拝四拍手一礼。ご神木は大楠。さすがに総本宮らしく人がとぎれることはなく、参拝の人波は多いのであった。
脇参道を降りて下宮へと向かう。賑わいはなくひっそりした空間である。上宮と同様の社殿が並んでいる。境内の一隅には兆竹(さましだけ)が植えられていた。説明文を読むと、昔神事の折の卜占に使われたそうである。若宮社で対馬の卜部(うらべ)が亀卜(きぼく)を行うのだが、その際にこの竹を用いて熱した亀甲を冷ましたということであった。
調べてみると、亀卜とは亀の甲羅にしるしを入れておき(卜の字に、一画足したかたち)、焼いた波波迦(ははか、うわみずざくら)の小枝でその線をなぞり、ひびや亀裂の入り具合によって神意をうかがい吉凶を判断するものであるが、占った後、焼けた亀の甲を冷ますのに、竹を切って簀(すのこ)状に並べたものの上に置いて用いたようである。古代大和では卜占には鹿の肩甲骨がよく使われたそうであるが、当地では亀の甲羅であったらしい。
そのまま道を下ってゆくと、かつて弥勒寺があったという広い空間に出た。神仏習合が進んでゆき、八世紀の前半になると、宇佐八幡宮に弥勒寺が造られたのである。伊勢神宮に神宮寺が建てられたのが八世紀後半であるから、それよりも早い時期である。さらに宇佐八幡宮には僧十人が置かれて三重塔も建てられたそうで、神前読経なども行われていたという。
明治の神仏分離令(廃仏毀釈)によって弥勒寺は取り壊され、御本尊も移転し、現在建物は跡形もなく、礎石のみが残っている。青草に半ば埋もれた礎石の列を見つめる。古にはここには壮大な伽藍が並んでいたことだろう。今は風が吹きぬける無の空間、寂寥感漂う情景であった。
ここは記紀に出てくる「足一騰宮(あしひとつあがりのみや)跡」の伝承地のひとつとも聞いていたので、それらしい表示を探して呉橋、寄藻川のほとりを歩いてみるが、何も見つからない。たぶんこの辺であろうと思われる高台の地に立って、流れゆく川を眺めた。古事記の神武天皇東征の箇所から引用してみよう。
・・・・すなはち日向(ひむか)より発(た)たして、筑紫に幸行(い)でましき。かれ豊国の宇沙(うさ)に到りましし時に、その土人(くにびと)名は宇沙都比古(うさつひこ)、宇沙都比売二人、足一騰(あしひとつあがり)の宮を作りて、大御饗(おほみあへ)献りき。(古事記)
神武天皇の軍を迎えて、土地の宇沙都比古、宇沙都比売の兄妹が仮宮を建てご馳走を差し上げてもてなしたという記述である。足一騰宮(一柱騰宮)とは、川岸の山側に片かけて宮を構え、一方は流れの中に大きな柱を一つかけて作った宮かという(本居宣長 古事記伝)。どのようなものかはわからないが、たとえば貴船の川床のように流れに突き出して設置した床でせせらぎを聞きながら宴を・・・・ということかもしれないし、一柱騰宮という字から単純に一本足の柱の構造の宮、とみることもできる。刻みのついた梯子を立てかけて上り降りする茸のようなかたちのあずまや風の壁のない建物かもしれない。古代中国では貴人を迎えるのにそのような家屋を建てたと聞いたことがある(青銅器の線刻に描かれている)。高くなっているので、客人やその饗応の様子が四方から皆に見えるらしい。
足一騰宮跡を探して寄藻川の辺りを歩いていると、小高く奥まった所に天満社や稲荷社、お地蔵様が祀ってあった。ひっそりとして行き交う人もない。お地蔵様は大小二体(母子をあらわしているのであろうか)、お揃いの赤い衣と帽子で、覆い屋はなく野外に立っておられる。お願いすれば、一生に一度だけ願いを叶えてくださるのだとか。
これは神用仏といい、仏様を外来の神ととらえ、お祀りした信仰のかたちということであった。ちなみに仏のことは、日本書紀欽明紀では「蕃神(あたしくにのかみ)」、敏達紀では「仏神(ぶつじん)」、元興寺縁起では「他国神」と表記されている。仏教は欽明天皇の時代に公伝したということだが、仏がそのように新来の新しい神として受け入れられていった経緯がうかがわれて興味深い。散策地図を見てみると、この二体のお地蔵様のことは「願かけ地蔵」としてあった。
道を降りてゆくと呉橋という屋根のついた木造橋があった。古に渡来人が架けた橋と伝承されている。閉じてあって実際に渡ってみることはできないので、隣にかけられた橋から眺めると優美なかたち、珍しい橋であった。
宇佐神宮を辞し、大分県立歴史博物館へと向かう。入口には国東半島の巨大な熊野摩崖仏のレプリカが展示してあった。随分大きいものである。ほかに国東半島の富貴寺の復元模型もあり、赤や緑に彩色された内部がきれいである。古墳の埋葬再現の場面は迫力があった。古墳の副葬品、発掘された古代の土器、銅鏡、刀剣など出土品の展示を見て回り、外へ出て風土記の丘を散策する。
三世紀から六世紀の古墳六基が博物館周辺に点在している。全体にゆるやかな丘陵地で、池があり木も植えられて史跡公園になっている。犬の散歩の人をたまに見かける程度で、人影は少ない。ここは高森古墳群といわれているそうである。宇佐地方を支配した宇佐国造の一族の墳墓とされ、発掘調査が済み人工的に整備されている古墳と、未調査で手つかずの古墳がみられた。発掘の後、芝生で整えられきちんと階段がつけられたような古墳と、草木がうっそうと生い茂るまま全体のかたちも定かでない古の墳墓が混じっている。全部を見て歩くことはできなかったが、整備されすぎると古墳ももとの雰囲気を失い、ただの見学用展示物としかみえない。発掘調査を行うということはこのようになることなのだと(これはここにかぎったことではなく、大和はじめ各地の古墳も同様であろうが)その差を改めて感じたことであった。公園内には縄文式住居も設置してあったが、かなり崩壊が進み、いたみ方は激しいようであった。
耶馬溪
せっかくなので足を延ばしバスで深耶馬溪を訪れた。軍艦岩という所で降りて川沿いに下ってゆく。岩にとまってしきりに尾を振っている黄鶺鴒(きせきれい)を見かけ、珍しいので喜んで観察する。流れは青く澄んでいてところどころ渦を巻き、見上げると対岸は垂直に切り立った崖、巨岩怪石のつづく渓谷である。夫婦岩、烏帽子岩、仙人岩などと名づけられた大岩が眼前に現れ、緑は深く自然は豊かであった。一目八景という地点からは周囲の奇岩の峰々が遠望できる。道路際の展望台に上ってみたが、少し低いので、別の山腹にある高い位置の見晴台を目ざし山道を上ってゆく。その途中には、蹄のついた鹿の足が何本も敷物の上に並べて干してあった。お料理に使われるのであろうか、それとも漢方薬のほうであろうか。
少し山に入って麗谷(うつくしだに)を歩いてみることにした。実にすがすがしい渓流の道で、緑が美しい。どこまでも奥へ歩きたくなるような緑一色の世界である。低い峠になっているところまで進んで来て、もうこの辺りまでにして引き返そうかとふと立ち止まると、山側の茂みに鳥の羽が一本、ものさしを立てたように刺してあるのが目に入った。羽は白と茶が混ざった色で三十センチほどの長さ、意味ありげに見え、なんだろうと心惹かれてじっと観察する。山で樵さんが木を伐り倒したときに、その小枝を折り取って差し、お酒を供えて手向けとする「鳥総立て(とぶさたて)」(とぶさたて、は万葉集にも歌われている)の一種、あるいは山仕事の人が安全を祈ってする「柴挿し」なのかなとも思った。
周辺を見回すが、新しく木は伐られていない。ただここへ来る山道はずっと草が刈り取られていてまだ間がないようであった。道の草を刈ったため峠の山神さまへの挨拶として、鳥の羽を刺し、手向けとしたのであろうか、とでも解釈することにした。山の民俗についてはよく知らないけれども、実際にこのような情景を目の当たりにすると、古来の風習に触れた思いがして、古が身近に感じられるのであった。
耶馬溪サイクリング
耶馬溪サイクリングターミナルに一泊、電動自転車を借り、まず山国町守実(もりざね)まで約十一キロをサイクリングすることにした。廃線になった鉄道跡を改装した道なので、起伏がほとんどなくて走りやすい。川沿いの道は心地よい風が吹きぬけて快適で、トンネルや橋、沿岸の田園風景を楽しめる。蓮華の咲き乱れる田んぼの情景が広がり、どこか懐かしい気持ちになった。途中杉木立の続く薄暗い道もあり、山林からはウグイスの声が聞こえてくる。シジュウカラ、野鳥の囀りも盛んであった。静かに流れ落ちる滝があり、神社があり、廃駅のホーム跡もそのまま保存されるなど、変化もあって面白い。終点の守実からは同じ道を引き返したが、山が近づいたり遠のいたり、里山の自然が身近に感じられ、道端で少し話をしたおばあさんも優しかった。
ただ二〇一二年の豪雨災害の影響はまだ残っていて、寸断された橋の修復の跡もまだ生々しく、陥没のためか、迂回路が設けられていたのにもかかわらず道がわかりにくく、一度迷ってしまった。行き交う自転車もごくわずか、寂しいといえば寂しい。
ターミナルに戻って電池を交換してもらい、今度は青の洞門まで十一キロのサイクリングを行う。カーブのついた鉄橋を渡り(豪雨禍で流出したが復旧している)、対岸の奇岩、景勝の地を順に眺めつつ川沿いに順調に走り、「青の洞門跡」へと向かう。禅海和尚が石工を雇い、三十年の年月をかけて掘削したという道である。菊池寛の小説「恩讐の彼方に」でも知られるが、今は観光用に保存されている部分は小さくて、昔の雰囲気を味わう程度である。自転車を降りて道路の下の地下通路に入り、手で堀ったというノミの跡が残る隧道の内部を見上げて、往時の人たちの労苦をしのんだ。
サイクリングはここで終了、はじめは走り通せるかどうか不安であったが、幸い天候にも恵まれ、電動の力も借り、午前午後合わせて計三十三キロの行程を無事に終えることができ、良い思い出となった。