一立山の神一 雄山神社(越中一宮) 峰本社(雄山山頂)
中宮祈願殿(芦峅寺) 前立社壇(岩峅寺)
一立山の神一 雄山神社(越中一宮) 峰本社(雄山山頂)
中宮祈願殿(芦峅寺) 前立社壇(岩峅寺)
越中一宮の雄山神社を訪ねた。雄山神社は雄山山頂に奧宮、山麓寄りの芦峅(あしくら)寺に中宮祈願殿、富山市に近い岩峅(いわくら)寺に前立社壇、と三社ある。峰本社には以前登っているので、今回は残る二社の予定であったが、室堂から一ノ越まで散策して雄山を仰ぐうち、再び登拝を思い立ち、山頂まで上ってしまった。弥陀ヶ原では一泊して、立山信仰の痕跡の残る旧参道(弥陀ヶ原~天狗平)も辿ってみた。
弥陀ヶ原 天狗平
標高一九三〇メートルの弥陀ヶ原には、朝から白い霧が立ち込めていた。時折立山連峰が顔を覗かせるが、稜線はすぐに霞んでいき、周りには山と霧が作り出す幽玄の世界が広がっている。雨具で防備して天狗平へと木道を歩き始めた。
ミヤマシシウド(深山猪独活)が白い花火のような小花をつけている。ワタスゲ(綿菅)はもう終わり、ワレモコウ(吾亦紅)がひっそりと咲く道には「餓鬼田」と呼ばれる池塘が点在している。これは湿原にできる小さな沼で、餓鬼田のいわれはこの世で贅沢をして地獄に堕ちた亡者が飢えと渇きに苦しみ、何とかして食べ物を得ようと湿原の水たまりに苗を植えるが、稲は育たず、空しい耕作を続けるということからきている。
それではこの湿原は、餓鬼がさまよう地獄なのだろうか。以前ここに来たときは、空は明るく晴れわたり、弥陀ヶ原はその名のように、光溢れる浄土と見えた。同じ場所なのに今日は霧雨と寒さのせいか印象が反転し、餓鬼が作る田に見立てられた池塘には、一見稲のように見えるミヤマホタルイ(深山蛍藺)が、とげでも刺さったかのように茂っている。その影が細長く水に映り込む上を、霧が薄く這うように流れゆき、まるで死後の世界を見ているような、うら寂しい情景が広がっているのだった。
木道はやがて左右に分かれ、右の道をとって天狗平のほうへ向かう。あまり人が歩かないらしく道は荒れ気味であるが、行く手には可憐な植物が現れる。サンカヨウ(山荷葉)が青い実をつけている。ブルーベリーによく似た可愛い実である。チングルマ(稚児車)の群落も多く、花の終わったチングルマの種子が、茶色い風車のような形になってなびき、露を含んで揺れていた。花の季節には白い小花が咲き乱れていたのだろう。先端がわずかに開きかけたオヤマリンドウ(雄山竜胆)の青紫もすがすがしい。リンドウは古くから薬草として用いられた。根が苦く、胃液の分泌をうながすので健胃剤とされたという。
木道のふちに玉虫がいたので、思わず立ち止まり緑色のつやつやした色に見入った。細長い虫で虹色に光っており、たった一匹でも妙に存在感のある虫である。この羽をいったいどのくらい集めて法隆寺の玉虫厨子に使ったのであろうかと考えつつ、そっと横を通り過ぎる。
一の谷の沢へと降りてゆく。ここではまだ小川だが、下流に行くに従って流れが集まり、やがて落差三五〇メートルの堂々たる「称名の滝」となって流れ落ちていく。小さな橋がかかり、渡って急登の山道を上っていった。ミヤマトリカブト(深山鳥兜)の濃い紫の花に引き寄せられる。根が猛毒とされるが、実に深くてきれいな色である。上から降りてきた人たちが「そこで雷鳥を見ましたよ」と教えてくれたので探すが、もういない。
この道は旧参詣道である。急斜面には鎖が掛けてあり、伝ってよじ登ると、また次の鎖が現れる。全部で鎖は十数本あるらしく、難所である。雨が断続し、濡れて足元が滑りやすくなった。獅子ケ鼻という岩山まで上ると、古びた祠や石仏を祀った洞窟が見られた。弘法窟というそうだ。山肌にぱっくりと口を開けた岩屋は、かつてここが信仰の場であったことを示している。修験の人たちはおそるべき体力とひたむきな祈りの力でもって、こんな険しい岩をよじ登っていったのだ。
霧が晴れていくと、目の前に雄大な山々の稜線が現れ、思わず息を呑んだ。大日岳、奧大日岳のまだ雪の残る谷、そこに広がる緑の彩りと赤茶けた土の色、どっしりとした重量感のある山容に心を奪われる。山に霧がかかり、横に流れていく。谷から湧いてきた霧と重なってゆっくりと動いていく。眺めていると水墨画の世界に入ったようであった。山と霧の作り出す雄大な風景、こういう山岳風景に出会うために、旅をしてきたような気持になった。心が魅了されるひとときであった。見つめているうちに、大日連峰は再び霧に包まれ、視界は白く閉ざされて、ハイマツ(這松)の茂みから白い斑点だらけのホシガラス(星鴉)が飛び立っていった。
雲の流れが速くなり、最初の雷鳴が山から地鳴りのようにとどろいてきて、雷雨が近づいているのを知った。道は再び長い木道へと変り、前方にバス道や天狗平の山荘らしい建物が見えてくる。広がって流れ落ちるソーメン滝(もっといい命名はないものだろうか)を眺めつつ、激しく降り始めた雨に打たれて道を急ぎ、ようやく山荘に逃げ込んで休憩、しばらく雨宿りをした。
天狗平と室堂の間には荒涼とした地獄谷があり、以前は水蒸気が地表から噴出している様子を、歩道から間近に見ることができた。硫黄の臭いがきつく立ちこめて、あまり気分のよい所ではなかったが、今年は有毒ガスのため立入り禁止となっている。立山には地獄がある、と説く立山曼荼羅の世界が、現実のものとなっているのである。
雨は止まず、弥陀ヶ原までバスで戻ることにした。さっきまで苦労して歩いた木道を遠く近く眺めながら、バスは降りていった。宿に帰って休んでいると、やがて雨が上り空も明るくなってきたので、再び外に出て、湿原のさっき歩かなかった左の木道を散策する。
思いがけず雨後の道には珍しい蝶が乱舞していた。ベニヒカゲ(紅日影)といい、これは茶色にオレンジ色の紋が特徴である。天然記念物と聞くが、季節なのかたくさん舞っていた。少し地味な色合いのジャノメチョウ(蛇目蝶)も見かけた。淡い紫のタテヤマアザミ(立山薊)、赤みがかったヨツバシオガマ(四葉塩釜)、黄色が鮮やかなウサギギク(兔菊)と花の種類は豊富である。富山湾と市内の町並みが遠望され、木道が谷に落ち込んでいる辺りまで歩いてから引き返した。
越中一宮 雄山神社 峰本社(雄山山頂)
翌朝、バスで室堂(標高二四五〇メートル)まで上がっていった。昨日と同様、曇りがちで時折霧雨が降って肌寒い。室堂には玉殿岩屋という修験道の聖地の洞窟がある。
七〇一年、越中国司佐伯有若の息子、有頼(十六歳)が父親の白鷹を借りて山に入るが鷹は逃げてしまう。探すうちに山麓で熊を射て、熊と鷹を追いここまで上って来たところ、呻き声がするので洞窟を見ると、胸に矢を受けた阿弥陀如来が出現、鷹は不動明王に姿を変え、仏様を傷つけた後悔から死のうとする有頼に向かって、出家して立山を開山すべし、と告げたと伝承される。
室堂の小屋がまだなかった時代には、この岩屋は修験の人たちの宿泊や修行の場であった。岩屋は崖下に位置していて近くには滝、湧水もある。岩屋の正面からは雄山主峰がのぞまれ、そこに立つと、単に絶景というより、何か身が引き締まるような感じのする場所であった。二箇所ある薄暗い岩屋の中には、今も石仏、地蔵菩薩などがひっそりと祀られている。
一ノ越まで散策する。緩やかな道で歩きやすいが、あいにくの天候で、周りはどこもぼんやりと白く、眺望がないのが残念である。この辺りまでは何度か来ていて、オコジョや雷鳥に出会ったこともあった。谷筋にはまだらに雪が残り、雄山の稜線も霧の合間にときどき見えてくる。ほどなく一ノ越の小屋へと着き、東側の谷を眺めにいくが、以前歩いた東一ノの谷への道はロープが張られ通行禁止になっていた。
小学生の集団が到着して、山荘の前が急に賑やかになった。学校登山らしく、ここではよく見かける光景である。富山では、男子は十五歳、遅くとも十八歳になるまでに立山登拝するというのが、一種の通過儀礼になっていたそうだ。その名残が今もこのような行事のかたちで実施されているのだろう。
風は強く、雄山頂上は白く閉ざされたままである。この強風と霧の中、学校側は子どもたちを登山させるようだ。何度も空を眺め、様子を見ているうちに、子どもたちが登れるのなら、とついこちらも上ってみる気になった。
子どもたちと前後して山荘前から出発する。子どもは元気なので、濡れて滑りやすい岩だらけの道を、駆け上がるような勢いでどんどん登っていく。
「石を落とさないように。下にいる人が怪我するからね」
ここは落石が多いため、見かねた一般登山者が注意している。
「はい、わかりました」
子どもたちは素直に頷くが、すぐに競い合うように上っていく。三分の一ほど登った所で、岩陰に女の子が二人、苦しそうな表情で座り込んでいる。
「落伍者が出ました」
先生たちが無線機で連絡を取り合っていた。
次第に風が強くなってきた。強風というよりもう突風である。霧がさらに深くなり、立ち止まると体が芯まで冷えてくる。弱気になるが、懸命に岩に取りつく子どもたちの姿に励まされ、ひたすら尾根を登り続ける。いつも各地の神社を訪ねると、由緒や祭神名について、あれこれ自分なりに思いを巡らせながら歩くのであるが、今はもう何も考えられず、吹きつけてくる突風に悩みながら岩をつかみ、夢中で這い上っていった。
ようやく峰本社社務所に着いてほっとした。山頂奧宮に上っていく。標高は三〇〇三メートル。奧宮は、岩が積み上がった空間に建てられた天空の社殿である。立山曼荼羅では、立山には地獄(地獄谷と劔岳)と極楽(浄土山・雄山・別山)があるが、雄山主峰はもっとも尊いとされ、仏そのものであると説かれる。
祭神は二柱で、伊邪那岐(いざなぎ)神(立山権現雄山神、本地仏は阿弥陀如来)と天手力雄(あめのたぢからお)命(刀尾天神劔岳神、本地仏は不動明王)。
神仏習合の時代が長く、立山の神々には複数の名が重なっていて覚えにくい。立山信仰は修験道にもとづき仏教色が強かったが、明治初年の神仏分離令によって、立山大権現の名称は消え、雄山神社には神道の神々の名が掲げられるようになった。
山頂はしんと静まり返っていた。社務所からお祓いの太鼓の音が鳴り響いてくるほか物音はしない。立山は日本三霊山(富士山、白山、立山)のひとつであり、快晴であれば、富士山、白山の頂がのぞまれるというが、今日は白い霧が流れるばかりであった。
立山は、仏教が入るより古い時代から山岳信仰があった。それは自然崇拝や精霊崇拝であり、死者の霊魂が山に上った後、子孫の祀りによって浄化されやがて祖霊となる、というような山上他界観にもとづくものであった。立山修験道はそういう古神道の上に成り立ち、仏教と習合していった。立山連峰を地獄極楽のある仏教的な世界と見立て、そこを巡拝していくことで擬似的な死と再生を体験、あらたかな力を得て帰還するという考え方である。
立山では、祀られる神は神仏両方の名を持っており、時代によって神の名が入れ替わるのでややこしいが、たとえ信仰のかたちがどのように変遷したとしても、ここに祀られてきたのは立山の神、古くから峰に坐す地主神であったろう。
その名が神道と仏教の両方から位置づけられ、また立山大権現の名が消されたとしても、昔から山を聖なるものとし、信仰の対象として仰ぎ見てきた人々にとって、この山を領(うしは)く、目に見えない霊威に対する畏怖の思いは、不変であったろうと思われる。
社務所には人がおられたが、今日の頂上の社は無人であった。以前来たときは(紀行 立山の蝶)、よく晴れた日で、この社殿の前の平らな場所に坐ってお祓いを受け、お神酒をいただいた。白雲が流れゆく青空の下で、歌うようにとなえられる祝詞を聞いていると、お社の周囲を高山蝶がひらひらと舞い、涼しい風が吹き抜けていった。それは三千メートルの山頂という感慨もあって、何かしら印象に残る体験であった。今日は山々は隠れ、白い霧に包まれた獏とした世界が広がっているのみである。
下山することにした。子どもたちはすでに山を降りたらしく姿はない。思わぬ浮石があるので、油断せず慎重に降りていった。一ノ越の山荘が見えてきた辺りで雨に遭い、山荘に逃げ込んでしばらく休憩した。濡れて寒くなったので、昼食にカップ麺を買い求めた。標高二七〇〇メートルの山小屋で食べるどん兵衛は、温かくておいしかった。
雨が止むのを待って室堂へと下っていった。戸外の気温は十一度と表示されている。バスの発着場へ入ると、暖房が効いていて「あーあったかい」と言って喜んだが、ちょうど建物から出てゆく登山者が「うわー寒い」と叫んだので、思わず顔を見合わせ苦笑してしまった。
中宮祈願殿(芦峅寺)
富山地方鉄道の「千垣」という駅で降り、町営バスで雄山神社、中宮祈願殿へと向かう。山麓にある集落名は芦峅寺といい、往時には多くの宿坊が立ち並び、立山修験道の拠点となっていたという。
参道にはみごとな杉のご神木が林立し、それだけで厳かな神域を形づくっていた。杉の参道は奧へと延びているが、まず手前右にある中宮祈願殿へと向かう。現在はこの神社の中心となる建物で、仏殿風の雰囲気が濃く残っている。誰でも自由に上って参拝できるようになっているので、中に入りしばらく坐っていた。正面は立山連峰を拝するようになっており、主峰雄山を仰ぐ向きに建てられている。立山開祖の佐伯有頼が晩年をこの地で過ごしたそうで、境内には墓所、廟があり、小高い位置にも開祖堂があった。
外へ出てさっき見た杉木立の静かな参道へと入っていく。奧へ奧へと人をいざなうような魅力的な道である。最奧には小さなお堂がひとつあり、立山大宮とある。大宮とはいうものの町内にある地蔵堂くらいのもので、神域の広さ、周囲に広がる杉木立の迫力に対して、そのお堂は質素なものであった。
大宮に祀られる祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)。説明板によると、元はここに大きな社殿、拝殿が建っていたが、明治初年、山からの落石により破壊されたということであった。思いがけない自然災害に遭ってお社は突然崩壊してしまい、その後再建されることなく今日に至っているということらしい。
仮に再建するとしても、桧皮葺の屋根だと費用も手間もかかるだろうし、といって今風の堅固な鉄筋の社殿などは、ここにはふさわしくない。もう新たな社殿はつくらないほうがよいのかもしれないと思う。こういう古いお堂も捨てがたいものがあるし、周りの風景によく馴染んでいる。
濡れ縁の端に坐って、真っ直ぐに聳え立つ周囲の杉の木、それらが醸しだす森の雰囲気に浸っていた。ただ樹齢が古いというだけでなく、単に大きいとか高いというだけでなく、なにかある意識を持ちつつ、長い年月をじっとここに立っている、そんな気がしてくるような気品ある杉のたたずまいであった。
境内で大きな磐座を見たので、心惹かれて立ち止まった。磐座の上には若宮社が建てられている。神社で大切にされている磐座をみると、その土地に息づく根源的なものに触れた思いがするが、この磐座も古の信仰のかたちをしのばせるのに充分な存在感があった。
閻魔堂
神社を出て集落の道路を東に歩き、閻魔(えんま)堂のほうへと行ってみた。明治の廃仏毀釈の折、芦峅寺には破壊の嵐が吹き荒れて、多くの仏堂、仏像、仏具が壊されてしまったといい、仏教施設は杉の木立に囲まれた閻魔堂以外ないのであった。
その閻魔堂だが、当時の部材を一部使用し、昭和初期に再建されたものという。畳敷きで壁際には長椅子、ストーブが置いてあり、冬の寒さが思われる。集落の集まりに今も使われているのかもしれないが、閻魔堂の内部は薄暗く、なにやら恐いような濃い空気が漂っていた。お堂の奧には、閻魔大王を中心に、亡者の罪科を決める冥界の官、白衣を着た姥(うば)尊(三途の川で死者の衣を取る奪衣婆と習合)像が数体祀られていた。随分古い時代の木像もあるようで、恐ろしい形相でかっと口を開け、目を見開いている。姥尊は容貌異様であるが、ここではおんば様と呼ばれ、衆生を救済すると信仰されていたので、芦峅寺姥堂には六十六体もの姥尊が祀られていたという。この閻魔堂には、かろうじて破壊や散逸を免れた仏様が集められているのであった。
閻魔堂の前から布橋へと続く石段道を降りていくと、六地蔵や苔むした石仏が並び、往時がしのばれた。布橋はこの世とあの世の境界の象徴とされ、立山は長く女人禁制であったので、女性たちはこの閻魔堂で懺悔し、白布が敷かれた橋を白の死装束で目隠しして渡った。罪ある者はこのとき橋から転落して死ぬといわれた。女性たちは対岸にある姥堂へと導かれて、導師から立山の聖水による灌頂を受け、受戒の儀式の後、経を唱え、最後に覆いが外されて輝く立山の峰を拝んだという。それは秋の彼岸中日に行われる女性救済の儀式で、布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)と呼ばれた。
立山で女人禁制が解かれたのは、明治五年であった。立山に上ることが許されなかった時代の女性たちは、ここで極楽往生を願って布橋を渡り、擬死再生の儀式を受けて、立山の神を遥拝し、帰途についたのであろう。
その一方で、強引に山頂を目指した尼僧もいたようだ。天狗平の下には、鏡石というバス停があり、これは二人の童女を伴に上ってきた尼僧がついにその地で力尽き、神に奉納するつもりで持参した鏡を山に投げ、退去したという逸話にもとづく地名という。鏡石の伝承を知り、また姥堂跡にたたずんで立山連峰を眺めるとき、電車やケーブル、山岳バスを利用して室堂まで楽に運ばれ、女性もいつでも自由に登拝できる現代に生まれたことを、改めて思うのだった。
明治の時に落ちた布橋は最近になって復元され、きれいな赤い反橋がかかっている。伝統の布橋灌頂会の儀式も一三〇年ぶりに、全国から多くの女性が参加、地域の秋の行事として復活したそうだ。
布橋の欄干に寄って何気なく見おろすと、遥か下を川が流れていた。姥堂川というそうだ。橋を渡ると対岸には墓地があり、かつての姥堂はわずかに基壇が残るのみで、その向こうには運動公園風の芝生が広がっていた。芝はよく整えられてはいるが人の往来も活気もなく、かつて賑わい、そして廃墟となっていった芦峅寺のいきさつを思えば、なにかしら寂とした静けさの漂う場所であった。
バスを待ちつつ人通りの少ない道を眺めていた。佐伯さんと志鷹さんの姓が多い集落であるが、車もあまり通らず閑散としている。芦峅寺は立山に近く、信仰登山の拠点であったが、藩の方針によって、立山信仰を広めるため、芦峅寺衆徒は立山曼荼羅を絵解きしながら全国各地を回って勧進や布教を行い、立山登拝を勧めた。護符、お札、膏薬や反魂丹などの丸薬も携え、これらを頒布していったのである。この活動は越中富山の薬売りとして定着、長く親しまれた。(実家にも置き薬の袋が柱にかかっていて、天狗さんの絵のある赤い丈夫な紙袋、景品としてもらう四角い桃色の紙風船の感触を覚えている。ぽんぽんついてしばらく遊べるのである。あれは富山の薬屋さんではなかったかもしれないが)
帰りのバスに乗った。美しい川に沿って緑の中を抜けていくが、駅までの乗客は、途中から乗ったおばあさん一人であった。
前立社壇(岩峅寺)
富山地鉄「岩峅寺」で降りて雄山神社前立社壇(岩峅寺)を目指す。住宅街の中を十数分歩いていくと、鳥居が見えてきた。出入口は二箇所あるらしく、神社は常願寺川べりに位置していた。
岩峅寺はより富山市に近く、廃仏毀釈で仏殿が壊されたのは芦峅寺と同様であるが、現存する社の規模はこちらの方のほうが大きい。広々とした境内で、仏教色はみられず明らかにここは神社であった。流造りの本殿は重要文化財と聞くが、あいにく修理中のため見ることはできなかった。
ここ岩峅寺にも多くの宿坊があったそうで、立山登拝の人々はここから出発していったという。白装束に身を固め、編んだ菅笠を被り、杖を持ち、手には数珠やほら貝、そんないでたちだったのだろうか。以前羽黒山に行ったとき、〇〇坊という宿坊が今もたくさん残っていて、中には黒い冠木門がついた、まるで時代劇に出てきそうな宿もあって、独特の雰囲気が漂う町並みであった。岩峅寺もそんな感じだったのかもしれない。
山麓の芦峅寺と里宮の岩峅寺には宿坊が多く並び、登拝の人々で賑わったというが、両寺の間には対抗意識が生じていて、揉め事も多かったそうである。それぞれ由緒があり、近接して勢力が拮抗していたためでもあったろうか。
魚津
魚津へ出て、少し町を歩いてみた。もう九月に入っているのだが、魚津の町は真夏並みの三十三度、猛暑の日であった。
駅から徒歩十分ほどで、海辺に出る。堤防の続く道は、蜃気楼の名所として知られ、浜通りは「しんきろうロード」と名づけられていた。蜃気楼はここでは春先によく見られるそうだ。海上に出現してすぐに消えるものもあるが、中には何時間も続くものもあるとか。忽然と巨大建物やビル街が現れたり、海面が膨れ上がったり、沖を航行する船が倒立していたり、壁のようなものが帯状に現れたりするそうである。
温度差や光の屈折によって、そういう現象が起きると現代ではわかっているが、古代の中国では、蜃という伝説上の生物(大ハマグリ、龍)が気を吐いて楼閣を作り出すと信じられ、蜃気楼は瑞兆とされたそうである。
不思議な幻影を長時間見つめていたら、はじめ幻と見えたものも、しまいに実像と思えてくるのではないか。古ではよいものが出現して、いっとき人の目も心も楽しませてくれたのかもしれない。
「海の駅・蜃気楼」に入って浜焼きをいただくことにした。浜焼きとは、魚介類を炭火で焼きながらいただくもので、この季節は土日のみの営業という。漁業倉庫のような広い建物内に、大漁旗が飾られた浜焼きコーナーが設けてあった。
ほたて、イカ、はたはた(干もの)、甘えび、さざえ、ばい貝などが盛ってあるざるセットを買い求め、銘々で焼くのである。魚介は好みのものを追加することもできる。ご飯と味噌汁(あさり)をつけてもらった。ふつう甘えびは生でと思うが、焼くというのは珍しく、熱々の海の幸をおいしくいただいた。
建物に冷房は入ってないので、炭火の熱気でかなり暑く感じられた。食後、外へ出て眼前に広がる海を眺めていると、辺りには潮の香が漂い、快晴の海の色は青く深く、心地よい風が通り抜けていった。