一磐座探訪一
出雲大神宮(丹波一宮) 御蔭山
一磐座探訪一
出雲大神宮(丹波一宮) 御蔭山
丹波一宮の出雲大神宮は京都の亀岡市にある。どうしてここが出雲なのかと、かねてから不思議に思っていた。それについては諸説あるという。以前京都に住んでいたときにも、訪ねようと思いつつ、機会がないまま引っ越してしまい、自宅からは遠くなってしまったが、今回出雲大神宮と山中の磐座を訪ねることにした。
JR嵯峨野線に乗って嵐山を過ぎ、窓の外を眺めていると、眼下に広がる保津峡の景観に惹きつけられる。緑滴る山中をうねりながら流れていく保津川の急流は、ところどころ白く渦を巻き、いくら見ても見飽きない。時折保津川下りの船が巧みな櫂さばきで岩の間を抜け、嵐山に向かって降りていく。背後の山並みも、緑が目に染みるようだ。
以前清滝から保津峡駅までハイキングしたこと、愛宕山に登山したこと、水尾の里まで歩いたこと、また遠い記憶になるが、子供の頃、紅葉の季節に家族で亀岡から保津川下りを楽しんだ折、船がごつんと何度も岩にぶつかって恐かったが、そのたびに盛んに飛沫がかかって面白かったこと、また船上から手を振ると、岸を歩いている人が気づいて笑顔で手を振って応えてくれて嬉しかったことなど、次々思い出されて懐かしい。
亀岡駅で降り、北側を見回すとそこにはのどかな田園風景が広がっている。背後には山が連なっており、山麓には民家と田畑が見える。駅前から路線バスに乗ると、バスはまず保津川に掛かる橋を越えていった。そこは川下りの船が出発する船着場になっていて、トロッコ列車でやってきたらしい団体客が川を見ながら船を待っていた。
バスは保津川を離れ、のんびりした里山の情景の中を北に向かって走っていく。目的地まで十五分ほどであった。丹波一宮は現在「出雲大神宮」と称するが、バス停の表示は「出雲神社前」で、神社入口にある石柱にも「国幣中社出雲神社」とあった。古くはそういったのであろう。
鳥居をくぐると、右手に「真名井の井戸」があった。岩の間から豊かに水が流れ落ちており、注連縄が張ってあるのでご神水とわかる。手を浸してみるととても冷たかった。ミネラル分の豊富な水だという。地元の人がペットボトルやポリタンクを持参し、この名水を汲んでいた。
兼好法師の「徒然草」二百三十六段にこの神社の狛犬の話が載っていて、よく教科書にも取り上げられている。「丹波に出雲といふ所あり。大社をうつしてめでたくつくれり」と書き出されるあの話である。
都からお参りに来た聖海上人が、狛犬が後ろ向きになっているのを見て、感動する。さぞかし由緒のあることだろうと思って、神官を呼んで尋ねると、神官は「其のことに候。さがなきわらはべどもの仕りける」とこともなげに言って、元へ戻したというのである。子供の悪さだったのだ。「上人の感涙、いたづらになりにけり」で話が締めくくられている。
近づいて狛犬をよく眺めたが、しっかりと固めてある。新しそうでむろん往時のものではなさそうであった。近くには、ご神木の樹齢千五百年という珍しいオガタマノキ(招霊の木、モクレン科)があった。
祭神は国造りをした神、大国主命(おおくにぬしのみこと)、その妻神の三穂津姫命(みほつひめのみこと)。三穂津姫は高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の娘である。日本書紀の国譲りの項には、二人の婚姻に関して次のような記述がある。(大物主命は、大国主命と同一視される神)
・・・・高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、大物主神(おおものぬしのかみ)に勅(みことのり)すらく、「汝(いまし)若(も)し国神を以て妻とせば、吾なほ汝を疎き心有りとおもはむ。故、今吾が女(むすめ)、三穂津姫を以て、汝に配(あわ)せて妻とせむ。八十万(やそよろず)の神を領(ひき)いてひたぶるに皇孫のために護り奉れ」とのたまひて、すなわち還り降らしむ。(日本書紀 神代下)
(高皇産霊尊が大物主神にみことのりされるのに、お前がもし国つ神を妻とするなら、私はお前が、なお心を許していないと考える。それで今わが娘の三穂津姫を、お前に娶(め)あわせて妻とさせたい。八十万(やそよろず)の神たちを引き連れて、永く皇孫のために守ってほしい、といわれて還り降らせられた)
大物主神は大和の三輪山に鎮座する神(大神神社の祭神)、またすぐその前にはこんな記述も見える。
・・・・経津主神(ふつぬしのかみ)は岐神(ふなとのかみ)を先導役として方々をめぐり歩き平定した。従わない者があると斬り殺した。帰順する者には褒美を与えた。この時に帰順した首長は、大物主神(おおものぬしのかみ)と事代主神(ことしろぬしのかみ)である。(日本書紀より)
書紀の記述によれば、高皇産霊尊の命により、帰服の証として婚姻が行われたというのである。文面を見る限り、かなり高圧的な表現ではある。本居宣長によれば、大物主命は、幽界に去った後の大国主命の名とされているのだが・・・・。(大物主の「もの」とは、鬼、霊魂、精霊などを意味するという)
本居宣長の「大物主は大国主の幽界の名」という説に従うなら、勝者側が、国を譲って幽界に入った敗者に対する慰霊のため、せめてもの手向けとして、妻を与えたということになる。死者と生者の婚姻というのも現実的ではないので、意味を拡大解釈し、生きてはいるものの、すでに政治的生命を失い、実質的には大国主ではなくなって大物主という幽名となり、死者にも等しい存在となった敗者への、懐柔、監視、服属儀礼としての婚姻であったかとも思われる。
何はともあれ、国津神の大物主命(大国主命)と、天津神の娘、三穂津姫命の婚姻は
両勢力の接する地、丹波の国の御蔭山の山麓で、天津神と国津神の融和の証としてなされたようだ。また書紀の国譲りの記述を見る限り、両勢力間には大きな戦闘があったようではないのだが。
次に古事記のほうの国譲りの場面をみてみよう。古事記には、大国主命と三穂津姫命の婚姻の記述はなく、また平和的に事が運んだようでもない。
・・・・十つかの剣を抜きて、その剣の先にあぐみ坐(い)て、その大国主の神に問ひたまひしく「・・・・汝が領(うしは)ける葦原の中つ国は、我が御子の知らさむ国と言よさせたまへり。汝が心いかに」・・・・。
・・・・「僕(あ)はえ白(もう)さじ。我が子八重言代主神これ白すべし・・・・」
・・・・「恐(かしこ)し。この国は天つ神の御子に献(たてまつ)りたまへ」といひて、その船を踏み傾けて、天の逆手を青芝(あをふし)垣にうち成して隠りたまひき・・・。
・・・・「また白すべき子ありや」
・・・・「我が子、建御名方の神あり。これを除(お)きては無し」
・・・・建御名方の神、「誰ぞ我が国に来て、忍び忍びかくもの言ふ。然らば力競べせむ・・・・。」
・・・・かれその御手を取らしむれば、すなはち立氷に取り成し、また剣刃に取り成しつ。
・・・・すなわち逃げ去(い)にき。かれ追ひ往きて科野の国の州羽の海に迫め到りて、殺さむとしたまふ時に、建御名方の神白さく、「・・・・この地を除(お)きては他(あだ)し処(ところ)に行かじ。・・・・この葦原の中つ国は、天つ神の御子に命のまにまに献(たてまつ)らむ」とまをしき。・・・・
・・・・「僕(あ)も違はじ。・・・・ただ僕がすみかは、・・・・天の御巣のごと、底つ石根に宮柱太しり、氷木高しりて治めたまはば、僕(あ)は百足たらず八十くま手に隠りて侍はむ。・・・・」 「古事記」より
大己貴神(大国主命)は、やって来た天津神の建御雷神(たけみかずちかみ)に国譲りの諾否を迫られたとき、息子の八重言代主命(やえことしろぬしのみこと)に相談する。海上にいた言代主命は国譲りを承諾したあと、呪いと思われる所作を行った後、海に入り水死する。もう一人の息子、建御名方命(たけみなかたのみこと)は、武力で建御雷命に抵抗するものの、諏訪に追い詰められ、以後諏訪の地を出ないことを約束させられたうえ降伏した。頼みとする二人の子を失った大己貴命は、壮大な宮殿を建ててもらい、そこに退くことと引き換えに、自分の国を譲り渡すのである。
・・・・僕(あ)が子ども二神の白せるまにまに、僕(あ)も違はじ。この葦原の中つ国は、命のまにまに既に献(たてまつ)らむ。 (古事記)
・・・・吾は退(さ)りて幽事(かくれたること)を治めむ。・・・・身に瑞(みず)の八坂邇(に)を被ひてとこしへに隠れましき。 (日本書紀)
書紀では(大和の大国主命は殺された、とは記述されていないけれども)、その死が暗示されている。事の真相、その核心部分は不明である。
なお川村二郎氏によると「大己貴神(おおなむちのかみ)とは、大国主命(おおくにぬしのみこと)の別称だが、天津神に対する国津神、高天原の神々に対する先住土着の神々の、代表者をこの名は指している。・・・・しかしそれにしても大己貴神とはそもそもいかなる出自の神か。常識的には出雲の神とみなされているにちがいないが、本来出雲系なのかどうか」さらに「一宮記を見ると、大己貴神を祭神とする社が十社もある。すべて出雲(あるいはその他どこか特定の地)からの勧請とするには単純過ぎる」とも。(日本廻国記 一宮巡歴)
つまり大己貴神、大国主神とは固有名詞ではなく、各地のそれぞれの地霊や神の称え名、尊称であって、必ずしも出雲固有の神とも限らないようだ、と考察しておられるのである。けてにの
(大和を領していた)国津神の大国主命と、天津神系の三穂津姫命は、命令によるものではあったが婚姻し、遠い昔にこの地で暮らしたという。(大国主命と大物主命では、その意味が異なるのかもしれないが、神社の表記に従う)。
「出雲国造神賀詞」によると、大己貴命(大国主命、大物主命)は、天孫への国譲りの際に、自分の和魂を大和の三輪山に皇孫の護り神として貢(たてまつ)り鎮め、味鋤高彦根命、事代主命ら三人の子神たちの和魂も、同様に大和の神奈備の社にそれぞれ皇孫の守護神と貢り鎮めて、自らは杵築宮に退去し、鎮まったとされる。
大物主命は現在も三輪山に鎮座し祭祀されている神である。大和の金剛葛城の台地には高天原の伝承地があり、天孫降臨の伝承も残っており、大己貴命(大国主命)の子神たちを祀る古社も存在し、国譲りの伝承地ともいわれているが・・・・。
国譲りは各地であった出来事と推測されるし、国譲りの際に生じたさまざまな逸話も習合して記紀に取り込まれて載ったとも考えられるが、この問題はここではこれ以上深入りせず、また別の機会に考えることにしたい。
出雲大神宮の社伝、由緒によると、祭神の大国主命は、出雲から勧請されたのではなく、当地から大国主命のみが出雲へ遷されたということである。そのためここは「元出雲」と称するのだという。出雲大神宮の社号もそれに由来するとされる。
妻となった三穂津姫命は御蔭山に鎮まる古の神、国常立尊(くにのとこたちのみこと)をお祀りし、死後は御蔭山に葬られたと伝わるそうである。(大国主命が出雲に遷った後も、当地にとどまっておられたという意味であろうか)
三穂津姫はf巫女のような人であったのか。大国主命との日々は、たとえ政略によるものであったとしても、穏やかで幸せなものであったと思いたいが。
当地は出雲と大和の接点に当たる地で、古くは出雲の人々が住んでいたともいわれているという。いずれにしても丹波の国、亀岡に出雲の地名は疑問に感じていたし、そこには国譲りに絡む何らかのいきさつがあったかと想像される・・・・。
記紀や文献に詳細な事情は語られておらず、事の真相は不明である。大国主命と三穂津姫命は「縁結びの神様」「天地結びの神」として秀麗な御蔭山の山麓の出雲大神宮に今も鎮まっている。
御蔭山
社の背後右手には、国常立尊(くにのとこたちのみこと)を祀る神体山の御蔭(みかげ)山(標高四二〇メートル)が聳えている。国常立尊は天地(あめつち)の初発(はじめ」、記紀の最初の記述に現れる神である。
・・・・時に天地の中に一物(ひとつのもの)生(な)れり。状(かたち)葦牙(あしかび)のごとし。すなはち神と化為(な)る。国常立尊と号(まう)す。(日本書紀)
・・・・次に成りませる神の名は、国の常立の神、次に豊雲野の神。この二柱の神も、独り神に成りまして、身を隠したまひき。(古事記)
御蔭山は、遠い時代からの聖地であったらしい。きれいな三角錐の山と思われるが、今のこの境内の位置からだと形は少々わかりにくい。
本殿の裏に回っていくと、林の中に祠や磐座、社が点在していた。数が多いのにもかかわらず丁寧にお祀りされていて、注連縄が巻かれ柵で囲ってある磐座もあった。みかげの滝と名づけられた滝や、夫婦岩など名前のついた磐座もある。広い箱庭の中にいくつもの磐座が程よく配置されたかのようで、舟形や丸型などそれぞれの磐座の形に特徴があり、思いがけない磐座と遭遇できる境内であった。
ほの暗い中、木漏れ日の揺れる湿潤な小道を辿っていくと、せせらぎがあり、その向こうに心和む静かな森の情景が広がり、色んな摂社に行き当たる。木々の間には五~六世紀頃という古墳も口をあけていた。
御蔭山は神体山で、国常立尊を祀ると伝えられる。山中には磐座があるということなので、それを見るべく上っていくことにする。川村二郎氏の本に「格別結界化されてはいないが、御蔭山と呼ばれるその神体山に登って見ても・・・・」(日本廻国記 一宮巡歴)などとあったので、これを参考にし、簡単な道なのかと勝手に思い込んでしまったのである。
山道の途中、向かって左手に磐座を見たので、手を合わせて挨拶する。木々に囲まれた位置にあるためか、枝が陰を作り暗くなっていて、そのせいかどことなく重たい感じを受ける。左右に石灯籠を従えた立派な磐座であった。
見るとそこから道が左右に分かれていて、迷ったが広くなっている右の方の道をとった。その歩きやすい広い道が切れると、ふっと道がなくなってしまい、草はぼうぼう、一転して荒れ果てた光景となった。急な斜面が続き、このまま上がれるかどうか不安になってくる傾斜であった。細い道跡がところどころにあるが、うまく繋がっておらず、どう目を凝らしても、それは草に埋もれて消えているのである。途方に暮れたが、せっかくここまで上って来たことではあるし、引き返さずにそのまま我慢して登っていった。そのうちにちゃんとした登山道に出るだろうと思ったのである。
でも道が見つからない。仕方なく木の根や露岩を足がかりにする。ひょっとしたらこれも磐座かもしれず、もしそうだったら申し訳ないと思いつつも足元の岩を踏みつけ、蔓や木の枝をつかんで、何度かずり落ちながら、一足ずつ這い上がっていった。急角度でかなりきつい。鹿や兔だったらこんな斜面など、楽に駆け上がっていくのだろうと思いつつ進む。
そうやって道のないところを苦労して上っていった。ずいぶん時間がかかったように感じたが、だんだん眺望が開けてきて、尾根に出たのでほっとするうち、やっと大きな磐座までたどり着いた。大きな岩が幾つか、どれもかなり迫力があり、重い存在感である。小高い山の上、風が吹き抜けていくのが心地よい。亀岡の町を見下ろす位置にそれらは鎮座していた。
こんなに苦しい思いをして山中の磐座を探し求めたのは久しぶりである。周辺を歩いてみたが、行く手はそのまま谷に落ち込んでいる。さらに別の山がみえる。ここから先へはもう進めないと思った。
改めて磐座を近くで見つめる。こんな歩きにくい場所では、ほとんど人がここへは来ないのではないだろうか。来るのは山の獣だけ、そう思いながらしばらく大岩のそばに座り込んでぼうっとしていた。樹木がさわさわと揺れ、野鳥のさえずりが聞こえ、時折思い出したように風が通り抜け、時が静かに流れていく。そういう雰囲気の中でしばらく過ごした。
大きな二つの磐座にそっと手を触れて挨拶してから、山を降りることにする。来たときの斜面を伝い降りるのはもう嫌なので、見回していると人がつけた目印のある木があった。そこから下り始める。といって道があるわけではなく、やはり立木につかまりながらずり落ちる感じで、でもさっきの斜面よりはましであった。
どんどん降りていくうちに何段か石積みをした平らなところに出て、それは見たところ山城の跡のようであったが、遺構などはもう残っていなかった。そこから道は楽になり、元の分かれ道の石灯籠の磐座の所までなんなく戻ることができた。この石灯籠といい奥まった位置といい、特別な配慮がなされている。もう一度樹木に囲まれたその磐座を見るが、弱い日差しのせいかさっきよりもさらに樹影が濃くなっているように感じられ、それ以上近づくのがためらわれた。
ここを起点にして右の道をとって斜面を上がり、尾根に出て左の道を降りたことになる。でもどうして登山道が見つからなかったのだろうかと疑問だったので、社務所に寄って訊いてみた。
「あのう、御蔭山の登山道のことなんですけど、どこにありますか」
「えっ、あそこは登れませんよ。道がないんです」
普通の道はないということであった。道理できついわけであった。登る人も滅多にないのだろう。ひょっとして禁足地だったのでは・・・・と思い当たり、もしそうだったら神様には申し訳ないことであった。
境内を出て池を回り込み、開いていたお店に入って遅い昼食のお蕎麦を頼み、しばらく休憩する。手のひらを見ると、草をつかんだときに切った傷、擦り傷、尖った枝で突いた跡があった。(軍手を持っていれば防げたのだが)この程度の傷で済んだのは幸運だったのかもしれない。急斜面で転んで捻挫などしなくてよかったと思った。
帰途につくことにする。バス停に行くと、帰りのバスはもう出た後で、一日の本数も極端に少ないことから、歩くことにした。バス道に沿って、見つけた公園のベンチやお寺などに立ち寄って休みながら、ゆっくりと時間をかけて亀岡駅まで戻っていった。
いつの間にか辺りは夕暮れになっていた。年もかえりみず道のない山中を無理して歩き回ったせいか、かなり疲労を感じていたが、山中の磐座で過ごした時間は、心満たされる豊かなひとときであった。