一山の辺の道一
大神神社 海柘榴市 檜原神社 相撲神社 穴師坐兵主神社
一山の辺の道一
大神神社 海柘榴市 檜原神社 相撲神社 穴師坐兵主神社
近鉄桜井駅に降り立ち、外を見ると、細かい雨が降っていた。山の辺の道は、桜井~天理~奈良を結ぶ道で、日本最古の公道といわれている。一日で天理まで歩くのは無理なので、今日は穴師までの予定である。炎天下を歩くより、こういう雨模様のほうが、かえって涼しくていいかもしれない。
海柘榴市(つばいち)
町の通りを進み、交差点を右に曲がってJRの踏切を越えていくと、雰囲気のある山並みが眼前に現れた。右手前に鳥見山、その向こうは音羽山だろうか。左手には雨に煙る三輪山が見える。立ち止まって眺めながら北への道をとると、ほどなく大和川(初瀬川)のせせらぎの音が聞こえてきた。
私は子どもの頃、下流のほうの大和川で泳いだことがあり、橋から流れを見ていると、当時の川水の感触を思い出し、懐かしさを覚えた。街中を縫っていた川と違って、山から流れ下ってきたばかりと思われる、ここの水の表情には、まだ生き生きとしたものが感じられる。
水草が緩く靡く岸を、青サギが一羽、餌を探して歩き回っているのを目で追った。堤には「仏教伝来の地」の碑があり、この地にまつわる歴史が説明してあった。
当時水運を利用して、多くの船がここまでやってきたのだろう。交易で賑わい、新しい文化も伝わり、人も集まって、市も立ったという。推古天皇の時代には、遣唐使小野妹子を、唐から送ってきた裴世清(はいせいせい)ら一行十二人を、この地で歓迎したことが、日本書紀の記述に見える。
・・・・唐(もろこし)の客(まろうど)、京(みやこ)に入る。是の日に飾騎(かざりうま)七十五匹を遣(つかわ)して、唐の客を海柘榴市(つばきち)の術(ちまた)に迎ふ。(日本書紀)
この堤の上に、外国の賓客を迎えるために、きれいな飾り物をつけた馬を並べたのだろうか。それは当時としては、精一杯の歓迎方法だったのに違いない。
川を離れ、海柘榴市(つばいち)のほうに向かって歩いた。日本最古の市が立ったところで、椿の木が植えられていたことによる地名だそうだ。
ここは古来多くの道が交わる所であった。西へ道をたどれば、磐余から飛鳥へ出る。北の方向には山の辺の道があり、山城から近江、越へと続いていく。また初瀬のほうへと行くと、その先には伊勢、東国があり、大和川を下っていけば、難波の海から瀬戸内海へと繋がる。
いわば四つ辻に当たる場所であり、最古の市が立ち、歌垣も行われた、と伝えられている。そこは一つの世界が、別の世界と接する所であり、境界でもあった。四つ辻で人は、見知らぬ人や物と出会うだけでない。時には神にも、魔にも出会ったことだろう。
歌垣とは、男女が集まって歌を掛け合う行事のことで、歌を相手に歌いかけて、求婚したという。春秋に行って、豊作を祈るという意味もあったというが、多くの人の集まる場では、身分を超え、男女の交流も広く行われたのに違いない。
今は静かな町並みと、ひっそりした小道が続いていく空間である。小さな観音堂があり、ここで今日初めて観光客らしい人たちに出会う。雨宿り中の中高年のおじさんが二人、残念そうに、雨足が強まってきた空を見上げながら、ザックからかりんとうの袋を出してつまんでいた。
観音堂を出て歩き始める。海柘榴市の歌垣の雰囲気は、どのようなものであっただろうか。
神が依りつくといわれる椿の木が植えられていて、背後には三輪山がそびえ、南には初瀬川のせせらぎの音が快く響き、開けた草地の向こうには集落があり、遠くに深い森や林が広がっていて・・・・。
歌垣の宵には、さまざまな思いを抱いて、近在から男女が多く集まってきたことだろう。古代では、歌はできるだけ力強く、歌いかけられたに違いない。その声によって、歌にこもる呪力によって、相手の心を掴み、時には競争者を打ち負かすというのであるのなら。
古事記清寧天皇の「歌垣」の項をちょっとみてみよう。袁祁(をけ)の王子と志比(しび)の臣が、歌垣で大魚(おほふ)という嬢子を争う場面である。
しびの歌
大宮のおとつ端手(はたで) 隅傾(かたぶけ)り
(御殿のあちらの端は、隅が傾いている)
王子の歌
大匠(おおたくみ) 拙劣(おじな)みこそ 隅傾けれ
(大工が下手だったので 隅がかたむいているのだ)
しびの歌
大君の心をゆらみ 臣の子の 八重の柴垣 入り立たずあり
(王子様の心がのんびりしているので、臣下の、幾重にも囲った柴垣に、入れないでいるよ)
王子の歌
潮瀬の波折(なおり)を見れば 遊び来る 鮪(しび)の端手(はたで)に
妻立てり見ゆ
(潮の寄る、瀬の浪の砕けるところを見れば、ぶらぶら泳ぎでやってくる、しび魚の傍らに妻が立っているのが見える)
しびの臣、いよいよ怒って歌った歌
大君の 王(みこ)の柴垣 八節結(やふじま)り 結(しま)りもとほし
截(き)れむ柴垣 焼けむ柴垣
(王子様の作った柴垣は、節だらけに結び廻してあるが、切れてしまう柴垣だ、焼けてしまう柴垣です)
王子の歌
大魚よし 鮪(しび)衝く海人(あま)よ 其(し)があれば うら恋しけむ
鮪衝く鮪
(大きい魚の、鮪を突く海人よ、その魚が荒れたら、心恋しいだろう。鮪を突く、鮪の臣よ)
こういう調子で、一人の女性を巡って夜を徹して歌ったとある。相手を威嚇してみたり、貶めたり、いわば言葉による戦いなのであろう。そして翌日、悲劇が起きる。帰宅したしびは、王子の軍勢に囲まれて殺されてしまうのである。妻争いの話になっているが、もしかすればその背景には、政争が絡んでいたかもしれないと思う。
この話は、日本書記武烈天皇の項にも、載っている。それは皇太子(ひつぎのみこ)と影媛(かげひめ)と平群鮪(へぐりのしび)の物語であるが、その原形は清寧記にあるとされる。
歌垣の夜、皇太子(武烈天皇)と鮪臣が影姫を争って、敗れた太子が、奈良山で鮪臣を殺害するという筋であるが、二つの話を読み比べてみると、後者の方が、悲劇性が強調されているのがわかる。よく引用される件りであるが、葬送歌を挙げてみよう。恋人の鮪を殺された影媛が、重い足取りで、山の辺の道を北へ向かって歩いていく、という悲しい場面である。
石の上 布留(ふる)を過ぎて 薦枕(こもまくら) 高橋過ぎ
物多に(ものさはに) 大宅(おおやけ)過ぎ 春日(はるひ) 春日(かすが)を
過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ 玉笥(たまけ)には 飯さへ盛り 玉もひに 水さえ
盛り 泣きそほち行くも 影媛あはれ (日本書記 武烈記)
地名がきれいに入り、響きももの哀しくて、効果をあげている。清寧記にある元の話を、より装飾的にしたのであろうか。歌物語風の逸話ではあるが、政治が絡む悲劇であったような気がする。
また当地に関するものとしては、次の万葉歌が有名で、よく知られているだろう。
むらさきは灰指すものそつば市の 八十(やそ)の衢(ちまた)に逢へる子や誰
(作者 不詳)
たらちねの母が呼ぶ名を申さめど 路行く人を誰と知りてか
(作者 不詳)
大神神社
雨はやまない。少し山側に入ったところで、金屋の石仏を見る。二体あって、弥勒菩薩と釈迦如来が、堅固な建物の中に並んでいた。収納庫のようである。平安時代の作とされるが、鎌倉時代の作という説もある。二体の石仏がどこから来たのか、また今ぽつんとここに置かれてある由来もわからない。元あったはずの堂塔伽藍が、戦火や災害などで失われてしまったのだろうか。
それらを知る手がかりはないが、格子の間から、浮き彫りのみ仏と向かい合う。お顔の表情、丸い光背、緩やかな衣の襞、彫った人の手の跡を、降りしきる雨の中でしばらく見つめる。
金屋の石仏のすぐ近くに、崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)跡があったので、立ち寄ってみた。志貴御県(しきみあがた)神社の境内に宮跡の碑がある。
第十代崇神天皇は、各地に四道将軍を派遣して勢力を伸ばし、予知能力を持つ倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)の助力を得て、政治を執ったとされる。日本書紀崇神天皇の項には、こんな逸話が載っている。
考霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)は武埴安彦(たけはにやすびこ)の反乱を予知するなど、霊力の優れた女性であった。倭迹迹日姫は三輪山の神の妻となっていたが、神は夜にのみ来るため、姿を見たことがなかったので、そう言うと、櫛笥(くしげ)に入っていよう、と神は答えた。翌朝櫛笥を開けてみると、小蛇がいたので、倭迹迹日姫は驚いて思わず叫んでしまった。神はそのことをなじって三輪山に去り、姫は箸が体に刺さって死んでしまった。大きな墓を作って葬ったが、その墓は、昼は人が作り、夜は神が作ったという・・・・。
不気味なものが感じられる逸話である。その死に方も謎めいていて、隠された真相があることを暗示している。
崇神天皇は神を祀ることにも力を注ぎ、大田田根子に三輪山の大物主神を祀らせ、笠縫で皇女豊鋤入姫(とよすきいりびめ)に天照大神を祀らせ、また渟名城入姫(ぬなきいりびめ)に倭大国魂神を祀らせるなどした。
魏志倭人伝に出てくる卑弥呼を、倭迹迹日百襲姫に比定し、卑弥呼の後継の少女壱与(台与・とよ)を豊鋤入姫とし、卑弥呼の館にただ一人出入りしたという男弟を、崇神天皇とみなす説がある。その仮定にもとづくと、この辺りがちょうど邪馬台国の中枢部だったことになるのだが・・・・。
魏志倭人伝では、卑弥呼や邪馬台国の様子は、次のように記述されている。
・・・・名づけて卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも夫婿(ふせい)なく、男弟あり、佐(たす)国を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍らせしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え、居処に出入りす。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。
宮跡にしばらく佇んでみる。ここに多くの建物が立ち並んでいたのだろうか。おそらくこの辺りにあったと思われる神殿が、その中心部であったろうと思われるが。境内では磐座らしいものを幾つか、見ることができる。
高床式の住居、穀物倉、武器庫、楼門、物見櫓・・・・そして周囲は、木の柵で囲まれていたのかもしれない。想像を巡らせつつ、宮跡の神社を後にして振り返ると、雨に濡れた木々の緑が目に染みるようだった。
やがて道は大神(おおみわ)神社の境内に入っていった。
今まで歩いてきた山の辺の道にはほとんど人がいなかったが、ここへ来ると参詣人で賑わっている。大和一宮、日本最古の神社という。お酒の神様としても信仰を集めている。三輪山がご神体なので、拝殿はあるが本殿はない。拝殿の向こうは禁足地になっている。
何年か前に初めてここに来たとき、参道を歩いていると、せせらぎの石垣の上に白蛇がいて、肝を潰した。通りかかった参拝客が数人、立ち止まりじっと見ていたが、誰かが拍手を打って拝むと、皆はっと気づいたようにそれに倣って手を合わせ、拝み始めた。見ていて不思議な思いに打たれた。古代からの信仰が、ここでは今も生きているのを感じた。
別の日のことだが、磐座を見るため三輪山に登拝した。お供え物禁止の札があるにもかかわらず、岩陰や木の根元などあちこちに、卵一、二個と日本酒が供えてあった。卵が割れていたりするので生卵だとわかる。神様が飲みやすいようにと、カップ酒の口が開けてあり、紙パックの日本酒も傾いてこぼれていたりする。岩の前に膝まづき、卵やおもちを置いて一心不乱に祈っている女性もいて、その只ならぬ様子に圧倒された。そういう熱のこもった独特の信仰の形が、ここでは日常なのであろうか。
大神神社境内で神杉や、謡曲「三輪」のゆかりの杉などを見てから、狭井(さい)神社に向かう。社の裏に回り、湧き出る冷たい霊水を頂いてみた。ペットボトル持参でわざわざこの神水を貰いに来る人も多い。
見ていると、狭井神社にもたくさんの卵とお酒がお供えしてあった。参詣人が次々来ては手を合わせ、持参してきた卵のパックやお酒を台の上にお供えしていく。一杯になると、巫女さんがやってきて、お盆にまとめて下げていくが、しばらくするとまた台の上に並び始める。
玄賓庵
狭井神社を後にして、玄賓庵(げんぴんあん)へと向かう。雨が断続し、時折激しく降りしきる。しぶく雨の中、地面を叩く雨音だけが周囲に響く。誰一人通らない山麓の小道を縫うように歩いていると、ふっと今がいつなのかわからなくなり、時が消えていくような感覚を味わった。
古代もこんな風だったろうか。周囲の景色も雨に掻き消されて、ぼんやりと煙っていく。檜、杉の木が道の両側に迫り、木の香が雫になって落ちてくる。清清しい青葉の香りが土の匂いと混ざって漂う。絶えず心に思うのは、古の風景であった。
小さな山門が見えてきた。傘をすぼめて中へ入る。無人の庵かと思われるほど静まっている。お堂の古い木の階段に座って、止まない雨を見ていた。
ここは玄賓(げんぴん)という僧が庵を結んだ所という。桓武天皇のとき、大僧都の位を断って、三輪山中に隠棲したと伝えられる。実際に僧が住んだのはもっと山奥であったらしい。謡曲「三輪」では僧玄賓と、女に姿を変えて庵を訪れる三輪明神のやりとりが、三輪山の伝説も取り入れられた形で描き出される。
境内はよく手入れされていて緑も多く、雨に濡れた石仏などが引き立って見える。不意に後ろのお堂の戸が中から開けられて、堂守のおばあさんが出てこられた。
「こんな雨の中をようお参りに・・・・どちらから、まあ、京都から。ここは不便なとこですやろ。何しろ水道があれしませんのや・・・・」
などと、気さくにいろいろ話された。
玄賓庵を出て再び山の辺の道へ。道は狭く、山裾を黙々と歩いていく。檜が多いようだ。この前ここを歩いたときは、ちょうど春の観光シーズンで、古道歩きの人たちで溢れ、賑やかであった。今は誰一人通らず、同じ道とは思えないほど、侘しい雰囲気である。降り注ぐ陽光のもと、笑いさざめきながら歩いていた人たちの情景のほうが、まやかしのように思われてくる。
薄暗い樹木の間から、目に見えないものに見られているような感じにとらわれて、思わず身を引く。何でもない、気のせいだと思う。でも古道を歩くとは、こういうことなのだろう。幻のように、古代が目の前に束の間立ち現れては、消えていく。現実の光景に重なって、古代がちらちら垣間見えるような気持ちに陥る。小道をさまようように歩くうちに、檜原に着いていた。
檜原神社
雨が止んで、空が明るくなってきた。檜原(ひばら)神社は開けた位置にあって、前述の崇神天皇の皇女豊鋤入姫が、ここで天照大神を祀ったとされる。当時は人里離れた寂しい場所だったのだろう。年若い皇女にとって、厳しく孤独な日々だったのではないだろうか。
書紀によると、それまでは宮の中で天照大神、倭大国魂神を一緒に祀っていたが、
「その神の勢いを畏(おそ)りて、共に住みたまふに安からず」
という状態になったので、それぞれ宮から出して祀ることになった。
書紀には、天照大神は倭の笠縫邑(かさぬひのむら)で豊鋤入姫が祀り、倭大国魂神は、渟名城入姫(渟名城稚姫)が穴磯邑(あなしむら)で祀ったとある。
檜原からの眺望は素晴らしく、遠くには葛城、金剛から二上山の二つの峰、さらに生駒、信貴へと山並みが続いていく。春分と秋分の日には、ちょうど二上山の雄岳と雌岳の間に日が沈んでいくという。このことを古代の人たちは、単なる自然現象とは捉えなかったのであろう。ここが神を祀る地に選ばれた由縁と思われる。
大和三山もよく見え、すぐ近くには倭迹迹日百襲姫を葬った箸墓、豊鋤入姫の墳墓(大神神社による)と言い伝えられているホケノ山古墳がある。けれども最近の学説によれば、ホケノ山古墳ではなく、西殿塚古墳(従来は手白香皇女の墳墓とされていたが、築造時期が合わない)が豊鍬入姫の墓所として有力視されているという。
以前箸墓を訪れて、周囲を一巡したとき、その大きさに驚かされた。全長約280メートルの前方後円墳は、緑濃い木々で覆い尽くされ、こんもりと盛り上がって静まっていた。
箸墓の後、ホケノ山古墳を目指したのだが、地図では近いはずなのに、なかなか行き着けない。遂に鯉の養殖場のような所に迷い込んでしまい、仕方なく乗り越えて上がると、そこがホケノ山古墳の頂部であった。
発掘途中であったのだろうか、頂きが掘り返され、青いシートが広げてあったのを覚えている。そのときの発掘調査では、古墳の造営時期は三世紀半ばと推定されていた。卑弥呼の時代と重なるので、新聞報道も熱が入っていたと記憶する。古墳には複数の人が埋葬されていたらしいが、盗掘もされていて、特に豊鋤入姫を思わせるような遺物は出なかったそうであるが・・・・。
手つかずのまま、森閑としていた大きな箸墓に比べ、ほとんど形をなさないほど崩されてしまっていた小さなホケノ山古墳・・・・。学術調査のためとは思うものの、その場に佇んで、掘り返された足元の赤茶けた土を見ていると、何かしら心痛むものがあった。
その後何年か経って、偶然ホケノ山古墳の前を通りかかったとき、こぎれいな公園風の古墳が再現されていて、目を見張ったことであった。
檜原を抜けて進む。相撲神社を目指したのだが、どこかで道を取り違えたらしく、山から離れてしまった。誰かに訊こうと思うのだが、お店もなく、田畑に人の姿は見えず、通行人もいない。民家の呼び鈴を押して尋ねるわけにもゆかず、困り果てた。やっと自転車に乗った人が来たので呼び止め、教えてもらって正しい道に戻る。
穴師 相撲神社
果樹園の小道を抜けて、穴師の坂道を上っていく。道端に「景行天皇纏向日代(まきむくひしろ)宮跡」という碑があった。景行天皇の治世は、前述の崇神天皇の二代後で、倭建命(やまとたけるのみこと)が活躍したことでも知られる。書紀も古事記も景行天皇の記述は少なくて、専ら倭建命の西征、東征の折の多くの逸話で埋め尽くされている感がある。
設けられた見晴台に立ち寄って、大和国原を眺めてみると、実に感じのよい場所であった。小雨の中なので、ぼんやりと煙った情景しか目に映らないのだが、それでも坂の上から見下ろす盆地の緑の広がりは、心に残った。
ほどなく相撲神社に着いた。垂仁天皇のとき、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たぎまのけはや)が天皇の前で戦ったことが相撲の起源とされている。垂仁天皇は崇神天皇の皇子で、景行天皇の父に当たる。
出雲(島根県ではなく、奈良県桜井市出雲と伝承されている)から召し出された勇士、野見宿禰が、力自慢の当麻の力士、当麻蹶速と勝負をしたのがここだったのだ。それは命がけの試合であったらしい。
・・・・当麻蹶速と野見宿禰と、角力(すまひ)とらしむ。二人、相対(あひむか)ひて立つ。各々足を挙げて相蹶(あいふ)む。即ち当麻蹶速が脇骨(かたはらほね)を蹶み折(さ)く。またその腰を踏み折(くじ)きて殺しつ。 (日本書紀)
激闘だったらしい。負けることは死であったのだ。勝者の野見宿禰は、その力を称えられ天皇に仕えたという。若者同士の単なる力比べというより、宗教的な行為、または呪術の類ででもあったのだろう。あるいは相撲神事に事寄せて、当時の何らかの政治的要素が絡まる背景が、そこにあったのかもしれない。出雲の人と、当麻の人を戦わせてみたということにも、何か意味があったとも考えられる。
勝った褒賞として「当麻蹶速の地(ところ)を奪(と)りて、悉く野見宿禰に賜ふ」などという記述もあり、当麻の地元民にとっては、それは悲しく、やりきれない出来事だったのではないだろうか。
後に野見宿禰の進言によって、古墳造営の際に、生きた人の代わりに、埴輪を作って陵に立てることになり、出雲から土部(はじべ)の民が多く呼び寄せられた、という記述もみえる。
林の中を歩いてみる。相撲神社とはいうものの、社殿はない。探すと奥のほうに野見宿禰を祀る古びた祠があった。林は草が伸び、かなり荒れているが、中央に四本の桜の立木で囲まれた土俵らしい円があり、そこだけ草がない。
説明文を読むと、昭和三十七年に、相撲発祥の地であることに敬意を表し、当時の相撲協会の理事長や横綱、幕内力士らがここを訪れて神社にお参りし、青天井のもとで、大鵬や柏戸が土俵入りを奉納したこともあったそうだ。その折に設けた土俵の跡なのだろう。
穴師坐兵主神社
坂をもう少し上っていくと、穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社に着いた。山奥の森の中の静かな古社である。書紀によれば、ここで渟名城入姫が大国魂神を祭ったとされる。檜原より更に深い山中である。若い皇女にはきっと耐え難い生活だったのだろう。書紀には、こう記述されている。
・・・・然るに、渟名城入姫(ぬなきのいりびめ)、髪落ち体痩(やすか)みて祭(いはひまつ)ること能(あた)わず。(日本書紀 崇神紀)
垂仁紀の一説には、渟名城稚(ぬなきわか)姫は、大市の長岡岬(ながおかのさき)を祀ったが、体が痩せ、弱って祀ることができなかったという記述もあった。
書紀の注によれば、長岡岬の神とは、巻向山の尾崎の神なのだそうだ。渟名城姫はこんな辺鄙な所で過ごすだけでも辛かったと思われるのに、時には巻向山まで出向いて登拝することもあったのだろうか。どちらにしても、体を壊してしまうほどの厳しい日々だったようである。神祀りという名のもとに、選ばれて重い任務を背負わされた、高貴な少女の悲運を思う。
帰途につくことにした。JR巻向駅に向かって、坂道を下りていく。右手に景行天皇陵の古墳の樹木が盛り上がって見えている。人の手が入らないためだろうか、木立の緑は深く濃く、森は鬱蒼としている。
歩いていくと、道端には「垂仁天皇纏向珠城(まきむくたまき)宮跡」という碑があった。濃緑の景行天皇陵を背景に、それはひっそりと立っていて、付近に祠や社などは見当たらない。でもきっとこの辺りに建物群があったのだろう。山を背にした、見晴らしのよい開けた地形で、ここに宮があったことが、たやすく心の内に想像できる、そういう場所であった。
崇神天皇の瑞籬宮跡が、邪馬台国の宮殿だったのかもしれないという可能性については先に触れた。その仮定を推し進めると、卑弥呼の後継者の少女台与が、豊鋤入姫であるかもしれないことについても述べた。
魏志倭人伝には、卑弥呼の後、台与が使者を送ってきて、男女生口三十人、白珠や錦などを献上して朝貢した、という記述が見える。
そのことから推測すると、男王が軍事など政治を行い、女王が祭祀を司っていたという、崇神天皇と倭迹迹日百襲姫が、一対となって進めていたと思われる執政の形を、その皇子である垂仁天皇と皇女豊鋤入姫が引き継いで行っていたという考え方も、できるのではないかと思う。
垂仁天皇と豊鋤入姫は、母が違う兄妹であった。父の政治を引き継いだ垂仁天皇の営んだ宮もまた、その仮定に基づけば、邪馬台国の宮でないとは言い切れないであろう。
今日は山の辺の道を歩いて、海柘榴市や金屋や玄賓庵などを見たが、期せずして、三輪山麓に築かれた崇神、垂仁、景行、三代の天皇の宮跡や、その祭祀の場を巡ったことにもなった。
最後に、倭建命(やまとたけるのみこと)の望郷歌を挙げておこう。みことは先ほどの纏向日代宮を出発して、この山の辺の道を通り、東征の旅に出て行った。帰途、病に倒れ、三重県の能煩野(のぼの)で死を前にしたとき、脳裏に浮かんだのは、おそらくここの光景ではなかっただろうか。
倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣
山隠(ごも)れる 倭し美(うるは)し
(大和はひいでた国、重なり合っている青い垣、山に囲まれている大和は美しい)
・・・・はしけやし 吾家(わぎへ)の方よ 雲居 起ち来も
(懐かしいわが家の方から 雲が立ち昇ってくる)
見上げると、穴師山麓は霧にかすみ、三輪山から巻向山、龍王山へと続く緩やかな稜線が重なり合い、朧に望まれるのだった。