ー月と星の社ー
松尾大社 葛野坐月読神社 櫟谷宗像神社
法輪寺(葛野井宮) 電電宮
ー月と星の社ー
松尾大社 葛野坐月読神社 櫟谷宗像神社
法輪寺(葛野井宮) 電電宮
京都嵐山にある葛野(かどの)の古社、松尾大社は、秦氏が奉斎したお社とされている。阪急嵐山線の松尾大社駅から徒歩数分、山中には古の磐座があり、松尾の神は酒造りの神としても知られている。かなり以前のことになるが、それまで入山禁止であった神域に、一般人も入れるようになったのを報道で知り、松尾山大杉谷の磐座を訪ねたことがあった(松尾山散策 磐座の項)。今回は磐座登拝はせず、松尾大社、摂社の月読神社、櫟谷(いちたに、いちいだに)宗像神社の「松尾三社」を巡ることにする。
松尾大社
両流造り(松尾造り)のお社は松尾山(標高二二三メートル)山麓に位置している。落ち着いた趣のある社殿で、楼門や拝殿も堂々としたもの、境内にはお酒の資料館があり、また全国各地から奉納された酒樽も一箇所にまとめて飾られている。
創建は七〇一年。文武天皇の御代、秦氏の秦忌寸都理(はたのいむきとり)が大杉谷の磐座から神霊を勧請したという。
祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)、中津島姫命(市杵島姫命、いちきしまひめのみこと)の二柱。
大山咋神は古事記「大年の神の系譜」にその名が見える。
「この神は、近つ淡海(ちかつあふみ)の国の日枝(ひえ)の山にます。また葛野(かづの)の松の尾にます。鳴鏑(なりかぶら)を用(も)ちたまふ神なり。(古事記)
祭神名の咋(くい)とは、杭、柱を意味し、古代では土地の領有を示すのに、杭や柱を打って支配域としていたことによるという。大山咋神とは、山に杭を打つ神、つまり山を所有する地主神とされている。鳴鏑、鏑矢とは神事、儀礼に用いられ、ひゅうと音の鳴る特別な矢で、戦の折にはこれを放って開戦の合図とした。大山咋神は近江の日吉大社(日吉大社八王子山・金大巌の項)とここ松尾山に鎮座し、ともに渡来系氏族が祭祀し、山中には古墳群があるという共通項を持つという。
「賀茂の社」の項でも触れているが、「秦氏本系帳」にもこんな説話が載っている。丹塗り矢(神)が葛野川を流れ下ってきたので、洗濯中の秦氏女子がこれを拾って持ち帰ると、神婚の結果、男児が誕生した。父親を知ろうとして祖父母が開いた宴で、父親と思う人に酒杯を捧げよ、というと、男児は人を指さず戸の上の矢を指した。たちまちその矢は雷公となり、屋根を破り天に昇っていった、という神婚説話である。丹塗り矢は神の化身で、この神は松尾大明神(大山咋神)であるという。
矢による神婚説話は、大神神社(古事記)、上賀茂神社のほうが有名である。川を流れ下ってきたものは、そのとき女性の目には美しい矢に見えたのかもしれないが、その正体は神(蛇体)であったということであろう。ただし神の名は大物主神、火雷神であるなど、それぞれ異なっている。秦氏の神婚譚は後からこれに倣ったという説も。遠い時代に葛野地方に入植してきた秦氏と、それよりもさらに古い時代から山城地域に住みついていたとされる鴨氏は、何代にもわたって婚姻関係を重ね、結びつきが深くなっていったそうである。それゆえに神婚説話も祭祀のかたちも関連し、共有する部分が多いのだともいわれている。
鴨氏、秦氏の祭祀する神が、平安京の皇城鎮護の神として、賀茂の厳神(上賀茂神社、下鴨神社)、松尾の猛霊(松尾大社)と並び称せられ、その霊威が人々に畏れられたこともよく知られているだろう。
なお、松尾の神は秦氏が創祀した神ではなく、それよりも古く松尾山の磐座で先住民によって祀られていた神であるともいわれている。この地域の新たな支配者となった秦氏が、祭祀権を得て祀るようになったものであろうか。やがて秦氏の氏神として奉斎されていった。また松尾神が、酒造の神として信仰されるようになったのはさらに後の時代、中世からということである。
中津島姫命のほうは、宗像三女神のうちの市杵島(いちきしま)姫命と同一視されている。秦氏の一族(秦の始皇帝の末裔ともいわれる)が渡来した折、水上交通の守護神として宗像三女神の信仰が当地まで持ち込まれたことが考えられるそうだ。宗像三女神は航海の神として九州の海人族が古くから祀る神、当地では中津島姫命の名で祭祀されている。秦氏の一族を長い旅路の末にここまで導いたことを称え、水辺に坐す女神として鎮座したととらえるそうである。
紅葉の季節なので境内は賑わっていた。神職さんが参拝の団体客にいろいろ説明しておられて、その声が届いてくる。
「ご祭神の大山咋神は、昔丹波(亀岡の辺り)が湖であった時代に、保津川を開削して水を落とし、嵐山まで通じる水路を開かれ、さらに嵐山に堰や堤防を築いて治水につとめ、おかげで土地は豊かになって農業ができるようになりました。そのときご祭神は亀に乗り、また鯉に乗ってゆかれた、と伝えられています」
祭神は、ここを肥沃な地に変えた開拓英雄神でもあったようだ。境内には神様の乗り物に因む亀や鯉の置物、石像が見られる。亀と鯉はここの神様の神使なのであった。
本殿裏にも半ば樹木に隠れているが大きな磐座らしいものが見える。この位置に社殿を営んだ所以であろう。境内左手には摂社がいくつかあり、右手山側に進むと、「霊亀の滝」「亀の井」という水場があり、山中への磐座登拝はここが入口になる。霊亀の滝は小さいけれどすがすがしい印象、亀の井のほうは、亀蛇口から流れ出る湧水が冷たくて心地よい。名水なのであろうか、容器持参で汲みに来ている人がいた。ほかに庭園、宝物館があるそうだが、そちらのほうは未見である。
葛野坐月読(かどのにますつきよみ)神社
境外摂社の月読神社は松尾大社から南に四百メートルほどの位置にある。山沿いに静かな住宅街の道を歩いてゆくと山側に鳥居がある。松尾大社から少し距離があるせいかお参りの人は少ない。現在は松尾大社の摂社になっているが、創建時は独立した神社であったという。
石段を上ってゆくと境内はひっそりと静まり返り、流造りの本殿の脇には御船社など摂社のほか「解穢(かいわい)の水」「むすびの木」「月延石」などが見られた。「解穢の水」は自分の罪や穢れを除くとされ、「むすびの木」は三本の榊らしい木が一体化した不思議な形状をしている。土壌のせいなのか、何かのエネルギーのせいなのか、それとも霊威の表れなのか。聖地や神社仏閣の境内には、よくねじれた木や変わったかたちの木があるが、これもそのような現象のひとつかもしれない。神功皇后ゆかりの「月延石」には女性たちの願い事が記された真白い祈願石が積まれ、遠くから見ると白い花が置かれたようであった。ほかに陰陽石も見られる。
祭神は月読尊(つくよみ、つきよみのみこと)。創建の由来は次のようである。
顕宗天皇の御代、阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が、勅命を受け任那(みまな)に使者として赴いた。このとき壱岐の島で月神が人に憑いて「わが祖高皇産霊(たかみむすびのみこと)は天地をお造りになった功績がある。田地をわが月の神に奉れ。求めのままに献上すれば、慶福が得られるだろう」といわれた。事代は都に帰って天皇に詳しく申し上げると、天皇は山城国葛野郡の歌荒樔田(うたあらすだ)の地を奉られた。それで壱岐の県主(あがたぬし)の先祖の、押見宿禰(おしみのすくね)がそこにお祀りして奉仕した。(日本書紀 顕宗紀)
壱岐の月読神社から月神の神霊を勧請、壱岐の卜部らが、神官として仕えたようである。古くから海人族の守護神として、壱岐では月神(対馬では日の神)が祀られていたという。壱岐の卜部は、月を読むこと、つまり月齢を数えることによって月の満ち欠けによる潮の変化を知り、自然現象の変異、人の運命なども察知する能力を持っていたとされる。月は海人族にとっては、航海、暦、天文、占いなどかかわりが深く、月神への信仰が厚かったそうである。壱岐の占部は卜占、亀卜に長けており、そのすぐれた技をもって中央に進出し、祭祀にあずかって地位を得ようとしたようである。
当初の鎮座地は別にあったとされ、候補地もいくつかあるそうで(有栖川など)、月読塚が現存する上桂の上野が有力地といわれるが、定かではない。もとのお社は川沿いの地にあったので水害に遭い、文徳天皇の御代(これも諸説ある)に、現在地に遷座したと伝えられている。
「山城国風土記逸文」によると、月読神が命を受けて食物神である保食神(うけもちのかみ)を訪れた際、神聖な桂の木に降り立ったとされ、桂の里の地名の起源となったということである。
月読尊、天照大神の勅を受け、豊葦原中つ国に降りて保食神(うけもちのかみ)のもとに到りましき。時に一つの湯津桂(ゆつかつら)の樹あり。月読尊、すなわちその樹に依りて立ちたまひき。その木のありし所をいま桂の里といふ。(山城国風土記逸文)
古事記では、月読命は伊邪那伎命(いざなぎのみこと)が黄泉国から帰って禊をした際、右目を洗った折に生まれている。左目を洗った折に生まれた天照大神、鼻を洗った折に生まれた素戔嗚命(すさのおのみこと)とは兄弟神の関係になる。
日本書紀では、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の間の第二子として誕生する。第一子は天照大神で、天上界を治めた。月夜見尊は日と並んで天界を、あるいは夜の世界、あるいは海原を治める、とあり、その領域に関してはまちまちである。また第三子の素戔嗚尊も、海あるいは根の国を治める神とされ、支配した領域には月読尊との重複がみられる。
同じく日本書紀によると、天照大神に命じられて保食神を訪ねた月夜見尊は、そこで饗応を受けるが、保食神が口からさまざまな食べ物を出して供したのを見て怒り、保食神を殺してしまう。するとその屍体からは、さまざまな穀物の種が生じていった(穀物の起源)。保食神が殺されたのを知った天照大神は、月夜見とは会いたくないと怒り、それで太陽と月は昼と夜に別れることになったという。(日本書紀 神代上))
万葉集には、月読壮士(つきよみおとこ)、月人などの名で何首か月読が詠み込まれた歌がある。その中で月読と変若水(おちみず、若返りの水)を詠んだ歌があるので紹介しておこう。
天橋(あまはし)も 長くもがも 高山も 高くもがも 月夜見の 持てるをち水
い取り来て 君に奉(まつ)りて をち得てしかも(万葉集)
(天へ通じる橋がもっと長かったらいいのに、高い山ももっと高かったならいいのに、そうしたら天に上って月の神が持つという不死の水を取ってきて、あなたに差し上げ、あなたに若返っていただきたいのに)
沖縄の民話には「不死の水」に関する伝承があるそうだ。それによると、月神が人間に不死の命を与えようとして、使者に変若水と死水を入れた桶をかつがせて地上に遣わした。ところが使者が休んでいるときに、蛇が現れて変若水のほうを先に浴びてしまった。使者はしかたなく死水を人間に浴びせた。それで蛇は脱皮を繰り返して永遠の命を授かり、人は短命となってしまった。使者が月に戻って神にこのことを伝えると、神は罰として使者を月の中で立ち続けるように命じた。月の斑点が、桶をかつぐ人のように見えるのはこのためである。けれども神は人を哀れみ、毎年節祭の祭日に向かう夜、空から若水を送ることにした。(「月と不死」ニコライ・ネフスキー著)
ニコライ・ネフスキーはロシア人の民俗学者で、柳田国男、折口信夫らと交流があった。折口信夫はこのことを知って、正月の若水、若返りの伝承についていろいろ考察している。(若水の話)
月読尊は、三貴子(三貴神)のうちの一柱として祭祀されることが多いようである。伊勢神宮の月読宮などがその例である。ところが松尾の月読神社の場合は、自然神として祀られているので、神話世界に登場する月神とは区別して考えるそうである。つまり同じ月読という名で称えられてはいても、その神格は異なり、月読を祭神とする神社には、二系統あるということらしい。
京都市内で当社のほかに、月読神を祀っている神社があるかどうかを考えてみた(京田辺市には月読神社があるが)たしか今宮神社の摂社として月読神社があり、小高い位置に月読命が祀られていた記憶がある。それは神話のほうの月読尊のほうであったと思うが、それ以外に参拝したことのある市内の月読宮は・・・・思い浮かばない。
ここで神の性別を詮索するのも申し訳ないことと思うが、月神は一般には男神と考えられているが、女神であるという説もあるそうだ。静かに差す白く優しい月の光は、女神に似つかわしいと感じられるからであろうか。男女の性差は日の神との対比で考える説もあり、また神は本来男女の性などを超越する存在なので、男女どちらでもない、という考え方もあるそうだ。
月神を祀る神社は少ないし、関連する神話も少ないのだが、何かしら謎めいていて心惹かれる神である。
櫟谷宗像神社(いちたに、いちいだにむなかたじんじゃ)
松尾大社まで戻り、住宅街の道をそのまま山沿いに嵐山まで歩くことにした。嵐電でひと駅の距離、昔の人は当然歩いたであろう、と往古を偲びつつ歩く。川筋からは離れているので見えないけれども、桂川をさかのぼるかたちである。桂川は古代には葛野川(かどのがわ)と呼ばれていた。
嵐山に近づくにつれ、にわかに人が増えてくる。この辺りでは桂川は大堰川(おおいがわ)と名が変わり、平日なのに大変な人出でその数に圧倒され、有名観光地にいるのを実感する。法輪寺、渡月橋を過ぎてゆくと、すぐ山側に小さな鳥居があり、うっかり見過ごしそうになるが、ここが松尾大社摂社の櫟谷宗像神社、石段を上るとささやかなお社がある。近年お猿で人気の岩田山山麓に位置している。
祭神は、櫟谷社が奥津島姫命、宗像社のほうは市杵島姫命で(異説もある)、二社が並立して一殿となっている。創建については詳らかではなく、もとは独立して社殿が営まれていたが、落石、水害などの事情により現在のような祭祀となったそうである。お社が渡月橋南詰めにあること、祭神が航海の神であることから、水難、水の守護神として信仰されたようである。また対岸の渡月橋北詰めには大井神社があり、そちらも堰の守護神として祭祀された歴史があったようである。
境内はひっそりしており、手水舎の水は枯れていた。さびれたお社と思っていると、急に賑やかになって外国語が飛び交い観光客の一団が・・・・ここで待ち合わせて皆さん社殿横の道を通り、岩田山モンキーパークへと向かわれるのであった。しゃもじ形をした奉納絵馬がたくさん挙がっていたので何気なく見ると、その願い事も各国語で記されてあった。
川沿いの道を上流へと歩いてみた。紅葉の季節はほぼ終わり、赤や黄の枯葉が色あせて道に散っている。昔右京区に住んでいたことがあり、この辺りはよく歩きに来たものである。ここで思い出すことといえば・・・・あるとき家族で景色の良い川岸の岩に坐ってお弁当を広げようとしていたら、上流から蛇が流れ寄って来て目の前に・・・・悲鳴を上げて慌てて逃げたことであった。
伝説にあるように、秦氏女子が葛野川で流れてきた矢を拾って、とか、賀茂の玉依姫が川遊び中に丹塗り矢を持ち帰って、とかいう蛇と人の織りなす世界が、妙な現実感をもって眼前に開けたような思いがしたのだった。川を流れ下る矢とは、蛇のことを暗にそう指しているのであろうし・・・・。
別の日のことであるが、京都近郊の西山、小泉川にかかる橋の欄干にもたれて景色を眺めていたら、上流からゆるやかなS字状を描きつつ流れてくる長い蛇に気がついた。その行方を目で追っていると、蛇は近づいてきて橋の下を通り、そしてそのまま下流へと流れていった。こういう風にして蛇は流れに乗り遠くまで移動していくのだなあ、とその生態を改めて知った思いであった。それ以降、川では用心し、川岸の岩には心して坐らないようになった。
そんなことも思い出しつつ、上流への道を歩き青い水の色を見つめた。老舗旅館であったかつての嵐峡館(今は別の経営)の船着場までがお決まりの散歩道であった。川はこの辺りでは保津川と名を変え、川下りの船が何艘もゆっくりと滑ってゆく。
法輪寺(葛野井宮 かずのいぐう)・電電宮
渡月橋まで戻って休憩した。渡月橋は亀山上皇が「くまなき月の渡るに似る」といわれたことに因み名づけたとされ、それまでは法輪寺橋と呼ばれていたという。
法輪寺は嵐山の虚空蔵山にあり、ご本尊は智恵と徳を司るという虚空蔵菩薩。法輪寺は古い起源を持つそうである。かなり早い時代から渡来人の秦氏がこの葛野一帯に住んでおり、当地はすでにその頃から聖地とみなされていたらしい。古にここで三光明星尊(金星の神)を祀っていたという伝承があるそうだ。秦氏の祖神を祀る葛野井宮(かずのいぐう)というお社がここにあったと伝えられている。法輪寺は真言宗の寺院として隆盛をみたが、その遠い起源をたどると葛野井宮と呼ばれる神社だったようである。
時代が下って元明天皇の御代、僧行基が勅願により葛野の地に堂塔を建てたことが、法輪寺の起源になったという。当初は葛野井寺(かずのいでら)と呼ばれたという。空海など多くの僧がここへ来て修行したということである。平安時代になって法輪寺と名が改められた。
法輪寺の境内には、電電宮(でんでんぐう)と呼ばれる珍しいお宮があって、電気関係や電子、電波を護る神様として信仰を集めている。
平安時代の初め、道昌僧都(どうしょうそうず、空海の弟子))が百日間の参篭修行をした際、結願の日に井戸で水を汲むと、空から明星が降り注いだという伝承にもとづく。このとき道昌は虚空蔵菩薩を感得し、のちにその像を自ら刻んで安置したと伝えられている。星が降り注いだというのは、宗教的にいえばそうであろうが、あるいは古に当地に隕石が落下したというような出来事があって、聖なる地とみなされていたのかもしれないと思う。
話は変わるが、鞍馬山にも金星の神が祀られているといい、その伝承によれば、太古に金星から神が飛来したということである。なお鞍馬寺には隕石落下の言い伝えも残っている。また知恩院境内参道にも、落下した隕石と伝わるものがあるそうだ。複数の隕石伝承が今なお京都市内に残っていることなどを考え合わせると、京では遠い昔に、たくさんの隕石が落下、激突したことがあったのかもしれないと思う。
法輪寺に星の破片が降ったといわれる場所は井戸で、古くは葛井といわれ秦氏も酒造に用いたといわれるそうだが、星落井(ほしたりのい)、または明星井、と称えられ、虚空蔵菩薩の顕現、来迎の聖なる井戸と崇められるようになった。そして本尊の顕現としての「明星天子」を本地として「電電明神」を祀る明星社(鎮守社)が建てられたという。
・・・・落星井(らくせいい)、また明星井ともいふ。本堂の南にあり。井のうへに社を建て明星天をまつる。道昌此の井にて垢離(こり)し給ふとき、星くだりたるとなり。(都名所図会より)
けれども幕末に起きた禁門の変(蛤御門の変)により、法輪寺の主な建物は焼失してしまったという。本堂とともに鎮守社の明星社もそのときに失われ、後に仮宮が建てられた折、その中に鎮座したそうである。
焼失した法輪寺のお堂や建物は順次再興されていった。昭和三十年代に入ると、明星社も再建されることになり、それまでの仮宮から遷されて、電子、電波の神を祀る「電電宮」としてよみがえり、今日に至っているということである。電波の神とはまた風変わりであるが、訪れてみると電力、電機、電子、通信、コンピュータ関連、放送関連など、そうそうたる会社名が電電宮のお社の社頭に並んでいる。今の時代に即した神様として新たな信仰を集めているようである。
電電宮奉祀の由来となった星落井は、古い写真(屋根のついた井戸であった)で見た記憶があったので興味を持ち、以前来たときにも境内を探してみたがよくわからなかった。調べてみると、星落井は非公開とのことであった。
法輪寺は、子どもが数え年で十三になると、お参りして成長を感謝し、厄を祓い、智恵を授かる「十三詣り」の寺院としても知られている。
十三詣りは、七五三ほど有名ではないが、通過儀礼である。桜の咲く季節に法輪寺に足を運ぶと、着飾った男女の子どもたちや、付き添いの親で賑わう光景が見られる。
女の子は、このとき初めて大人用に仕立てた着物を着るという慣わしがある。とくに着物でなくてもよく、中学校の制服やふだん着の子など服装はさまざまである。本堂横には机があって硯や筆が用意され、ご祈祷を受ける前に、子どもたちはそれぞれ思う字を一字紙に書いて提出するのである。昔は丁寧にする方法として、参拝時に写経をして納めたそうで、それを簡略にしたことの名残なのだという。女の子の晴れ着に墨がつかないよう、親が後ろから長いたもとを持ってあげたりする。見ていると男の子は「賢」「知」「健」、女の子は「夢」「愛」「美」などが多く、自分の名前の一字を書く子もいるようである。
お参りが済むと、子どもたちはお寺の石段を降りて渡月橋を渡る。橋を渡りきるまでは振り返ってはならないといわれている。後ろを向くと、せっかく授かった智恵を返してしまうことになるそうである。
世界各地の神話や民話の世界で、「振り返るな」「見るなの禁」の話型が多くみられるという。たとえば記紀の中で、伊弉諾命(いざなぎのみこと)が、冥界の妻に「見るな」といわれたのにもかかわらず、火をともして変わり果てた妻の姿を見てしまうという話や、ギリシャ神話で、妻を取り戻すため冥府に降りたオルフェウスが、禁を破って帰り路で振り返り妻を見てしまう、というような。十三詣りの渡月橋の場合も、神話世界の禁忌と破綻の類型に通じるものがあって興味深い。
親に「橋を渡りきるまでは振り返らないように」と言い含められているので、どの子も神妙な表情になって前を向いて歩いてゆく。
十三詣りを知らない観光客が「今日は何のお祭りなの」「あなたがた、舞子さん?」などと話しかけ、カメラを向けてきたりするので、子どもたちはさらに緊張して橋を渡るのである。
仏教的にいえば、橋を渡る行為とは、彼岸から此岸へということであろう。生死の擬似的な体験である。川を隔てて法輪寺のある山側が仏様のおられる清らかな地で、対岸のほうが人の住む俗界。
子どもの干支が一巡して節目の年の春が来ると、み仏への感謝と加護を願って星の聖地へお参りし、あらたかな智恵を授かり、境界の橋を渡ってまたもとの現世に戻り、子どもから大人としての新しい心構えで生きてゆく、というのがこの行事に籠められた意味でもあろうか。昔は一部の上流の階層の人たちの風習であったようだが、次第に一般化し庶民の間にも広まっていったそうである。
いつの時代も親が子に願うものは、その健やかな成長と幸せであろう。子どもは十三詣りをした日のことを忘れてしまうかもしれないが、そんなことにかかわりなく親は心でいつも願い続けるのである。法輪寺に来ると、そんなことがしみじみと思われる。