揺れる火
揺れる火
大学と高校に通う子供たちが、慌ただしく朝食を摂って飛び出して行き、夫も出かけて行った。
散らかった部屋の中をいつものように片付け始める。
一段落した後で、久し振りに机の整理を思い立った。いつの間にか引き出しの中は雑多な物でぎっしりと埋まっている。出して並べ、要るものと要らないものを選り分けていると、一番奥から布に包まれた、手のひらの窪みに入る位の大きさの石が出てきた。
それは特別なものという感じでしまい込まれてあった。
開けてみると、くっきりと黒い渦巻き模様が見える。アンモナイトの化石だった。
理科の授業で古生代は三葉虫、中生代はアンモナイト、などと化石について習った記憶があるが、菊石に似たアンモナイト貝の模様が、浮き彫りのように石の中央部に納まっている。
この石はヒマラヤ山中にあった。
俄かに懐かしさが込み上げてくる。手に取ってしばらくの間眺めていた。
ヒマラヤへ一人旅をしたのは、二十代の終わり頃だったろうか。
未知の山旅に賭けるような、祈るような気持ちで出発した。
私はあの頃どんな時間を過ごし、何を思いながら一人山の中を歩いていたのだろうか。さまざまな場面が浮かんでくる。黒い化石を見つめていると、当時の日々が、静かに心の中に蘇ってきた。
私は関西で生まれ育った。
二十歳の時母が死に、それ以後父と二人暮しになったが、ことごとに意見が合わず悩んでいた。何度か衝突し、口を利かない日が続くこともあった。
ある時、付き合っている相手のことで大きく揉め、この時はもう限界と感じ、結局そのことを理由に家を出てしまった。父は怒ってすぐ別の鍵を家に取り付け、私が出入りできないようにした。それ以後父との縁は切れた。
家を出てから二、三の土地を移り住んだが、二十代の後半、私は東京で暮らしていて、業界紙の仕事をしていた。
薬品会社が月一回発行する新聞の紙面作りが、主な仕事の内容だった。収入は最低限あればいいと思っていたので、残業はなるべく避け、夜は一人暮らしの部屋で、どこにも発表する当てのない小説らしいものを、日記代わりに空しさと戦いながら書き続けていた。
日中は外へ出ることが多い仕事だった。
渡された地図を手に、指定された販売店を訪ねては、接客の工夫や、売れ筋の商品名を聞き、店名を入れて撮った写真を添えて記事を作る。紹介された顧客の事務所を訪ねて、経営者の企業哲学や生い立ちについての話を聞いてはメモをとり文章に直していく。
事務所の壁に飾られた額入の賞状や写真の下で、延々と披瀝される企業自慢や人生訓を、神妙な顔で頷きつつ聞いていると、時折深い疲労を覚えた。
その頃私は、信頼していた人に裏切られる形になり、その人と別れた後、鬱屈した思いを抱えて毎日を過ごしていた。
その人と生きるために、父とやり切れない衝突を繰り返し、多くのものを捨てる決意をし、家を出たのに、という思いが消えなかった。うわべは何でもないように振る舞ってはいたが、本当はなかなか打撃から立ち直れず、苦しんでいた。
ずっと関西で一人暮らしを続ける父親とは全く没交渉であったし、意地もあったから、今さら惨めな思いを抱えて郷里に帰る気もなかった。
東京で一人で生活していくためには何らかの収入を得なければならないので、生活のために仕事も続けるしかなかった。
会社からの帰途、最寄りの駅の近くにある大型書店に立ち寄り、雑誌や新刊書をあれこれ手に取って見るのが、仕事を終えた後の小さな楽しみだった。
ある日何気なくトレッキング関係の山の本を読んでいて、ふとこんな箇所が目についた。
・・・・ヒマラヤ山中に、ムクチナートと呼ばれるヒンズー教の聖地がある。そこには三千年間燃え続けているとされる奇跡の火があり、現地では神の火と言っている。
ムクチナートへはネパールのポカラから入るルートが一般的である。ムクチナートはジョムソンの更に奥、標高約三千八百メートルの山中に位置している。ジョムソンまでは途中険しい所が一、二箇所あるが、ジョムソン街道と呼ばれる、昔のチベット交易路を一日数時間程度歩いていく。
ポカラを出発してムクチナートまでは、八日から十二、三日程度である。道は比較的平坦で危険は少ない。途中の村落には宿屋や茶店もあり、シーズン中は各国のトレッカーが訪れる。
ムクチナートにはヒンズー教の寺院があり、その洞窟の中に神の火が祀られている。巡礼に来るヒンズー教徒は今も後を絶たないという・・・・。
この文章を読んだ時、心惹かれた。
「三千年間燃えている火」という一行が気になったのだと思う。いったいどんな火なのだろう。
それは期待するような神秘的なものではないかも知れなかった。でもムクチナートという響きは魅力的に感じられた。
ヒマラヤ山中を何日間もかけて歩き、洞窟の奥に燃え続ける一つの火を見に行く、と考えただけで、何か心が満たされる思いがする。もし首尾よくムクチナートまで辿り着くことができて、その火に出会えたなら、自分が今よりもほんの少しだけ変われるような、そんな気がしたのだった。
(その火が、目に見えない形でもって、何らかの恩恵をもたらしてくれるかも知れない)
折に触れそんな風に想像してみた。山中の不思議な火を見に行くという体験が、今の虚ろで単調な日々に、何か新鮮なものを吹き込んでくれるというように思えたのだった。ヒマラヤの山の本を繰り返し読み、そこに付いていた地図を眺めては思いを膨らませた。
次第に気持ちが傾いてゆくのが分かった。仕事に倦んだ時など、何も考えず、ただ道のある限り山の中を歩いていく、あの感じに浸ってみたいと、焦がれるように思った。
毎日の食事や着るものを節約し、出費を切り詰めて、旅のためにお金を貯めた。そうして未知の山旅に賭ける気持ちが一層強くなった頃、決心して会社を辞め、日本を出たのだった。春の終わり頃だったと思う。
空路ネパールに入り、首都カトマンズを経て、ポカラ郊外にしばらく滞在した。
そこはバイダンという村で、村は湖に沿って開け、トレッキングで訪れる人たちのための宿屋や山小屋、食堂が並んでいた。
湖からは雪を戴いた山々が眺められ、湖の中には樹木の茂った小島が見える。
ある日島へ行ってみた。そこにはバラヒという女神を祀る小さなヒンズー寺院があり、誘われるように参拝の村人や観光客に混じって手を合わせた。時間があったので、観光客が引き上げた後も木陰に座って湖を眺めた。
ちょうど神職の老人が来合わせていた。目が合ったので、思わず頭を下げると、頷いて私の額にそっと指で赤い印をつけてくれた。水で練った赤い色粉はひんやりとした感触でそこだけ心地好かった。
その時、白と黒の斑の子山羊が一匹、寺院の前庭に運ばれて来るのが見えた。前足を括られているので暴れはしないが、不安を感じるらしく、盛んに鳴いている。
いったい何が始まるのだろうと思い、近づいて見ていた。二人の村人が、仔山羊をそっと草の上に降ろしている。その一人は少年だった。
仔山羊は横向きに寝かされ、首の部分は低い台木の上に乗せられた。諦めたのかじっとしている。神職の老人が鎌を取り出し、少年が仔山羊の胴を両手で押さえた。思わず息を呑む。
老人は山羊の首筋に刃を当て、まるで柔らかい物を切るように、素早く刃を引いた。鋭利な刃物は、驚く程のあっけなさで仔山羊の生命を断った。
噴水のように血が飛び散り、近くの木の幹にかかった。切断された瞬間、胴体は少年の手を離れ、二、三メートル飛んで草の上に転がった。前足が大きく空を跳び跳ねるように痙撃し、そしてそのまま動かなくなった。
みるみる血が草を染めていく。老人は仔山羊の屍体を引き擦って、更に何か別の儀式を行うらしく、寺院の方へ歩いて行った。
思いがけず目撃した、生け贄の場面に衝撃を受けて、私は呆然としていた。ヒンズー教の生け贄の儀式は、普通は早朝に行われ、貧富の差や願い事の種類によって、山羊、鶏、アヒル等が選ばれる、と本で読んだ事があるが、実際にこの目で見るのは初めてだった。
今日の山羊は、特別な願い事のための供え物なのだろうか。それとも定期的な村人の捧げ物だろうか。捧げた人は一つの生命と引き換えに、いったい何を願うのだろう。
周囲は静かで、他に人影はなかった。
木漏れ陽が草の上に、斑の模様を作っていた。湖の上を涼しい風が渡って行く。風に揺すられる度に、頭上の枝から小さな白い花が落ちて来た。仔山羊の茶色の眼と最期の非鳴を思い出し、深い息をついた。そして、このような小動物の犠牲の血を要求する宗教、この湖の神ヘの怖れが、心の中にゆっくりと拡がっていくのを感じた。
翌日も行ってみたが、生け贄の儀式を見たのは一度だけで、以後見ることはなかった。雨に濡れた木々の緑は目に染み、湖に映るヒマラヤの山並みは、いつまでも見飽きるということがなかった。
寺院の周辺に点々とついた、真新しい血痕を見る度に、儀式を思い出し、多少恐ろしくはあったが、涼しげな緑に囲まれた島の佇まいは、静けさに満ち、青い湖水の色と溶け合って、心を不思議に落ち着かせるのだった。
翌日、島で本を手に座っていると、一人の村の少年がやってきた。
少年は十四、五歳に見える。岸辺には洗濯している主婦や水汲みの少女、裸足で遊ぶ小さい子供の姿があった。少年は私と同じように座って、湖面に視線を投げていた。
涼しい風が湖の上を渡ってくる。村の子供たちが跳ね返す水音が、甲高い笑い声に混ざる。頭上を百舌に似た鋭い鳥の泣き声が掠めて行く。
そんな情景の中で、私は少年と片言の英語で言葉を交わした。見ると少年の右手首には、布切れが巻きつけてある。元は白い布だったのだろうが、汚れてぼろ切れのようになっている。
「手どうしたの?」
少年は布をほどいて見せてくれた。手首の外側の骨が、飛び出てしかも曲がっている。
「去年折れたんだ」
「お医者に診て貰った?」
「いいや、行かなかった」
村に医院はない。町の病院はお金がかかる。たぶん少年の家は裕福ではないのだろう。
「痛かったでしょう」
少年は頷きつつそうっと手首を曲げて見せた。それは一定の角度で固まっていて、ほとんど曲がらない。
「折れた時、痛くて何日も眠れなかった。毎日家で湿布してもらったけど。ぼくがあんまり痛がるんで、父さんが知り合いからガンジャも手に入れてくれた。それどんどん吸ってた。痛みが薄らぐから」
言葉を失って、少年の手をしばらく見つめていた。
ガンジャとは大麻のことだった。医者にかかるよりもその方が安価なのに違いない。そうやって彼らは病気や怪我が自然に癒えるのを待つのだろう。
この村の道端にも青々とした自生の麻の葉は風にそよいでいる。でも種類が違うのかそういうのは効き目はなく、痛み止めに使うようなものは、人に貰うか密かに買い求めるのだという。
「今でも痛む?」
少年は頷いた。背後で鳥の鳴き声がする。
私は自分の足首を揃えて少年に見せた。見比べると左右で少し形が違っている。
右足を回してみる。もう痛みはないが、その動きは滑らかではない。
「子供の頃、石垣から飛び降りて折ったのよ」
近所の友達数人で近くの神社の玉垣から、下の道へ順に飛び降りて遊んでいたのだった。私の番になった時、急に不安が掠めた。自分の背丈以上ある高さが怖くなったのだ。
でも大丈夫と自分に言い聞かせた。やめてもよかったのに、弱虫と思われるのが嫌で、飛んだ。足首に激痛が走った。
友達に負ぶわれて家に帰り、母と病院へ行った。骨折していた。
二ヶ月程で直ったが、その後転ぶ度に、どう言う訳か同じ箇所を捻挫した。あまり度重なるので嫌になった。
そのせいだけではないが、何となく人と競い合うスポーツは苦手になった。その代わり自分のペースで楽しめる山歩きなどに、楽しみを見出すようになった。
少年にムクチナートのことを訊いてみる。
ヒンズー教とチベット仏教、両方の聖地という。少年は行ったことはないが、村人はよく巡礼に行くという。
話しているうちに、日が傾きかけてきた。ヒマラヤの山村の日暮れは思ったよりも早い。
少年の家は村外れの農家だという。作物はトウモロコシ、じゃがいも、豆類が主なもので、きょうだいは多いと話した。少年はもし腕が癒えなかったら、村でどんな職につくのだろう。日々の暮らしのあれこれを聞きながら分かれ道まで歩き、村道で別れた。
宿に帰り着くと、庭掃除をしていた下働きの少女が笑顔で迎えてくれた。
今週は祭の週なのだという。
ヒンズー教のラーマ神やハヌマン神の誕生日の祭りなど、ネパールでは色々な宗教行事があるそうだ。
「大きなお祭りの時は休みを貰って家に帰るの?」
訊いてみると、少女には両親がおらず、小さい頃からここに住み込んで働いているという。悪いことを訊いてしまったようで悔やまれた。少女は学校へ通わせて貰っている様子はない。手箒でごみを寄せながら、よく通る細い声で歌っている。
「パイサ・ネー、パイサ・ネー」
どこかもの哀しく聞こえる旋律だった。
後日辞書を開いて意味を調べた。
パイサとはお金、ネーは否定の意味だった。少女は繰り返し、
「お金ないよ」
そう歌っていたのだった。
ムクチナートへ向けて村を出発した。
プレ・モンスーン期と呼ばれる、雨季の始めに当たる頃だったが、その日、空は青く澄み渡っていた。雪を被ったヒマラヤの山並を背景に、村のトウモロコシ畑の緑の細長い葉が風に揺れていた。
空を見て暑くなりそうだなと思った。
日中は三十度を超えそうだ。
山では大きな紙幣は使いにくいと聞いたので、細かい紙幣に両替したせいか、ポケットの中は膨らんでいる。予備食も水も十分に持っている。軽登山靴に長ズボン、小型のリュックにシェラフと装備は全体に軽めだった。
日本でもよく見られるような山道がずっと続いていく。
行き合う村人は皆小柄で痩せていた。
その住む家は粗末な造りで掘っ立て小屋に近い。日課の水汲みなのだろう、十歳くらいに見える少女が細い体で、信じられない程の量を黙々と運んでいく。背負った灯油缶の紐を額で支えつつ、擦れ違っていく。缶が左右に揺れる度に、少女の体もかしぐ。山の生活の厳しさを思わずにはいられない。
チベット難民キャンプを過ぎ、更に川沿いに進むと、小さな集落に出た。やがて川から離れると、急な登りに差し掛かる。上がり切ると尾根に出た。一日目はそこにある村に宿を取ることにした。
夕方、茜色に染まった空を背景に、積雪の山々が姿を現してきた。
こういう情景が一番好きだった。無心に山と対峙する時、知らない間に心が空っぽになっている。何も思わず、ひたすら景色だけを眺める。ただ鮮明な鋭角的な稜線に惹かれていく。溶けていく雲の色を見る。アンナプルナ・サウス峰だと思った。
山が鮮明に見えたのは僅かな時間だった。すぐに夕闇の中に消えてしまい、やがて何も見えなくなった。
山麓に近いせいか、宿の泊まり客は多かった。ポカラからの一晩だけのツアー客も混ざっている。欧米人ばかりで日本人がいないのがかえって気が楽だった。外国語の談笑を一種の騒めきとして捉え、ぼんやりと聞いていた。
室内を見回すとギターを抱え、足元はゴム草履という軽装の若者から、重い登山靴にテント、食料、防寒衣料と重装備の中年男性グループ、小さなリュックと雨具だけという女性たちもいた。
言葉を交わさなくても、服装や靴、携行品を見れば、その人の心構えは見える。山歩きの装備は、その人自身を正確に物語っている。
夜更けに窓越しに外を見ると、遥か下方の濃い闇の中で、昨日までいた湖畔の村の火が集まり、一握りの光の粒となって煌めいていた。今日一日分の距離と高度を確かめつつ眠った。
次の日の早朝、尾根沿いに歩き始めた。
カーレという集落を過ぎ、チャンドラコットの村に着く。そこでしばらく休んだ。緑の谷が目に染みる光景だった。尾根に張り付くようにこの上なく粗末な民家が並び、傷みきった洗濯物が干してある。鶏、山羊など家畜の鳴き騒ぐ声と、動物特有の臭いが辺りに漂っている。民家は崖の上に建っていた。谷を見ていると、
「ここで食事をするのか、それとも泊まるのか」
茶店の主人が片言の英語で熱心に聞いてくる。
多分現金収入が少ないのだろう。泊まらないし、食事も要らないがせめて何か買ってあげようと思い、店先を見回した。バケツの水で冷やしてある瓶ジュースがあったので、その値段を尋ねると、相場の三倍の金額を言った。
「さっきの村ではそんなにしなかったと思うけど」
店の主人は決して高くないと言い募る。その言い方に買う気をなくし、首を振ると、店の主人は落胆した様子で奥へ引っ込んだ。
集落を出ると、膝ががくがくになる程のきつい下りが待っていた。やっとの思いで降り切って、夕方ビレタンティの村に着いた。宿の前はかなりの急流で、吊り橋の上から見ると、速い流れが所々に白い渦を巻いていた。この川はモディ・コーラと言う。
この夜の、泊まり客は私だけだった。
庭先で放し飼いの鶏を見たので、
「卵があるのなら茹でて下さい」
と頼んでおいた。
夕食は暗い吊りランプの下で、家族と一緒に座り、貰った小さな茹で卵一個を潰しながら、じゃがいものカレーと混ぜて、御飯を食べた。香辛料は入っているが余り辛くはない。家の人の分は、野菜だけで卵はついていなかった。
夕食後、宿の子供が教科書を広げた。黒ずんだ古い柱時計の振り子が揺れている居間で、男の子は大きな声で音読を始める。そばで少年の祖父母が目を細めてそれを聞いている。
終わると、今度はざら紙のノートを出して書き取りを始めた。鉛筆は短くてすぐにぽきんと芯が折れてしまう・・・・。古い色褪せた映画の場面にいるようだった。一昔前の日本の山村の情景を思い起こす。
次の日は川沿いに登りが続いた。
ある村を通り過ぎると、異常な位人の気配が感じられない。村中気味悪い程ひっそりと静まり返っていた。道端で遊ぶ子供の姿もなく、茶店も皆閉じられている。何か不安で不吉なものを感じ、立ち止まらずに足早に通り過ぎた。
次の村落で休憩したときに訊いてみると、静まっていたその村では伝染病が流行り、猛威を振るっていたのだった。死者が相次いだという。汚染された村に漂っていた、重苦しい空気を思い出すと気が沈んだ。
そのまま川を見ながら歩き続けた。水は澄んでいる。照りつける太陽に水面が輝き、風は全く無い。川は水量たっぷりの流れで、大きな岩が河原に転がっている。
外国人の大柄な女性トレッカーが二人、川で水浴びをしているのが見えた。岩陰に荷物を置き、道からはちょっと見えにくいような場所をうまく選んでいる。何となく見ていると、笑顔で手招きして呼んでくれた。濡れた髪の毛が涼しそうだ。
「荷物を見ていてあげるから、あなたも川に入ったら」
親切にそう言ってくれた。羨ましそうな顔に見えたのかも知れない。
荷物を岩陰に寄せ、タオルを出し水に入った。日本の山でなら、人目が気になってとてもこんな風に振る舞う勇気はないが、ここではまた違う自分になれそうだった。
飛び上がる程冷たい水だった。
全身を水に浸すと身が引き締まり爽快だった。童心に帰ってひとしきり水を掛け合って遊ぶ。一人は泳ぎに自信があるのか、相当速い流れなのに川の真ん中へ出て行く。
水浴びの後は河原でしばらく休む。
ちょうどビスケットがあったので出して、三人で分け合って食べた。川の音に掻き消されそうになるので、かなりの大声で互いの旅の行程などを訊いた。話によると、二人はアンナプルナ内院のコースを回り、下山の途中だった。
「私たちにはもう必要ないから」
そう言ってバンドエイドや水浄化剤、ビタミン剤などを、ビスケットのお礼にとくれた。彼女たちと別れ、先へと進んだ。
見るからに辛そうな急傾斜の道が、ぐっと目の前に迫ってきた。これを登るとウレリの村である。道はジグザグで嫌な登りが続く。
途中、膝を岩角にぶつけて痛めてしまった。漸く上がり切った所で水場を見つけて洗い、念入りに傷口を消毒した。早速貰ったばかりのバンドエイドを使用した。痛いのでこの日はこれ以上先へは進まず、用心してウレリに泊ることにした。標高はちょうど二千だった。
宿でくつろいでいると、
「胃腸薬を持っていたら分けて欲しい」
そう言って村人が頼みにきた。下痢止めが要るような病人がいるらしい。症状を聞き、手持ちの薬を渡して、飲み方を手まねで説明した。一回三錠、食後一日三回と言うと、大きく頷いて聞いてくれているが、ちゃんと正しく意味が伝わったかどうか、心配になった。
その晩、階下から人の唸り声と低い歌が聞こえてきた。
深夜までそれは続き、時々調子が高くなったり低くなったりする。気になってなかなか眠れなかった。
翌朝、宿の主人にそのことを訊いてみた。
「昨日薬を貰いに来たのとはまた別の病人が階下にいて、それは薬では治らない病気なので、祈祷師を呼んで、枕元でずっと拝んで貰っていた」
祈祷の力で症状は軽くなったという。ここでは祈祷も占いも生活の中に定着しているのだ。特に結婚などはまず占い師に占って貰ってから決めるのだという。時計が逆回りし、百年前の世界に来たような思いがした。
ウレリを出ると森は深くなり、一種の湿地帯に入った。
木々は厚く重なり合い、吹く風は湿っぽい。気候も昨日とは打って変わって雨模様である。道は濡れていて、所々ぬかるんでいる。足はまだ少し痛い。
道端の石にほんの五分程、休憩のために腰掛けただけなのだが、立ち上がる時にふと見ると、山ヒルが二匹、靴下を伝って足首の上にしつこく取り付いて血を吸っていた。指で摘んで思い切り強くむしり取った。
噛まれた所に穴があき、血が筋になって流れた。油断していると、頭上の木からもぽとりと首筋に落ちてくる。急ぎ足で逃げるように樹林帯を抜けた。景色を見る余裕もないまま、まだ早い時間だったが、この日は雨に阻まれゴラパニの峠のロッジに入った。
翌朝、寄り道をすることにした。
ダウラギリやトゥクチェ・ピークがパノラマのように広がって見えるという、プーン・ヒルへ登ってみようと思ったのだ。
緩やかな道を蛇行しながら上がって行くと、霧が出て来て、視界も段々悪くなってきた。既に細かい水滴で髪が湿っている。その上風も出て来てひどく寒い。
丘の上に着くことは着いたが、雲が厚く、前方に開けて見えるはずの八千メートル級の山々は何一つ見えなかった。
佇んでいると、目の前を霧が白く横に流れて行くばかりである。遂に数メートル先も見えなくなった。白一色に包まれる。このまま霧に溶けていく自分を思う。いつまでもこの白い世界にとどまっていたいと望む気持ちが生じ、霧の中にしばらく立ち尽くした。気がつくと体が冷えていた。
微かに霧の向こうが透けているのがわかる。無意識の内に歩き出していた。やがて纏わりつく白い霧から抜け、濡れた緑の樹木の間を辿って、元来た道を引き返して行った。丘の麓まで一気に降りて行った。
外国人を見かけると、どの村落でもまず子供たちが寄って来た。
「ミタイをちょうだい」
そう言い続けて甘えた仕草でねだる子もいる。
ミタイとは飴玉のことだった。
人なつこく後をついてきて、そばを離れない子は多いが、飴を貰ってもきちんと礼を言う子は少ない。もじもじしているだけの子も多く、飴を手に入れるや否や、後も見ずに駆け出して行ってしまう子もいる。そんな時は少し寂しくなってくる。
それで考えた末、村で寄って来てねだる子供には、一つずつ飴を渡した。彼らは外国人トレッカーから貰うチャンスが多いからだ。だが畑で黙々と働いている子を見かけると、寄って行き、手招きして飴を何個もあげた。
ポカラの村では、子供たちが飴やお菓子欲しさに始終外国人につきまとう。里でそうなのだから、山の中の子供たちは飴など滅多に口に入らないのかも知れないと思い、出発前に村の雑貨屋で買い求め、大袋の飴を沢山持ってきていたのだ。
思いがけない飴にびっくりして、目を見張っている子もいれば、恥ずかしくて中々手を出せない様子の子もいた。でも大切に貰った飴を握りしめ、いつまでも姿が見えなくなるまで、手を振り続けてくれる子に出会った時は、胸が熱くなった。
シーカの村を通りかかると、村の中は沸き立っていた。
祭りか祝い事のある特別な日だったのだろう。 村人はにこにこと機嫌よく、男たちは酔って赤い顔をしていた。
様子を見ていると、普段はそんな馴々しいことをしない村人も、次々と話しかけて来て、私の肩を叩く。そのうち白く泡立つチャンという地酒がコップで差し出された。盛んに飲めと手まねで勧められる。
恐る恐る口をつけてみると、酸味がきついが割に軽い味だった。飲む様子を村人たちが取り巻き、笑顔で見守っている。
やっとの思いで飲み干すと、すぐ新しく注がれ、分からない言葉で盛んに話しかけられる。子供たちが前後につきまとう。この雰囲気で昼間から一緒に飲んでいれば、いっときは賑やかで楽しいに違いないが、醒めた時が一段と寂しいだろうと思う。更に勧めてくれる上機嫌の村人に何度も礼を言ってコップを返し、祭りの場を離れた。
シーカの村を出ると道は崩れ易くなり、一歩進むと半歩ずり下がる、地滑り地帯に入った。
さっき飲んだお酒が急に回ってきたらしく、足元がどうもしっかりしない。その上分岐点で道を取り違えたらしく、おかしいと気づいて慌てて引き返し、正しい道を探したりしたので、かなり時間を費やしてしまった。見えてくるはずの川がなかなか現れない。再び引き返そうかと迷い始める。
道を訊きたいと思うが、こんなときに限って誰一人通り掛からない。仕方なく直感を信じてそのまま進むことにした。
やっとカリ・ガンダキの流れの音が、間近に聞こえて来た時は嬉しかった。もう辺りには夕闇が迫っている。橋を渡り、宿泊地タトパニの村落の明かりを目指し、急ぎ足で歩き続けた。その夜は疲れて何も考えずすぐ眠りに落ちていった。
タトパニの宿の前庭からは、ニルギリの真っ白いピークが見えた。
尖った頂きが青空に映えている。実にすっきりとして印象的な山容だった。ここには幾つかの温泉が湧いていて、タトパニという地名も熱い湯を意味するという。混浴と聞いたので、なるべく人が少なくて、入り易い温泉を探して、上流へ行ってみた。
川のそばで、四角い石造りの露天風呂を一つ見つけた。小型のプールである。囲いも何もなく、底には厚く泥が溜まっている。濁るので掻き混ぜないように、雪山を見ながら一人で浸っていると、村の若い主婦が洗濯にやってきた。
私が入っているのを見て、遠慮してか、川の方を向いて出るのを待っている。出ると、入れ替わりに湯を汲んで洗濯を始めた。洗っている衣類はどれも古く傷んでいて、きまり悪そうにしている。それで手元を見ないようにした。ひたすら遠い雪山に目を向ける。
翌日タトパニを出発して、峡谷に沿ってずっと歩き続けた。
カリ・ガンダキの急流の音は力強い。水音に重なって、後ろからロバの鈴の音が聞こえて来ると、道端に寄って隊列をやり過ごした。道を譲ってロバ隊が通り過ぎるのを辛抱強く待つ。時には二十分もかかることがある。
ロバ隊は定期的にこの道を往復して、村々に生活物資を運んで行くのだろう。重そうな穀物の袋が多く、大きな荷物を背に左右に括りつけている。
ロバは歩きながら、糞も道に落として行く。トレッカーにとって、それは役に立つ目印となった。道が別れていて、左右どちらの道を取るか迷った時に、ロバの踏み跡と糞が、正しい方を見分ける決め手になるからである。
先頭を行くロバは、特別に頭に赤や青のふわふわした飾り物をつけて、よく目立つようにされていた。
その姿は一見華やかにも見えるが、ロバ隊の通った後を見ると、地面に点々と血が落ちていることがあった。ロバの背の、荷物が当たる部分が擦り剥けて、皮膚が傷ついているのである。荷物がずれ、背当て布も取れてしまって、紐がじかに食い込んで痛そうなロバを見ると、可哀そうでならなかった。
ロバ隊の列は、棒を手にした男たちの派手な掛け声と共に、勢いをつけて登って行く。一行の中には絶えずよろけるロバがいた。ちょっと隊列が滞ると、すぐに道端の草を食べようと首を伸ばしたり、道が滑りやすいのか、よく転ぶロバもいた。
見ていると、足が遅いロバ、怠け癖のあるロバは何度も棒で叩かれた。それでも立ち止まったまま動こうとしないと、容赦なく肛門を棒で突つかれる。哀れな悲鳴を一声上げてロバは飛び上がる。そして再び荷と共に黙々と歩き出す。
川を挟んで右岸にも左岸にも道があった。
見ると両方に踏み跡がある。右岸を取ってしばらく進んで行くと橋があり、滝壺の所で二つの道は合流していた。山腹から水量豊かにカリ・ガンダキに流れ落ち、白く泡立つ滝を見つめていると、何もかも洗い流されていくようで、時間を忘れ、長いこと佇んでいた。
この後は急斜面の連続になった。何とか越えてガサの村に辿り着いた。
ガサを出ると、行く手の左右に雪に輝く雄大な山々が見え始めた。
ダウラギリ主峰、ニルギリ、トゥクチェ・ピークなどで、晴れ渡った青空に眩ゆく、これこそヒマラヤと思わせる偉容で連なり、聳え立っている。左手に見えるダウラギリはどっしりと重量感のある山容で、山裾がとてつもなく広がっていた。幅も厚みもたっぷりとある。何と大きな山なのだろうと、見上げる度に感嘆した。
山の斜面に、何キロにも亙って断層が露出している所があった。
地層の表面が波形にうねり、きれいな筋も皺もはっきりと見分けられる。理科の教科書に写真が載っていた、褶曲という言葉を思い出す。
海によって隔てられていたユーラシア大陸とインド大陸がぶつかって、地表が急激に盛り上がり、出来たのがヒマラヤ山脈であると習ったことも思い出した。今歩いているこの道も、青く深い海の底だったのだろうか。
行く手にトゥクチェの村が見えてきた。
村の手前に川が流れているが、橋はなく、徒渉しなければならない。深い所で膝上二十センチ位だろうか。ゴム草履に履き替え、濡れるのを覚悟してズボンを出来るだけ上にたくし上げた。浅瀬を探す。水底の石は苔がついていて踏むと滑り易く、流れはかなり速かった。一足ごとにゆっくり慎重に進む。何とか転ばずに渡り終えた。
トゥクチェの村は、チベット交易で栄えた往時の雰囲気を強く残していた。
明治三十年代に、川口慧海という僧が、仏教の原典を求めてここを通り、日本人として初めてヒマラヤを越えて、チベットへ抜けたと伝えられている。
その著書「チベット旅行記」によると、慧海は巡礼に行くネパール人の老女と、雇った「荷持」の男二人と共にポカラを出て、チベット潜入を計る。途中落馬して腰を痛めたりもする。老女から二人の男は殺人や強盗の前科があると聞かされ、用心しながら進んで行く。
トゥクチェ村に着いた時、老女の進言を入れて、この二人の「荷持」に賃金を払い解雇している。
僧である慧海はトゥクチェでは厚遇されたようで、村の「知事」の家に逗留し、チベット人の医者と知り合い、その勧めで更に奥地のツァーランを目指して進んで行くことになる・・・・。
今見るトゥクチェの村落は、チベット風のがっちりした石造りの家が目立つ。集落には時代を経て古めかしい建物が、所々崩れかけつつひっそりと立ち並んでいる。ひと気は少なく、廃墟のような佇まいである。
戸外に目を向けると、一面の草が揺れる畑がどこまでも緩やかに続いていた。黒い服を着た農婦が一人、高らかに歌を歌いながら作業をしている。歌声は野にこだまし、風に乗ってどこまでも流れて行く。歌声には力強さがあり、どこか懐かしい響きにも聞こえた。
トゥクチェを出ると、道は一層平坦になった。
マルファの村に近づくと、ここがもう完全なチベット圏であることがその様子から感じられる。ヒンズー教の神々は一時姿を消し、代わりにチベット仏教であるラマ教の極彩色の仏たちが、村のそこかしこに立ち現れる。
民家は軒が密集し、細い水路が、村落を縦横に縫うように流れていた。チベット交易路の宿場町として繁栄した時代もあったに違いないが、今はもうすっかり寂れてしまっている。
一軒の宿屋に入った。
階下には馬が飼われていて、湿った草の匂いが立ち込めている。案内された部屋は、馬小屋のちょうど上に当たっていた。馬のいななきや足踏みの音、餌を食む音がすぐ間近に聞こえてくる。洗濯もしてない汚れ切った宿のシーツを見ると、とても使う気にはなれず、シュラフをその上に広げて敷く。今夜は蚤やダニの襲来で眠れないことを覚悟しなければならない。
宿の人がやってきて、
「すまないが夕食は外で食べてきてほしい」
そう言うので、村の食堂を探して食べに行った。ダル・バートと呼ばれる定食を頼む。
炊いた御飯(バート)に野菜のカレー煮(タルカリ)が一種類つき、黄色い豆スープ(ダル)が添えられるのがここでの一般的な食事だった。
玉ねぎ入りのオムレツなど、洋風の食事を工夫して拵えてくれる宿もあるが、肉類や卵が全く手に入らないのか、野菜煮だけ、また野菜もなく、豆スープと御飯だけの至って質素なものを、出されることも度々あった。
粗食には慣れているので、私は平気だったが、こういう米飯食は欧米のトレッカーには相当こたえるらしく、今まで泊まった宿で、ダル・バートの皿を前に溜め息をついている人をよく見かけた。
朝はポリッジというお粥や、チベタン・ブレッドという油で揚げた丸パンとお茶がよく出される。昼は時分どきに村に着かないことも多いし、そんな時にはやっと見つけて入った茶店の主人に、
「今から米を炊くので待って欲しい」
悠長なことを言われてしまう。見ると昔ながらの竈で薪をくべて炊くのである。こちらの都合としては、夕方までに次の村に入らないと、翌日の行程に差しつかえる。待ち時間が惜しいので、お茶を頼み、店先の湿気たようなビスケットを一包み買って、簡単にお昼を済ませてしまうことも多かった。
茶店のお茶は、缶に入った赤ん坊用の粉ミルクを溶き、粉末に近い紅茶の葉で煮立てて煤けた鍋で作ってくれる。棚を見ると使用済みの缶は、捨てずに水汲みや入れ物として再利用している。
マルファの村の食堂でダル・バートの定食を食べ終え、食後のお茶を飲んでいると、二人連れのシェルパが店に入ってきて隣に座った。
山の案内人かポーターとして働いているらしく、真っ黒に雪焼けして、頑丈な登山靴を履いている。一人は既に酔っていて大声で喚いていたが、そのうち机に突っ伏して泣き始めた。連れが肩を叩いて慰めている。店の主人も酒を持って出てきて話に加わるうち、一人のシェルパが訊いてきた。
「お前は日本人か」
頷くと、
「俺は前に日本隊に雇われたことがある」
途端に懐かしがって相好を崩した。
ナカムラ、ハヤシとその時の隊員の名前を正確に挙げ、別れる時に貰ったのだとアノラックを脱いで見せてくれた。加藤と漢字でネームが入っている。
「日本隊はセーターもくれた。この靴も靴下も」
男は着ているものを次々指さした。
「日本隊はとても良かった、また会いたい」
酔うほどに感傷的になるらしく、男は遠い日を思い出す目になってそう繰り返した。雇主とシェルパの関係以上に、強い絆や友情が生じていたのだろうと思う。
もう一人のシェルパは、ずっと泣いていた。
事情を聞くと、彼らはダウラギリ登頂を目指した欧州隊に雇われて登山し、たった今、下りてきたばかりなのだった。登頂は悪天候に阻まれて失敗し、隊員やシェルパに犠牲者が出たという。
「仲間のシェルパが目の前で死んだ」
かなり酔いが回っている様子の男は、そう叫んで酒のコップを一気に空け、机に突っ伏して激しく泣き続けた。その様子に慰める言葉もなかった。
マルファを出ると、いくらも歩かないうちに、草原の向こうにジョムソンの町が見えてきた。
標高は二千七百メートル。
この辺りでは最大の町である。チェック・ポストがあり正規の許可証を持たないトレッカーを、割に厳しくチェックしている。
タトパニからここまで、ずっとカリ・ガンダキの流れに沿って歩いて来たが、ここから更に川の上流へと向かい、いよいよ明日からは深い山に入る。目指すムクチナートへは後二日の行程になった。
川の流れは狭まり、浅瀬が続いている。村の女たちが河原でしゃがんで、黙々と石を拾っているのが見えた。拾ってはそれを割り、中を見ている。
興味を感じ、降りて行って見ると、彼女たちは売り物にするために、化石を探しているのだった。拾った化石を見せて貰うと、二つに割れた黒い石にはっきりと巻き貝の模様がついている。
見分け方を教わり、石を探してみた。
これと思う黒い滑らかな石を選び、石の上に置き、別の大きな石で割ってみる。運が良ければ、石がきれいに二つに割れて、渦巻き状のアンモナイトの貝が現れるというのだ。
河原には無数の石ころがあるし、その中から貝の入っていそうなものを選るのは、大変な作業だった。またせっかく化石が入っていても、きれいに割れず、貝の形が潰れたり欠けたりすれば、値打ちは下がるらしい。事実河原には惜しくも砕けた化石片があちこちに散らばっていた。
いくら見当をつけたからと言って、そう簡単に化石が見つかるものではない。石でぶつけて石を割る作業を続けているうちに、段々手が痺れて痛くなってきた。
所詮無駄な努力なのだ。もう諦めようと思った。後幾つか試してみて本当に終わりにしようと、手にした黒ずんだ石を平たい石の上に置き、別の石で力を込めて割ってみた。すると信じられないことに、端は潰れたものの、黒く艶やかな渦巻き模様が石の上に浮き上がっていたのだった。
本当に諦めた時に、思いがけなく望みが叶ったのだ。
何十回目かの石の一撃によって、二億年前に海底を這っていたに違いない小さな生命と、思いがけず出会うことができた。遠い昔にここで生き、生を終えた命の証を指でなぞってみる。そっと触れつつ、この石に封じ込められていたその生物の、気の遠くなるような長い静かな眠りを思う。
生涯のお守りにしようと心に決め、化石をハンカチで包んでリュックの底にしまい込んだ。
その後ずっと川を溯った。
予定ではカグベニという村に着くはずだったのだが、どこまで行っても村は見えない。化石を探したりして時間を取ったのがひびいた上、どこかでうっかり見落として、川筋から入るべき道を見失ってしまったのに違いない。
道を訊こうにも誰一人トレッカーには会わず、行き交う村人の姿もない。この時初めて本当に不安になった。これまでは曲がりなりにもジョムソン街道と呼ばれる道で、少ないながらも旅人や村人の往来はあったからだ。
地図を見ても今の地点がどうしてもわからない。
行き過ぎているのかどうかも判断できない。引き返した方がいいのか、進んだ方がいいのか、考えては迷った。次第に空腹感も募ってきた。予備として非常食の用意はあるものの、それは事故など余程の非常事態が起きた時のためのものだった。
次第に疲れて足取りが重くなって来る。
夕闇が近づいて来て、不安で気持ちが一層焦り始めた。落ち着こうとして、木の根元に座ってしばらく休憩し、考えをまとめた。次第に辺りは暗くなってくる。
もう少し進み、何とか人家を探してみよう。シュラフもセーターも水も持っているが、戸外での野宿は避けたかった。
一人で不安だった。でも誰にも出会わなかった。このまま進むと、進入禁止区域のムスタンに近づいてしまうのではないか。心配が増えて胃が痛くなってきた。うろうろ歩き回っているうち、どういう方向にきているのか、もう訳が分からなくなった。
その時、ふっと前方に細長い旗指物が翻っているのが夕闇を透かして見えた。
布は色褪せ、経文か真言の類を黒く刷った文字も薄れかけている。その向こうに村落の家の明かりがぼうっと重なって見える。
ちぎれた薄い布切れの魔よけの旗が、吹く風に靡いて揺れていたのだった。それはチベット人の村落に入ったことを、旅人に視覚的に示す、実に印象的なシンボルで、村の入り口には必ず数本立てられている、タルチョと呼ばれる幟だった。
ここが探していたカグベニ村らしい。途端にほっとして力が抜け、幟の前に座り込んでしまった。
夕闇に包まれたカグベニの村は静かだった。
高度が上がってきているのか、吹く風に寒さを感じる。村道脇の小川で泥のついた手を洗っていると、水は氷水のように冷たく、背後の樹木の緑は深くて濃かった。通り掛かった村の子供に頼むと、宿屋へと連れて行ってくれた。
宿はどっしりとした構えのチベット家屋で二階建てだった。門をくぐると、階下に馬が繋がれている。居間も台所も広々として大きい。
台所で暖かい夕食を貰った。主婦は英語をあまり話さず、何を訊いても首をかしげて困っていた。家族と同じダル・バートの皿を一皿、塩入りの熱いバター茶をたっぷり注いで貰って寛いでいると、次第に気持ちが和んできた。ダル・バートは、日本で言えば、みそ汁、御飯、漬物、の感覚であろう。
案内された寝室は奥にあった。一歩入ると目が壁に吸い寄せられた。
彩色を施されたチベットの仏画が、壁一杯に描かれていたのだった。寺院の壁によく描かれるような本格的なものではないだろうが、それでも充分に宗教的な雰囲気を味わわせてくれる。広くて立派な部屋だった。中程に古いストーブがおいてあるが、最近使われた形跡はなく、くべる薪はない。煙出しが長く室外に伸びており、薄く埃が積もっていた。
部屋の中央の柱には、古びた武器が束ねて結わえ付けてあった。武具にそっと触れてみる。
古い刀、槍、それと弓矢が無造作に束ねて朱色の紐で巻かれてあった。紐は埃を被り、刀剣類は錆び付いて柄から離れそうもない。握りの部分には黒く手垢が染み付いている。弓もひどく破損している。かつては実戦に用いられたものなのだろうが、今見ると古く美しい骨董品に映る。
誰がどんな時代に使ったものなのだろう。この家に代々伝わるものであろうか。この武具の横で、仏画を見ながら眠ったら、遠い昔の夢を見るかも知れない。
部屋には木のしっかりした拵えの寝台が幾つもあった。奥まった場所の一番頑丈で上等そうな寝台を選んだ。夜は更けて静まり返り物音一つしない。泊まり客は他にいない。冷えるのでありったけの服を着込んでシェラフに潜る。
明け方近く、寒さのために目が覚めた。
体が小刻みに震えてくる程寒い。室内を見ると、隣室との境界にある小窓に、カーテン代わりに白布が吊ってあり、そこに朝日が差し込み始めた。白布に大きな仏像の横顔がシルエットになって映っている。
そっと隣室との境の窓の布を上げて見ると、隣室には天井まで届きそうな仏像が一体、安置されていた。供え物もしてあり、白い薄布を掛けたダライラマらしい写真も飾ってある。個人の家で祀るものにしては、かなり大きい。ここは寺だったのかも知れない、と思った。
宿を出てムクチナートへと向かう山道に入った。
山からの風は冷たさを増してきた。これまでの行程はずっと川の流れに沿う道だったが、今からは川筋を離れ、峠を目指すことになる。ジョムソンまではトレッカーが多かったが、ここへ来ると急に数が減り、今日は朝からまだ一人のトレッカーにも会わない。
最初の集落を過ぎた頃から、ちらちらと空に白いものが舞い始めた。
村外れに小川が流れており、ぬかるんでいたので、思い切って一息にそこを飛び越そうとしたのだが、滑って両足とも氷水のような川に浸けてしまう、という思いもかけぬ失策をしてしまった。
運悪く代わりの乾いた靴下はない。深い溜め息が出た。もうこのまま我慢して行くより他ない。構わず歩き続けて行くと、時間が経つにつれて、痺れるように足先が冷たく、痛い程になってきた。
雪は断続的に降り続けた。
ジャルコットの村を過ぎ、最後の峠に差し掛かると、道端で村の女たちが、固まって道路の補修工事をしているのが見えた。こんな仕事は、普通男向きだと思われるのだが、チベットの女たちは実によく働いている。
広げた目の粗い布に土を乗せての土運び、紐を付けたショベルを使ってする地馴らし、など黒いチベット服の女たちは、こんな天候にも拘らず手を休めない。声を合わせて、何かゆったりした調子の労働歌を歌って皆で拍子を取りながら、地面を叩いたり崩したりして作業を続けている。
日本の労働者もかつては、工事現場での作業中に、こうやってリズムを取りながら、皆で歌を歌ったのではないだろうか。日本でこういう労働歌が消えてもう久しい、と思う。
日に焼けて逞しい体つきの女たちは、脇を通り過ぎるとき、にっと白い歯を見せて笑いかけてきた。私も笑顔を返した。同じモンゴロイドの女同士、言葉はわからなくても、目が会えば通じ合うある親しみがある。
女たちの歌を背後に聞きながら、ゆっくりと峠を登って行った。峠に立つと、下方は厚く雲がかかり、霞んでいた。急に雪混じりの風が巻き上がってきて、立ち止まっているとひどく寒い。吹雪いて来る前にと思い、歩き始めた。ムクチナートはもうすぐ目の前だった。
一気に歩くと小屋らしいものが二軒見えてきた。そこがムクチナートだった。とうとう着いたのだ。
上方にある小屋に荷物を置き、場所を聞いて、「神の火」を見に出かけた。雪は止まず、空は重く灰色に閉ざされている。山道を辿って行くと、斜面に張り付くように建てられている、ヒンズー寺院が見えてきた。
標高は約三千八百メートル。
ゆっくり歩いているのだが、息が切れて苦しい。漸く寺院の庭に入り、見回すと、粗末な服を身に纏った堂守の老女が正面にひっそりと座っていて、私を手招きした。
こんな山奥に住み、まるで世を捨てたかのようにみえる老女は、最も神の近くにいる人たちなのだろうと思う。何か岩に覆いが被せてある。幾らかのお賽銭を渡すと、老女は被せてある覆いを外し、
「ここにこうやって膝をついて、中の火を拝むように」
手まねでそう教えてくれた。
言われた通りに身を屈め、中を覗き込むと、暗い岩の間にぼっと一つの炎が明るく燃えていた。火に向かって長いこと両手を合わせた。
肩に雪が落ちた。
無言で火を見つめていた。
これが三千年間燃えていると言う神の火なのだ。
恐らく岩の間から、天然ガスが少しずつ噴き出してきているのであろう。古くからここが聖地とされ、ヒンズー教徒やチベット仏教徒の信仰の対象になっているのは、この火が単なる自然現象のせいではなく、神のある意思の反映によって、永遠に消えずにここに在る、と信じられている故だ。
この聖地はまた「百の泉」と呼ばれているという。
サーラ・メーバル(土に火が燃える)チュラ・メーバル(水に火が燃える)ドーラ・メーバル(石に火が燃える)という三種類の火の伝承があるというが、長い年月の間に既に燃え尽きたものもあるらしい。
目の前にある一つの火を見つめていると、その炎の色には、極めて暖かい人間的なものが感じられた。
神聖さや霊性というよりも、この時、人の心の奥深く、血が流れ、生命の鼓動と共に根源としてあるもの、そこで静かに燃え続ける温もりのある生命の芯、そういうものに、じかに炎を通して触れている思いがする。見知っていたが、失ってしまったものに今再び出会い、その存在を確かめているような感覚があった。
これは時を超えて燃え続ける小さな生命の火なのだ。
揺れる火は、その前に額づく者の心をただ暖かく包み込む。
(死なずにもう少し自分の力で生きてみなさい)
そう励まされているような心持になった。
雪は降りしきっていた。
冷えきった体を起こし、体に張り付いた雪を手で払った。無事にこうやって念願の火に出会えたことに心が満たされ、小屋へと戻って行った。
夜、小屋の外へと出てみた。
稜線が黒く、シルエットを形づくっている。辺りはしんと静まって、一時雪は止んでいるが、代わりに冷たい風が谷から押し寄せて来た。鈍い光の輪となった月が空から白い光を投げ掛け、耳が痺れるようだ。
昼間あの火の前で額づいた時、何の信仰も持ってはいないのにも拘らず、自分を小さな巡礼者の一人のように感じていた。ヒンズー教のことは皆目わからないし、教義も知らない。チベット仏教についての知識もない。
けれど、この火に触れ、火から生きる力を貰いたい、と素朴な形で心の中で密かに願い続け、遥か遠い地からひたすらそこを目指して、苦労して歩き続けてきた行為自体は、素朴な信仰の原型に近いものであったかも知れない、とも思う。
夜半になるとひどく冷え込んできた。
小屋は土間に簡易ベッドを並べた一間きりの大部屋だったが、ドアはなく、簡単な囲いの間から隙間風が幾らでも吹き付けてくる。入り口近くに寝ていると、夜中に咳き込んで止まらなくなった。周囲の人の眠りを妨げるまいとシェラフに顔を埋めてこらえる。長い夜だった。
早朝起き上がって足元を見ると、夜中、風に飛ばされて吹き込んできた雪が、小山のように盛り上がっている。寒いはずだった。
翌朝ムクチナートを後にし、来た道を下って行った。
昨夜の冷え込みで風邪気味だったが、足取りは軽く心は満ち足りていた。
チベット人の村落を通りかかると、村の青年が一人、庭で鞍の手入れをしているのに出会った。日本人かと親しく声を掛けてきて、一言、二言言葉を交わすうちに、青年は英語がかなり出来ることに気づいた。
カグベニを通らずに、ジョムソンへ直接抜ける近道を尋ねると、実に流暢な英語の説明が返ってくる。
青年は何年間か首都カトマンズにいたことがあって、それでこんなに英語が話せるのだという。彼の家は村道沿いにあるので、気が向けばここを通る各国のトレッカーに声を掛け、必要な情報を教えたりし、色々面倒をみているらしい。
以前日本のテレビ局がこの地域を取材に来たことがあって、その時も語学力を買われ、一行にずっと付き添って通訳を務めたのだそうだ。私がカトマンズにしばらく滞在した後、ここへ来たと言うと、青年はふっと過ぎた日を懐かしむ目になった。
首都で学生生活を送ったのだと当時のことを話しながら、その表情はどこか寂しげにも見えた。都会での生活を経験した若者にとっては、このように平穏過ぎる山の中での毎日はさぞ退屈だろう。その心の中の鬱屈を思ってみる。
庭で立ち話をしていると、家の人が湯気の立つ熱いお茶を持ってきて勧めてくれた。ミルクティーにバターがたっぷり入った濃厚なチベタンティだった。庭先には馬の鞍が置いてあり、厩には何頭もの馬が繋がれている。裕福そうな家だった。
ふと思いついて、カグベニで泊まった不思議な宿屋のことを訊いてみた。壁に描かれた仏画、大きな仏像、そして古い武器、と説明していると、
「その家ならよく知っているよ」
青年は笑いながら言った。
そこは彼の親戚に当たる家で、この地方を支配した領主の家だったという。あの仏間はプライベート・ゴンパ(寺院)と言い、布の仏画のことはタンカ、写真に掛かっていた薄い白布は、カタと言うそうだ。
時代の流れで、こうした在来の村の旧家が現金収入を得る方法として、宿屋経営に踏み切っているらしく、彼の父親もこの村でロッジを建設中だと言っていた。
雪が止んでいる間に出発しようと思い、礼を言って家を辞した。青年は繋がれた馬を指差して言った。
「もし乗れるのなら貸してあげるから、ジョムソンまで乗っていったらいい」
着いたらそこで乗り捨てるだけでよく、馬は賢いので、道を知っていて勝手にここまで戻ってくるという。借りてみたかったが、乗馬の経験と言えば、子供の頃遊園地のポニーに乗ったことぐらいである。険しい山道をこういう馬で行ける訳もない。教えて貰った近道を歩くことにして、ジョムソンに向かった。
その日はジョムソンの飛行場前の宿屋に泊まった。
天候次第で、飛ぶかどうかはわからないと聞いていたが、飛行機便を、翌朝うまく掴まえることが出来た。それはまるで赤とんぼのように小さな飛行機だった。
早朝、赤く染まった雲海の上を、飛行機は揺れながら飛んだ。
行きは地虫のように地面を這って何日もかけて進んだが、帰路は峰を見降ろして鳥のようにポカラに飛び帰ったのだ。
機上から見ると、やはりダウラギリはずば抜けて大きくて、居並ぶ他の山々を圧していた。
最も美しかったのはマチャプチュレで、「魚の尾を持つ雪の峯」と称えられるその名の通り、天に向かって勢いよく跳ね上げた尾びれが、見事な造形のまま空中に静止している様子は神々しく、白い彫像のように清らかだった。
雪が朝日を受けてオレンジ色に輝き、山裾は左右に流れるような曲線を形づくっている。いつまでもその優美な姿に見とれているうち、山は次第に遠ざかり、小さな機は草地の広がるポカラの飛行場に近づいていった。
(初出「とろっこ」)